陽炎の魅せる夢
八月のある猛暑日に、僕は広場を歩いていた。
彼女はそこに座っていて、まるで世界が始まった瞬間から其処にいたみたいだった。
僕が思ったままの事を言うと、彼女は少しだけ、はにかんで、すぐに無表情になった。
「全く同じ事を三回言われたわ」
「なんでずっと其処に居るの?」
「ほら、また同じだ」
できるだけ、誰も言いそうにないことを言おうとして
「彼氏でも待ってるのかい?」
と言うと彼女は薄気味悪そうに、こちらを見ていた。
どうやら失敗したらしい。
「ねぇ、貴方って馬鹿なの?」
僕は、何も言わなかった。
「私に声をかけたのは、貴方が初めてよ」
「だったら……」
「私は貴方にしか見えないのよ」
「また嘘なのかい?」
「信じなくてもいいわよ。信じて欲しいから嘘をつくわけでもないし」
なんだか頭がクラクラするぐらい魅力的だった。
僕は彼女に好意に近い感情を抱いた。
なんにしても、彼女が僕に向かって話しかけてくれた事が嬉しかった。
彼女の黒い髪は、ボサボサで、おまけに地面に着きそうな位に長い。
そして黒いワンピースの丈も地面に着きそうだった。
「魔女みたい」
僕がそういうと、僕の事を上から下まで念入りに観察しだした。
「貴方は、これといって何か特徴があるわけじゃないわね。どこにでも居そうというか、気付いたら其処らじゅうに居るようなタイプね」
反論はしなかった。
僕はどこにでも居るのだ。
「ねぇ、私の猫を知らない?」
「猫?さぁ知らないな。どんな猫なんだい?」
彼女は呆れたように言った。
「猫は猫よ。それ以外に何て説明するのよ?」
「名前とか?」
「猫を捜すのに名前が必要?」
「例えば、外見に特徴はないの? 色とか形とか」
彼女は思案してから静かに言った。
「ないわ。色も形もないの、ただそれは猫なのよ」
彼女が嘘を言っているとしたら、それは何のための嘘だろうか。
僕をからかっているだけなのだろうか。
「じゃあ、探しようがないじゃないか」
「誰が探してくれっていったのよ。猫を知らない?って聞いたのよ私は」
「知らないな」
彼女は別段、落胆する訳でもなく
「そう」
と言った。
僕は少しだけ後悔した。
本当はもっと気の効いた返し方があったのではないか。
「シドよ」
「え?」
「猫の名前はシド。さっき、そこで別れたの。あの子は暑いのは嫌いだっていうから、私は言ってやったわ。それなら南極にでも行ったら? ってね」
彼女の話は飛躍し過ぎていてよく解らない。
「つまりそれは、君の猫が?」
「そしたらあの子、別の男のところへ行ったわ。彼女には何人も男が居るのよ。子供だっているかも。あ、煙草持ってる?」
僕は煙草を吸わないので、持っていないと言った。
なぜか、彼女の言葉が耳について離れなかった。
同じことを前にも誰かに聞いたかもしれない。
「でも、私にはあの子しか居ないの。だから、行かないでくださいって言ったわ」
彼女は煙草がないことにイライラしながら、爪を噛んだ。
「それで、君の猫はどうしたんだい?」
「何も言わないわ。ただ、笑って、どこかに行ってしまった……」
言い終わると、彼女は首を何度も振りながら両手の全ての爪を噛んでいった。
「どうしたの?」
「どうもしないわよ」
彼女は少し怒っているようだった。
怒りながら、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「貴方は良いわね。どこにでも自由に行けるし、好きな時に好きな場所に居られるなんて」
「そうかな」
「私は、この場所から離れた事はないし、離れる事はできないの。でも、それを可哀想なんて思われるのだけは、ごめんだわ」
彼女は、黒い瞳で僕を見た。
僕は、なんだかドキリとして、その瞳に吸い込まれそうになった。
その時、僕は気付いたんだ。
色も形もない猫が、こちらを見ているのを。
その姿を僕はどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。
「あれがシド?」
「え、どこよ」
彼女の向いている方向からは、シドの居る位置は見えないのだ。
それを知っていて、わざと隠れているとしたら嫌なヤツだなと思った。
「どこよ、シドはどこ?」
彼女は、懸命に見渡すが、建物が邪魔になって見えない。
そのうち、猫はクルリと後ろを向いて立ち去った。嫌なヤツ。
僕はシドが居なくなった事を彼女に告げた。
がっかりする彼女を見ていると、何だか急に腹が立ってきた。
「そんなに、あの猫のことが気になるのかい?」
「そうね、なんだか、気になるのよ。あの子、いつも死にたがってたから……そういうのに憧れちゃう自分が居るの」
「あの猫が死にたがってるの?」
「シドだけじゃない。みんな死にたがっているのよ、ただ、それに気付いていないか、気付いていても忘れる事ができる人だけが生きようとするの。あの子は気付いてしまったのよ」
彼女の言う事は難しい過ぎて半分も理解できなかった。
彼女がシドに会いたがっているという事だけは、解った。
「僕が、アイツを連れてこようか?」
「貴方も、つくづく変わってるわね。同情は嫌いよ」
「自分の為にやるのなら良いのかい?」
「自分の為?」
「僕は君の事をとても気に入っている。自発的に僕は君を助けたいと思っている。それは僕の為じゃないかな?」
「そうね。貴方がそう思うなら、そうなんじゃないの」
辺りは少しだけ暗くなっていたが、彼女のワンピースの黒は月明かりに映えていた。
彼女が爪を噛む姿は、痛々しく、滑稽にも思えたが、僕はその滑稽な姿にすら魅力を覚えている。
たとえ、それが僕の一方的な好意であっても、彼女の為に何かしたいと思った。
これは同情なんかじゃないんだ。
「純粋に、誰かの事を好きになるってのは、それだけで素晴らしい事なんじゃないかな?」
「貴方って、本当に変よ」
そういって彼女は何かを考えていた。
「ええ、確かに純粋に死について考える事と同じかもしれない」
「そうかな」
「貴方がシドを連れてきても、私は貴方のことを好きになったりはしない。それは貴方が純粋に私のためにやったことで、私がシドに対して純粋な感情を持つことは変わらない」
僕は少しだけがっかりした。
やはり期待してもいたのだ。
「ねぇ、じゃあ貴方がシドを殺したら、私はあなたに対して好意を抱くようになるのかもしれないわ」
「僕が? 君のシドを殺すのかい?」
「そうよ、怖いの? それとも私のことが嫌になった?」
「でも、君はそれでいいのかい?」
「いいわ、あの子は死にたがっているけど、実際に死のうなんて思ったことはないの」
「ふーん」
「でもね、私なら可哀想なあの子の背中を押してあげることができるのよ」
彼女の声は確信に満ちていた。
「それで、君はシドを殺したいの?」
「そうゆう訳じゃないけど、貴方が私を殺すよりは、すごく簡単な気がするわ」
僕が彼女を殺すのは違う気がする。
「僕はあのシドを殺せるだろうか」
「大丈夫よ、貴方なら」
すっかり夜になったので、僕は家に帰った。
そして、彼を殺す方法を考え始めた。
できるだけ、苦しめて、惨たらしく殺す方法を考えなければ。
そしてそれは、彼女にとって、きっと良いことなのだろう。
彼女はいつもあの場所にいて、僕だけを待っている。
そして、綺麗な服や、化粧品、指輪なんかも買ってあげよう。
あんな猫なんかの事はすっかり忘れてしまうだろう。
僕は、何度も練習した。
ナイフの使い方や、毒薬の作り方も勉強した。
そして、ついに成功した。
「ねぇ、僕はついにやったよ」
彼女は、さっきから、一言もしゃべろうとしない。
「どうしたの? なんで黙ってるのさ」
昨日はあんなに、活き活きとしていた広場の女神像は、なんだか気味が悪い位に静かだった。
僕は血のついたナイフを広場の噴水に投げ入れた。
僕は夏休みに、彼女と行くはずだった旅行のことを思い出した。
彼女って誰だっけ?
確か同じサークルの猫みたいな女の子で。
広場の女神は何も答えない。