硫酸雨の街で青空を望む
いつか、青空をまた見れたなら。
過剰な開発が祟った、だとか利益の追求の果てに見過ごされた環境への配慮などであればまだよかったのかも知れない。それはただ単に運が悪かった、としか言いようがなく、また僕たちにはどうすることもできない天災の類だった。隕石が地表に衝突し、粉塵を巻き上げ太陽を隠し、たまに降る雨には硫黄が溶け出していて、地上には僕たちの住むところが残されていなかった。そうして僕たちは住み慣れた地上を捨てさり、地下へと潜ることになった。硫酸雨が降っていなかったとしても、太陽の光の差さない地表は僕たちが生きて行くには寒すぎた。地下は風が吹き込むこともなく、地熱のせいか想像していたよりかは寒くなかった。突貫で整備を進めたがゆえに、粗も目立てば、不自由な点などいくつもあるが、背に腹は変えられなかった。
天気に気を配りながら、元いた住処から必要なものを地下へと運び出し、一方で地下深くへと居住区を拡充して行く。それが僕たちの新しい仕事となった。地上は日が差さないこともあって、真冬ですらこうも寒くはないというほどに冷え込んでいた。そして硫酸雨の被害は甚大で、確か地下へと潜ってから三度と雨は降らなかったはずなのだけれど、僕たちのまちは廃墟と化していた。その空虚さたるや。無情さも。
一度目の仕事は、敢えて残ることを選んだ同胞たちの弔いも兼ねていた。彼らを馬鹿な奴らだ、と笑う気にはなれない。それも彼らの選んだ道であった、というだけだ。実際、僕たちの中にはすすり泣くものもいる。住みなれた場所を追われたその悔しさに、彼らは泣いているのだ。だが、残ることを選び、そして果てた彼らには、この惨状を想像できていたのだろうか? 当然答えるものはない。彼らの強張り、多量の煤に塗れた体を道路に横たえた。やがて雨が降り、彼らの体を溶かし尽くしてくれることであろう。彼らは永遠にこの街の一部となる。いつか僕たちが青空を望むその時に、彼らは礎となるのだろう。
二度目の仕事は、より遠くへと出かけ、必要なものを取りに行く計画だった。荷物を効率よく運ぶために持ち出した道具は、老人たちの昔話でしか見たことがないような代物だった。雨が降れば、僕たちにはどうしようもない。全ての荷物をそこに置き去り、体が溶かされてしまうより早く地下へと帰らなければならない。幸いにして、生来の感覚で雨が降る前にそれを感じ取ることができる。今はその感覚だけが頼りで、この仕事に参加しているメンバーたちもまたより一層気を張っていた。果たして雨が降ることはなく、その日の成果もまた上々だった。
居住区は、より深く、深くへと潜って行く。硫酸雨の染み出さない程に、地下へ地下へ。やがてそれも限界に近づく。しかし、その頃にはもう硫酸を含んだ水は私たちの頭上に積もる大量の土に浄化されていた。だから、もう僕たちはこれ以上地下に潜る必要はなかった。ここがきっと果ての果て。僕たちの魂の安らぐ最終目的地だ。犠牲がなかったわけではない。過酷な生活で、あるいは未来のないことへの絶望が、幾人もの同胞を殺していった。その度に彼らを地上へと晒し、雨が全てを浚ってくれることを期待した。
そしてここにきてようやく、ほかの地域に住んでいた同胞のことに思い至った。彼らはどうしているのだろうか? 隕石の落ちた地域にいた奴らは、何ともわからぬうちに死んだに違いない。アーサーは? フィリップは? ロバートは? 彼らの子供は? 隣町へだってもう、行くことは叶わない。彼らがどうであったとしても、もう永遠に会うことなど叶いはしない。僕たちは遠くにいた知り合いについても祈りを捧げ、彼らの無事と安らかなることをただ祈った。
僕は一冊のノートとペンを持っていた。
何に使うのか? それは簡単な問いで、日記を書くことに使おうと思う。僕たちが地上を追われ、地下へと逃げ込み、そしてそこからの日々を。ただ、資源は有限だった。ノートだってこの一冊しかない。だから僕は一つの制限を設けた。僕の代で使えるのは、見開きのページだけ。僕の子の代も、孫の台もだ。最初のページは、何を書いても自由だということ、子供に先祖まで遡り何が書いてあるのかを伝えること。そして、これが最も重要なことなのだけど、と念を押した上で見開き一ページだけ使うようにと記した。その次に、なんでもないかのことのように、空というものは、茶色でもなければ灰色でもなく、青いものなのだと書き記しておいた。実際それはなんでもないことのはずだったから、そう書いてしまうのが相応しいに違いなかった。
父は、僕にノートの初めから、その途中までを丁寧に読み聞かせ、僕に最初に言いつけたいくつかのことを確認して、事切れた。僕は、過去そうしてきたと教わった通りに、父の遺体を地表へと放り出し、地下で祈った。そしてもう一度、今度は自分の目とペースでその日記を読み進めた。僕が生まれた時には、もう何代も前に地下への避難が終わっていた。僕たちは何をすることもなく、平和な暮らしを続けていた。だが、父から渡されたこのノートがそうではなかったことを物語っていた。もっとも、父の狂言でないならば、ではあるが。まさか今際の際にそんな瑣末ないたずらを仕掛けることもあるまい。
僕は父がよくわからなかった。彼はある時からいつも一人でこのノートを見ていた。思いつめたような真剣な顔でノートを初めから読み通し、たまに地表へ出かけ、帰ってきてはまたノートを見ていた。多分、何を書くのかを悩んでいたのではないだろうか。
僕は父が書いた部分を、つまり記述されている中の最後のページだ。父のように上手く開くことは出来ずに、幾ばくかの時間をかけてゆっくりと、ページをめくった。
そこには、なんてことはないこの地下での日常が綴られていた。父の父、つまり僕の祖父にあたる人物も、だいたい同じで、その父もまたそのようなことだった。だが、地表のことを書いているのは、最初の数ページほどだった。きっとその頃には全てのなすべきことがなされ、その子供はその平和を、僕のように享受するだけだったのだろう。
ふと、最初のページの注意書きに目が言った。そこには、空というものは、青いとようやくすればそんなことが書いてあった。上を見てみる。一面同じような色で、少しだけ、色合いの違う何かがある。多分岩だろう。そういえば父を葬った時に、空が何色であったかなんて、気にしていなかった。父は青色、というものが何かを知っていたのだろうか。
地表へ出る。不思議と、日記にあったような寒さは感じなかった。日記に記されていたのとは異なり、父の体はまだそこにあった。真上を見上げてみる。一面同じ色だった。ただ、中央にほど近いところに、円形の何かがあった。あれも岩か何かだろうか? 日記によれば昔はもっと高い建物があったそうだが、それは全て硫酸の雨に溶かされてしまったようだ。目線を下げる。残骸すら残っておらず、日記を読んでいなければ僕は、ここにそんなものがあったということなど信じはしないだろう。
僕はまた地下へと戻った。今日のことを日記に書いてもいいようなそんな気がしていたのだ。
僕が初めて空を見上げた日のことを。
そして。そして。全てはとっくの昔に終わってしまっていたことなのだということに、父の思いつめた顔の意味するところに、僕たちの未来がどん詰まりであるということに僕が気づいてしまったのは、皮肉にも僕が自分の子供を産んだその時だった。
僕はもう一度、地表で出て空を見上げ、景色の変わらないことに絶望し、拙い手でノートを開いた。兆候はあったのだ。僕は父のようにノートを開くことができなかった。僕はゆっくりと、許される限りの早さで子供が生まれるまでの日常を記した。僕の父のように。その父のように。もっともっと前からそうされてきたように。そして、だんだん僕と同じぐらいの大きさになってきている我が子へとノートの決まりに従って全てを読み聞かせた。僕の命はそろそろ尽きてしまうが、彼が僕たち先代のようにノートにとらわれてしまう事は無い。僕の子供は、幸いにして無知なまま、地表で生きていくことができる。彼は決して僕と同じようにノートを開く事はできないのだから。同じ遺伝子から生まれたはずの我が子をしっかりと見定める。
僕たちはもはや永久に青空を見る事は叶わない。
ただ、それだけが僕の心残りだった。