**08**
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ドードーさんに会ったあの日以来ハッター先生はますます過保護になった。
まず一人での外出はできなくなった。
外に出てもずっと手を繋いでいるし、少しも私から目を離さない。
自分の部屋にいる時が唯一一人になれる時だけど以前より頻繁にお茶に誘われる為、その時間も少なくなっている。
「最近はどうだ?」
今もまたお茶に呼ばれ、香りの良い紅茶を飲んでいる。
「おかげさまで、夢も見ないくらい毎日くたくたデス」
ハッター先生の過保護っぷりに少々気疲れしている旨を暗に示してみたのだが、なぜかハッター先生は満足げに笑んでいる。
「そうかそうか。それはよかった。日々が充実しているということだな」
「いや、そうじゃなくて……」
「この紅茶はリラックス効果もあるんだ。くたくたの体に良いだろう」
見当違いの納得に、否定するも全く聞いていない。にこにこと紅茶のおかわりを注がれ、言葉を飲み込むことにした。……まあ、いいか。どうしようもなくなったら改めて抗議しよう……。
「そういえば……ハッター先生は、私の過去って……気にならないの?」
優雅に紅茶を飲む目の前のハッター先生を見ながら不意に疑問が口をついて出た。
あまり訊かれたこともなければ、以前の私の手掛かりを探している風もない。
いつまでもここにいては迷惑だったりはしないのだろうか、とふと気になった。
私の知らない、私を知っている人達に会ってふとした時に頭を擡げることーー自分の過去。
ハッター先生にお世話になる以前の私は何処にいて、何をしていて、どんな人間で、誰と関わっていて……。
気になり出したらきりがない事象たち。
そしてもう一つ思うこと。
「もしかしてハッター先生は以前の私を知っているんじゃない?」
それを突きつけるとハッター先生は複雑に微笑んだ。以前も見た表情。これ以上踏み込めないような、訊いてはいけないような空気。
「今は、今の君がここにいる、私にとって大切なのはそれだけだ」
真っ直ぐに見返して彼はそう言う。
「いつまでもここにいて構わない」
時折かすめる居候の申し訳なさを見透かしたかのように優しくそう言った。
「あ、ありがとう」
あまりにじっと見つめられるので恥ずかしくなりもごもごとお礼を言う。
恥ずかしい空気を誤魔化すかのようにカップに手を伸ばしたが、
「ーーっ!」
手が滑ってカップを落としてしまった。
「いっ……」
床に落ちたカップの破片が足首にあたり薄く傷を作る。さして痛いわけではなかったけど、驚きでつい声が出てしまった。
「アリス!大丈夫か!」
「う、うん、大丈夫、ちょっとびっくりしちゃって。ごめんなさい、カップを割ってしまった……」
「そんなことくらい構わない!……足を切ったのか」
「ハハハハッター先生!?」
「大人しくしていなさい。……怪我をしている……」
そんなの怪我のうちに入らない!と心の中で叫ぶけど、それ以上に現状に頭がついていかず混乱する。
ハッター先生が跪いて私の足を取りじっくり見ている、なんてまさかの状況に。
吐息が足首を撫で、くすぐったいやら恥ずかしいやらで体中の熱が上がっていく。
「よく見せなさい、痕が残ったらどうするんだ」
「の、残らないから絶対!これくらい何でもないって」
軽く掠っただけで痕が残ったら今頃私は包帯まみれの生活を送っているに違いない。
真っ赤になりながら立ち上がり強引にハッター先生から距離を取る。
「本当に大丈夫だから」
「……本当だな?我慢などしていないな?」
「してません」
盛大なため息とともにハッター先生は自分の椅子に戻った。
「……過保護すぎ」
本当に蚊の鳴くような声でぽそりと呟いたのに、ハッター先生は耳聡く私の声を拾い、腕を組んで視線を投げかけた。
「過保護じゃない。アリス、私にとって君が誰より大事だからだ」
真摯な視線と真剣な声音は思わず……
「せ、先生、そんなこと言ってると誤解を招くわよ」
……勘違いしてしまう。
「誤解なんてないさ。そのままの意味だからな」
「先生、冗談は」
「冗談じゃない。アリス、はぐらかさずに……」
どんどん真剣みを増す声に息切れしそうなほど動悸が激しくなる。
……駄目だ。勘違いしてはいけない。
これ以上先に踏み込んではいけない。
この世界で私は焦がれてはいけない。
変わらない日常を過ごす為に、ここにいるのにーー。
何故かそんな思考が渦巻いている。
どういうことかなんて、自分でもわからない。
けれど、激しくなる動悸に呼応するみたいに警鐘のように頭の中でがんがんとブレーキをかける感情が鳴り響く。
パンクするかのように目の前が回り始めたその時。
「ハッター!アリスー!元気かー!」
この空気にまったくそぐわない明るい声が全てを粉々にした。
訪れる一瞬の、時間が止まったかのような静寂。
その後、不機嫌そうなハッター先生のため息が響き、いつもの空気に戻った。
冷や汗が背を伝うのを感じながらヘイヤに挨拶をして……私はまたいつもの日常に、戻ったーーーー。