00 はじまりとまちがい
六畳一間で、ふたりは向かい合わなかった。
閉じた空間に人間が2人いても、何かが起こるとは限らない。
向かい合って話す必要はないし、仲良くする必要もない。
触り合う必要もなければ、拒絶する必要もない。
喧嘩する必要もなく、愛し合う必要もない。
ただ、同じ空間にいる——それだけだ。
「ぼくはね、どうやら楽しいみたいなんだ」
少女のような儚い声だった。
声の主は窓を眺めていた。
今にも雨が降り出しそうな夏の曇り空だった。
それを微笑みのまま、眺めている。
「ナギに出会ってから、何かが変わった。変わらない日々を過ごすはずだったのに、つまらない人生を送るはずだったのに。失われた未来と、脆い過去と、確かな現在……それらを比べてみると、はっきりと、そうわかる」
ふーん、とそっけない返事がした。
中性的な女性の声だった。
「比べてどうすんのよ。ありもしないこと考えたって、意味はない」
「意味はあるよ」
「ないわよ」
「ある」
「ない」
ふたりの間を、夏の風が通りすぎた。
海の生臭さを含んだ、湿った風だった。
「ナギはどうなの」
「どう、とは」
「ぼくと出会って、何か変わった?」
沈黙。
セミが網戸に張り付いたが、鳴きはしなかった。
たっぷりと時間がかかった頃に、セミは飛んでいった。
「あたしは、言葉になんてしない」
「あ、そうやって逃げるんだ」
「逃げてないわよ、別に」
「言葉にできない感情なんて、理解してないことと同じだよ。ヤバイとかと同じだよ」
「あたしは違うわよ。言葉にできないんじゃあなくて、しないだけ」
「ナギの考えはよくわからないな」
蚊が羽ばたく音。
二匹の犬の遠吠え。
遠くを走っている電車。
「ヒダリ」
「なあに」
同じ空間にいながら、ふたりの呼吸は何度もすれ違う。
「あたし、やっぱりあんたのこと苦手だわ」
それでも、ふたりは同じ空間にいる。
「いいよ。うん、それでいい。ぼくは違うけどね」
「……変なやつ」
女子大学生ふたり——御船ナギと佐野ヒダリは、今日も違うことを考える。