06 子どもと海
「と、いうわけでやってきました」
「はい」
「夜の海ですよ。ナギさん」
「そうですね」
「どう思いますか?」
「雨で泥だらけです……」
「海は夜にこそ生きている」
「なんの話?」
「しかも雨が降っている。海にとっては最高の状況だよ」
「はお」
雨粒が海を叩く音と、傘に弾ける音が重なっていた。
同じ雨の音でも、当たる物体でその音色は変わる。
「確かに人はいないわね」
「でしょ」
海にはナギたちふたりだけだった。
ヒダリはすでに靴を脱いで裸足になっていた。
砂浜に置かれた白いローファーは雨を弾いていた。
「ちめたっ」
彼女は白い傘を差したまま、素足を波に晒した。
「でしょうね」
連日の雨と夜のせいか、6月でも気温は低い。
「ああ、ぼく、生きてるなあ」
「あんた、本当に大丈夫?」
「冷たいけど、平気だよ」
そういうことではなかった。
ナギは砂浜に屈んだ。
湿った砂を握ると、ほろほろとした。
傘を叩く雨粒の音に、心が落ち着いた。
「ねえ」
「なんだい」
ヒダリは水面を蹴って遊んでいる。
「どうして海に行きたかったの?」
「生きたかったからだよ」
「冷たいのに?」
海は夏だけのものだと、ナギは思う。
「気持ちいい海だけ知っても不十分だ。冷たい、暗い海も知らないと、海とは仲良くなれない。本物を知らなきゃあいけないんだ」
「あんた、本当に大丈夫?」
「冷たいけど、平気だよ」
そういうことではないのだった。
ナギは諦めて砂浜に腰を降ろした。
ズボンが汚れたが、高校時代の運動ズボンなので気にしなかった。
ヒダリを見ると、白のロングスカートの裾はすでに濡れていた。
「服、汚れるわよ」
汚すくらいなら売ってしまいたい——ナギはまだ諦めていない。
「ナギも来なよ」
「いやいや、あたしは別に」
「いいから、ほら」
「わっ」
腕を引くヒダリの手は小さくて、柔らかい。
そんなことに気を取られたナギは、振り払う暇もなく、海に着水した。
「うひぃあぁ」
海は想像よりもはるかに冷たかった。
足から凍るんじゃあないかと思うほどに。
「ね? 気持ちいいでしょ」
「うぐぃゆゅ」
「ほら、仲良く仲良く」
ヒダリがくるくると回り出した。
「ぎぎぎぃっ」
腕を引かれるナギも一緒に回る。
足の感覚がなくなっていく。
小石を踏んだだけで飛び上がりそうになる。
ああ、もう、どうにでもなれ——。
「うあっ」
「ああッ!?」
ヒダリが体勢を崩した。
ナギも同じように体勢を崩した。
ヒダリの手が、ナギの腕から離れる。
そして、二度目の着水。
「むぅくくくぅ」
海水は針のように身体を刺した。
全身が強張り、ガタガタと震える。
差していたビニール傘は、どこかに飛んで行ってしまった。
「ははは」
ヒダリは転ばなかったらしく、立ったまま笑っていた。
「あっ、んだっ……なに笑っでんのよっ」
「ナギ、生きてるかい?」
「死んでますが……?」
雨粒がナギの顔に弾ける。
久しぶりにずぶ濡れになったな、と投げやりに思った。
「えい」
ヒダリは白い傘を放り投げた。
あの傘も売れそうなのに、とナギは思う。
ふたつの傘は、漂流物としてゆらゆらと波に揺れていた。
「とうっ」
「え」
ばしゃん、と海水が跳ねた。
ナギの隣で、ヒダリは泳ぎはじめた。
波の表面には、ホワイトアッシュのロングヘアが浮かんでいた。
まるでクラゲが浮いているようだった。
「ううう〜ん……さいこうだね……」
「……あんた、マジで大丈夫?」
「気持ちいいから平気だよ」
暗い雨の夜、ナギは海と仲良くなった、かもしれない。