逢魔が時
男の髪は、燃えあがる炎の色をしていた。
長身の立ち姿は鬱蒼とした公園の樹々に並び、黒い陰を垂らしている。夕暮れの残光を帯びた頭髪だけが、暗い世界で異様に赤く差していた。
鮮血のような色彩に、まるで魔物のようだ、と。恐ろしい幻想を抱いてしまった。
彼は、私を助けてくれたというのに。
「あ、の……」
倒れていた半身を支え起こし、声を絞り出す。かろうじて彼の耳に届いたのか、赤い男の肩がわずかに反応した。
その足許には、倒れた細身の青年が横たわっている。私を襲おうとした相手だ。殴り飛ばされ、倒れた拍子に頭を打ったのか、意識はない。
地面には中身の散らばった私のバッグと、転がった折りたたみ式のナイフ。吹き寄せた枯葉が、かすかな音を立ててそれを包み込もうとしていた。
見下ろしていた彼は、「こいつ人間じゃん……」とため息をついた。
「あ~あ、くだらねぇ茶番に巻き込まれたぁ」
吊りあがった眉と、ツンと端の上がった猫のような眼。二十代半ばだろうか。私とそう変わらない歳に見える。
つい今しがたまで纏っていた凶悪な雰囲気は消え、代わりに気怠げな表情が浮かんでいた。その軽薄な声音に、私は眉を寄せる。
(くだらない……?)
公園の片隅で襲われかけた現状。無傷といえども被害者である私を前に、彼の発言は礼を失する。
感謝の言葉を渡せずにいると、彼は私に近寄って長い脚を折り、すとんと屈んだ。私の目線の高さで、淡く笑んだ唇が冷たさを滲ませる。
「お前、ニュース、見てねぇの?」
その眼を見て、息が詰まった。
左右で異なる色の双眸。右眼は普通だが、左眼の色素が薄い。私から見て右の薄い虹彩は、夕焼けを拾って赤く不穏な光を灯している。
視線を離せずにいる私に、彼は吐き捨てるように言う。
「この公園、前に事件があった場所だろ。注意書きもあんのに、こんな時間に通るなんて馬鹿じゃねぇ?」
鼓膜に絡みつく声。伸びがちな語尾は吐息を含んで掠れ、湿った夕闇に溶けていくようだった。
どこか、遠くで小枝が折れる音がする。風もないのに、葉の擦れる気配。
背筋を、つ、と。なぞるものを感じた。
彼が話すのは、入り口にある『不審者注意』の看板か。この公園の遊具には子供がいない。日の入りが早いせいではない。
冷笑の唇が、嗤いの息を鳴らした。
「お前みたいに抜けたヤツ、うっぜぇな~?」
突如、彼の手が私のシャツの襟を掴んだ。強引に引き寄せられ、目前に迫った眼球が、
「忘れても忘れられねぇくらい、その体に恐怖を教え込んでやろうか」
細い、細い瞳だった。
私の視界を占めた異色の虹彩は、赤みを帯びた金の色をしていた。瞳孔は縦に細く、本当に猫のよう。
禍々しい、瞳。囚われたように、体が動かない。
彼は反応を待つようにしばらく黙って見ていたが……
どこからか、振動音が響いた。
唇から笑みを消した彼は手を離し、自身のジャケットのポケットをまさぐる。
取り出したのはスマホではなかった。ふたつ折りのガラケー。嫌そうに眉をひそめ、指先で開く。
《——すぐに戻るって話だったよな。與さんの『すぐ』ってのは何時だい?》
穏やかな声が機械越しに漏れる。男性らしき相手は、呆れたように長息を響かせた。
赤い彼は立ち上がる。携帯を耳に当てることなく手にしたまま、彼は目線を周りに巡らせた。
「遊んでねぇよ、仕事中。事件現場で気になる影を見たからさ~、立ち寄ったら別の事件に遭遇したわけ」
《どこの現場だ? ……というかね、そういうのは無線で一報いれてもらえんかな?》
「あ~……無線、置いてきたわ」
《お前さんねぇ》
「説教は後でいいだろ。近くの警察こっちに回せよ。神明公園、例の連続暴行殺人事件の現場で、犯人っぽいの見つけた。今は気絶してる」
《はぁ?》
「似顔絵のヤツと似てんだよ、確定だろ。ツイてんなぁ、俺。戻る前にパチ屋行ってきてい~?」
《いかんでしょ。……流れがさっぱり分からんけども、そっちに本部の者を行かせるから、引き継いだら戻ってきなさいよ?》
「ハイハイ」
通話を切った彼は、携帯を無雑作にポケットへと仕舞った。
「お前、いつまで座ってんの?」
いまだ動けずにいる私を、彼は怪訝な目で見下ろした。「自分で立てねぇ……?」とぼやきながら、こちらに向けて片手を差し出す。
反射的にそこへ手を伸ばしかけたが、寸前でためらう。
人を殴ったばかりの手が、赤い陽光に照らされて陰影を落とす。
筋張った五指は、胸にくすぶる不安を煽った。
「………………」
彼は諦めたのか、ポケットに手を突っ込んだ。長躯を下げて先程のように屈んでみせる。
再度ポケットから引き抜かれた手で、並んだ目線のあいだに黒ずんだ金の四角い——オイルライター?
カチンっと金属質な音で蓋を開くと、親指を滑らせて着火した。
茜に染まる世界に、橙の光が滲んでいく。
吸い寄せられた視線も、魅入られた思考も、すべて炎の奥の金に搦めとられていた。
「——あいつを殴ったの、お前だよな。襲われかけて、抵抗した拳が当たった」
なにを、言っているのだろう。
言葉は頭をすり抜け、赤く光る金の眼と、声の響きだけが頭の内側を浸していく。
「ここにいたのは、お前とあいつだけ。俺のことは、お前の中から消える。ぜんぶ、すべて、何もかも——ひとかけらも、残らず」
脳を揺らす声が、痺れるように広がった。
意識を蝕むような、奥底まで侵食して狂わせるような余韻を、残して。
赤い彼は立ち去っていった。
茫然とする私の脳裏には、冷たい笑みの唇と印象的な声が絡んでいる。
網膜には、赤い金が焼きついていた。
これが、始まりになる。
彼と私。與 代籠と、朝美 楪の。
恐ろしくも鮮麗な、運命の出逢いだ。