真ゼロから始める異世界生活
以前なろうファンタジーがアニメで理解されにくいのは雑多な幕の内弁当、ごった煮の刺激にあると書いた。これっと言った軸となる面白さが無いので、どうやって楽しめば良いか?が分かりにくい。そして言語化しようとした時多岐に渡るため大体言葉足らずになってしまう。
じゃそれで解決なのか?と言うと、なろう作品は水戸黄門に似ている作品が多々ある。俺TUEEEによる勧善懲悪?そうとも言えない。そうじゃなくて諸国漫遊記になるとなる。西遊記なんかと想像するとこのタイプの物語意外と王道基礎となる。ある意味ロードムービーもこの亜種だと思う。
ロードムービーとの決定的違いは、長さにある。ロードムービーはその名のとおり映画が基本の物語で刺激がこんぽんてきに違う。登場人物の人間関係に刺激があり、諸国漫遊記は旅先での観光的な刺激やイベントにある。もちろん諸国漫遊記も人間関係は掘り下げるが、長期であるためその流れはとても緩やかになるし、なろうじゃちとそれが相応しくないと思う。
だがそれでもまだ足りない。それならもっと多くの人にずばっと意見されるからだ。なろうは理解されないのじゃない、言語化されないのが問題だと見ている。言語化したがる人達に受けが悪いだけで、そうじゃない人にはなろうはそれなりになろうの外でも受けてる。だが個の人達はサイレントマジョリティになりがちなので、意見を出してくれないし、もちろんそもそも言語化して無いと思う。
そこで私はなろうへの今のアニメの批判的な原因は、なろうの中のアンチが外に出てアニメのネガキャンを展開してる事にあると見ている。だから中で、まずきちんとした言語化されたコンセンサンスを作っておいて嘘偽りを拡散するのを防がなくてはいけない。連中は面白さが分かって無いくせに、知ったかで出鱈目な面白さを撒き散らして、そのせいで固定観念が出来てしまって、シンプルな面白さを受け入れる妨げになってる。感じれないお前が鈍いんだよって事を言いたい。
そこで手がかりになるのは、なろうで時折見かけるスローライフである。実際このスローライフはまともな作品が無い。きちんと考えてテーマにしないため、すぐにネタにツマって、スローライフの徹底が出来ないからになる。ノーストレスもこれに絡むが、さっぱりな作品が多いのは、スローライフをきちんと描ければノーストレス作品を創れるのにそれが大半の作品はお題目だけで出来て無いからになる。
スローライフを出したのはわざと、これはノーストレスに関係してるだけで、じゃライフってのは何?になる。なろう作品に共通するのは、異世界生活って言葉になる。ほぼこれですべて語れると思う。ごった煮も幕の内弁当も生活だと言ってしまえば纏められる。ノーストレスもスローをつければ表現できる。
じゃリゼロがその典型例なのか?真逆、あれこそがなろうと外の世界を繋ぐもので、むしろリゼロこそが全く異質な作品だと言える。あれは異世界の河を被ってるだけのネット小説とは異質な作品。あれはループ物のシュタゲの方が何倍も近くて、ループ物の中の舞台異世界ってだけになる。シュタゲがSF風現代舞台なら、リゼロは異世界舞台って世界観の違いだけになる。
他サイト出身のオーバーロードの方がよっぽど共通項がある。ネット小説は根本的には皆似てると思う。リゼロの異世界生活のタイトルの意図はすぐにわかる。なろうで典型的だとされるバトルものを基本とした戦闘力の高い主人公の物語じゃないから、バトルがバトルにならない。一方的に痛めつけられる。
それゆえじゃリゼロはなんなんだ?となると異世界で生活していますとしか言えないから。だがそこには物語のしっかりした方向性がある。その方向性故に生活と言う漠然としたものに満たされないから全く他の作品に似ていないとなる。実際はバトルありいろいろありの主流の剣と魔法のバトル系のなろうの異世界生活ってキーを満たしている。
まず基本異世界で生活する。これが基本になってて、じゃ何するの?これを魅せるもので、根本の部分でこの異世界での生活自体に刺激を受けないと多分面白くない。それを超えて古典的な物語の展開の刺激などを求めると、なろうファンタジーはなにがしたいのか?が分からない。
言語化せずに楽しみを楽しみと受け入れると案外これが楽しみやすい。まずどんな作品か頭で理解してからじゃないと楽しめない人は批判的になってしまう。物語を緻密に把握して楽しむのが根本的に向いてない。どんな人が批判しているか?これで見えてくると思う。考えるな感じろと言っても、考えて楽しむ物語に慣れてる人には無理。
理由は、逆に考えて楽しむ物語は適当に流し見にする人には向いて無いから。すべて作品によって切り替えれば簡単に楽しめる。ようは、器用な人間だけが両方楽しめる。そして私はそのタイプだと思う。だから私は俯瞰的客観的な視点にたって両者の受け手の精神状態を探ることが出来る。私はそれを意図的、無自覚両方で出来るから。
じゃこれは異世界転生転移特有の物なのか?と言うと、キャラクターの背景があってもゲームをプレイするのは出来ると思う。ネット小説の根本にはSAOがあると書いたのは、これはRPGの中でオフラインとオンラインのゲームの違いで、一人プレイのオフゲなら別にキャラクターの背景がある事が邪魔にならない。
今のなろうの流れは再度古典的オフゲーの流れに戻っただけで、以前からそれらの作品は大量に人気作があり、ただ転生転移におされて見えなかっただけとなる。よって転生転移以外の今の流行の流れも異世界生活って軸は変わってない。なろうの主人公はゲームのプレイヤーの器である。それを物語という枠内で見ると自己投影って言葉になるかと思う。
ただシンプルに異世界生活の何が面白いのか?をそれが分からない人には伝えないほうが良い。そもそも漠然としすぎて方向性が無いから、なろうはごった煮になりやすいんだ。それゆえテーマとしたスローライフすら守れないんだ…。結局アンチ側が知りたいと思う気持ちが無いからわからないとなる。
知りたいという気持ちが無い人間には分からない。じゃ何のための言語化なのか?ならすでに正しい言葉が出てるのに、出鱈目を撒き散らすなって警句が目的にある。だが彼らがそれに納得できるとは微塵も思ってない。例えそれを使っても、その面白さが分かってないのでは、どういう意味で使ってるか?さっぱり分からない。
シンプルに現実とは違う別の快に溢れた生活がしたい。そんなシンプルな天国こそがなろう小説の根本だと思う。