**07**
*******
走って走って走って。
とにかく走って、やがて誰かにぶつかった。
「……アリス?」
呼ばれて顔をあげるとそこにはウェント先生。
うるさい鼓動を何とか落ち付けようとするがちっとも言うことを聞かない。
「どうしたんです?」
「わ、たし……」
動転したまま、とにかく何か、と声を発したけれど、その途端ぐらりと世界が回って視界がぼやける。
ウェント先生の赤い瞳が驚いたように見開いたところで、私の視界は閉じられてしまったーー。
ーーーー薄桃色の花弁が舞う。
賑やかな場所に、同じくらいの歳の少女たちが笑いあっている。
少し浮き足立ったような雰囲気、何故だかくすぐったいような嬉しいような、そんな気持ちがこみ上げている。
隣を見ると、黒い髪の少女が微笑んでいる。
「これからもよろしくね!、アリスーー」
花のような笑顔で少女が言った。
きれいな薄桃の花を満開に咲かせた木が誇らしげに枝を揺らしている。
そのきれいな花びらが風に舞い、青空に幻想的な彩りを与えていた。
と同時に視界が花弁に覆われて思わず目を閉じる。
風がやんで、恐る恐る目を開けると、今度はどこかの部屋の中にいた。
木の机と椅子が雑多に並ぶ部屋は、西日に照らされて全てが黄昏に染まっている。
窓の外を見ていると不意に後ろでドアの開く音がした。
振り返るとスーツの男の人が驚いたように立っていた。
「おや、アリスーー。まだ残っていたんですか」
「す、すみません!うたた寝しちゃってたらつい……。すぐ帰ります!」
意思とは関係なく『私』はそう答えていた。
……帰るところ、どこだろう。
ふと湧き上がったその疑問もよそに、目の前の人が笑うのを見た『私』は何故か頬が熱くなるのを感じた。
鞄を抱え足早に彼の隣をすり抜ける。
すれ違う瞬間にふわりと彼の香りが鼻腔をついて心臓がどきどきと跳ねたーー。
ーーひやり、と冷たい指の感触が額に触れる。
ゆっくり目を開けると、そこには赤い双眸。……ウェント先生。
私、夢を見ていた?
ずいぶん具体的な夢だったような……。
細部まで、妙にしっかり描写された夢。……こことは全然違う所だった。
私そんなに想像力ある方じゃないと思うんだけどなあ……。
ぼんやりしているとウェント先生が口を開いた。
「目が覚めましたか、アリス」
「ここ、……ウェント先生の家?」
「そうですよ。今、ハッター氏を呼びに遣いをやっています」
ことんと水の入ったグラスを出される。
ひやりとした水が喉を通るのが心地よかった。
一口、二口、ゆっくり飲んでいるとだんだん落ち着いてきた。
「……何があったんですか」
「何、……って、ええと……」
問われて反芻するも、恥ずかしい夢を見て気分転換に外に出たら私を知ってる人に声をかけられたけど、何となく怖くなってしまって走って逃げちゃいました。
…………考えてみて思う。これって、具体的に何かされたわけじゃないし、ものすごくただの被害妄想みたいじゃない?
いや、ドードーさんの言い方とか雰囲気は何か怖かったけど……偏見のような気もするし。それでもし事が大きくなってしまった場合、勘違いだったらものすごく失礼だし……。
「アリス?」
言い淀んでいると、乱暴に部屋の扉が開けられ、ハッター先生がやってきた。
やや遅れてハッター先生を追いかけてくる、恐らくウェント先生の屋敷の人。
「何があった!無事か、アリス!」
「ーーーーっ!」
足早にこちらへやってきて、返答する暇もなく唐突に抱きしめられて言葉を失う。
力強く回された腕に違う意味でまた動悸が激しくなる。
「な、何もない!大丈夫、だから……!」
しばらく無言のままハッター先生は私を抱き込んでいた。
まるで自分を落ち着かせようとしているかのように。
やがて深い息とともにゆっくりと離される。
「本当に無事なんだな?」
「だから、別にほんとに何もなかったんだって。む、昔の知り合い?に偶然会っただけで……」
説明に付く疑問符に自分でも違和感を覚えつつそう言う。
「……知り合い、ですか」
「誰だ?」
ウェント先生とハッター先生が交互に尋ねる。
「ええと……ドードーさん、っていう男の人で……私は全然覚えてないんだけど、向こうは私のこと探してた、って言ってて」
「……ドードー……」
その名前を復唱しながら二人は眉間に皺を寄せ難しい顔をした。
何かを思案するように目を伏せる二人を見てふと思う。
「ドードーさんのこと知ってるの?」
そう訊くと二人の眉間の皺が更に深くなった。
「……いや、……知らないな」
どうにも歯切れの悪いハッター先生の言い方にウェント先生にも目を向けるがそちらの反応も同じだった。
訝しげに二人を見るがそれ以上何も答えてくれなさそうだと解し口を噤んだ。
私自身、何を知りたいのか、訊くべきことは何なのか……それすらまとまっていなかったからーー。
ハッター先生の家までの帰り道、彼は私の手を強く握って離さなかった。
私もハッター先生の手の温度に安堵を感じて、その手を離されないよう握り返していた。
空は夢で見たような黄昏の色をしていたーー。