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天使の血   作者: 葉月香
18/30

第5章 熱情(3)

 ミハイがレギオンに激怒して市街に帰ってしまった後、レギオンは呆けたようになって、数日間ヴィラに滞在を続けた。


 もともとレギオンは長老達からの呼び出しで一時的に戻ってきたにすぎない。明らかにオルシーニから苦情が届いたのだろう、市街での勝手な行動について釘を刺され、ミハイに近づくこともやめるよう忠告を受けのだが、その不愉快な用事がすんだ後はさっさと街に戻る気でいた。


 だが、さすがに今は落ち込んでしまい、すぐに街に戻る気分にはなれなかったのだ。


(私の言うことなどもう信じない、か。当然だな。ミハイがあんなに怒ったのは、たぶん私のことを少しは信頼し始めていてくれたからだろう。そう、ミハイは私に会いにわざわざここまで来てくれたんだ。私のせいで館に閉じ込められていたと言っていた。私があの夜ミハイを連れ出したために、彼は理不尽な罰を受けて苦しんでいたのに、私はその間様子を見に行くことすらしなかった。今から思えば、私はなんて身勝手な薄情者だったんだろう。ああ、それにしても、サンティーノとのあれはまずかったな。今更後悔しても遅いが、どうしてあんなことをしてしまったのか…)


 別に同じような修羅場の経験がレギオンになかったわけではない。ミハイが罵ったように、レギオンはもともと浮気で、一度に数人と関係を持つことにもやましさなど覚えない性質だ。


 だが、今度ばかりは今までとは少し事情が違った。代わりなら幾らでも見つかる遊びの相手ならば、レギオンはこうまで悩まなかった。


 ミハイとサンティーノ。二人は、レギオンにとって特別なのだ。


(別に二股などかけるつもりじゃなかったんだぞ。サンティーノのことは大切に思っている。彼は、私には過ぎるほどの誠実な、信頼できる唯一の友人だ…彼を混乱させるような真似をすべきではなかった…それにミハイは…彼のことをどう考えたらいいのかよく分からないけれど…ただの獲物ならばここまで彼が私をどう思うか気にする必要はないのかもしれない、でも、実際私にはミハイにあんなふうに罵られたことが痛手になっている…ミハイが傷ついただろうことが気になっている。全く、私はどうしてこんなにも性懲りがないんだろう。あの二人の気持ちをあんなふうに引っ掻き回してしまうなんて…) 


 頭を冷やそうと、すっかり冬めいて木々や草も色褪せて見える庭園を一人ぼんやりと歩いているうちに、レギオンは真ん中に大理石の女神像の据えられた人工の小さな池のほとりに出た。


 池の前に立って、白っぽい陽射しの下、レギオンは硝子のように澄み切った水面を見下ろす。


 水面に映る豪奢な金髪をした若者の顔には、何かしら見慣れぬ表情がうかんでいた。明るく無邪気ないつもの笑みはそこにはなく、緑の瞳は物思わしげに翳り、何かしら思いつめた顔をしている。


 それを見た時、レギオンは我ながら愕然として、唇を噛み締めると慌ててかぶりを振った。


「私らしくない。ああ、全く、私らしくないぞ」


 急に訳の分からぬ焦りを覚えて、レギオンは水面を鋭くにらみつけた。


「そうだとも、過ぎたことをくよくよ悩み続けて何になる? 少しくらい失敗しようがへこたれずに、すぐに立ち直るのが私じゃないか。どうせ性懲りのない男なら、それらしくふるまい通せばいい」


 自分を励ますよう呟いて、レギオンは己の虚像に向かって不敵に笑いかけた。


(過ちを犯したのは自分だとは分かっているんだ。なら、その結果も引き受けるさ。ミハイもサンティーノも…こじれた関係が完全に元通りになることはもうできないのかもしれないけれど、このまま放置しておくわけにもいかない。第一、彼らと面と向き合うのが恐くて逃げるのも無責任だし卑怯だ。ここでひたすら悶々と悩み続けても、何の解決にもなるものか。馬鹿馬鹿しいから、もうやめるぞ)


 レギオンは後ろ向きに流れそうな心を奮い立たせると、思い立ったら即行動だとばかりにくるりと踵を返し、池を後にした。


 まずはサンティーノを見つけようと思ったのだ。


(あの一瞬サンティーノのことを愛しいと感じたのは本当だけれど、だからと言って、私には彼をどうしてやることもできない。サンティーノは好きだけれど、恋人にできる相手だとは思えない…そう、違うんだ。私にとって、彼はもっと別の―)


 レギオンにとって、広いヴィラの中サンティーノの気配を探し当てるのも容易だった。

 サンティーノとは一度体を重ねたことがあるからではない。会ってまだ半年と経っていないはずだが、昔からの馴染みのように気心が知れているし、一緒にいて一番しっくりする、自分に近いと感じられる相手なのだ。肌が合うというのだろうか。


 それでもサンティーノに対する気持ちは恋ではないのだと、レギオンは考える。


 こんな中途半端なことをするくらいなら、いっそ恋人にしてしまえばいいのだが、それにはレギオンは抵抗を覚えた。何故かは、自分でもよく分からない。そうしてしまうことが恐いのだろうか。


(大体、サンティーノの奴もはっきりと自分の本音を話そうとはしないから…私に一体どうして欲しいのか、何が不満なのか、どうして泣いたりするのか、もっとはっきりと言ってくれてもいいものを。話さないでも分かってもらえるなんていうのは、甘えだぞ。少なくとも私は苦手だな、彼のああいうところは…)


程なくして、レギオンはサンティーノを見つけることができた。


 相変わらずの人嫌いのせいか、それとも一人でいたい他の理由のせいか、サンティーノは、以前レギオンとよくリュートの練習をした庭園の外れの東屋で、リュートをかき鳴らしていた。


 冬の始まりの時期である。昼間とはいえ外は冷える。人間のように寒さに弱いわけではなく、寒いからといってその手がかじかむこともないのだろうが、こんな寒々とした風景の中でリュートを弾きたがるのはヴァンパイアにしても物好きだ。


 そんなことを考えながら東屋に近づいていったレギオンだが、サンティーノが奏でるリュートの物悲しい旋律にふと足を止めた。


(あいつ、以前から、こんなふうにリュートを弾いていたかな?)


 サンティーノの腕前はレギオンも認めていたが、その曲については、どちらかというと女達が好みそうな甘いお菓子のようなものだと思っていた。感傷を好まない猛々しいレギオンは、聞いても、それほど胸を揺さぶられることはなかった。


(前より上手くなったのかな。これと同じ曲なら確か聞いたことがあるはずだが、今は何だか違って響く)


レギオンは初めて見るかのごとく、リュートを奏でるサンティーノの微かに俯けられた愁いに沈んだ顔を眺めた。奥深くに熱を秘めた、その思いつめた表情にふとどこかで見覚えがある気がした。そうだ、つい先程池の中を覗き込んだ時に見出した、己の不可解な表情に少し似通っていないか。


 静かだが深い熱情のこもった旋律はレギオンの胸の中にもするりと忍び込み、そこで幾重にも重なって鳴り響く。


 もしかしたらサンティーノが単に腕を上げただけでなく、レギオン自身が以前とは変わったがために、同じ旋律でも違うように聞こえるのかもしれない。


 東屋のすぐ傍の木立の下で立ち尽くしたまま、レギオンはサンティーノの巧みな指がつむぎ出す情感のこもった曲に息を詰めて聞き入っていた。


(サンティーノ)


 内気で口下手なサンティーノは、その分リュートで己の気持ちを表現することに長けているのか。


 いくら他人の心の機微を解するのが苦手なレギオンでも、こんなにも悲しく切なげな調べを聞かされては、サンティーノの気持ちを分からない訳にはいかない。


 自分がいかに長くサンティーノを打ち捨てていたのか。彼はずっと寂しかったのだ。


(私は、いつも君にひどいことばかりしているな。傷つけるつもりじゃないと言い訳しながら、私のやることなすことすべてが、君の心を引っ掻き回してしまうんだ)


今更ながら罪悪感を覚えて、レギオンはふとサンティーノから目を逸らし、やりきれないような溜め息をついた。


 サンティーノのリュートの旋律がふいに震え、とまった。


 レギオンは再びそちらを見た。


 サンティーノが顔を上げ、呆然とレギオンを見つめていた。


 束の間衝撃のあまりに空白になっていた顔に生き生きと血が通い出し、大きく見開かれた瞳には明るい炎がくるめいた。全身からあふれ出した狂おしい熱が一瞬のうちに彼を鮮やかに塗り替えたかのようだった。


「レギオン」


 レギオンは数瞬の間目を細めるようにしてサンティーノを眺め、それから、ふっと微笑んだ。


「サンティーノ」


 彼の奏でた曲のおかげでかき乱された胸を何とか落ち着かせると、何事もなかったかのようにレギオンは茂みの中から出、サンティーノに向かって歩いていった。


 

 


 サンティーノは一人きり、リュートを奏でながら、レギオンのことを考えていた。


 彼との再会は、思ったとおり、いやそれ以上にサンティーノを深く揺り動かし、抑え込んでいた火をかきたてた。


 だが、その再会が何らかの慰めをもたらしてくれたわけではなく、これも予想していたようにサンティーノはますます苦しくなるばかりだった。


(レギオン、君になど初めから出会わない方が僕はよかった。こんな惨めな恋に苦しめられるくらいなら、ずっと一人でいてもよかった)


 リュートはサンティーノの行き場のない想いの捌け口だ。ぽろんぽろんとかき鳴らしながら、サンティーノはあの日、自分を置いてミハイを追いかけていったレギオンの遠い背中を思い出していた。 


 そうしろと言ったのはサンティーノ自身ではあったけれど、込み上げてくる悔しさは抑えられない。ミハイに対する己の嫉妬の凄まじさも、あの時はっきりと自覚してしまった。


(ミハイがレギオンに殺されることを僕は願ってしまった。彼を呪ってしまった。呪いは時としてかけた者自身に返ってくるともいうから、いつか僕もこのことで後悔するのかもしれないな)


 それから、レギオンのミハイに対する態度に不安感をかきたてられた。


(あんなに動揺したレギオンを見たのは初めてだった。僕の知るレギオンなら、別にあんな場面を人に見られて誤解をされても平気な顔でにやにや笑っているだろう。それなのに、ミハイ相手だとレギオンはまるで様子が違う。いつものふてぶてしさも不誠実さもどこかにいって、本気で相手の感情を気にして、おろおろと取り乱して…レギオン、君はもしかしたらミハイに恋をしたのかい? ああ、そうなるよう仕向けたのは、僕だったのだ。でも…本当にこれが僕の望んだことだったのだろうか。レギオン、君はまさか忘れてしまった訳じゃないだろうね、ミハイは…人間なんだよ…!)


 己のしたことの罪深さに慄いた、その瞬間だ。サンティーノが己を見つめる強い視線を感じたのは。


 はっとなって顔を上げ、サンティーノは喫驚した。


 ずっとサンティーノの頭を占めていたレギオンその人が、東屋の向かいの木立の下に佇んでいたのだ。サンティーノは一瞬凍りつき、それから全身がかっと熱くなるのを感じた。


「レギオン」


 サンティーノが震える声で呼びかけると、レギオンはふっと奇妙な笑みを浮かべ、サンティーノに向かって歩いてきた。


 サンティーノはどきどきしていた。レギオンに対する彼の今の感情はあまりにも複雑だったが、一番初めに感じたのは、それでも会えて嬉しいというものだった。


「リュートの腕を上げたな、サンティーノ」


 レギオンは大股で東屋の中に入ってくると、サンティーノのすぐ傍に腰を下ろした。


「思わず聞き惚れてしまったよ」


 サンティーノは戸惑うようレギオンを見つめた。


(でも、君はミハイの歌の方がお気に入りなんだろう?)


つい嫌味を言いかけて、サンティーノは恥ずかしくなってうつむいた。


「もう少し…聞きたいな。何か、弾いてくれよ」


 サンティーノがとっさに顔を上げると、レギオンは幾分はにかんだような優しい笑みを向けて、じっと彼の応えを待っていた。


「う…うん…」


 サンティーノはまたしても胸がときめくのを意識しながら、リュートを構えなおし、レギオンのために彼の好きな曲を幾つか奏でてやった。


 その間、レギオンはサンティーノの傍らでおとなしく目を閉じ、彼が奏でる妙なる調べにじっと耳を傾けている。


 サンティーノはそんなレギオンの顔をちらちらと眺めていた。


(レギオンが、僕のリュートを聞いてくれている。ああ、それだけのことで、僕はこんなに嬉しくなってしまうんだ) 


 サンティーノが名残惜しげに最後の和弦をかき鳴らすと、レギオンは幸せな夢から目覚めたようにゆっくりと瞼を上げた。


「ありがとう、サンティーノ」


 レギオンの鮮やかな緑の瞳が己に向けられるのに、サンティーノは逃げるように視線を逸らした。


「レギオン、そういえば…君がここに戻ってきたのは長老達からの呼び出しを受けたからだという噂を聞いたけれど、本当なのかい?」


 サンティーノは用心深く顔を背けたまま、冷静さを装って、尋ねた。


「何だ、君の耳にももう入っているのか。全く、つまらないことでも大事のようにしてしまう噂好きの宮廷雀どもには呆れるよ。ああ、確かに長老達からの出頭命令はあったさ。お説教も受けたよ。それは予想していたことだから、別に私は驚かないけれどね」


「予想していたって?」


 レギオンはサンティーノに聞かせるべきかしばらく逡巡したようだが、結局素直に打ち明けた。数日前に夜の街で怪しげな男達につけられ、その中に一族の者が加わっていたということを。


「それは君に対する警告じゃないか! レギオン、オルシーニ枢機卿にそこまでさせるなんて、市街に移ってこの方、君は一体何をしていたんだい?」


 サンティーノが動転し思わず問い詰めるのに、レギオンは反抗的な少年めいたしかめ面をした。


「ミハイがらみだということは分かるけれど、でも…レギオン、君は少しむきになりすぎているよ。枢機卿はまだしも、たかが人間一人のために一族までも敵に回すなんて、割に合わない。どうして、そこまでミハイに―」


 サンティーノはとっさに出かかった言葉を飲み込んだ。何故ミハイだけがレギオンにとってそこまで特別なのか。ミハイに本気で恋をしてしまったのか。サンティーノの胸はちりちりと焼けた。


「君が心配するほど私は追い詰められていないよ、サンティーノ」


 サンティーノの沈黙を己を危惧するあまりと受け取ったのか、レギオンは彼の肩にそっと手を置いた。


「長老達の呼び出しも、私に対して特に効力を持っているわけではない。実際、形ばかりのものだ。別に追放や何らかの処分をにおわされたわけでもないよ」


「そうなのかい…?」


「ああ、だが…実は気になる点がないわけじゃない」


 レギオンの声にこもった不審そうな響きに、サンティーノは眉をひそめた。


「その…私が呼び出された長老会議の席に、途中からだがハイペリオンが現れたんだ」


「ハイペリオン様が?」


 サンティーノは思わず聞き返した。


「ああ、全くどうして最長老がたかが一介の新米ヴァンパイアの引き起こしたしようのない不祥事に首を突っ込んでくるのか、どうしても解せないよ。長老達も彼が会議に出席するのに戸惑っている様子だったから、あれは全く彼の意志というか、気まぐれからだったんだ。それに、これは感謝しなければならないんだが、ハイペリオンは私を弁護してくれたんだ。私は自惚れ屋だが、自分がそこまで彼の気を引く重要人物だとは考えていないぞ。なあ、最長老というのは、それ程暇なのかい?」


 何も知らないレギオンがただ不思議がるだけなのは仕方がないが、サンティーノは違った。何とも言えない薄気味悪さを、聞いた限りでは鷹揚で親切そうなハイペリオンの行動の裏に感じていた。 


(ひとつ、恋でも、させてみてはどうだね?)


 レギオンに恋をさせてみよと初めに提案したのはハイペリオンだったのだ。だが、あれきりサンティーノはハイペリオンと会って直接言葉を交わす機会はなかったし、あれはきっと一時の気まぐれで最長老のハイペリオンがいちいちレギオンのことなど心にとめていないだろうと漠然と考えていたのだ。だが、もしかしたら彼は覚えていたのかもしれない。


(レギオンのこの恋の行方を、あの方は高みから見物でもなさっているのだろうか)


 神にも等しい千年の齢を経たヴァンパイアの考えることは、やはりサンティーノには読めなかった。


「サンティーノ、どうした?」


「あ、ああ…」


 サンティーノは、疑いを知らないレギオンの顔を間近に見ながら、言葉に詰まった。


 ハイペリオンとのやり取りを含めて、自分がレギオンにあんな賭けのような提案をした事情を説明するべきかもしれない。その上で、ミハイを諦めるようレギオンを諭すべきなのかもしれない。


 だが、ミハイのことを思い出すとサンティーノの感情は乱れて、ついまた黙り込んでしまった。


「レギオン、ねえ、聞いてもいいかな、ミハイとはあの後その…どうなったんだい?」


レギオンは少しの間まじまじとサンティーノの顔を眺めた。


「そんなことを、君は本当に知りたいのか?」


 サンティーノは目をしばたたいた。レギオンらしくない、気遣わしげな問いかけに少し戸惑った。


「分からない、でも―」


 サンティーノは辛そうに唇を噛み締めた。


「何も聞かなかったら、きっと僕はあれこれ勝手な想像をめぐらせて悩んでしまいそうだ。それなら、ちゃんと君の口から本当のことを聞いておきたい」


 レギオンは瞳を微かに揺らせた。


「それなら言うけれど…私が君相手にしたことは、ミハイを激怒させてしまったよ。私は平謝りに謝ったけれど、許してもらえなかった。本当に、あんなに情けなく恥ずかしい状況は生まれて初めてだった」


「へえ、それは見てみたかったな」


「話の腰を折るなよ。とにかく、ミハイは私に愛想をつかせて帰ってしまった。当然だな、せっかく彼は私に心を許し始めていたのに、私は彼の信頼をものの見事に裏切った訳だから」


「ミハイが君に心を開きかけていた…それじゃあ、君は市街に移ってからのひと月でそこまで彼に接近することに成功していたんだ。僕が気をもんでいる間にも君の計画はうまく進んでいたんだね」


「計画なんかじゃないよ、たぶん」


 レギオンが躊躇いがちにポツリともらした言葉に、サンティーノはまた不安をかきたてられた。


「計算とか駆け引きなんか、途中でどこかに行ってしまったよ。実際、私の今までの経験はミハイには全く通用しなかったんだ。だから、もうなるようになるしかならないという気持ちで、彼との付き合いを続けていたんだ。私が強引に迫らない方がミハイも打ち解けてくれたし、私もゲームのことは忘れてミハイと自然に話せる関係が好ましかった。その場その場で、私は自分の感じたように振舞って、時には何の打算もなくミハイを助けたこともあった…そのおかげで彼の思わぬ素顔を垣間見られて、私らしくもなくちょっと感動したよ。ああ、誰かとの間に心が通い合うというのはこういうことなんだと目から鱗が落ちるような思いだった」


 レギオンはいつの間にかつい我を忘れて熱弁を振るっていた。


 そんな彼を、サンティーノは驚きの眼差しで見ていたが、聞いているうちに、次第に胸が苦しくなってきた。


「私は、今まで一方的に奪うばかりで、相手の気持ちなんかこれっぽっちも考えたことはなかった。こんなふうに相手の感情についてあれこれ気にし気をもんだことも初めてだ。他人が自分に少しでも好意を見せてくれたり、本心を打ち明けてくれたりすることが、こんなにも幸せだなんて、ついぞ知らなか…あ…?」


 サンティーノは本当に気分が悪くなってきて、レギオンの言葉を遮るよう、ほとんど無意識に手を上げた。


 レギオンはすぐに黙り込んだが、もう遅かった。


「サ、サンティーノ…」

 

 いつだって余計なことばかり言うのだ、レギオンは。いつだって気がつくのが遅すぎるのだ。


 サンティーノは両手で顔を覆い、心を静めるよう肩で息をした。


「もう…よく分かったよ、レギオン」


 レギオンは気まずそうに沈黙している。サンティーノに対して致命的な過ちを犯したとは、自分でも気づいて後悔しているのだ。


 ああ、でも、もう遅すぎる。


「レギオン、君がこの後どうするつもりか、あててみせようか」


 サンティーノは顔を上げ、不安げに己を覗き込むレギオンに向かって妖しく笑いかけた。


「君はすぐにでも市街に戻るつもりでいる。もう一度ミハイに会って、彼とやり直す機会を掴むためにね。僕にわざわざ会いにきたのもそのことを伝えるためだったんだ。親切にどうもありがとうとでも僕は言うべきなのかな?」


 サンティーノの口から迸る言葉のナイフに胸を刺されたかのように、レギオンは顔を歪めた。てっきり言い返してくるかと思ったが、レギオンはただ哀しそうにサンティーノを見るばかりだった。


「勝手に市街にでもどこにでも行けばいい! 君がミハイとどうなろうが、僕にはもう関係ない…!」


 サンティーノはレギオンに向かって牙を剥いた。


(レギオン、君がミハイにどんなにのめりこもうが、僕はもうとめるものか。ミハイを愛し、彼との恋に溺れて、そうして人間を愛する苦しみに君ものたうちまわればいい。君は、どうしたって最後にはその手で恋人を殺すことになるんだ!)


 レギオンに対して一気に噴き出した憎しみに、サンティーノは眩暈がしそうだった。


 レギオンは衝撃を受けたように、大きく目を見開いている。苦しげにその顔が歪んだ。


「…ごめん」


 レギオンは悄然と頭を垂れた。


「でも、君に会いに来たのは、別にミハイのことを君に報告するためなんかじゃないよ。ここを離れる前に君の顔を見たかったからだ」


 レギオンは溜め息をついて、立ち上がった。


「こんな不愉快な別れ方をするつもりじゃなかったのにね。次はもっとまめにここに戻って来ると言うつもりだったんだ。別に宮廷のことなんかどうだっていいが、ここには君がいるから、と。でも、そんなこと今更言ってもしようがない。私達の友情も、これまでだからね」


 サンティーノは答えず、レギオンを火の噴くような目で睨み続けた。


「今までこんなどうしようもない私に付き合ってくれて、ありがとう、サンティーノ。君に憎まれることになって辛いが、私の方はずっと君が好きだよ」


 レギオンは最後につくづくとサンティーノを眺め、それからどこか寂しげにふっと笑った。そうして、サンティーノに背を向けると、軽い身のこなしで東屋を出て行き木立の向こうへ歩いていった。己を奮い立たせようとしているかのごとく黄金に輝く頭をしゃんと上げて、一度も立ち止まることもサンティーノを振り返ることもなく。


(レギオン)


 一人残されたサンティーノはレギオンの姿が見えなくなった途端、堪えきれなくなったように椅子の上に崩れ伏し、そのまましばらく泣いた。


(レギオン、あの馬鹿め…何が僕のことをずっと好きだよ、だ。あれで僕に別れを告げて解放してくれたつもりか? へたくそな芝居をして!)


 レギオンに関しては実に察しのいいサンティーノは、レギオンの別れの言葉に隠された意図も汲み取ることができたのだが、気づかれた時点で彼のやり方は全くお粗末なのだと思った。どうせ、自分から離れた方がサンティーノは楽になれるとか、サンティーノの傷ついた顔を見た時点でとっさに思いついたのだろう。


(ああ、僕は結局レギオンに忠告もできなかった…レギオンが悪いんだ、僕の嫉妬心をあおるようなことを言うから…でも、今からでも遅くないから、レギオンを追いかけて、ミハイとの恋について忠告した方がいいかもしれない。レギオンは何だかミハイが人間の獲物だということを忘れている気がする。それはとても危険な心の状態なんだと知らせないと…でも、どうせ僕の言うことなどレギオンは聞かないだろう)


 サンティーノの心は千々に乱れて全く収拾がつかない状態に陥っていた。


(レギオン、君のことが憎くて憎くて、それでも愛しくて仕方がなくて…心が張り裂けてしまいそうだ…)


 ヴァンパイアは泣かぬものだと周りからよく聞かされている。ならば、後から後から勝手に溢れてくる、これは一体何だろう。打ち砕かれた心臓のかけらが雨のように目から滴っているのか。


(憎くて、愛しくて、憎くて…)


 まるで呪いのように、愛撫のように、サンティーノはやがて自らにふりかかってくるかもしれない言葉を心の中で何度も繰り返していた。

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