24歳春、僕は男と手を繋いだ
24歳の春、僕は男性と手を繋いだ。
父親ではない。僕の大好きな人とだ。
男の人と手を繋いだことは過去にあった。
幼稚園の頃に遠足で同級生の男の子と。学生時代に老人ホームのおじいちゃんと。
でも、その人のことを考えるだけで突然走りだしたくなるような、そんな心を躍らせる相手と手を繋いだことはなかった。
その彼は今度結婚する。きれいなお嫁さんと式を挙げる。
小学校のころから知り合いだった。
幼馴染で、気が付くといつも一緒にいた。
運動神経抜群で、背が高かった。肌は浅黒くて、短く刈った頭にはやんちゃ故の縫い痕があった。
にっこりと笑うとえくぼができる。そのえくぼが見たくて僕はたまにおどけて見せた。
彼は今度結婚する。
どうやら赤ちゃんができたらしい。
「順番間違えちゃった」と照れながら笑ってた。
責任を取るため、という仕方なさは感じない。
これからのますます幸福を迎え入れようとする父親のはにかみだった。
僕には決して与えることのできない幸せを彼のお嫁さんはこれから与えようとしている。
決して僕が作らせることができない種類の笑顔を、お嫁さんは作らせた。
彼が幸せなのに、僕はつらい。
嫉妬で胸が潰れてしまいそう。
でも僕は彼の幸せを一番に願っている。
でも、最後にほんの少しだけ、僕自身の幸せを実現させたかった。
突然の連絡だった。
「一緒に映画を見に行こう」
胸がチクチクと痛んだ。
彼の結婚話は耳に入っていた。
すっかり僕が彼を「忘れよう」としてたのに。
もしかしたらもう忘れていたのかもしれない。
その気がないなら誘わないでほしい。
そう思ったことが何度かある。
でも、彼からすれば僕の要望は意味不明のものだ。
その気も何も、彼は僕とあって遊びたいだけ。普通の友達に声をかけるように。
ないとわかってるのに、彼が僕の心を揺さぶる。
彼が僕の肩に手をかけたとき。肘で僕の脇腹を小突いたとき。
ニコニコと僕の目を見てほほ笑むとき。
彼といて楽しいと思える瞬間瞬間が、彼も同じように思っているのではないかと思い、でも時間がたって、一人部屋の片隅で物思いにふけっているとただの勘違いだと思いいたって心が淀む。
彼を笑わせたとき、一瞬「近づけた」と思う。
でもそれは、月に向かってジャンプするようで、物理的に確かに近づいたかもしれないが、決して月面に着陸することができない。
そしてまた僕は「地上」に足をつけることになる。
それを繰り返しても、はたから見れば滑稽だ。
だから地に足を付けて生きていこうとしてた。
もう意味なくジャンプはしないんだと。
結婚するからだと思った。
子供ができて、大人になるからだ。
彼が子供に戻れる相手と一緒に、最後に何か一つ記念にと。
だから、見に行く映画は、小学生の時に噛り付いてみたアニメの劇場版。
「なんでその映画なんだよ」
と笑った。
「なぜ俺と映画なんだよ」
とは聞けなかった。
映画を見に行く理由を聞いてしまったら僕は地上に足をつけてしまうから。
地上から数十センチでもいいから、飛んでいたかった。
最後のジャンプ。
最初のわがまま。
休日の映画館は空いていた。
家族連れが何組かいた。
「家族しかいねぇな」
そう彼は笑いながら、ポップコーンをひじ掛けのくぼみにおいて席に座った。
僕も彼の横にちょこんと腰かけた。
僕らは、最後部に座った。
悪さをしても何も気づかれないように、学校の席替えで教室の一番先生から離れた席を選ぶように。
彼との映画はいつもそうだったように思う。
その列には人はおらず、何人かは出口付近に座っていた。
ぐずりそうな子供をすぐ館外に出すためだろうか。
僕はチラチラと彼の横顔を確認する。
映画くらいでしか、こんなに至近距離で、怪しまれることなく彼の顔を見ることはできない。
スクリーンが強く光るときに、くっきり浮かび上がる彼の横顔にいつもはっと、息をのむ。
もう少しで手を伸ばして触れてしまような、そんな衝動に駆られる。
映画の楽しみ方は、そんなところだ。不純極まりない。
彼は今度結婚する。とてもきれいな女性と。
一度写真で見せてもらった、沖縄の砂浜での二人のツーショット写真はとても僕には眩しかったな。
「素敵な人だね」と言葉にするのが精いっぱいだった。
彼女ができたという話は彼から直接聞いていた。
「おめでとう」という言葉が、うまくのどを通って、口から出てこなかった。
あいまいな返事を続けていたように思う。
彼とは違う高校に行って、彼は女性何人かと付き合うようになっていた。
僕は全くモテなかったし、高校生にもなれば僕が「普通じゃない」っていう自覚も芽生えていた。
周りの男友達は女性の体の話や、クラスの女子の品評会を開催する。
適当に話を合わせて、繕ってもむなしさと疲れが溜まる日々だった。
そんな僕でも一度女性と付き合ったことがある。
同じ大学の学部の学生で、よく授業が重なっていた。
彼女はとても男性経験が豊富で、同じ大学の人と付き合ってきたという話は聞いていた。
授業終わりに何人かでご飯いったり、旅行したりした。
ある時彼女に呼び出された。大学近くの古びた喫茶店。さびれていて学生も寄り付かない。
喫茶店で彼女は話を切り出した。たしかジャズが流れていたと思う。店内には僕たち以外に、煙草をくゆらす老人がカウンターに座っていたかな。それがマスターだったか、客だったかは記憶にない。
彼女はテーブルに身を乗り出して「好きなんだけど、私たち付き合わない?」そう言った。
そのあと何と答えたか覚えてない。ただ女性と付き合えば何か自分が変わるかもしれない。
そう思って、「よろしくお願いします」と許可した。
何か月付き合っただろうか。彼女に気持ちが寄っていくことはなかった。
夜中の公園で、「好きになれませんでした」と言って、帰宅中に申し訳なくて泣いてしまった。
そういえば彼女に「あんまり、ほかの男と違ってガツガツしていないところがよい」と言われたことがある。「そうかな」僕はあいまいに返事した。
正解だ、僕は女性に興味がない。興味があったのは、横にいる彼だったのだから。
気づいたら、映画は中盤に差し掛かっていた。
映画の始まりは突然だ。スクリーンと、彼と僕はどちらのほうをよく見ていたのだろうか。
バクバクと心臓が高鳴る。
この映画館に来た目的はただ一つ。
彼と手をつなぐため。ほんの一瞬でも僕は月に近づきたい。
いままで幾度となく、この感情が芽生えてから彼に触れてしまおうと思ったけど、そうすることは抑えに抑えてきた。
これは犯罪だろうか。痴漢とか、セクハラとか世の中には緊張感をもっている。
僕がこれから彼の手を握ろうとすることは、彼の許可なしにやることだ。
彼は怒りだし、僕の手を振りほどいて僕をののしりながら映画館を後にするかもしれない。
あの家族ずれたちは僕をどんな目でにらみつけるだろうか。
僕と彼を隔てるひじ掛けには、キャラメル味のポップコーンが鎮座している。
このポップコーンに彼が手を出したときに僕は彼の手を握る。
ポップコーンの中身はあと半分。
彼はスクリーンを食い入るように見つめている。
アニメの変わらない声優たちの声を耳にしながら、彼を見つめると小学生時代に戻ったような気分になる。
でもこれから握る僕の手は、小学校の頃の僕の手と「意味」が違う。
僕の手は純粋ではありながらも、とことん穢れている。
彼の左手がゆっくりとポップコーンに伸びていく。
僕はスクリーンに顔を向けた。あくまでも「自然」であることが大事だ。
右手を伸ばした。心臓がはじける。横目で彼がつまむポップコーンの数を決めあぐねている様子を確認する。
彼が容器から手を引き離そうとした瞬間に、僕はもう一度スクリーンに目を戻した。
手が触れた。
おそらく2,3個彼はポップコーンをつまんでいた。その一つがどこかに落ちたような気がする。
手元は僕の視界から完全に排除している。
この時の僕はわがままだ。
彼が手にしたポップコーンをすべて、彼の左手から追い出した。
これから彼の右手には僕の左手が収まる。
「おい」と彼は小声で言ったような気がするが、そんなことはお構いなし。
僕は手を握った。彼の体温で溶けたキャラメルで手はべた付いていた。
僕は正面を見つめたまま。伝わってくる彼の厚い手の感触を全身で受け止めていた。
彼は僕のことをしばらく見つめていたと思う。
さすがにポップコーンを地面に落としたのはまずかったかな、ポップコーンをつかむ前につなげばよかったかな。そんなことを考えて心の中で「時間稼ぎ」をした。
でも、彼は僕の手を振り払うことも、どなって彼の右のひじ掛けにあったコーラを僕の顔面にかけることもなかった。
そして、気のせいだろうか彼の握る力が強くなった。彼が手を握り返したのだ。
これまでで一番高く飛べたかと思う。いつ地上に叩きつけられるかもしれない。
それでも、僕は言える。とても幸せだと。この時僕は間違いなく幸せだって。
僕は目を閉じた。心臓の高鳴りが徐々に収まる。
ふとお母さんの顔が浮かんできた。本当はもうすぐ還暦を迎えるはずなのに、目の前のお母さんは心なしか若々しかった。
小学生が初めて逆上がりが出来たときにお母さんに報告するようなそんな感覚だった。
僕は「母さん、僕は今幸せだよ」とささやいた。
お母さんもにっこり笑って「よかったね。あなたが幸せで、私は産んでよかった」と泣きながら返してくれた。
目を見開くスクリーンがにじむ。生きててよかったなって、思えた。
弟が首をつって死んでいた。
仕事でしくじって病んで、実家に帰ってきてから1か月も経たにころだった。
家族で気を付けてはいたつもりだつたけど、ダメだった。
それほど最近は落ち込んでないように見えたからだ。
むしろ、仕事を辞めて地元で就職先を探すと意気込んでいたくらいなのに。
部屋には、書き綴られたノートがあった。
あいつは、よくその日の出来事を字にしていた。クラスメイトがボーリング場でボールの代わりにピンポン玉を投げてめちゃめちゃ怒られた話や、はす向かいの奥さんが息子の担任と浮気をしていることとか、そういうのを書き溜めてるような奴だった。
ただあいつの文章の特徴は、自分の気持ちを書かないことだった。
あくまでも、出来事を面白おかしく書くだけで、「自分はこう思う」といったことは文章に乗せなかった。だから、このノートを見たときとても意外な気持がした。
まっすぐに「自分の幸せ」について書かれていたから。
うすうす気づいてはいた。あいつから女性の話を聞くこともなかったし、彼女がいる気配もなかった。ノートを見て合点がいった。
あいつは男が好きだったんだ。
別に、軽蔑はしない。軽蔑はしないけれども、言ってくれればあいつがもっと過ごしやすいように家族で話し合えたんじゃないか。そう思うと悔しい。
かけがえのない唯一の弟だったから、俺は真実が知りたい。
だからあいつと最後に手をつないだ男性に会いに行こうと決めた。
心当たりはあった。ノートには小学校のころから知り合いで、背が高い浅黒い肌の男と書かれている。あいつらが小学校1年生の時に俺は5年生だった。その「男の子」はたまに家に遊びに来ていた。
学年は違うが、よく家族の話題に上がっていた「友達」だったから何となく顔も住所も分かった。
俺の顔を見たとき彼は訝しそうにした。20年近くぶりにあっても彼の面影はあった。
兄であることと、弟が昨日死んだことを彼に伝えた。
彼はひどく狼狽していた。
そして、映画館に行ったのは事実かということと、それから手をつないだのかを聞いた。
彼は事実だと答えて、涙を流し始めた。
彼が泣いた理由は彼の話を聞いてよく理解できた。
彼がポップコーンを食べていると突然、弟が手を握ってきたのだという。
彼が驚いて「おい」と言って、弟の表情を確認しても、あいつはずっとスクリーンを見つめたままだったそうだ。しばらくすると、あいつの頬を涙が伝ったという。
突然のことで驚いて、手を強く握り返してしまったそうだ。
そのあとの行動がよくなかったと彼は泣きながら訴えた。
映画が終わるまで彼は驚いたまま手をつなぎ続けた。あいつが冗談で手をつないでいるのではないと認識したという。映画館を出た後、彼は「ごめん、気持ちが悪い」と言ってそのまま別れてしまったそうだ。
「もっと優しくいってあげれば良かった。」そう彼は言った。
本当だよ。もう少し優しく言ってあげて欲しかったな。
でも彼のことを責めることは僕にはできない。
まさかそれであいつが死ぬなんて誰も思わないだろう。
彼はひたすら泣きじゃくっていた。
「もうすぐ父親になるんだろう。弟の代わりに、家族を幸せにしてあげろよ」と言った。
彼は「はい。はい。」と言いながらも声に生気がなった。
「いつでも線香は上げに来てくれ」
そう言って、俺は彼の家を離れた。
実家への帰路で公園に立ち寄った。集合団地の一角。
ブランコと鉄棒があるだけ。子供の姿はない。
桜が咲いている。
もう春だ。
もうすぐ誕生日だったのにな。
お前が生まれる前、「お兄ちゃんになるんだよ」ってお腹を抱えた母さんと桜並木を歩いたことを思い出すよ。
こんな家族不孝ないじゃないか。
戻ってきてくれよ、春真。
~~~~~~
これは墓場まで持っていく話。
春真が俺の手を握ってきたとき、全身に電気がはしったような衝撃を体験した。
と同時に、母親の顔が浮かんできた。妻ではなく母。
「はやく赤ちゃんの顔が見てみたいな。順番間違えたかもしれないけれど、しっかり向こうの親御さんに理解してもらってきて。母さん応援してるから」
父が早く死んでから、女手一人で育ててくれた母親。
早く母を楽にさせてあげたいと、工業高校に進んで地元企業に就職した。
工業高校で学内は男ばかりだったけど、部活動でバレーボールの練習試合で他校と交流があり、そこで知り合った女性たちと付き合った。でも長続きしなかった。
長続きしない理由は、高校も卒業するころに何となくわかった。
女性より、男性が好きなんだって。
付き合って告白をすることもあったけれども、恋愛として好きというよりも人間として好きだったんだと思う。
18で就職した。周りは20歳を超えたあたりで結婚をしていった。
世間的にはまだまだ焦るような年齢でもなかったが、周りが子育ての話をし始めて急に将来が不安になった。この先結婚せずに、暮らしていけるのだろうかと。
母の言葉も胸に刺さった。「〇〇君今度結婚するんだってね」「〇〇君、お父さんになるらしいよ」。
俺は孫の顔を見せてあげられるのだろうか。
春真のことはずっと気になっていた。
でも、大学で彼女ができたという話を聞いてから、連絡することを躊躇った。
ここは大きな街ではない。いつ誰に見られているかもわからない。
そういった相手を見つけるために、遠くの場所に出かけるほどの勇気はなかった。
そうこうしている間に、会社の先輩から女性を紹介してもらった。今の妻だ。
彼女の実家は隣町だった。近所にあるショッピングモールのブティックの店員をしていた。
はきはきとした性格で、喜怒哀楽が表情に出やすい人だった。
気遣いが出来て、俺のことを立ててくれた。出会って1か月で付き合うようになった。
俺は彼女が好きなのだろうか。今でもふと疑問に思う時がある。
ただ、「普通の男性」なら幸せなんだろうなと思うようなことはあった。
おいしい料理を作ってくれて、毎日僕に好きと言ってくれた。
母にはすぐに伝えた。彼女ができたって。
母は「そうなの、家に遊びに連れてきて。ぜひ会いたい」と上機嫌だった。
しばらく付き合った。結婚という言葉が、二人の会話の中で何となく出てくるようになった。
でも、彼女との交際中もずっとふわふわした状態のままだった。
決心しなければという思い。俺は性交渉に臨んだ。
最低だと自分でも思う。既成事実を作って、退路を断とうと思った。
俺は避妊をしなかった。赤ちゃんが出来たら僕は逃げられない。歪みそうになる僕の人生を、これで矯正するんだとの思いがあった。
彼女は妊娠した。俺は淀みなく彼女に伝えた。「結婚しよう」と。
子どもは好きだった。自分が子供を持てることに浮かれた。自然と笑みがこぼれた。
そんな時、春真がこの町に帰ってきたと聞いた。
彼は、東京の大学に行っていた。中学校の頃から俺より勉強ができた。
そしてそのまま東京の銀行に就職したと聞いていた。だが激務で、心が参ってしまったという。
俺が春真に恋心を抱いていると気づいたのは、春真が大学で彼女を作った時だった。
ものすごく嫉妬して、精神衛生上、春真と連絡を絶ったほうが良いと思ったほどだった。
それから何度か連絡が来ることがあったが、適当にあしらってそれから春真から連絡が来ることもなくなっていた。
ただ、彼がこの町に帰ってきたという話を聞いて、自分から春真に連絡を取った。
「結婚します」というメッセージ付きで、沖縄旅行の写真を彼にメールで送った。
彼は、驚いた様子だったが、「結婚式で何か歌おうか?」とおどけた返信が送られてきた。
どこかで仕返しのつもりだった。お前より早く俺が幸せになったんだぞという、仕返し。
それもむなしい。取り繕ってもあとには戻れないのだから。
もう一度会いたいと思った。ここが俺の弱さだと思う。
もう一度だけ会って、友達として遊んで、制約の多い結婚生活を迎え入れる準備をしようと思った。「今度映画見に行こう」と誘った。
映画の中身は何でもよかった。会話が続かないかもしれない。それでもあって春真の顔が見たい。
沈黙が怖くて、映画を選んだ。映画が何か語り掛けてくれるだろうって。
久しぶりに会った顔を合わせた春真はどことなく暗かった。疲れていて、どこか上の空だった。
それでも、大学生活から数年東京にいたせいか、あか抜けていた。
毛虫のように太い眉毛が整られていた。春真に彼女が出来てから会ってない。4,5年ぶりの再会だ。
映画館は子供連れの家族が、何組かいるだけだった。
会った時にはどこか気まずくて、思うように会話が弾まなかった。
映画が始まると、物語が進んでいくにつれてそれに関連した話で、春真に聞きたいことが増していく。
最近何してるんだ、彼女とはまだ続いているのか、仕事は続けるのか、俺の結婚についてはどう思うんだ、、、
春真といるときすべてが背景になる。この映画も映画館も、口にするポップコーンも、すべては添え物だ。