瞋恚 シンニ
「お母さん」
「何?」
私が夕飯の支度をしていると、娘のユウコが話しかけてきた。今日の夕飯はカレーとサラダで、私は人参を切っている。
「わたしね、塾をやめたいの」
「馬鹿なことおっしゃい」
包丁を握ったまま振り向くと、私の顔がそんなに怖かったのか、ユウコはひどく怯えた顔をした。
「お父さんが汗水たらして働いたお金から、ユウコの将来のためを思って高い月謝を払っているのよ。そんなこともわからないの? ぐずぐず言ってないで、さっさと準備して行きなさい」
「お願い、やめさせて。その分、家でいっぱい勉強するから。頑張って、テストで百点取るから」
親と取引しようとするなんて、なんて子なの。
「ダメよ。幼稚園から続けて六年生になったら、ユウコの行きたいところに旅行に行く約束でしょ。六時半からの教室に遅れるわよ。早く鞄を持って」
「だって、お母さん」
カッとした私は包丁をまな板に置くと、その手でユウコの頬をぴしゃりと叩いた。
「『だって』と『でも』は言っちゃいけない約束でしょう! 昨日、お父さんにあれだけ言われたのに、どうしてわからないの!」
火が点いたようにユウコが泣き出した。大声を出すと、せっかく寝かせた下の子が起きてしまう。
「泣けばいいってもんじゃないのよ! 小学生にもなって、そんなこともわからないの!」
ユウコは泣きながらキッチンを出て、自分の部屋に行った。そして、いってきますも言わずに家を出た。私たちは、どこであの子の育て方を間違えたんだろう。
ユウコは、ひどく出来が悪い。お喋りで軽薄で考えなしで、そして意地が悪い。下の子の面倒を見ず、おもちゃを取り上げては泣かせる。家事の手伝いをしない。学校の勉強ができない。馬鹿みたいにボーっとしていることが多く、話しかけてもすぐに返事をしない。親の言うことを聞かない、上の子としての役割が果たせない出来の悪い子だ。
夜の八時半を過ぎた頃、ガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。何も言わずにユウコが帰ってきた。食卓でビールを飲みながら、夕飯を食べていた夫が手を止める。ゴミ箱から出てきたグシャグシャのテストを丁寧に広げたものが、側にあるユウコの席の前に置いてあった。
リビングに入ってきたユウコは四谷怪談のお岩のような顔をしていた。泣き腫らした目のせいで、元々よくない顔がさらにひどくなっている。
「ユウコ、そこに座りなさい」
夫が冷たい声で言った。ユウコは返事をせず、幽霊のように席につく。
「返事をしないか!」
バンッ! 夫が握り拳でテーブルを強く叩いて、花瓶の水がはねた。
「……はい」
「ユウコ、お母さんがお前の部屋を掃除していたらゴミ箱からこんなものが出てきた。これが何だかわかるな」
「国語と算数のテストです」
右上には赤いペンで九十五、九十と点数が書いてある。
「テストはいつもお父さんとお母さんに見せることになっていたな。どうして、丸めて捨てた?」
「百点じゃなかったから……。見せたら、お父さんとお母さんに怒られるから……」
夫が立ち上がって、テーブルを押した。それが腹に当たったユウコは「ぐえ」と蛙のような声を出す。
「当たり前だ! 小学一年生のテストで満点が取れないようじゃ、この先の人生を生きてはいけないぞ! いいか、世の中は厳しいんだ。戦って戦い続けて、勝ち残れる人間だけが生きることを許されている。今のお前にその資格はない。それでも、大人になるまで私たちがお前を生かしてやっているんだ」
ユウコの席の前に、ぽたぽたと雫が落ちる。
「泣くな! まだお父さんは泣いていいとは言ってない!」
ギリリとユウコは唇を噛んだ。恨むような、憎むような、ひどく反抗的な目をしている。
「その目はなんだ、ユウコ!」
「……ごめんなさい。でも、わたし」
夫がガタンと席を立ち、ユウコの長い髪を引っ張った。
「親に口答えするんじゃない!」
「痛い、ごめんなさい、やめて、許して、お父さん! ちゃんと塾に行くから! もうテストを隠したりなんかしないから!」
夫は容赦しない。徹底的に躾けるのが夫のやり方だ。私はそれでいいと思う。
「お母さん、助けて! わたし、いい子になる、いい子になるから! お母さん!」
泣き叫ぶユウコに構わず、夫はユウコを引きずっていった。いつものように頭を冷やさせるために、離れの物置小屋に閉じ込めるのだろう。
あれから、一時間が経った。私はさすがに心配になり、ユウコを押し込んだ物置小屋に行った。押さえ代わりの内側から開かないようにしていた棒を外し、重い物置小屋の扉を開けた。もう大人しくしているだろうと覗き込むと、物置小屋の中でユウコは白目を剥いて、口から泡を吹いていた。死んでいる。私は、扉を一度閉めた。こんなことになるとは思っていなかった。驚きのあまり悲鳴も出ない。私は夫を呼びに行った。
夫もまさかユウコがこれくらいのことで死ぬとは思っていなかったようで、少しの間呆然としていた。でも、すぐハッとしたような顔をして私に言った。
「何もかも証拠を消すんだ。私たちが疑われないように。服は庭で燃やしてしまおう」
体液にまみれたユウコのキュロットスカートを夫がずり下ろすと、下着が体に貼りついていた。汚らしくて私は触りたくもない。白い太ももはアザだらけだった。こんなところ、普通は転んでも打ちつけたりしない。しかも、こんなに何ヶ所も。上着のボタンも全部外した。その下の白いシャツも脱がす。また生傷が広がっていた。
「お父さん、これ……」
「私たちの知らないところで、誰かに殴られてたんだな」
「誰にやられたの! ユウコ、黙ってないで何とか言いなさい!」
だらりとした体を私が強く揺すっても、ユウコは何も答えない。首をガクンとうなだれただけだった。
「やめろ。もう、何もかもが遅すぎるんだ」
「私じゃない……。私がユウコを殺したんじゃない……!」
「ああ、お前じゃない。俺でもない。誰かがユウコを殺したんだ」
私は少しずつ暗闇に目が慣れてきて、中の様子がはっきりと見えるようになった。
「ヒッ!」
物置小屋の扉の裏には、何本もの赤黒い線が伸びている。憎悪と執念が出口を求めて、四方八方にもがいた跡だ。私はいつかユウコに殺される。これだけ意地の悪い子だ。きっと、それくらいのことは死んでも平気でするだろう。ユウコの生爪の剥がれかかった手を私は踏みつけた。
「落ち着け、大きな声を出すんじゃない。この物置小屋ごとユウコを燃やそう。ユウコが一人で火遊びをして、物置小屋に燃え移ったことにするんだ」
夫は気味が悪いほど、冷静だ。それが頼もしくあり、恐ろしくもあった。
「焼死体なら炭化してしまうから、身元がわかるのも歯科受診記録からくらいだろう。損傷が激しくても、状態を調べるのは難しいはずだ」
ほこりを被った棚から、夫が古いマッチ箱を取り出す。
「しけてない」
夫の太い指が箱を開けて、マッチを一本つまんでシュッと勢いよく擦った。暗闇の中、小さな炎が淡く点る。赤く照らされた夫の顔が、私の目には化物に見えた。
次の日、家の火事は朝のニュース番組に取り上げられた。物置小屋の中で子供が火遊びをして死んだ、悲しい事件として。私も、夫もカメラの前で声を震わせて、ユウコがどれだけ大事な娘だったか語った。私たちは同情の的になった。会う人会う人がお悔やみの言葉をかけてくれる。葬儀でも、かわいい我が子を失った両親を完璧に演じて見せた。
ユウコの骨壺は怪しまれないように私たち一族の墓に入れたが、家に遺影を飾るのは気持ちが悪い。位牌だけ仏壇に置いて、ユウコの遺影も写真も全部、使っていない部屋の古びた箪笥の奥に詰めた。本当は今すぐ何もかも燃やしてしまいたかった。でも、そんなことはできない。火事になった家の庭から煙が出ていれば、ご近所に何と思われるかわからない。あと十年は外で火を使えないだろう。ここが田舎であれば、真夜中に誰もいない空き地なんかで燃やしてしまえばいい。ただ、ここは中途半端に市街地なのだ。私も夫も早くこの出来事を、ユウコを忘れてしまいたいというのに。
それから、十年が経った。ユウコの妹、レイコは順調に成長していた。来年の春には中学生になる。レイコは出来のいい子で、親の言うことをよく聞き、勉強もよくできた。おまけに地元のスポーツクラブで活躍する、面倒見がよく優しい子に育った。私たち夫婦の優秀な遺伝子を引き継いだ完璧な子だ。私と夫はレイコが将来立派な人物になることを確信していた。レイコが男でないのが惜しいくらいだ。レイコはユウコの存在を知らない。自分のことを一人っ子だと思っている。
「ママ、かえりました」
真っ赤なランドセルを背負ったレイコが家に帰ってきた。
「おかえり、レイコちゃん。今日のおやつはドーナツよ」
「ありがとう、ママ!」
レイコの顔がほころぶ。私に似て、レイコはかわいらしい顔をしている。
「揚げたてだから冷めないうちに、手を洗って食べなさい」
「はい」
レイコは洗面所に走っていった。何の非の打ち所がないレイコだが、私たちにはひとつだけ気になることがある。それはレイコがまだ小さかった頃からのことだが、何もない場所を見ていることがあるのだ。部屋の隅や窓の向こうを見ては笑ったり、嬉しそうに話したりする。それがどうにも気味が悪いので、夫と叱ってやめさせた。夫は原因を探りたがったが、それがユウコの仕業なら恐ろしいので止めた。最近、レイコはそういうことをしなくなったので、私たちは安堵している。
ふふふ、と笑う声が洗面所の方から聞こえた。レイコがまた一人で笑っている。私は早足でレイコの元に向かった。
「レイコちゃん?」
「なあに? ママ」
レイコは至って普通に見えたが、まだあの悪癖が治っていないのではないか。私は不安に駆られた。
「今、一人で笑っていたでしょう」
「うん、思い出し笑いをしてたの。ママ聞いて。今日学校でね、キッカちゃんが手を滑らせて給食のお皿を割っちゃって。それはとってもかわいそうなんだけど、キッカちゃんがそのとき、『きゅうー』って変な声出しててね。クラス中が笑って、キッカちゃんも笑ってたの。面白いでしょ?」
「そうね」
どうやら、それは本当らしい。レイコは嘘をつくような子ではない。
「片づけが大変だったけど、誰も怪我しなかったのよ。すごいでしょ」
「レイコちゃんもお皿を割ったりしないように気をつけてね」
レイコは微笑んで、「ママ、心配しなくても大丈夫よ」と答えた。
それからまた六年経った。月日が経つのは早いものだ。レイコは高校三年生になり、高校受験に成功し、誰もが知っている名門大学に進学が決まった。親戚も近所の人もレイコを褒め、私たち夫婦は鼻が高かった。
でも引っ越し先を決める段になって、レイコがぐずり始めた。今まで私たちの言うことに逆らったことなどなかったのに。
「パパ、ママ。私、大学の学費は奨学金を借りて払いたいの」
「どうしてだ、レイコ。パパたちはレイコのために学資保険に入って、レイコの学費はもう用意してあるんだぞ」
夫は努めて平静を保っていたが、内心怒りで一杯なのだろう。沸点が低いのだ。
「パパの言う通りよ、レイコ。奨学金なんて名ばかりの借金なんだから」
「知ってるわ。でも、私自立したいの。いつまでもパパやママに甘えていられない」
キリリと唇を引き結ぶレイコは思い出せない誰かに似ていた。
「私、この家を出なきゃ、きっとダメになっちゃう。だから、許して。お願い」
私も夫と同じように苛立っていたが、レイコの決意は固いようだ。レイコは賢い子だから、きっと馬鹿なことはしないだろう。
「パパ、許してあげて。レイコはしっかりした考えを持っているじゃないの」
夫はひとしきり唸ったあと、口を開いた。
「……仕方ない。大学を卒業したら、必ずこの家に帰ってくるんだぞ」
レイコが大きく頷く。私は、レイコはこんなに大きくなったのだと感慨にふけった。
こうして、レイコがこの家を出る前日になった。私はレイコの新生活が心配で心配で眠れない。午前二時を過ぎ、ようやくまどろんできた。もう少しで深い眠りに落ちるとき、寝室の引き戸を開けて誰かが入ってきた。夫はいびきをかいて寝ている。暗闇の中、小さな炎が灯った。ぼんやりと見える、その顔は。
「ユウコ……?」
まさか、そんなはずはない。ユウコは十六年前に死んだのだ。人影は太い蝋燭に火を移した。仏壇用の蝋燭だろうか。その蝋燭を床に立てたようだ。
「……そこで何をしているの?」
私の言葉で空気がわずかに震える。
「パパとママが悪いのよ。パパとママがお姉ちゃんを殺したから」
なぜ、それをレイコが知っているのだ。レイコが蝋燭を蹴倒した。炎が徐々に燃え広がる。このままでは夫共々焼き殺されてしまう。レイコは黒煙の中、部屋を出て行った。扉が閉まる。私はベッドから飛び起きて扉に駆け寄り、開けようとした。開かない。何度、引いても開かない。
「レイコ! 扉に細工をしたわね!」
私は絶叫した。煙を吸ってしまって苦しくなる。熱い。もう背中の方まで火が迫ってきている。私は咳き込んだ。余計に煙が胸に入る。
「怖かったよね、お姉ちゃん。でも、もう大丈夫。お姉ちゃんを殺したパパとママは死んだの。私、この家を出るわ」
「レイコ! レイコ! 許さないわ!」
私はこんなところで死ぬわけにはいかないのよ。死ぬ、わけには……。
「これからもずっと一緒よ。お姉ちゃん」