特別編・天上界でエリスが乗り鉄
長らくお待たせしました
「エリス・ローバーン、入国を認める」
入国管理官が無表情で言いながらIDカードをエリスに渡した。
エリスは入国審査室を出て、荷物検査室に行き荷物を受け取った。そして、そのまま荷物の入ったリュックサックを背負い建物を出て行った。
エリスは別に海外旅行に来ているわけではない。ここは外国ではなく天上界である。
なぜエリスが天上界にいるのかというと、天使採用試験の期間中に一度天上界に帰り、担当の教官に試験経過の報告の義務があり、教官からの助言を受ける事が出来る。
入国管理官との会話で数ヶ月ぶりに天上界の言葉を聞き、記入した書類で天上界の文字を見るとエリスは自分が天上界にいるのだと実感した。
地上界にいたエリスがどうやって天上界まで戻ったのかというと、天上界と地上界を結ぶ転送装置があり、その装置を使って地上界から転送されて来たのである。
天上界にも地上界にも転送ポイントがあり、その転送ポイント同士は自由に行き来する事が出来る。地上界の転送ポイントは多数あるが、エリスが地上界の生活拠点としている広島県福山市にも転送ポイントがある。
福山市内のとあるマンションの一室にポイントがあり、そこには転送に必要な装置が置かれている。その装置を使い天上界へと転送されて来たのである。
さて、天上界に戻ったエリスがまずやらなければならないのは、現在エリスが在籍している専門訓練学校に出頭する事である。
専門訓練学校というのは、地上界では大学に相当する学校である。天上界は子供は地上界では考えられないくらい勉強漬けの生活であり、地上界でいう18歳の段階で大学までの教育を全て終わらせてしまう。
エリスはこの専門訓練学校の教育課程を既に終わらせており、地上派遣要員への採用試験として地上界で実地試験を受けている最中である。
エリスが今いる場所は天上界の首都である。人口はおよそ50万人、政治と教育の中心であり、きちんとした都市計画に沿って造られた街並みは整然としていて、華やかとか賑やかという感じではなく、落ち着きのある街並みである。
エリスはとりあえず、この首都にある自分が暮らしているアパートに向かった。エリスは地上界で買ったTシャツにジーンズという服装だったが、エリスが通う専門訓練学校の規定で、校内では全員襟の付いた服を着て、男性は長ズボン、女性はタイトスカートを履くと決められていた。
まずはエリスはミニトレインと呼ばれる路面電車に乗り、首都の中心地に向かった。2両編成の車内は空いており、エリスは落ち着いて座る事が出来た。
車内から首都の街並みを眺めていると、数ヶ月ぶりに見る街並みがやけに懐かしく感じられたが、同時に物足りなさも感じていた。
地上界に比べ、商店の看板も地味だし、建ち並ぶ建物も似たような建物ばかりが並んでおり、整然としすぎていて面白みに欠けるのである。
天上界では、建物にも細かい規定があり、高さや壁の色にも色々な制限があるため、その範囲内で建設された建物は似たようなものが多くなってしまうのである。
ミニトレインで市内中心部にあるターミナルに着いたエリスは、専門訓練学校のIDカードを車内の機械に通してから列車を降りた。
このIDカードがあると首都の市内のミニトレインやバスが無料で利用出来る。
エリスは市内中心部の商店が集まる地区にあるミニトレインのターミナルで今度は別の列車に乗り換えた。
列車はすぐに商店の立ち並ぶ地区を抜けて、官公庁の集まる地区へ入る。議会や省庁の荘厳な建物を眺めながらエリスはバスに揺られておよそ20分、町外れあたりにエリスが通っていた『地球派遣要員専門訓練学校』がある。
エリスはその正門前の駅で下車した。もちろん、IDカードを使うので、運賃はタダである。
エリスが暮らすアパートは学校のすぐ脇にあり、正門から歩いて5分とかからない。
エリスは身なりを整えるために、一度アパートに戻った。
玄関のカギを開けて部屋に入ると、長い間閉めきっていた部屋に滞留していた空気が重苦しく感じられて、エリスは慌てて部屋の窓を全開にして空気を入れ替えた。
部屋に新鮮な空気が入り、エリスは二度三度深呼吸してからクローゼットを開けて着替えの服を出した。服を着替えながら久々に見る自分の部屋をじっくりと見渡した。
地上界に行く前に不用な物を処分したので、最低限の物しか残っていない殺風景な部屋にエリスはため息を吐いた。
地上界は天上界ほど科学技術は発達していないが、ありとあらゆる事が政府によって管理された天上界と違い地上界は自由な暮らしが出来る。
そのため、地上界に派遣される人員は競争率が高く、超エリートでなければその職に就く事が出来ない。
また、地上界に派遣された者のなかには、地上界に戸籍を作り天上界の戸籍を抹消して地上界に永住する者もいる。地上界というのは天上界の人間にとってはとても住みやすいのだろう。
さて、パリッとした白いブラウスの上に紺の上着を着て、同じ色のタイトスカートを履いたエリスは、すぐさま地球派遣要員専門訓練学校に向かった。
この学校は地上界の探査を目的とする政府機関直属の学校であり、卒業して試験に合格すれば地上界派遣要員として地上界に派遣される。もし、試験に不合格だった場合、地上界派遣要員にはなれないが、この学校では高度な学問を習得出来るので、卒業と同時に教員免許が習得出来る。したがって、地上界派遣要員になれなくても、教師として働けるので食いっぱぐれる事はない。
エリスはアパートから歩いてすぐの場所にある学校に歩いて向かった。
かつて、学生だつた時には毎日のように歩いた道である。学生時代は何とも思っていなかったが、久しぶりに歩いてみると、街路樹の一本一本が、交差点の信号機が、学校の門がとても懐かしく感じられる。
感慨にひたりながら歩いているうちに、エリスはいつの間にか校舎に入っていた。学生時代の癖でそのまま階段を上がろうとしていたのだが、まずは受け付けに行かなければならないと思い出した。
受付窓口は正面玄関脇にあり、エリスは窓口にいた職員に用件を告げた。
「IDカードを……」
エリスは受付係の女性にIDカードを提示した。このIDカードは身分証明としても使える。天上界の住民は身分に応じたIDカードを持たされており、現在エリスが持っているカードは地上派遣要員見習いという身分のカードである。
「エリス・ローバーンさんですね。照会してみます」
係の女性がエリスのIDカードを機械に通してスキャニングした。
「あなたの担当はダングリフ教授ですね。ダングリフ教授は現在講義中で、講義後は所用で外出する予定です。面会は明日になります。明日の9時からだと面会可能ですから、また明日来て下さい」
受付係の女性は無愛想に言ってから放り投げるようにエリスにIDカードを返却した。
エリスはチッと舌打ちしてからIDカードを受け取って受付窓口を離れ出入口に向かった。
学校を出たエリスだが時刻は昼前である。今日一日何をするか決めていない。
(とりあえず、昼ごはんを食べなきゃ……)
エリスは学校を離れ、アパートとは反対方向に歩き始めた。少し歩いた所に大通りがあり、商店や飲食店が軒を連ねている。
エリスは地上界で好きになったカレーライスを食べたかったが、天上界ではカレーライスの店などはなく、学生時代に行き着けだったレストランに入るしかなかった。
エリスは学生時代よく食べていたパンに肉の煮込みと煮豆のセットを注文した。
地上界に比べ食材の種類が乏しい天上界では、地上界の味に慣れた舌には物足りないが、それでもお腹が空いていたエリスは黙々と料理を食べた。
エリスは食後レストランを出たが、特にする事もないのでミニトレインで街に出てみようと考えた。最寄りのミニトレインの駅に歩いて行き、やって来た列車に乗ってとりあえずターミナル駅へ向かった。
ターミナル駅で列車を降りたエリスは行き交うミニトレインを見ていると、自分がまだ乗った事のない行き先の列車がたくさんある事に気付いた。
(どうせタダで乗れるんだから、行った事のない所に行ってみようかしら)
エリスは学校のすぐ近くに住んでいるので、自宅近くからターミナル駅までの路線と、ターミナル駅から買い物で繁華街へ向かう路線くらいしか乗った事がない。そこで、エリスは今日半日を使い、こういう機会でもない限り乗る事がなさそうな路線に乗ってみる事にした。
(南部線は一度も乗った事がないわね)
エリスは南部線に乗ってみる事にした。
ちなみに、首都の中心部にあるこの中央ターミナル駅からは、東西南北に十字型に路線が延びていて、それらが先々で枝分かれしている。エリスが通う学校があるのは北部線であり、今回は首都の反対側に行く事にしたのである。
どの路線も列車の本数が多く、エリスは地上派遣要員という天上界の重要な職業に関係しているため、エリスの肩書きで持てるIDカードではこのミニトレインにタダで乗れるわけだが、タダで乗れない一般人も運賃そのものが安いため、自転車代わりに利用出来るのである。
エリスはほとんど待つ事なくやって来た南部線の1両編成の列車に乗り込んだ。地上界の路面電車並みの小さな列車なので、エリス以外にそれなりの数の乗客があったので、すぐに車内両側のロングシートの座席は埋まり切ってしまい、通路に立つ乗客の姿もあった。
この列車は南部線の先の方で東西に分かれる路線の西側である。流通センター前駅に向かう列車だった。
満員に近い乗客を乗せ列車は動き出した。中央ターミナル駅を東向きに出て、最初の交差点を右折して南に向かう、このあたりは商店やオフィスビルが立ち並ぶ首都でも賑やかな大通りである。
首都を南北に縦断する大通りを、いくつかの駅というより電停といえる乗降場に停車しながら列車は南へ進んで行く。乗客の中でサラリーマン風の者はこのあたりでだいたい下車しており、車内は幾分空いていた。
オフィス街を抜けると、今度は巨大な市場の前を通った。サッカーのフィールド四つ分くらいの巨大な市場であり、天上界の首都にはこのような市場が南北にある。エリスの住む場所からだと、中央ターミナルと反対側に列車に乗ればすぐに北側の市場があり、エリスもよく利用していたのだが、南側の市場を見るのは初めてだった。
(庶民的な市場ね)
エリスは北側の市場に比べ、庶民的な商品を扱っているような雰囲気である。北側の市場はやや高級な商品を扱っているのだが、これは首都の造りが北部側に高所得者が多く暮らす高級住宅街があるためである。
市場の入口近くの駅では大勢の乗客が降り、大勢の乗客が乗って来た。エリスも一瞬だが、ここで降りてみたい衝動に駆られたのだが、特に欲しい物があるわけでもないので列車に乗り続ける事にした。
市場を離れた列車は大通りの中央部に設置された複線の線路を走り続けているのだが、線路の外側にある道路は中央ターミナル駅を出てすぐのあたりは上下4車線ずつだったのが、このあたりでは3車線ずつになっている。
乗客の客層もレジ袋を持った、いかにも買い物客という感じの人達が多くなっていた。
市場から更に南下すると、大通り沿いこそ商店が立ち並ぶものの、交差点から奥に入ったあたりを見ると、二階建ての住宅がびっしりと建ち並んでいて、このあたりは一般的な住宅地である。
等間隔に交差点がある事から、このあたりは升目状にきっちりと区画整理されているのだろう、駅もほぼ等間隔に設置されており、各駅で少しずつ乗客が降りて行く、おそらく、中心街や市場で買い物をした帰りなのだろうとエリスは考えた。
これらの駅からも少数ながら乗客が乗って来る。通勤時間帯ではないので、仕事に行く客はあまりいないはずである。彼らはどこに行くのだろうかとエリスは疑問に思った。
住宅地をしばらく走ると今度は車窓片側には高層アパート群が目に入るようになる。約20棟あるアパート群はどれも同じ時期に建てられたのか、型が同じばかりでなく、建物の汚れ具合も一緒だった。
エリスはアパートが何階建てなのか数えてみると9階建てだった。
(私の実家のあるアパートも9階建てだったわね)
天上界ではアパートに規格でもあるのか9階建てのアパートばかりが建っている。このような高層アパートは狭いが家賃が安いので、所得の低い者が多く暮らしている。
エリスはアパート群の反対側の車窓、つまり、自分の背中の方の車窓を振り向いて見た。
そこには学校や工場が建ち並んでいて住宅は見えなかった。
列車はアパート群を抜けると、大きな病院の前にある駅に停車した。乗っていた乗客はエリス以外全員が降りて行った。
(なるほど、病院に行く人達だったのね)
地上界でも同じだが、病院は交通機関の重要な拠点であり、利用者が多いため駅も停留所のような小さな物ではなく、駅舎付きの本格的な駅である。
エリスだけを乗せた列車は病院を離れると、病院の裏にある駅に着いた。
「終点です」
終点を告げる車内アナウンスが流れたので、エリスは慌てて列車を降りた。
エリスは駅を出て、駅前の通りを歩いてみるが、巨大な工場のような建物がズラリと建ち並んでいるだけで住宅は見えない、また、通りを歩く人の姿もないのだが、道路には大きなトラックがたくさん行き交っていた。
エリスは人通りのない広い道路を歩きながら、周囲の建物を観察してみた。建ち並ぶ建物の壁には有名なデパート等の名前が書かれている。
(あぁ、そうか。ここは工場ではなく、デパートやスーパーの商品の倉庫なのね)
エリスは先程降りた駅の名前が『流通センター前』である事から、この建物はデパートなどの配送センターだと考えた。
(倉庫ばかりで退屈だわ)
エリスは倉庫を見て喜ぶ性質はないので、しばらくブラブラしているうちに退屈になってきた。何か商店でもあれば入ってみてもいいが、エリスが入れそうな建物は見当たらない。
エリスは駅に戻り、中央ターミナル行きの列車に乗る事にして、Uターンして来た道を戻り始めた。
エリスは歩く事数分で駅に戻って来たのだが、先程降りたばかりの列車は既に出発してしまったようで、駅には列車の姿は見えなかった。
仕方なく駅前で手持ち無沙汰に立ち尽くすエリスは、このあたりの空気が学校近くとは違う事に気がついた。
(ずいぶんと乾いてる感じね)
エリスが通う学校や暮らしているアパート近くの空気は、どちらかといえばしっとりとした湿気を含んでいて、学校や街路樹や公園の樹木の香りがするような気がする。
(私の実家もこんな空気だったような気がする)
エリスの実家は低所得者層向けの高層アパートである。
(低所得者層の暮らす地域や工業地帯は緑地整備されてないのね)
エリスは政府による環境整備が低所得者層の暮らす地域までは行き届いていないと感じ取った。
(天上界って味気ないわね)
地上界よりはるかに発達した科学技術を持ちながら、末端まで行き届かない環境整備と、昼に食べた不味い料理を思い浮かべながら、天上界が地上界と比べ良い世界であるとは思えなかった。
エリスは専門訓練学校の学生だった時、天上界から地上界に派遣された経験のある教授や講師から色々な話を聞いたのだが、彼らは口を揃えて「地上界は天上界より良い世界だ」と言っていた。
エリス自身も地上界に住んでみて、天上界より娯楽が豊富で食べ物が美味しい事に驚いた経験がある。
天上界から地上界に行き、そのまま地上界に永住して天上界に帰らなかった者が少なくないのだが、エリスは一度地上界に行ってみてその理由がわかるような気がした。
カタンコトン
エリスが駅に立って物思いに耽っていると、目の前の線路から音が聞こえてきた。そして、遠くに列車の姿が見えてきた。
来た時に乗ったのと同じ型の1両編成の列車がエリスの目の前に停車した。開いたドアからは、このあたりの倉庫街で働いているのだと思われる作業服姿の若い男性が1人降りただけだった。
エリスは列車に乗り込んだが、他に乗って来る乗客はおらず、エリスただ1人だけを乗せてすぐに出発した。
次の病院前の駅からは20人くらい乗って来たため、座席はほぼ埋まってしまった。
エリスは来た時と同じルートで中央ターミナル駅に戻り、近くのデパートをブラブラしたり、映画館で映画を観るなどして時間を潰した後、繁華街にあるレストランで晩ごはんを食べてから北部線の列車に乗りアパートへ帰った。
久しぶりに天上界で過ごす夜はエリスにとっては退屈である。久々の帰省であるから、友達と遊んだりしたいところだが、エリスの同級生はエリス同様に地上界に行き、一年間の試験に挑んでいる最中である。一度中間報告に戻る義務があるとはいえ、都合良くエリスと同じ日に天上界に戻って来ているわけではない。
エリスはテレビを点けて、それを眺めながら眠くなるまでの時間を潰していた。
翌朝、早起きのエリスは5時には起床していたが、アパートの部屋には食べ物は置いてなかったので、朝ごはんを食べる事も出来ず、ただ、ボーッとして時間が経つのを待っていた。
地上界で暮らしている時には、健太の出勤が早い時は、エリスは起きるとすぐに洗濯物を洗濯機に放り込んでから、朝ごはんと健太が職場で食べる弁当の用意をする。健太を職場に送り出してから洗濯物をベランダに干す。それから、部屋の掃除をするのでのんびりする暇がない。
それに比べると、今のエリスは早朝にもかかわらず、退屈な時間を過ごしており、なかなか経たない時間に苛立ちを覚えていた。
(健太と暮らす生活リズムに慣れすぎてしまったのかも……)
エリスはまだ地上界では4ヶ月程度しか暮らしていないのだが、健太との同棲生活がよほど充実していたのか、暇を持て余す今の時間がとてもつまらなく感じていたのである。
朝8時、エリスは早めにアパートを出た。昨日昼ごはんを食べたレストランで朝ごはんを食べるためである。
パンと豆スープにサラダという簡単な朝ごはんを食べてからレストランを出たエリスは、学校に向かって歩き出した。
学校への通りは道の両側には緑あふれる街路樹に囲まれており、昨日行った倉庫街の空気とは違い、木々の香りとしっとりとした湿気を含んだ空気である。
(植物が多いと、空気の味まで変わってくるのね)
エリスは呼吸しながら空気の違いを確かめていた。実際にこのあたりの空気は倉庫街の空気とは違い、植物の光合成によって排出された新鮮な空気である。天上界の植物は品種改良して、光合成によって排出される酸素量が地上界の植物よりも多いのである。
学校に着いたエリスは受付の窓口に行き、係の職員にIDカードを見せた後に用件を告げた。
「ダングリフ教授はまだ出勤して来ておりません。9時には出勤する予定ですから、しばらくロビーでお待ち下さい。」
昨日来た時とは違う窓口の係員に言われたようにエリスはロビーに行き、ソファに腰掛けて待つ事にした。
少し早く来すぎたようで、エリスはロビーのソファで待っていた。ここは学校だから、通っている学生達が続々とやって来ているのだが、その中にエリスの知っている顔もあった。
「ローバーン先輩、どうしてここにいるんですか?」
一人の男の学生が話し掛けてきた。この男はスタン・ビッドラン名前のエリスから見れば一級下の後輩である。
「中間報告に来てるのよ」
エリスはぶっきらぼうに答えた。
「報告が終わったら時間空いてますよね? 夕方から一緒に出掛けませんか?」
スタンは馴れ馴れしくエリスを誘う。エリスが学生だった時から、同じ教授の担当の生徒だったため、一緒に講義を受ける事もあったこの後輩は何かとエリスにまとわりついてきていたのである。
エリスからしてみれば、鬱陶しいだけなのだが、スタンに悪気が無く、純粋にエリスを慕っているために、エリスとしても邪険に出来ずスタンと友達以上恋人未満の関係になっていた。
「夕方はプライベートの用事があるから、時間は空いてないわ」
エリスは嘘をついてしまった。学生時代は特に意味もなく、スタンがまとわりついて来るからしかたなく付き合っていたのだが、今のエリスにはスタンに対して何ら興味がない。
「そうですか……僕は講義があるので」
「じゃあね」
スタンは少し落胆したような表情を見せながら廊下を歩いて行ってしまった。
(いい子なんだけど、私は君には興味がないのよ)
エリスは既に婚約者に渡すネックレスを健太に渡している。スタンにそれを渡す選択肢もあったのだが、エリスもかなり悩んだ末に健太に渡した。スタンには悪いがエリスは彼とは縁が無かったという事だろう。
「やあ、ローバーン君、よく来てくれたね」
「…………! あっ、教授。おはようございます」
ロビーでスタンを追い払い、ソファに腰掛けてボーッとしていたエリスは、不意を突かれるような感じで声をかけられ、びっくりして立ち上がり挨拶をした。
そこには、七三分けの白髪で長身の初老の紳士がエリスを優しく見つめていた。
この紳士こそ、エリス担当だったヘルマン・ダングリフ教授である。
「とりあえず、私の教室へ来てもらおうか」
ダングリフ教授はエリスを先導するように歩き出した。エリスは教授に続いて歩いていたが、ほんの数ヶ月前まで毎日のように通っていた学校の通路が妙に懐かしく思えていた。
ダングリフ教授は自分の教室の前まで来ると、ドアを開けてエリスを教室に招き入れた。エリスが軽く会釈をして教室に入ってから、自らも教室に入りドアを閉めた。
教室内は横長のテーブルが四列あり、エリスは教卓のすぐ前の席に座った。エリスは地球派遣要員の中でも、赴任先に日本を希望したので、現役時代に日本に赴任した経験のあるダングリフ教授のクラスに所属する事になったわけである。
「ローバーン君、講義じゃないんだから着席しなくてもよろしい」
ダングリフ教授は苦笑いしながらエリスに立つように促した。
「あっ、すみません」
エリスは恥ずかしそうに立ち上がった。どうも、地上界で健太との甘々の生活に慣れてしまったせいか、天上界に戻って来てからどうも要領よく行動出来ていない。
「ローバーン君、こんなに早く中間報告に来るとは、上手くいってないのかな?」
普通はちょうど中間点くらいで報告に来るのだが、エリスはまだ3分の1くらいの段階で戻って来た事にダングリフ教授は疑問を抱いていた。
教卓の脇に立ったエリスは笑顔で首を振った。
「いいえ、だいたい予定通りです。ただ、これから遠方への旅行が多くなりそうなので、いろいろバタバタするはずですから、早めに中間報告に来たのです」
「ほう、それは大変だね。でも、順調ならよろしい。それではレポートを渡してくれないか?」
ダングリフ教授の言葉にエリスはハンドバッグを開けて、中から一冊のノートを取り出した。教授は渡されたノートを開いてパラパラと捲った。
「ほう、難しい漢字も上手く書けてるね」
中間報告は試験を行う場所の言語で書かなければならない決まりがある。エリスは天上界で十分に日本語を習得していたので、学生時代から平仮名、片仮名、漢字は使いこなせていたが、鉄道用語など地上界に行ってから覚えた言葉もたくさんあり、レポートの作成は大変だった。
「それにしても、手書きとは珍しいね。普通はパソコンを使って保存したデータを提出するのだが」
「パソコンを日常的に使える環境ではないので……」
大半の受験生はレポートをパソコンで作成し、プリントアウトしたものを提出するか、ディスク等に保存したデータを提出する。ノートに手書きというのは極めて珍しい。
「手書きではいけなかったのですか?」
エリスはパソコンの使用も試験に含まれているのかと思い、恐る恐る尋ねた。
「いや、構わんよ。私はむしろ手書きの方が好きだからね。手書きの文字には心がこもっている。手書きというのは、書かれた文章だけでなく、一文字一文字から心の声が聞こえて来るような気がするからね」
ダングリフ教授はニッコリしながら答えた。そして、エリスが提出したノートをパラパラと捲り始めた。
「この最初のページをご覧なさい」
ダングリフ教授はエリスにノートの最初のページを開いて見せた。
「まだ慣れていないのか、至るところで誤字を修正している。書かれている文字も慣れていないので、どこか頼りない」
ダングリフ教授はノートの先のページをエリスに見せた。
「ほら、ページが進むと、文字がとても上手になっている。難しい漢字もしっかり使い、自信を持って書いたのだとわかる」
更にページを捲る。
「おやおや、このレポートを作成した時は忙しかったのかな? 文字がちょっと踊ってるよ」
教授が苦笑いしながらそのページをエリスに見せた。それは長野へ旅行した時のレポートだった。エリスはそのレポートを作成した日の事を思い出そうとした。
(あぁ! たしか、晩ごはんの準備前で、急いで作成した時だわ)
エリスはその時の事を思い起こしていた。
「思い当たる事があるようだね。このように、手書きの文章は書かれている事以外にも様々な事を伝えてくれる。だから私は好きなんだよ」
ダングリフ教授が優しく微笑みながらエリスに言った。
「このレポートは読ませていただくから、また明日同じく午前9時に来なさい」
「わかりました。よろしくお願いします」
エリスはダングリフ教授にお辞儀をしてから教室を出た。また今日一日退屈だなと思いながら学校を出て、とりあえずアパートに帰った。
エリスは昼までアパートで過ごし、昼過ぎから出掛ける事にした。アパートには食べ物を置いてないので、朝昼晩の食事時間には外出しなければならない。
エリスはとりあえず近くの駅からミニトレインに乗り中央ターミナル駅に出て、適当なレストランに入り、パンと海老と豆のスープと魚のフライを注文した。
エリスは昼ごはんを食べてから中央ターミナル駅に戻って列車の時刻表の前に立った。
中央ターミナル駅を中心に東西南北に路線があるが、エリスが住むアパートの近くを走る北部線は日常的に使っていた。東部線は友人達とテーマパークに行った時に乗った事がある。南部線は昨日初めて乗ってみた。そうなると、残るは西部線である。
天井界はオーストラリア程の大きさで異次元空間にある浮遊大陸であるが、国土の大半は中央部にある巨大な湖によって占められている。琵琶湖がある滋賀県のような感じであり、天井界の首都はその湖の東岸にある。
つまり、これからエリスが乗ろうとしているミニトレインの西部線は、市内中心部から湖に向かう路線である。
エリスは時刻表を見ると、西部線の終着駅まで行く列車は少ない、大半の列車は途中駅止まりである。
(終点のボワール行きは30分後ね)
エリスは西部線の終点まで行く列車の時刻を調べた。ちなみに、ボワールとは湖畔にあるリゾート施設である。利用客の多い施設であるが、クルマを使う利用客が多く列車の本数は少ないようである。
エリスは30分ほど待ってやって来たボワール行き1両編成の列車に乗った。
買い物帰りの客など座席が半分くらい埋まる程度の乗客を乗せて列車は動き始めた。
列車は中央ターミナル駅を出ると、港湾通りと呼ばれる湖に真っ直ぐ向かう大通りを走る。路面電車なので、それほどスピードは出ない。交差点では信号に従うので、駅にいちいち停車する分クルマよりも遅い気がする。
港湾通りは商店や住宅が建ち並びそれなりに賑やかである。途中の駅でも少数ではあるが、どの駅でも乗り降りがあり、このあたりに住む住民の重要な脚となっている事がわかる。
港湾通りを真っ直ぐ進むうちに、列車は湖の畔に到達するが、そこが港湾通りの終点でそこで道路は左右に分かれているT字路になっている。ここで西部線も左右に枝分かれしており、現在エリスが乗車しているボワール行きは左に進路をとる。ちなみに右に曲がる路線は貨物港やフェリーターミナル向かう。
湖畔の道路沿いに列車は進む。このあたりは一戸あたりの敷地面積の大きい住宅地である。おそらく、高所得者層が住む住宅だとエリスは想像した。
湖畔の道路に目をやると、片側2車線ながら渋滞気味で、ボワールに向かう人やこのあたりに住む住民のクルマがかなり走っているのだろう。
列車内の乗客は徐々に降りて行き、乗って来る客がいなくなったので終点が近付くにつれだんだん空いてきた。
エリスは車窓から湖に目をやった。湖といっても日本がスッポリ入る大きさがあるので、当然対岸が見える事はない。エリスの実家がある街はこの湖の反対側である。
エリスが湖を眺めながらのんびりしていると列車は終点のボワール前駅に到着した。
ボワールというのはショッピングモールにプール、映画館、水族館、ナイトクラブ、ホテル等が一体になったレジャー施設である。首都に住む者の憩いの場となっている。エリスも学生時代に行った事はあるが、ミニトレインではなく、友人のクルマを使って行ったので、この駅を利用するのは初めてである。
ボワールに着いたはよいが、エリスは何もする事がない。
とりあえず、ショッピングモールをブラブラするが、買い物をするつもりがないのですぐに飽きてしまった。そこで、水族館に行ってみる事にした。
水族館のある建物まで歩いて行き、中に入ってみると、まずは巨大な水槽に様々な魚がいてなかなか迫力がある。また、他の水槽には首都のあたりには生息していない魚の展示もあり、珍しい魚にエリスは目を奪われた。あれこれ見て回っていると時間が経ち、水族館を出て今度は美術館に行ってみる事にした。
美術館では有名ではないながらも、新進気鋭の若手アーティスト達の作品展が行われており、これまでの常識を覆す色使いや筆のタッチが目を引いた。まだアーティストとして自分の作風が完成されていないため、作品からも暗中模索という感じが伝わっており、これらの作品を描いたアーティスト達がこれからどのような作品を描くのかエリスは想像しながら館内を回った。
エリスが美術館を出るとあたりは薄暗くなっていて、そろそろ晩ごはんを食べたくなる時間だった。
エリスはショッピングモールに戻り、レストラン街に行ってみた。どこで食べようかと迷いながら歩いていると、レストラン街の中に地上界料理の店があるのを見つけた。
(地上界料理? いったい地上界のどの料理を扱っているのかしら?)
エリスはこの店に興味を示し、晩ごはんをこの店で食べる事にした。
レストランに入ったエリスは空いていた席に座り、テーブルに置かれていたメニューを開いてパラパラと捲ってみた。
(何よこれ……)
エリスが手にしたメニューには写真入りで料理が載っているものの、エリスが地上界で見た事も聞いた事もないような料理ばかりである。
(あぁ、これは知ってる。ハンバーガーね)
色々と見るうちに、ようやくエリスが知っているのが見つかったが、晩ごはんにハンバーガーというのは物足りない。
エリスは他に何かないか調べてみるが、地上界にある料理を真似て作った何かという感じのものばかりである。もっとも、天上界と地上界でら肉、魚、野菜すべてが地上界とやや違っているため、完璧に地上界の料理を再現するのは難しい。
エリスはメニューを見ているうちに『カリー』という料理を見つけた。写真を見ると深い皿に野菜や肉が入り、何やらスープがかかっている。エリスはこれはカレーではないかと想像した。地上界で食べたカレーとはかなり違って見えるのだが、それでもカレーと聞けば食べたくなってしまう。
(まぁ、地上界のとは違うけど、カレーなんだから食べてみてもいいわね)
エリスはウエイトレスを呼び『カリー』を注文した。もちろん、パンではなくライスで食べたいので、別注でライスの大盛りを頼んだ。更に付け合わせとしてサラダも注文した。
ちなみに、天上界では主食はパンが主流であり、米は生産量が少ないため非常に高価である。しかし、カレーはパンではなくライスで食べたいエリスは痛い出費を覚悟した上でライスを注文していた。
しばらく待って運ばれて来た。エリスはライスの上にカレーを全部かけてから一口食べてみた。
(………これは微妙な感じね)
地上界と天上界では香辛料も違うため、カレーのようでカレーではない何か……という感じの微妙な味わいである。
辛いには違いないが、地上界のカレー独特の味わいがない。しかも、やたら辛い。辛いというより痛いと表現した方がいいくらいである。確かに、天上界の人間は辛い物を好む。これを肉と野菜のピリ辛スープとして食べるならよいが、カレーを名乗ってほしくはないとエリスは思った。
とはいえ、注文した以上は食べなければもったいないし、エリスも辛い物は苦手ではないので食べられない事はない。カレーだと思わなければ普通に食べられるが、ライスにかけたのは失敗だった。これはライスとは全く合わないのである。
期待外れにガッカリはしたが、それでもエリスは晩ごはんを平らげレストランを出た。
来た時と同じルートでアパートに帰り、一夜を過ごして翌朝再び学校に向かった。
受付で手続を済ませてから教室に向かいダングリフ教授と面会した。
「ローバーン君、レポートは読ませてもらったよ。実に良い旅行記だった。まるで自分が旅をしているかのような気分になったよ」
ダングリフ教授はエリスのレポートに満足したようである。
「私が地上界にいた頃とは少々鉄道事情が変わってきているようだが、それでも当時を思い出したよ」
教授は地上界に派遣され日本に長く赴任していた。その時に鉄ヲタになった人である。エリスは教授が喜びそうな鉄道車両について詳しく記述したり、日本三大車窓のうちの二つ、矢岳と姨捨について現地を訪れた時の事について記述したりしていた。
「地上界で君に鉄道について色々教えてくれてる人物は相当なマニアだな」
ダングリフ教授は健太を自分と同類だと想像していた。もっとも、始めて地上界に行ったエリスがヲタクが喜びそうなレポートを書き上げるのだから、エリスに知識を与えている人物がヲタクである事は容易に想像出来る。
「ええ、乗り鉄です」
エリスは健太を思い出しながら言った。
「なるほど乗り鉄か、だったらあちこち訪問するには最適だな」
教授は納得したように言った。
「レポートに問題はありましたか?」
エリスは一番聞きたい事を質問した。質問されたダングリフ教授は一瞬だけ考えるようなそぶりを見せたが、すぐにニッコリと微笑んだ。
「レポート自体に問題はないな。ただ、君は福山という場所を拠点にしているようだが、レポートを見ると福山から近い場所の駅は訪問しているようだ。遠い東日本は未訪問のようだ。一年間で全ての都道府県庁所在地を訪問出来るのかね?」
確かにこれはエリスも気になっていた事である。甲府より東にはまだ行った事がない。
「同行者がプランを立ててくれているのですが、そのあたりは考えているはずです」
エリスとしてはこのように答えるしかない。健太もそれくらいは考えているはずである。
「乗り鉄なら計画を立てるのは得意中の得意だろうから、そのあたりは考慮しているだろうな」
教授は苦笑いしながら言った。乗り鉄に限らず、旅行好きは計画を立てる事が大好きである。むしろ、旅行に行った時より、計画を立てている時の方が楽しいという者も珍しくない。
「レポートありがとう。まだ試験期間はかなり残っているから大丈夫だろう。頑張りたまえ」
「ありがとうございます」
エリスはダングリフ教授にお礼を言うと教室から出て出口に向かった。
「先輩!」
出口あたりで後ろから声を掛けられた。振り向くまでもなく、声の主はスタンであるとエリスにはわかっていた。
「待ち伏せとは悪趣味ね」
エリスは少し苛立った表情で言った。
「今日向こうに帰るんですか?」
「ええ、そうよ」
「じやあ、帰る前に昼ごはんでもどうですか?」
スタンはどうしてもエリスと一緒に時間を過ごしたいようである。
「スタン、転送の予約は11時10分なの。だから、すぐに行かなきゃ」
エリスはスタンを置いて歩き出した。
「先輩、試験頑張って下さい」
エリスの背中にスタンの声が浴びせられる。エリスはスタンに振り向く事はなく、右手を軽く上げるだけでそのまま歩いて学校から出て行った。
(スタン、君には悪いけど、私は健太と人生を共に歩んでいきたいから。じゃあ、元気でね)
エリスは心の中でスタンに別れを告げた。
列車を乗り継ぎ転送装置のある地上界出入国管理センターに向かった。
途中、ミニトレインの中でエリスは車窓を眺めていた。
(今度天上界に帰るのはずいぶん先になるわね。今度は天上界の他の鉄道にも乗って時間潰しをしようかしら)
エリスは健太に影響されたのか、徐々に鉄ヲタに近付きつつあった。もっとも、エリス自身は自覚していないようであるのだが。
そして、転送装置を使いエリスは地上界へと向かい、福山市内の転送ポイントに降り立った。
(さて、何をしようかしら。とりあえず、晩ごはんの買い物をしてから帰らなきゃ)
エリスは健太と暮らすアパートに帰るまでに何をするか考えていた。そして、ある事を思い出した。
エリスは転送装置のある建物を出て、意気揚々と街へと向かって軽快な足取りで歩き始めた。向かう先はカレー屋だった。
次回はまさかの人物が健太とエリスの所にやって来る話です。そして、エリスの隠された本性が明らかになります。
お楽しみに




