唯一つの未来
幸せだと、疑う余地もない日々。
自分の裁量で出来ることが増えた分だけ責任を増した仕事は、忙しさに心配されることも増えたが、大変な中にやりがいがある。
自分の手掛けた企画が採用されて上からも周囲からも認められ、評価されることの喜びは何にも代えがたい。
後輩の成長を見て喜びを感じるのは、今の立場と、重ねてきた年齢のせいもあるのかもしれない。
仕事が充実している分、プライベートを犠牲にしていることは否めない。
最後に恋人がいたのはもう数年前になるけれど、今の状況では忙しさにかまけて、いずれにしろ相手を大切に出来ないだろうことが目に見えているから、多少の寂しさはあってもこれで良いのだと言い聞かせている。
ありふれている、でも、何にも代えがたい充実した生活。
これ以上を望むなんてあり得ないと思えるほど、満ち足りた毎日。
俺に運命の人がいるなんて考えたこともないし、運命があるとすれば、それは今ある生活の先にあるに違いない。
そう信じて疑わなかった。
───唯一つの未来
秋口から始まったプロジェクトも、ようやく終わりが見えてきた。
思わぬトラブルに深夜まで残業していた初めの頃を思うと、達成感があるし、チームの絆も随分深まったと思う。
そうなると、自然に仕事帰りの飲み会も増え、打ち解けたメンバーたちの中で忘年会を兼ねた打ち上げが企画された。
ただの飲み会かと思いきや、意気込んだ有志が用意した余興で楽しませてもらったり、ちょっとしたゲームに参加させられたり。良い息抜きになったと、きっと誰もが思っただろう。
その中で、きっと俺だけが場違いな感情に気付いて、息苦しい程の想いに身動きも出来なくなっていた。
目の前の席には、いつも一緒に仕事をしてきた同僚の姿。いつもより丁寧に化粧をしているくらいで、特別に着飾っているわけではない。他の同僚と比べて特に付き合いが長いとか、仲が良いとかではなかった。
……というより、どちらかと言えば一方的に苦手意識を抱いていた相手。
真面目な仕事ぶりで手際もよく、同僚としては優秀な人間だと評価している。
でも、その真面目な性格が、どうにも苦手だった。
良い人間なのだろう。……けれど、隙が無いから取っ付きにくくて、大勢の中にいる時は平気だけど、二人きりだと何を話せばいいのか困るような……、そんな壁を感じる相手。
かと言って、こちらから話題を振らなくても、雰囲気が悪くなることも、居心地悪そうにすることもないから、それに甘えている気がしないことも無いけれど。
普段、人付き合いに、まして同僚との間に自分から壁を作ったことなんてなかったから、誰かを苦手に思うなんて初めてのことだった。
一方で、彼女が職場のムードメーカーであることは疑いようのない事実でもある。
年齢や立場の上下に関係なく話せる、職場に作られた気負うことのない雰囲気。それが澤野を中心に作られているのを知っている。
自分から話題を振ることもあるが、聞き役に徹していることが多い澤野。相槌とともに彼女が楽しそうに笑う声が聞こえてくると、みんな自然と笑顔になる。普段、無駄話の一切ない彼女の笑い声は、イメージと違って職場内に良く通るし、良く響いた。
年下でも上司でも関係なく、誰が相手でも基本的に敬語でフラットに接しているから、彼女に話しかける人間は多い。嫌な顔をしているのを見たことはないが、中にはきっと苦手な相手もいるだろう。それを気取らせない柔和で偏りのない態度に、みんなの雰囲気が柔らかく解されているように見えた。
話の中でまだ独身のやつに飛ぶのは、恋人はいないのか、結婚しないのか、というお決まりの話題。独身の彼女はいつも、「縁があれば」とはぐらかしていた。
自分のことを話さず、相手にも踏み込んだ話題を振らない澤野は、俺の目には全ての人に距離を置いているように映る。そんな当たり障りなく、人の良い顔しか見せない澤野の態度が、俺は苦手だった。
その澤野が、他のメンバーに追いやられるようにして俺の向かいの席に落ち着く。
普段から俺がアルコールを控えていることをチームの皆が理解してくれていて、店員の応対と託けて出入り口傍の席に座ることが多い。元々酒には強い方だが、酒宴の雰囲気が好きで自分が飲まなくても楽しめる人間だから、酒を飲まないことに対して不満を持ったことは無い。
ただ、いつもだったら幹事が座ると思っていた場所に澤野が来て、彼女が目の前にいる事に居心地の悪さを感じていた。
そう感じるのは一方的に苦手意識を持っているせいでもあるのだろう。業務内のことであったり、普段の何気ない世間話をしたりといった分には問題ないけれど、二人きりで向き合うには気が重い。彼女と共通する話題もないし、だからと言って酒の席で仕事の話などしたくはない。
なるべく隣にいる幹事と話しながら、当たり障りない話題の時に澤野を巻き込む形で誤魔化しながら、飲み会の雰囲気を壊さないように気を配る。
基本、澤野も俺と同じで飲み会の雰囲気を楽しんでいるタイプらしく、あまり酒を飲んでいないようだが、いつも以上に良く笑っていた。
「皆さんだいぶ出来上がってきたようなので、ここから楽しいゲームの時間でーす」
開始から一時間が経つ頃、中心に座っている幹事の一人が立ち上がって皆に声を掛ける。
部署ごとの忘年会とは違い、会社から福利厚生費が出ているわけではないから、金を掛けた準備は出来なかっただろうに、流行りの曲でダンスを披露する三人組がいたり、これまでのトラブルをネタにしたクイズを出したりと、皆が参加しやすい様に気を遣って盛り上げてくれている。
そして、盛り上がりと皆の酔いが深まってきた頃、飲み会の定番である王様ゲームが始まった。
全員で番号くじを引いた後、王様が命令用のくじを引く。そうして王様が読み上げた内容に従って、それぞれ日頃の不満だの家族に秘密にしていることを暴露させられていた。命令の内容がいたって平穏なのは、ここに来る前に一人一つずつ書いたものだからで、酔った勢いでおかしな命令になることもない。
「次はー……、二番と九番……誰ですかー」
王様を引いた奴が、手元の指示書を読み上げながら皆を見回している。アルコールが回っているのだろう。彼の顔はだいぶ赤い。
俺の手元には九番のくじ。特に気負わず手を挙げると、目の前でも同じように手が挙がった。どうやら俺と澤野が選ばれたらしい。
これまでに複数人を指定する命令は「お互いの長所、短所を言い合え」「三人で早飲み競争」というのがあったが、どちらも特に問題ない内容だった。
───だから、完全に油断していた。
「二人にはー……、キスをしてもらいまーす!」
一瞬、何を言われたか分からなかった。予想外のことに、理解することを拒否したかのように、思考が止まる。視線の先では、澤野もまた俺と同じく、驚いたように目を瞬かせているのが見えた。
静まり返っていた周囲が、一瞬の間を置いて急にワッと盛り上がる。バラバラだった歓声は、次第に「キース!キース!」と繰り返すものになる。
その歓声に、否応なく「澤野とキスしなければならない」と理解した。
(……でも、澤野と?彼女と、キス、するのか?)
うまく想像できない。なのに、目は無意識に彼女の唇にいく。
いつも薄い色合いの口紅で化粧されているそこは、今まで凝視したことが無かったけれど、とても柔らかそうだ。
その唇に、俺の唇で触れる。それは許されることなのか。
これは酒宴でのゲームに過ぎなくて、澤野が嫌だと言えば強要できるものではない。
親しい友人同士の飲み会なら良いだろうけれど、これは会社の忘年会だ。同僚で、仲間だけれど、気心知れた仲でもないのに、……キスしても、良いのだろうか。
アルコールで思考が鈍っているわけでもないのに、動揺して、混乱しているのが自分でも分かる。
「井浦さん、少し屈んでもらえますか」
混乱状態のまま急に澤野に声を掛けられて、ハッと彼女の顔を見る。
同じく動揺していたはずなのに、妙に落ち着いて見える表情。
確かに、普段からフラットな性格だけれど、この状況に対しても何も感じていないのだろうか。多少なりとも酒を飲んでいた影響なのか、……それとも、彼女の印象とはかけ離れているけれど、こういう状況に場慣れしているとでもいうのか。
そんな自分の思考が行きついた答えに引っ掛かりを覚えて、同時に「気に入らない」と思う。
躊躇いもせず、簡単に誰かと口付け出来るような人間は、俺の知る澤野じゃない。
釈然としない気持ちのまま、言われた通りに身を屈めると、俺の肩に彼女の手が置かれる。その手が触れたことを認識した瞬間、緊張なのか恐れなのか、……それとも期待なのか───小さく体が震えてしまった。
それに気付いたはずなのに、澤野は動きを止めず、そのまま同じ目線の高さになった俺の顔に、自分の顔を寄せてくる。
彼女の視線が、俺の目から、唇に移動して、僅かに目を伏せたその瞬間───
この先の展開を理解して、痛いくらいに心臓が跳ねた。
(口付けてしまう───)
思わずぎゅっと目を閉じる。
そして間を置かず、唇に……、───ではなく、俺の予想に反して、頬に何かの感触。
えっ、と驚いて目を開けたけれど、すぐには状況がさっぱり飲み込めない。
目の前に澤野の顔があるはずだと思っていたのに、視界の端に髪が揺れたのを捉えただけ。自分のものではない熱と香りが、間違いなくすぐ傍にあるのを感じるのに。
澤野が僅かに身じろいで、混乱していた頭が急速に冷えるのを感じた。
(そうか、これは澤野の頬……)
一瞬の間に状況を理解した。澤野は、俺の頬に自分の頬を押し当てているだけで、唇はどこにも触れていない。
───俺は、キスなどされていない。
そう、キスではないのに───
(澤野が、すぐ傍にいる、触れてる……)
その柔らかな人肌の感触が心地良いと感じる、それ以上に───
欠けていた何かが埋まるような、求めていた何かが与えられたような、大きな充足感で胸の内が満たされる。ずっと探していた魂の片割れをやっと見つけた。そんな安堵感。
すぐ傍の彼女の纏う香りが、俺の嗅覚を通して思考と感情を刺激して、本能的に首筋に顔を埋めたくなる。
今いる距離から離れていかないように、その身を拘束してしまえたら───
何も考えず、ただ感じているままに振る舞えたら、どんなに良いだろう。
それと同時に、頭の中で冷静に状況を分析しているのが不思議なほど、うるさく鳴り続ける鼓動。
全ての意識が、彼女のしっとりとした肌が触れている頬に持っていかれる。
ふ、と。
彼女の吐いた息が、耳元の髪を僅かに揺らす。耳が拾う吐息の音が、小さく震えているのが聞き取れるほど、すぐ近くで。
その存在の近さに驚き、意識の外で身構えるよりも早く、すっと彼女の熱が離れていった。
「あ……」
喪失感に思わず声が漏れていた。そのことにも気付かないうちに、目が、離れていく彼女の熱を、肌の色を追いかける。
周りで囃し立て、俺たちに目を向けている同僚。
酒が入って騒ぐ他の席の客。
店内を忙しそうに動き回る店員。
そうした周囲にあるはずの何もかもが無意識に切り離されて、吸い寄せられるように、彼女の存在だけが意識の中に浮かび上がる。
肩に置かれていた手が離れると、一瞬前まで傍にあった存在がどれ程近くにあったのかを思い知らされる。同時に、いかに非日常的な距離にいたのかも。
どう思い返しても、今まではワイシャツどころか、スーツ越しにも触れる機会など無かった。……触れ合いなど皆無だった相手なのに。
それなのに、嫌悪などなくて。逆に今できた距離を不自然に思うほど、当たり前に受け入れている自分に気付いて驚く。
澤野が触れてから離れるまでの一連の行動は、時間にすればきっとたった数秒の出来事だっただろう。
でも、その間に感じた感情の振り幅が大きすぎて、まるで夢でも見ていたかのように、ふわふわと思考が定まらない。
彼女との関係はただの同僚で、職場にしか繋がりが無くて、プライベートを何も知らなくて───
……そう、俺は澤野を何も知らない、はずなのに。
「これだって立派なキスですよ!知らないの?チークキス!」
不満で騒ぎだす周りに、真っ赤な顔のまま強い口調で言い返している澤野。緊張と照れが透けて見えるその様子に、今まで感じたことの無い胸の苦しさを覚える。
(もう、ダメだ───)
こんな時でさえ崩れない、他人と距離を置いたような敬語が、ずっと苦手だった。
物腰が穏やかで誰に対しても分け隔てないフラットな態度が、鼻について仕方なかった。
今になって、その理由に気付いてしまう。
きっと、「誰に対しても」の中に入っている自分の立場が嫌だった。
彼女の中でどうでもいい大勢の中の一人という立ち位置にイラついていた。
そう、きっと俺はずっと……
じっと見つめる俺の視線に気が付いて、目を向けた澤野と視線が絡む。
まだ恥ずかしさが残っているのだろう。赤みの残る顔で会釈するように目を伏せると、そのまま視線を逸らされる。
また他人の顔。
あれほど近い、誰よりも近い距離にいたのに。
命令された相手が誰であっても、……そう、俺でなくても、彼女は同じ事をして、同じように顔を赤くしていたのかもしれない。
「俺だけ」がこんなに息苦しいまでの感情に振り回されている。そう気付くことが、堪らなく苦しい。
この感情が、───溢れ出しそうに荒れ狂う想いが、制御の利かない一方的な恋情だと、そう自覚してしまった。
気が付くと、澤野の手を引いていた。
急にバランスを崩されて、よろめいて倒れかかってくる澤野を、抱き止めるフリをして抱き締める。両腕にぎゅっと力を込めたことに驚いたのか、大きく見開かれた目を至近距離から見返して覗き込むと、固まる彼女の頬を両手で固定して、唇を掠めたそのすぐ横に「命令通り」キスをした。
唇が澤野の口元近くの頬に触れた瞬間、彼女の体がびくりと震えたのが手の平を通して伝わってくる。でも、それ以上の抵抗はない。
そのことに安堵して、ゆっくりと顔を離した。
「これなら文句はないだろ」
静まり返った周囲を見回して宣言すれば、ブーブー文句を言ってた奴らも、俺の行動に歓声を上げて盛り上がる。酒の入った宴席でのこと。まともに思考している者などいないだろう。
そう、他人にとって俺の行為は単にゲームの中のこと。俺の感情なんて知りようはない。
周囲には見えないように、後ろ手に彼女の手を掴んだまま放せずにいる理由など、知るはずもない。
どくどくと脈打つ心臓が、アルコールの入っていない俺の体温を上げていくのが分かる。
俺から仕掛けたキスよりも、彼女から触れてきた頬の感触のほうが、ずっと強く意識に残っている。それでも、親密な関係でなければ触れることのない場所でお互いの熱を交換することは、特別な意味を持つ。
柔らかな場所に触れて、触れ合わせて、この胸に沸き上がる飢餓にも似た激情を静めたい。これ以上抑えられなくなる前に。他人の目があって、少しでも自制の利く状況にいるうちに。
そんな自分勝手な考えが、どうしても抑えきれなかった。
今感じている、澤野に対して抱いている感情が、今まで付き合ってきた恋人に対する気持ちと同じとは思えない。
こんなに苦しいのに、繋がれた手の温もりに安心する自分の感情の出所が、自分自身にも理解できないけれど、一方では納得もしている。
ずっと苦手だと思いながら、澤野から目を離せなかった今までの自分にようやく気付いた。
『澤野が、俺の運命の人』
まるで天啓のように───
ずっと自分の胸の内にあった答えを見つけたかのように、その言葉が頭に浮かぶ。
何も知らないと思っていたのに。
職場での同僚としての顔以外知らなったはずなのに。
楽しそうに笑っている顔。
会議をしている時の真剣な表情。
休憩室でぼんやりと外を眺めていた横顔。
少し離れた場所から俺に気付いて会釈するときの、表情が綻ぶ瞬間。
そしてさっきの、驚いたようにこっちを見つめる澤野の顔が、次々に思い浮かぶ。
───気付こうとしなかっただけで、ずっと彼女を見ていた。
こんなに執着していたくせに、認めることも出来ずに見て見ぬ振りをしていた自分の感情。気付いてしまった今となっては、消すことも、無かったことにも出来ない。
繋いだ手が振り解かれないことに、もしかしたらと期待してしまうのは、俺の一方的な願望だろうか。それとも少しは期待しても良いということなのか。
願わくは、彼女にとっての俺も『運命』であって欲しい。
澤野の手を引いてその場を後にした俺が望むのは、ただそれだけだった。