『回顧』 子を託すこと
彼女は森を駆けた。遠くへ離れること以外のことは考えないで、ひたすら、延々とね。ノイズレッドは別な村に辿り着くか、せめて人に会いたいと考えた。もちろん森には獣がいる。夜森人もいる。いつかは雨も降るだろうし、いつかは己の体力にも限界がくる。彼女の恐怖心は相当なものだったことだろう。それでも彼女は走り続けた。自分のためじゃないよ。大事な大事な我が子のためさ。自分がこの子らを守ってあげなきゃ誰が守るというんだ、という考えの強烈なこと、強烈なこと。目も当てられないね。あはははは。
彼女は実に三日三晩、森を走り続けた。三日三晩だよ。彼女の想いの強さが垣間見えるね。何も食べず、何も飲まず、ひたすら森を抜けていった。ただ赤ん坊はそんなこと知ったこっちゃない。腹が空けば栄養を求めるのは当然だ。赤ん坊の仕事というやつだね。そして母親の仕事は、乳を与えることだ。ノイズレッドは夜森人から身を隠すため、夜は木の洞に入り込んで、そこで母乳を与えていたよ。健気な景色さ。
しかし逃げて、逃げて、逃げ続けた末の、三日目の晩、ついに母乳が出なくなった。母親自身が栄養を取っていないから当たり前だ。どころか走りっぱなしで、体力の限界はもうすぐそこだった。未だ助けを求められる村にも、人にも巡り合えていない。このままでは三人揃ってお陀仏だ。せめて、せめてこの子たちだけは、と彼女は願った。
その時だ。またとないチャンスが訪れた。時は同じくして三日目の晩のこと。
遠くで人の歩く音がする。茂みからこっそり覗いてみると、どうやら近くの村の猟師らしかった。彼女は神に感謝した。……と同時に、神が定めたこの運命を呪いもした。その猟師の顔が見えたとき、彼女は衝撃を受けた。何故なら、その猟師が、あの村長の知り合いだったからだ。
ノイズレッドはその猟師を見たことがあったんだ。時折故郷であるあの村を訪れては、村長と楽しそうに会話をしていたことを思い出した。
彼女は悩んだ。あの猟師は自分やこの子たちの事情を知っているかもしれない。うかうかと話しかければ、その場で私たちを故郷に帰させるかもしれない。それだけは駄目だ。彼女は悩んだ。危険を冒して声をかけるか、このままこの絶好かもしれない機会を見送るか。
悩んで、悩んで、悩んで、悩んで……、そして彼女は、第三の選択肢を採った。
自分の存在を知らせずに、二人の子供を託す。
不幸中の幸いか、彼女の故郷の村人は、我が子の顔を見ていない。我が子の性別も知らないし、そもそも双子であることも知らない。
悩んだ彼女は、身を切る思いでこの決断を下した。猟師の行く道を先回りして、遠くからでも見逃すことのないよう目立たせて、ノイズレッドは、ずっと抱えていた我が子を冷たい地面に置いた。
涙は流さなかった。ここで泣いたら、我が子が見る最後になるかもしれない母親の顔が、泣き顔になってしまう。彼女は精一杯笑って、動こうとしない足にムチを打って、その場を後にした。
やがて猟師が二人を見つけた。驚いた様子で二人を抱え、そして猟師も同じくしてその場を後にした。彼女は心の中で「サヨナラ」を言ったことだろうね。その顔は涙に濡れていた。自分の存在を猟師に気付かれぬよう、必死に口を押えていたよ。




