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天使の血   作者: 葉月香
11/30

第3章 罠(4)

 ミハイを訪ねに再びオルシーニ邸か教皇庁に押しかけてやろうと計画を練っていたレギオンだが、それを実行に移す前に、ミハイとの再会の機会は向こうからやってきた。


 一族の夜会に招かれたオルシーニ枢機卿がミハイを伴ってきたのだ。


 オルシーニがレギオンのいる場所にミハイを連れてくるのは意外だったが、ミハイの歌声に魅了された一族の貴人達の頼みを断りきれなかったのだろう。


 鬱陶しくて仕方のなかった謹慎処分もようやく解けて、夜会に参加したレギオンは、それでも目立つ行動は謹んで、歌うミハイをホールの片隅からそっと眺めていた。


(ミハイ、私が吐いた暴言は君をひどく傷つけてしまったろうか)


 言ってしまったことは仕方がないと開き直りたかったレギオンだが、こうしてミハイの姿を目の当たりにすると、またしても罪悪感が込み上げてきた。


 ミハイのうちにはあの夜彼を満たしていた深い憤りは感じられず、その澄んだ声はどこまでも素晴らしく伸び、甘美な媚薬となって耳を愛撫し心に降り注ぐ。


(それにしても、ううん…うん、うん、たまらないな、この声は…じっと聞き入っていると、官能の中心に触れられているような恍惚とした気分になってくる)


 レギオンは、灯りに引き寄せられる蝶のように、ついミハイの声に絡め取られ引っぱられて無意識のままふらふらとホールに出て行くと、彼を取り囲む人垣の後ろに立った。


 ミハイは歌のクライマックスを歌っている。徐々に大きくなりながら高みに向かって舞い上がる声に、レギオンが陶然とした微笑をうかべた時、ふいにミハイの目が彼の姿をとらえた。


 唐突に、歌が途切れた。


 レギオンは夢から覚めたようにまばたきをした。


 ミハイがレギオンを睨みつけていた。アテナの彫像でさえこれに比べればずっと優しく見えただろう。


 レギオンの顔から血の気が引いた。


 歌い手が急に歌をやめたことに、それまでうっとりと聞き入っていた聴衆達が不満げにざわめく。中にはミハイの視線をたどって不審そうにレギオンを振り向く者までいる。


(うわ、これはたまらん)


 さすがのレギオンも恥じ入って、顔を赤らめうつむいた。


「ミハイ、歌え!」


「歌を、歌を!」


 焦れたような声がそこかしこからあがる。


 レギオンは恐々顔を上げた。


 ミハイは大きく息をついて再び歌いだそうと口を開きかけるが、レギオンと目があうと唇を噛み締めた。


 そうして、これ以上は我慢できないというようにいきなり踵を返すと、偶像を崇めるように己を取り囲む貴人達をかき分けて、ホールから出て行ってしまった。


「彼は、一体どうしたんだ…?」


 歌手が唐突に退場してしまったホールに残された者達は、落ちつかなげにざわめいている。


 その中で呆然と立ち尽くしていたレギオンは、刺すような視線を感じて振り返った。


 すると、数人の長老達と一緒にいるオルシーニ枢機卿が、怒りをはらんだ顔をレギオンに向けていた。オルシーニは長老達に何か話しかけると、レギオンの方を示す手振りをした。長老達の威厳に満ちた冷たい顔が、一斉にレギオンを振り返る。


(くそ、脅しになど負けるものか!)


 反抗心を煽られて、レギオンはミハイが消えていったホールの出口を睨みつけると、長老達やオルシーニ枢機卿が見守る前で堂々とミハイを追いかけていった。


(ミハイ、どこだ?!)


 先程のミハイの態度と枢機卿や長老達から向けられた敵意のせいで、レギオンはかっとなっていた。


 ミハイの控え室は簡単に見つかった。そこは続きの二部屋からなっており、勝手に中に入ってくるレギオンに付き添いの小姓が戸惑い顔で近づいてきた。


「出て行け、私はミハイに話がある」


 すごい剣幕で唇から牙を覗かせるレギオンに、少年はひっと叫んで、彼の脇をすり抜け部屋から飛び出していった。


「レギオン、またおまえか!」


 今度はハンスが奥の部屋から顔を覗かせた。レギオンは苛立たしげに豪奢な髪を振りたてた。 


「君も出て行ってくれ、ハンス! 私は、ミハイと話さなければならないんだ」


 ハンスは猛然とレギオンに向かって突進しようとしたが、その彼を、後ろからミハイの冷たい声が止めた。


「入れてやれ、ハンス」


 ハンスは当惑して後ろを振り返った。


「僕に話があるというのなら、どんな話か聞くだけ聞いてやる。叩きだすのは、それからでも遅くない。さもないと、こいつは今夜中ずっと僕に付きまとうだろう。それだけは我慢ならない」


 ハンスの大柄な体の後ろから、ミハイのほっそりと華奢な姿が現れた。


 レギオンは、ほとんど憎い敵と対峙するような心地で、彼を激しくねめつけた。


「ハンス、言われたように君も出て行ってくれ」


 ミハイもレギオンを瞬きも忘れたように睨みつけたまま、言った。


「し、しかし…」


「何かあればすぐに呼ぶから、部屋の外でしばらく待っていてくれ」


 ハンスは心配そうだったが、ミハイの毅然とした態度に負けて、不承不承部屋から出て行った。


「こちらへ」


 ミハイは顎で奥の部屋を示し、中に入っていった。レギオンも無言のままそれに続く。


「扉は開けておいてくれ」


「私に何かされると、警戒しているのか?」


「君は招かれざる客だから、長居をしてもらおうとは思わない。早く出て行って欲しいという意味だよ」  


「飲み物くらい、すすめてくれてもいいじゃないか」


「生憎、君が小姓を追い払ってしまったものだからね」


 実に全く全身棘だらけのようなミハイはレギオンに椅子をすすめることもせず、部屋の真ん中で腕を組んで立ったままレギオンと向き合った。


「それで?」


 レギオンは、ついためらった。


「話とはなんだ?」


 黙りこんでしまったレギオンに、ミハイはすっと目を細めた。


「さては、性懲りもなく、また下らない戯言を僕に聞かせるつもりか。それとも」


 ミハイの声が低くなった。


「またしても僕を嘲笑う気か?」


 ただではすませないというような恫喝をこめた囁きに、レギオンは堪りかねたように叫んだ。


「違う、そうじゃない! 私は許しを乞いに来たんだ!」


「許し?」


 ミハイは疑い深げに首をかしげた。


「そうだ…私は…君にひどい侮辱を…してしまった…」


 レギオンは額にうかんだ汗をぬぐい、苦しげに囁いた。


「君の秘密を知って…私はどう受け止めればいいのか分からなかったんだ…その、どう君に接したらいいのか…。だから、あの時、気持ちを昂ぶらせた君と話しているうちに、私自身もかっとなってしまった。私は、動転すると、一番するつもりのないことをあえてしてしまう悪癖があるようだ。これだけは君に対して絶対言ってはならないことを、私は口走ってしまった…そのことは、どんなに君に責められてもなじられても仕方がないと思っている。なんなら、気のすむまで殴ってくれてもいい」


 レギオンは、ここでちょっと首をすくめてちらっとミハイを見たが、ミハイが本当に手を上げる素振りもなく仏頂面のまま黙っているので、話を続けた。


「君の秘密を知っても、私は知らないふりをして君の傷には見て見ぬふりをして、普通に接すればよかったのかもしれない…でも、それはたぶんできなかったろうな。君自身がこだわっている、そのことにはずっと触れずにすませるなんて、私には無理だったろう」


「何故?」


「何故なら、言っただろう、私は君に惹かれているからだ。最初に君の歌を聞いた時、私は、君が人間だろうが化け物だろうが、男だろうが女だろうが、全く構わないと思った。君の素晴らしさは性も種族も超越している。それが、君が負った過酷な運命がもたらしたものであってもだ。私は安っぽい同情心は持たない。神が授けた試練などというたわ言も信じない。私が信じ受け入れるのは、私が今、見、聞き、触れることができる君の全てだ。ミハイ、たとえ君自身がそれを望んでいなかったとしても、今ある君の形を否定したくはない」


 ミハイはしばしレギオンの言ったことについて考えをめぐらせているようだった。溜め息をついた。


「優しい言葉だね」


 苦く、呟いた。


「私は、優しくなどない」


 レギオンは、ふいにミハイに近づく己の本当の目的を思い出して、皮肉な気分になった。


「残酷だよ」


 ふっと笑い首を振ると、レギオンはミハイの前に進み出、跪き頭を垂れた。


「何の真似だ?」


 ミハイの声が再び固くなった。


「どうか、私の謝罪を受け入れて欲しい。それから、君が心と肉体の双方に受けた傷を知っても尚、そんな君を私が崇拝することを許して欲しい」


 誇り高いレギオンはこれまで誰かに跪いたことなどなかった。そうする意志もなかった。例え相手がブリジットであろうとしなかったろう。だが、はからずも己がミハイに与えてしまった屈辱を拭い去るには、ここまでしなければならないと思った。


「馬鹿な真似はやめろ、レギオン」


 思いも寄らないレギオンの態度に、ミハイは少し動揺しているようだ。居心地悪げに身じろぎし、後ろに下がろうとする。レギオンは逃がさぬよう彼の衣の端を捕まえて、口づけしようとした。


「レギオン!」


 ミハイはかっとなって叫んだ。


「たかが歌手風情にそこまでする必要はない。君には、そんな卑屈な態度は似合わないぞ」


「君がやめろと言うのなら、やめるが」


 レギオンは従順な素振りで顔を上げた。困惑の面持ちのミハイと目が合った。


「分かった…君の言い分はちゃんと理解したし、誠意も見せてもらった。だから、もう、やめてくれ」


 ミハイは、見ていられないというようにレギオンから顔を背けた。


「許してもらえるのか?」


 レギオンは嬉しくなって、ついつい弾んだ声で問い返した。


「ああ。君は悪意なく口を滑らせただけだった。僕も、そんな些細なことにいつまでもこだわりたくはない」


「ああ」


 レギオンは心底ほっとして、大きな溜め息をついた。


「よかった」


 床からひょいと立ち上がると、レギオンは込み上げてくる喜びを隠しもせずに、ミハイを親愛のこもった眼差しでじっと見つめた。気分が舞い上がったレギオンが思わずミハイを抱きしめようとすると、彼はさっと後ろに下がった。


「調子に乗らないでくれ、レギオン」


 ミハイは牽制するようにレギオンを睨みつけた。


「あの時君が言ったことを僕は忘れる。だが、君が僕に惹かれているだのという戯言を受け入れた訳じゃない。君の言葉は耳に心地よく響くが、口先だけならば何とでも言えるだろう。美しい言葉で飾ってみても、結局君も他と同じ…男でも女でもない珍しい体に好奇心を覚えているにすぎないんだ」


「そんな…」


「僕は今まで…様々な場所で、男であれ女であれ、色々な人間の慰みものになってきたよ。君が指摘したように、確かに、僕が意図的にこの体を武器にしたこともあった。それはそうしなければならなかったからで、僕自身が望んだわけでも何らかの悦びをそこで得てきたわけでもない」


 ミハイは目を細めるようにしてレギオンをつくづくと眺め、実際レギオンが戸惑うほど長く見つめ続け、それからふっと笑った。


「君は、美しいな」


 一瞬何を言われたか分からず、レギオンは瞬きをした。


「少しの疵もなく、健康で、強靭で、君はまるで男性としての完璧な美の化身のようだ。そんな君には、僕がどう言葉を尽くして訴えても理解できないだろう。僕にとっては、本当に歌だけが全てなんだよ…!」


 途中まで冷静に話していたミハイが、ふいに突き上げてくる激情を抑えかねたように声を荒げるのに、レギオンは目を見張った。


「僕は歌によってのみ、この不具の体から解き放たれて自由になれる。歌う瞬間にだけ、僕は生きている…この世の苦しみなど忘れて、僕自身のあいまいな性も超越して、高みへと駆け上り、のぼりつめる。僕は歌の中に全ての悦びを知る。僕にとって、この声こそが官能を覚えさせてくれる唯一のものなんだよ。そんな僕に、レギオン、君が一体何を与えられるというんだい?」


「そ、それは…」


 レギオンはとっさに何と答えればいいか分からず、口ごもった。


「君がどんなに僕を求めてくれても、そんな君に返せるものを僕は持たない。それは君のせいじゃなく、僕の方に問題があるからだ。レギオン、君はとても魅力的だと思うよ。君ならば、どんな相手でも望みのままに手に入るだろう。どうか、君に相応しい人を、君と同じ悦びや幸福を共有できる、僕のようにねじくれていない健やかな相手を見つけてくれ」


 床に視線を落として黙りこんでしまったレギオンに、ミハイは優しいとも言える温かみの通った笑顔を向けた。


「さあ、もう行くんだ、レギオン。君が怒らせてしまった枢機卿は、僕が言いくるめておくよ。本当に何もなかったんだし、こんなつまらないことで君に手出しなどさせるものか」


 ミハイのなだめるような声を聞いて、レギオンはのろのろと顔を上げた。


 大人の余裕を感じさせる穏やかな態度でそっと頷きかけて退出を促すミハイを見た瞬間、レギオンは激しい感情が胸から競りあがってくるのを感じた。


「馬鹿にするな!」


 爆発するように、レギオンは叫んでいた。


「よくもそんな知ったふうな口を叩いて…ああ、確かに君が経てきたような修羅場など私は知らないし、君ほどたくさんの世界を見ているわけでもないし、君から見れば未熟者なんだろうさ! だからと言って、自分ばかりが何もかもを知っているような顔はするな!」


 レギオンはほとんど癇癪を起こしていた。苛立たしげに髪をかき上げ、呆気に取られるミハイを燃えるような目で睨みつけた。


「歌によって全ての悦びを知ることができるから、生身の相手との実際の触れ合いには興味がないなんて、君の言い分は絶対おかしい! そんなのは理屈だ! 君は結局、逃げているだけ、試さないうちからあきらめているだけなんだ!」


「僕が、何から逃げていると? 自分の思い通りに僕がならなかったからといって、くだらない言いがかりをつけるなら、許さないぞ」


 レギオンの激昂ぶりに煽られて、ミハイも再び興奮しだしたようだ。


「うるさい!」


まだ何か言いたげなミハイを手で遮るようにして、レギオンは怒鳴った。


「そんな理屈をうそぶいて自分を納得させられるなんて、君は、何でも知ってそうで、実は何も知らないんだ。ミハイ、どうせ君は誰も本気で愛したことなどないんだろう! 恋の一つもまともにしたことがないくせに、偉ぶるんじゃない!」


 どこかで聞いたような台詞だとレギオンは思った。そうだ、サンティーノがレギオンに向かって言ったのだ。恋も知らない子供のくせに、と。 


「恋…だと…?」


 ミハイは面食らったように呟いた。


「ふん。それこそ、戯言だな」


 皮肉たっぷりに笑い飛ばすミハイに、レギオンは本気で切れた。


「このかっちん頭の分からず屋め! こうすれば、少しは分かるのか!」


 レギオンは低い唸り声と共にミハイの体を引っつかむと、か弱い花をひしぐように抱き寄せ、彼の唇を唇で強引にふさいだ。


 瞬間、ミハイの体が硬直する。


 非力な人間相手でも、今度だけはレギオンは容赦しなかった。確かに正常な男性のものとは言いがたい骨の細い体を腕の中に閉じ込めて、逃げようとする頭を手で押さえつけ、怒りのあまり震える唇を夢中でむさぼった。


(ミハイ、ミハイ…!)


 ミハイを抱きしめながら、レギオンはつい我を忘れた。欲しいと、突き上げてくる欲望に身震いした。


 しかし、次の瞬間下腹部に覚えた激痛に、レギオンは悲鳴をあげてミハイを突き飛ばした。


 ミハイはレギオンの股間を思い切り膝で蹴り上げると、素早く離れ、床にうずくまって声も出せずに震えている彼を殺してやりたいというような目で睨みつけた。


「君なんかの相手をまともにした僕が馬鹿だった…!」


 喘ぐように言い捨てて、ミハイはレギオンを残し部屋から飛び出していった。


(ひ、ひどいことを…するじゃないか…)


どんな傷を負ってもたちどころにふさいでしまう不滅の体を持つヴァンパイアでも、痛いものは痛いのだ。しばらく床の上で呻いた後、レギオンは手近にあった机にすがりついてほうほうの態で立ち上がった。

 

(全く、どうして私がこんな目にあわなければならないんだ? これでは恋の駆け引きなんだか格闘なんだか分からない。会う度に腹が立つばかりで、楽しいことなどこれっぽっちもないじゃないか!)


 レギオンは腹立ち紛れにミハイの逃げ出していった扉を蹴ると、ふわりと浮かび上がって天井をぬけていった。


 レギオンはミハイには本当に腹を立てていたが、かといって、あきらめようという気にはなれなかった。むきになっているのだろうか。一向になびかない彼だから、レギオンも珍しくこのゲームには本気になってしまったのか。


(ああ、そうさ。私は、あいつの血を奪う。ミハイほどの強い意志と複雑な感情を持った奴の血なら、私がこれまでに飲んだどんな血よりも深い味わいがあるに違いないからな)


 わざと悪ぶったことを考えてみたが、何だかそれもレギオンの今の気分にはしっくりこないような気がした。


 無性に昂ぶって、苛立たしく、もどかしい。レギオンはほとんど殺気じみて、誰もいない、先程ミハイが歌ったホールに近い庭園に降り立った。


「忌々しい人間め…!」


 レギオンが苛立たしげに吐きすてた時、柔らかな女の含み笑いが背後に聞こえた。


「誰だ?」


 レギオンが振り返ると、深い翠色のドレスに身を包んだ黒髪の女ヴァンパイアが一人、佇んでいた。歌手がいなくなって退屈なものとなってしまった夜会から抜け出して、人気のない庭園を散策でもしていたのだろうか。


「随分と不機嫌そうですこと、レギオン」


 ほっそりとした手に持つ扇の陰には、蜜と毒の両方がこもった微笑。その美しい顔にレギオンはどこかで見覚えがあったが、初めのうちは思い出せなかった。


「ああ、不機嫌だとも」


 レギオンがむっつりと答えると、女はどこか媚の含んだ目を妖しく細め、ゆったりとした動きで近づいてきた。


「何があったのかしら。地上で輝くもう一つの太陽が、そのように顔を曇らせるとは」


 女はレギオンのすぐ前に立って、彼の腕にそっと手を置いた。レギオンは女に興味を覚えた。身の内を荒れ狂う感情のはけ口が欲しかったのかもしれない。


「つい今しがた忌々しい毒蛇が我が身を噛んだのさ」


 レギオンは女の顔を覗き込み、眼差しに力を込めて、甘い声で囁きかけた。


「痛くて、辛くて仕方がない。貴女が薬草となって、毒のある傷を癒してくれないだろうか。優しく慰めてくれないだろうか」


 素早く女の細い腰に手を回し、レギオンは我が身にぐっと押し付けた。


「まあ、大変」


 女は眉をひそめて、誘いかけるような甘く低い声で言った。半ばレギオンにしなだれかかりながら。


「噛まれたのは、さてはここでしょう?」


女はかすれた声で囁いて、娼婦のような手つきで、そっとレギオンの男の部分に触れた。


「大胆…だな…」


レギオンは思わず呻いて女を抱き寄せ、衝動的に押し倒そうとした。だが、その瞬間、女の姿は煙となって溶け、レギオンは、己がのしかかろうとしていたのは真っ赤な口を開けた巨大な毒蛇であることに気がついた。


 毒液の滴る牙をかわしてレギオンが飛び起きると、毒蛇と見えたものもまた煙となって消えた。


「目くらましか!」


 苦々しげに呟いて、後ろを振り返る。


「いい気味。そなたには、まさしく毒蛇がお似合いよ」


 レギオンは顔をしかめた。どこかで見たことがあると思ったら、以前一度舞踏会で躍ったことのある女だ。ブリジットの気を引くためのダンスを踊るのに、パートナーに選んだ。


「ご挨拶だな」


 レギオンは唇を舌で舐めた。実に荒々しい気分だった。


「だが、私を挑発しておいて、このままではすまさないよ」


 レギオンは女の方に大股で歩み寄った。再び幻が、今度は無数の不吉な黒い蝙蝠がレギオンに向かって押し寄せたが、ものともせずに近づくと、レギオンは女の手首をつかんだ。


「蛇も蝙蝠も、あまりぞっとしないしろものだ。同じ幻惑なら、見ていてもっと楽しめるような美しい夢を作り出してくれないか」


 女の氷のような顔をレギオンは見下ろすと、片目を瞑って笑ってみせた。途端に女の白い頬が紅潮する。


 これはいけると確信して、レギオンは女の顎を指先で捕らえ持ち上げた。


「美しい貴女にふさわしいものを」 


 女の目が細くなり、誘うように紅い唇が半ば開いた。身を包む翠のドレスから、微かな羽音をたてて、あまたの蝶が飛び立つ。


 幻の蝶が乱舞する中、レギオンは迷わず女を引き寄せ口付けをした。


 その夜、ひっそりと闇に沈んだ庭園で、あるいは女に導かれていったほのかな花の香りのたち込める部屋の絹の褥で、甘い唇をむさぼり柔らかくて抱き心地のいい体に挑みかけながら、レギオンは、束の間ミハイの面影を頭の中から追い出すことに成功した。


 久々に慣れ親しんだやり方で、レギオンは一夜の快楽を心行くまで楽しんだ。


 やはり御大層な愛だの恋だのよりこういう場当たり的な火遊びの方が自分にはあっているのではないか、サンティーノとの賭けもいっそ反故にしようかと真剣に思ったくらいだ。


(そうだ、何もミハイなんかにこだわる必要はないんだ。もう、あんな奴に殴られ蹴られ罵られるのはうんざりだ。そもそも、私はそれ程同性愛に執着もない。同じ男性でも、サンティーノみたいに優しくて可愛げのある奴ならまだしも、あんな棘だらけの頑固者を私がわざわざ相手にしてやる必要はない)


 分かっているのに、どうしてもあきらめきれない。


 情事が終わると早くも戻ってきたミハイの面影と歌声に、レギオンは溜め息をつきつつ、束の間の愛人を抱き寄せ、その柔らかな胸に顔を埋めてふてくされたように目を閉じた。



(恋など、知るものか)



「本当に何も危害は加えられなかったのかね、ミハイ?」


 もう一度、穏やかな声で探るように問うてくる枢機卿に、ミハイもまた同じことを答えた。


 レギオンとの不愉快な再会の後、まだ気持ちが静まらないうちに、ミハイはオルシーニ枢機卿の居室に呼ばれたのだ。


「はい、猊下。僕とレギオンはしばし言葉を交わしただけです。彼は用が済むとすぐに帰っていきました。それだけです」


 レギオンのことを語ると胸の奥でいまだおさまりきらない火がくすぶったが、ミハイはかろうじていつもと同じ感情の読めない無表情を保つことができた。


「だが、二人きりになることはなかった。あの男は、おまえによからぬ感情を抱いておる。それは、私に向かってあの男自身が言ったことだ」


「猊下にそのように心に掛けていただけることは感謝いたします。ですが、猊下、己の身一つ守りきれないほどに僕は弱くはないつもりです。レギオンとは僕自身も話をつける必要を感じたので、部屋に入れたまでです」


 オルシーニは大仰な溜め息をついた。


「ミハイ、私はおまえの身を案じておるのだ」


 ミハイはそっと眼差しを伏せた。


「おまえを見出し、このローマに連れ帰ることに成功した日以来、私は、もう決して不純な動機を抱く輩をおまえに近づかせまいと誓った。おまえ自身も、私の庇護のもとで、何の憂いもなくただ好きな歌を歌い、それによって神を称え人々に幸福を与える、そんな暮らしに満足していたはずではないか」


「その通りでございます。猊下は僕の苦境を察し、助けの手を差し伸べてくださった。その御恩は、片時も忘れはしません」


 従順に頭を垂れて、ミハイは言った。確かに、オルシーニ枢機卿には感謝している。


「ミハイ、おまえは汚されてはならない」


 オルシーニは熱心にかき口説くようにささやいた。


「おまえの声は神のものであり、おまえは歌によって人々を天上に導く。おまえは、確かに、以前は過酷な境遇ゆえに無理やり罪を強いられたこともあった。だが、おまえの本質は清らかなままだ。さもなくば、あのように素晴らしい神の祝福を感じさせるような声で歌うことはできまい。どうか忘れないでおくれ。おまえは神に選ばれた者だ。神の道具にふさわしい行動を常に取るよう心がけよ」


 オルシーニの言葉を聞くと、ミハイの胸には何ともいえない苦い思いが広がった。


「…はい」


 胸の奥から痛みと共にせりあがってくる感情はあったが何とか抑え付けると、ミハイはオルシーニに恭順の意を示してひざまずき、彼の指輪に口付けをした。


(神の祝福、か)


 オルシーニの部屋から退出し、このヴィラの中に今夜あてがわれた部屋に戻るまでの間も、ミハイの心は晴れなかった。


 本当に、枢機卿の言葉を無邪気に信じ、唯々諾々と彼に従って神と教会のために喜んで歌えたら、随分楽だったろう。


 子供の頃は何の疑いもなく神を信じていられた。けれど、今はもうミハイの中では神に対する愛は死に絶えている。故郷を襲った炎と血と鉄の軋りの中で己の一族をすべて亡くし、我が身の上に覚えた屈辱と恐怖、一生消えない傷を受けるに至って、ミハイの信仰は燃え尽きてしまった。


(猊下、猊下、僕は、本当は神のために歌ってなどいないのです。僕にとって歌はもっと個人的なもの、他に自分を解放する術を持たない僕の唯一の喜び、僕の魂の叫びなのです。あなたは僕を聖別されたもののように見たがっているけれど、僕はそんな人間じゃない!)


オルシーニの善意に満ちた顔を見ると、ミハイは時々衝動的にそう喚き散らしたくなった。


(あなたは僕を愛してくれるけれど、それは、本当の僕ではないのです。あなたは、結局、あなたが見たがっている偽者の僕を見ているに過ぎない)


 ミハイがオルシーニの前に立って言葉に交わす時にいつも覚える気の重さは、自分がオルシーニの期待通りの者ではないということを知っているからか。


 それとも、オルシーニが押し付けてくる思い込みが彼の執着の裏返しだということを薄々感じ取っているからか。


ふいに、ミハイの胸にレギオンの言った言葉が甦った。


(私は安っぽい同情心は持たない。神が授けた試練などというたわ言も信じない。私が信じ受け入れるのは、私が今、見、聞き、触れることができる君の全てだ。ミハイ、たとえ君自身がそれを望んでいなかったとしても、今ある君の形を否定したくはない)


口先だけならば何とでも言えると退けたミハイだった。しかし、少なくとも、枢機卿が言ったような言葉より、それはミハイの心によほど訴えかけてくるということは認めざるをえなかった。


 ミハイは顔をしかめた。


(早く忘れてしまうことだ。あんな口ばかりの浮ついた奴など信用できない。あんまり一生懸命に見えたから、つい心が動いて話くらいちゃんと聞いてやろうなんて甘い所を見せたのが、間違いだった。思い出しただけではらわたが煮えくり返る…よくも僕にあんなことを…) 


 ミハイは指先でそっと唇に触れた。あの熱い感触がまだ残っている気がする。


(恋も知らないくせに、か) 


 それは、そのとおりだとミハイは思う。激しい運命の流転を経てきて、とにかく生き延びて目の前の道を切り開くことに必死で、そんな甘い感情を誰かに覚える余裕などなかった。


(大体僕はまともな恋などできるような身でもないし…あいつめ、またしても、ついうっかりと人の逆鱗に触れることを言い残してくれたな)


 真剣に考えをめぐらせると、ますます腹が立ってきた。


 この広いヴィラのどこかにあの無神経男がいるかと思うと、彼を探し出してもう一度殴りつけてやりたいような凶暴な気持ちになる。


(それにしても、僕はレギオンに対してはつい感情的になってしまうようだ。初めに会った時からそうだった。それは誰もいないと思っていた礼拝堂で夢中で歌っていた僕がレギオンに隙を突かれて、そのせいでいつものようにうまく心を閉ざすことができなかったからだと思っていたけれど…その後も会う度会う度、僕はあいつと激しく言い争ったり、あいつを殴りつけたり、そんなことばかりしている。どうしてだろう、これが他の人間なら、もう少し冷静に接してうまくあしらえるのに…)


 下手に内心をさらけだしたり、感情的になったりせず、誰からも距離を取って超然としていることが、これまでの経験からミハイにとって身を守る最善の方法となっていた。


 だが、レギオンに対しては、己を上手く制御できない。自分の言動を後から振り返れば、あれはまずかったと色々思うのだが、レギオンを見ているとどうしてもかっとなってしまう。己が激昂することがレギオンを余計に喜ばせているのだと分かっていながら、いざ頭に血が上ると、もともと激しい気性を持つ故にミハイはとめられなかった。


(まずいな。僕は、あいつにはあまり近づかない方が本当によさそうだ…あいつが僕に求愛などとふざけた真似をしてくるからじゃない。あいつの存在自体が…どうにも僕の弱みを刺激してくるから…)


 どんなに追い出そうとしても、レギオンの誘惑的な面影は、ミハイの頭の中に蛇のようにするりと入り込んでくる。


 あんなに姿のいい男は見たことがない。


 強引に抱きしめられた腕の信じがたいほどの力に、怒り狂いながらもミハイはどこか陶然となっていた。布越しに押し付けられた体の逞しく強靭だったことにも、はからずも感嘆を覚えた。


 ああ、あんな力強さを自分も持てたなら。


(よそう、馬鹿馬鹿しい…!)


 ミハイは、レギオンへの意外に強い己の感情に、我にもあらず恐くなって身震いした。 

 

 レギオンと接していてこんなにも気持ちが昂ぶるのは、詰まる所、どうすることもできない我が身と比べてしまう劣等感からだ。


 レギオンは、ねたましいほどに、ミハイが決して持ちえないあらゆるものを持っている。その点で、ミハイがレギオンと争い勝とうとしても無理なのだ。しかし―。


(僕には、歌がある。そう、この声こそ、僕が持てる唯一の武器だ)


 執拗に絡み付いてくる嫌なものを振り払うかのごとく頭を振ると、ミハイはふっと苦笑し、己の部屋に続く長い廊下を歩いていった。


(恋なんて、知らない)


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