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第十話 それでも貴女の傍にいたいから

 ――どれほど、そこに立っていたのだろう。

 水鏡宮すいきょうぐう水月すいげつが与えられた一室のすぐ手前にて。夕香せきかとの会話後、部屋を飛び出した彼女は、どこへ行くこともできずじっと回廊の端に佇んでいた。

 ずっと頭の中がぐるぐるしていた。今までの自分と、これからの自分。絳睿こうえいが、夕香せきかが願ってくれたことと水月が望むこと。未だ纏まらない思考のまま、それでもずっと考えていたことはたったひとつだった。


(私は、これからどうすればいいのだろう)


 後宮にいた時、水月は求められるままに生きれば十分だった。まだ自分にできることはあるのではとは思っていたが、それでも与えられた居場所も役割も、許された小さな幸福も一度として疑ったことはなかった。

 しかし、水月は今日初めて憤慨した。心から怒りを感じた。自分が知らないところで、何もかも勝手に決められていたことに。自分の意志と関係なく、自分のために犠牲になったものがあることに。

 それは大きな変化だった。水月は今、城の外にいる。玉華宮ぎょくかぐうで流れに従うことしかできなかった無力な姫ではない。どのようなことが理由の結果であれ、やっと自分の目で、足で、この睹河原とがはらという地を感じられる場所に立ったのだ。

 だからこそ、水月は自分で決めたい。多くの優しさに甘えるのではなく、自分の意志で選択し歩きたい。それが世界の大きな流れに逆らうものでも、大切な人の願いに相反するものでも。

 けれど夕香の気持ちも分かるのだ。彼女は、失った主の代わりに水月の幸せを願っている。ただ、水月の幸せだけを。絳睿も同じ。悲壮な覚悟を水月に教えてくれなかったのは、ただ異母妹いもうとに悲しい思いをさせたくなかったから。その気持ちを痛い程知っている水月だからこそ、彼女は異母兄あにを責められない。

 それでも、もうこんな思いをするのは嫌だった。何かを犠牲に水月が生きて、それを全く知らないままでいるのは。決めるのは、全部水月が決めたい。何もかも知りたい。……これではまるで子供の駄々だ。こんなことで夕香を責めるのはお門違いと分かっている。今だって、分かっているはずなのに……。

 ひとり項垂れる水月を見る者は誰もいない。仄かな明かりしかない回廊の暗がりでは、密やかに流れる少女の涙に気づく者は存在し得ることはない。――はずだった。


「こんなところでどうしたんですか、水月様?」


 場違いなほど陽気な青年の声に、水月は思わず顔を上げた。

 いつの間に現れたのだろう。すぐ目の前にりょうが立っている。彼にじっと見つめられて、水月は視線を逸らした。


「あ、えっと……っ?!」


 俯いて、言葉を探す水月。その肩が不意に大きく動いた。突然、燎が彼女の腕を掴んだのだ。

 振り払う間もなく、水月を伴って何処かへ歩いていく。暫くして、二人がたどり着いたのは、部屋を案内してもらった時に回廊から見えた四阿あずまやだった。

 桜の花がひとつ、ぽつりと落ちているだけの四阿は暗さもあってどこか寂しい印象。けれど今の水月には、かえってその闇が有難かった。水月の腕を離し、明かりを探す燎の上着の裾をそっと指で引いた。


「このままで大丈夫よ、燎」

「えっ……」


 手を止めて目を見開く燎に、水月は儚げな笑みを見せた。


「話を聞こうと思って、私をここに連れてきてくれたのでしょう? ……暗いままの方が話せそうだから」


 燎は数度目を瞬かせ、それからどっかりと壁にもたれかかった。


「話してくれるんですか、俺に?」


 問いかける声は、一見していつもの軽薄そうな口調。しかし、そこに隠しきれない喜びと僅かな怯えを感じて水月は思わず吹き出した。


「あら、それが有無を言わさず連れてきた人の言う言葉?」

「お、俺にそんなつもりは……。ただ、貴女が……」


 目に見えて狼狽える燎に、水月は笑いを抑えきれない。と、同時に不思議にも思う。彼といるだけで、何故か心にあったモヤモヤがどんどん小さくなっていること。どんどん、明るい気持ちになれていることに。


(前まで、燎に近づいてはならないと思っていたのに)


 彼なら、話せる。水月の思いも迷いも全部聞いてくれる。そう思ったから、水月は笑みを消し床に座り込んだ。真剣な瞳で燎を見上げる。


「私が燎に聞いてほしいの。だから、聞いてくれる?」


 頭を抱えて声にならない声を上げていた燎は、水月の言葉に居住まいを正した。それから嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑む。


「俺で良ければ、喜んで」


 優しい笑顔に勇気づけられながら、水月は口を開いた。夕香の話、兄の死とりんの騒動の真実を語る。闇の中にぽつり、ぽつりと染み入るような声を、燎はただ黙って静かに受け止めてくれた。

 水月は話しながら、再び夕香との会話を思い出していた。彼女と言い争ったのは生まれて初めてのことだった。あの時の悲しそうな表情が忘れられない。


『水月様がどんなに頑張っても、誰も琳姫として認めようとはしなかった。ただ占をさせるために後宮に縛り付けていただけ。敬うという言葉を知らず、水月様を慰みものにした輩など死んで当然です。そもそも、蓮妃れんひ様が亡くなられたのだって……』


 あの言葉に水月が激昂したのは、玉華宮で誰にも認められていないというのを認めたくなかったからか。それとも、母親のことを言われたからか。


「お母様なら、夕香に何ておっしゃるんだろう……」


 もう顔も覚えていない母を思い、ぼんやりと呟く。零れ落ちた言葉を聞き止めた燎は、躊躇うようにひと呼吸置いて問いかけた。


「水月様の、お母様は……?」

「亡くなったわ。私がまだ幼い頃に」


 間髪入れずに答えた水月は、小さく息を吸ってからぽつりと付け足した。


「――私を抱いたまま、冬の池に飛び込んで」

「……?!」


 燎が驚きで言葉を失って息を呑む。水月は目を伏せた。

 母は、娘とともに死のうとした。理由は琳王の子では有り得ない時期に子供を産んでしまったから。不義の子を生むなど、女として最も恥ずべき行為だ。ましてや王の妃ともあろう者が。母は懸命に琳王を愛し、心無い者の噂や陰湿な虐めを耐えた。が、水鏡宮で天真爛漫に育った彼女が耐え抜けるはずもなく、幼い娘を道連れに自死を図った。

 水月が生まれさえしなければ、母が死ぬことはなかった。せめて、一緒に死ねたら良かったのに。


「私だけ、生き残ってしまった」


 聞いているだけで苦しくなるような言葉が、燎の胸を打つ。何か言ってあげたいのに何も言うことができなかった。どんな言葉も水月を慰めるには足りず、ただ彼女の言葉を受け止めることしかできないという事実に歯を食いしばった。

 一方、語る水月は淡々と呟く。そこには常に、小さな後悔が滲んでいた。


「あの時、睿お兄様が私を助けてくれたの。お兄様はお母様を助けられなかったことを後悔して、私と一緒にいて下さったわ。私は琳王の血を受け継がない不義の子で、母を死に追いやった娘。そんな妹の傍にいて、お辛い思いをするのはお兄様の方だったのに」


 優しくて強い、水月の憧れだった異母兄。彼が鏡蓮房きょうれんぼうに来てくれるだけで水月は幸せだった。知らぬところで沢山苦労もしただろうに、変わらず傍にいてくれた。それが水月の母を救えなかった罪悪感からの行為だったとしても、一緒にいてくれるだけで嬉しかった。けれど。


「結局、私は睿お兄様まで死なせてしまった」


 あの時、水月は痛感したのだ。自分は、誰かと一緒にいてはいけない。誰かの傍にいたら、大切に思ってしまったら、その人に辛い思いをさせてしまう。

 だから、燎と会った時も突き放して逃げようとした。彼はとてもいい人だと思ったから。

 しかし勝手についてきた燎は、今日もまた挑戦的な、楽しそうな笑みを浮かべる。


「貴女の傍に誰かがいるのは、その人が貴女の傍にいたいからですよ」


 自信たっぷりに聞こえる言葉。けれど、本当は燎はその言葉に自信がない。

 何も言えないのが悔しかった。水月の告白に適う言葉は結局見つからず、何を言っても陳腐に聞こえてしまう気がして、それが堪らなく辛かった。

 しかし、その気持ちを水月に見せてはいけない。彼女が「自分といたらみんな不幸にしてしまう」と思うのならば、燎だけでもそれを否定し続けなければならないのだから。何があっても、水月の傍にいることが彼の幸せだ。だからこそ、彼女の前ではいつでも笑顔でいたいと思った。普段の仮面ではない、心からの笑顔で。

 そして言葉は――見つからないならば、自分が思っていることをそのまま伝えるしかない。


「俺は、何があっても貴女の傍にいたい。どんな不幸に見舞われても、辛いことがあっても、貴女の笑顔のためにどんなことでもしたい。そう思うんです」


 それは、燎の誓いだった。幼い頃に決めた、「あの時」から忘れるまいと心に刻んだひとつの誓い。それを破ることは、水月でもできない。だから勝手についてきた。

 自分勝手な暴論であることは燎にも分かっている。――しかし、だからこそ水月の侍女や絳睿の気持ちが少し分かる。

 水月は気づいていないけれど、本当はきっと。


「きっと、水月様のお兄様も侍女の方々も同じですよ。その人達が他の誰よりも貴女が好きだから、貴女の傍にいたいと思っているから、そのためなら何でもしたいって行動してしまうんですよ」


 水月の傍に誰かがいるのは、罪悪感や仕方なくではない。そのことを、燎は水月に伝えたかった。自分も含め、彼らが水月の傍にいるのは、彼らがそうしたいからだと。例えどんなことがあろうと、水月の力になりたいから。貴女は、そう周りの人に思わせるほどに価値のある人物だと教えてあげたかった。

 暗い海の底でもがきながらも、周りへの切ないほどの優しさを忘れない彼女のために。


「皆、自分の意志で貴女の傍にいるんです。だから、貴女がそれを申し訳ないと思うことも、周りのために自分を曲げる必要もないんですよ」


 俺だけの貴女じゃないことは釈然としないものがありますけど。そう照れ隠しのように早口で呟いた言葉は、水月に届いたか否か。

 ただ彼女は、燎の優しすぎる言葉に目を白黒させていた。

 水月は、自分が思うように行動してもいいのだという。誰もを不幸にしても、それでも自分の傍にいたいと思ってくれる人がいるのだと。それは、本当のことなのだろうか。

 恐る恐る、水月は燎を見上げた。怯えた子供のような表情で、それでも暗がりから眩い光を求めるように震える手を伸ばす。

 白く華奢な手を、燎は愛しげに掴んだ。そのままぐいっと引き上げながら、いかにも彼らしい、悪戯っぽい笑顔で言う。


「貴女は、貴女の望むように歩いていけばいいんです。そこが光ある場所であることを願いながら、俺もどこまでもついていきますから」


 言い終わると同時に、燎はぴっちりと閉ざされていた四阿の木戸を勢いよく開けた。

 外はいつの間にか夜明けを迎えていた。突然視界いっぱいに広がる光に、水月は思わず目を閉じる。

 再び目を開いた時、そこにあったのはどこまでも続く一面の桜の海だった。


「……!?」


 言葉を失って、水月は小さく息を呑んだ。吹き込んだ風に煽られた彼女の豊かな黒髪に、薄紅の小さな花弁がいくつも祝福するように舞い降りる。隣に立つ燎が僅かに瞠目したのは、季節を無視した桜の苑にか。或いは細やか風が演出した夢のような一幕によるものか。

 何れにしろ、水月にそれを気にする余裕はない。ただ彼女は、目の前に広がるあまりにも幻想的な光景に圧倒されていた。

 乱立する桜の巨木。一重に八重、紅に薄桃に白、果ては枝垂れ桜まで。種類を問わず、ありとあらゆる桜がその枝を満開の花で彩っている。地面は薄く霧を纏って先まで見えず、しかし差し込む暁の光は、秋の終わりでありながら春のうららかさのようなものを伴っていた。

 現実離れした景色に呆然としていた水月は、ふと燎が言ってくれた言葉を再び心の中で呟いてみた。


(私は、私の望むように歩いていけばいい。そして、できればそこが光ある場所であるようにと……)


 彼はそう願ってくれた。そして、本当に水月を連れ出してくれた。暗く狭い場所から、眩くも優しい夜明けの世界へ。

 明るい日差しに目を細め、その美しさに心を奪われる。それでもまだ、水月は少し怖かった。誰かと一緒にいることが。大切な人と笑顔で過ごす、そんな幸せな未来を思い描くことが。

 怯えるように、僅かに瞳を伏せる。その時、視界の隅に未だ燎と繋いだままの手が見えた。

 男性の大きな手は、彼と初めて会った時ほど怖くはなかった。力強く優しい手に縋ったまま、おずおずと顔を上げる。そこで水月は、ぴくりと肩を揺らして目を見開いた。

 見上げた燎は、水鏡宮の門前で桜の花弁を見つけた時のような、懐かしそうで切なげな顔をしていた。

 すぐそばで舞い散る桜を見ながら、どこか遠くに想いを馳せるような瞳。片方だけの黒瞳には今、一体何が映っているのだろう。

 呆れるほどついてきたがる燎だが、今の彼はどこかに消えてしまいそうな儚さがあった。

 じっと燎を見つめていた水月が、繋いだ彼の手の上にもう片方の手をそっと載せた。「水月様?」と燎が訝しむのにも構わず、両手で彼の手を包み込むようにして思う。


(許されるなら、私はもう少し燎と一緒にいたい。私と一緒にいたいと言ってくれる、彼のことをもっと知りたい……)


 そう願ってしまうほどに、水月はもう燎の傍を居心地よく感じているのだった。

 燎は、水月の唐突な行動をどう思ったのか。ただ彼は静かに微笑んで、水月と同じように彼女の手を両手で包み込んだ。自分よりずっと小さな手を、守るかのように。

 桜の花弁が、粉雪のように舞い降りる。二人の呼吸と鼓動だけが響く静寂の中、水月と燎は小鳥のように寄り添っていた。まだ見ぬ場所へ、それでも光あれと願って飛び立つために。

 たとえどんな未来が待ち受けていようと、必ず二人が共にあるために。


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