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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鋼血フォールは揺るがない

作者: MTL2

【1】


夏目邦彦。三十六歳。

九華梨小学校に入学、柔道部にて部長を務める。九華梨中学校に入学、剣道部に副部長を務める。

県立央真ヶ高等学校に入学、私立武術館にて筆頭に任命され、師範の勧めから警察学校へ進学、警察官に就任。

真面目に勤務をこなし、二十七歳で刑事に着任。様々な事件を解決し、一切の躊躇なく犯人を断罪、逮捕。

その余りに無慈悲過ぎる逮捕劇から『鉄血』という二つ名を受ける。

彼は三十五歳まで刑事として現場で動くことを望み、実に延べ数千人に到る犯人を逮捕し続ける。

内、指名手配犯が数百人。テロリストグループのリーダーが七人。刑事としては異常な手柄は全国にまで拡がり、彼は余りに有名になった。

有名に、なりすぎた。

三十六歳の誕生日。その日を明確に憶えてはいないが、確か、そう。徹夜明けで栄養ドリンクが欲しかったから、警察庁の隣にあるコンビニまで出掛けた時だった。


―――――刺された。脇腹を、背中から。


後に解ったことだが、この男は同僚だった。いや、自分より四つほど年下の、教育したこともあった後輩だった。

だが彼は汚職に手を染めてしまい、様々な過程あれど、その手に夏目が手錠を掛けたのである。

それが数年前のこと。そして今、彼は夏目の名声を聞いて、嫉妬と過去の怨みとして刺したのだ。数だけはしっかり憶えている。七回だった。背中を滅多差しにされた。

余りに有り触れた、私怨傷害。夏目にとっては幾つもあった事件の一つでしかなかったが、その男にとっては人生の破滅の切っ掛けとしては、彼を呪い怨むには充分過ぎる理由だったのだ。

だが、夏目は背中に致命傷を負いながらも元後輩を即座に抑え付け、現行犯逮捕。事件は終結した。

彼の人生のーーー……、終結と引き替えに。


「…………」


央真ヶ病院。自身が勤めていた警察庁に最寄りの大学病院。

母の啜り泣く声が聞こえる。父の怒号が聞こえる。同僚が床に頭を擦り付ける音が聞こえる。

それが自身の最後の記憶だった。意識はあったが、敢えて何も言うことはなかった。

それが最期の記憶。夏目邦彦。彼は三十六歳の誕生日から二日ほど眠って、その人生を終えることになった。

彼の人生は、二つ名の通り『鉄血』であったのだろう。妻を娶らず、職務一辺倒、趣味はなく、やはり職務一辺倒。

嘗ての後輩に裏切られ、自身の信じた正義に刺し殺され、それが彼の人生であった。


「…………嗚呼」


これが我が人生であった。悔いはない。

否、後悔さえ知らないのだろう。彼はこの生き方しか知らない。

百度人生を繰り返そうと、千度死を迎えようと、この生き方を変えるつもりはない。

故に、そうだ。嗚呼、これが彼の人生なのだろう。


「産まれた」


人生、だったはずではないか。


「産まれたぞ!」


最期の瞬きは最初の瞬きに。

白衣に覆われた姿は変わらなかったし、真っ白な部屋も変わらなかったが。

自分の手を握る者達だけは、変わっていた。


「我がゾルバ男爵家に、跡取りが産まれたぞぉおおおおっ!!!」


これは夏目邦彦。否、フォール・エドルバ・アル・クライン・ゾルバ誕生の秘話である。

彼は産声を上げず、ただ眼を見開いていたという。見た事もない古臭い天井を見詰めていたという。

まるでこの世界に生まれ落ちたことに、ただただ驚愕するかのように。

その様は、幼子と呼ぶには異様すぎたーーー……。



【2】


装飾や絵画が掛けられ、数百近い本が並ぶ本棚に囲まれた執務室。

重厚な木机に肘を掛けて、白髭蓄えた老父は強く瞼を閉じていた。

その老父と対峙するは少年。彼等は互いに親子の関係であった。


「貴様に僻地を任せたく思う」


少年、齢にして十四。世であれば騎士学校に通い、ゴブリンを倒した、喧嘩で勝ったなどという戯れ言に現を抜かす頃。

然れど少年の、フォールの様は還暦を迎えた歴戦の戦士のようであった。彫り深く、白刃が如き眼光。引き締められた口端と、十四にしては余りに屈強すぎる肉体。

そんな絞られた指先は突然な宣告に痺れのような動きさえ見せなかった。


「……僻地、でございますか。父上」


彼の重々しい声に、対峙する父、アンドリュー・アパウラ・バル・ゲーバイン・ゾルバは眉根を押さえ込む。

そうだ、と。一言。それは明らかな左遷、と言うよりは一種の追放である。この子供は、余りに異端過ぎた。

騎士学校で同級生全員を叩きのめし、教官にまで真剣の訓練で勝利したと言うではないか。しかも傷一つ負わせずに。

そんなだから騎士学校からは退学してくれと多額の礼金を持って頭を下げられた。彼が叩きのめした一人であり、伯爵家の息子からはお前の家を潰してやろうかと脅迫があった。

この子は余りに強すぎたのだ。肉体も、精神も。何もかも。異様なほどに強すぎた。


「は、それがご命令とあれば」


この追放に異議さえ唱えないところも、また。


「……理解しておるのか、フォール。貴様が向かうところは資源こそ豊富であるが、モンスター共が跋扈する怪異の地なるぞ。盗賊や夜盗も多いと聞く」


「承知しております。父上」


「……フォールよ、文句の一つでも言ってくれ。その方が父の気も晴れる。母の命と引き替えに産まれたお前をどうしてやる事もできず、家に放りっぱなし、訓練一つ付けてやることもなかった。勉学も書物は買い与えたが、それ以上はなく、共に夕餉を取ったことも数えるほどしかない。……私は、父として失格だ」


「そんな事はありません。貴方は母上を犠牲に産まれたこの私を忌み嫌うことはなかった。家でもメイドを宛がっていただいたし、訓練も騎士学校に入れていただけた。……その節は、我が不足の致すところにより失望させてしまいましたが、あの学校の練度では私に不足ということも解った。勉学も書物があった御陰で独学で補えた」


「……フォール。違う、違うのだ。私はお前に愛を」


フォールの眼は冷徹であった。感情を喪った彫刻のようであった。

彼の父であるアンドリューが追放という選択肢を選んだのは騎士学校のことだけではない。

怖かったのだ。子供のように笑うこともなく、泣き叫ぶことも、文句や我が儘を言うこともない。

ただ修練に身をやつし、勉学に励み、老賢者が如く静寂。その様を我が子と思うことはできなかったのだ。

これが愛ある父のすることか。否、違う。これでは、ただのーーー……。


「愛は充分に受け取っております。父上」


その一言に、どれほど救われただろう。

アンドリューは眉根抑える指先を掌に重ね、涙した。

我が子の思いやりに、冷徹の中にある熱血に気付けなかった己に、涙した。


「……では、これにて」


肩を振るわせる父を背に、フォールは執務室を後にする。

赤絨毯に革靴を鳴らして黒樹の扉を開き、閉めて。物言わず歩き出す。

長く伸びる廊下に人影はなかった。風景を彩るためだけに置かれた観賞植物だけが唯一の変化だった。

否。それは眼前に限る話であり、退室と共にいつの間にか背後を着いてきていた蒼髪のメイドは除くものとする。


「フォール様。御父上は何と?」


「僻地を任された。明日の朝出ることにする」


「承知しました。……お持ちする私物は」


「無い。……いや、待て。私の手記だけは持って行く」


「は、承知しました。他は御座いますか」


「いや……、そうだな。君もついてきてくれるか、ネイン・ミーティアーナ」


「フォール様のご命令とあらば」


ネインと呼ばれたメイドは軽く頭を下げ、そのまま影へと消えていく。

その様に、やはり動じることも視線を向けることもなく、フォールは長い長い廊下を歩いて行った。

日差しを歩み、屹立とした背と共に、姿見一つ崩すこともなく。

笑みさえもなく、凝り固まった双眸だけを浮かべながら。



【3】


夏目邦彦。今一度、彼の人生を振り返ろう。

いいや、正しくはフォール・エドルバ・アル・クライン・ゾルバの人生と述べるべきか。

彼は転生した。理由、要因、然もあれど、この世界に転生した。

生まれ落ちるはルーベル大陸アドラミーナ地区、ゾルバ男爵家。母の命と引き替えに眼を開いたのである。

さて、そんな彼だが、ドラゴンが空を舞いゴブリンが略奪しスライムが狩られるこのファンタジー世界で何をしたかと言えば、何もしなかった。

否、先に述べたように鍛錬や勉学のみに専念したのである。この世界に異議を唱えることも狼狽えることもせず、刑事時代に培った理解力と強靱な精神を持って、ただこの世界に順応したのだ。

もっとも、その結果は十四の少年らしからぬ姿と性格により同年代から疎まれ、教官には恐れられ、仲間らしい仲間もできず、父から追放を受けるという余りに無残なものであったがーーー……。

それでも『鉄血』がその程度のことで靡くことも折れることもありはしなかった。

否、むしろそれが当然であるとさえ考えていた。


「……良い風景だ」


「はい、全く」


結果、鉄血に残されたのは、いや、与えられたのはと言うべきか。

それはアルマニア地方の、名も無き僻地。長閑で資源も豊富であり、草原拡がる土地であるが、その豊穣さ故に大勢のモンスターが跋扈するという、まるで人喰い植物のような場所であった。

そんなところを彼、フォールとネインは馬車で移動している。傍目に見れば貴族のお気楽旅行だ。

いやしかし、馬車の業者の引き攣った顔だとか、異様に興奮した馬だとか、そういうものを除けば、だが。


「しかし悪いな、ネイン。断ってくれても良かったのだが」


「何を仰りますか。私は貴方様のご命令に背いたことはございません。その為に御父上が与えられたのですから」


「そうか、そうだな」


「御用とあれば夜伽から朝伽に到るまでお世話いたしますのに、フォール様は全て一人で行ってしまいますので……」


「誤解を招く言い方をするんじゃない。自分のことは自分でやっているだけだ」


「自慰ですか」


「だから誤解を招く言い方をするんじゃないと言っているだろう。私はそれに現を抜かす暇はなかっただけだ」


暇はない、と。

軽い言葉にネインが視線を泳がせた先にあるのは、隣に置かれた小さな木箱だった。

そこには数冊ほどの彼の手記とペンが収められている。たったそれだけが、収められている。

この人は産まれて十四年、何かを残すことをしなかった。作り出すことをしなかった。

ただ全て自身の内に収め、自身の内に作り、自身の内に壊す。鍛錬という言葉が人間の姿を得たような御方だったからだ。

結果として、彼の所有物はたったこれだけしかない。数冊の手記と一本のペン。たった、それだけ。

これから向かう僻地に持って行くのは、たった、これだけなのだ。


「……ネイン。私は父上の元で多くを学んだが、それを実践する機会を得なかった。この僻地を収めることもまた、実践したことはない」


「それが普通かと……。それにフォール様は実践されたことはないと仰りますが、明らかに実践というものを知らない人間の眼差しではないと思います」


「いいや、知らないとも。私は何も知らない」


それは彼にしては珍しい独白である。

彼が赤子の頃から、メイドの中で最も年齢が近いという理由から宛がわれたネインでさえ、二度か三度しか聞いたことがない。

常に寡黙である彼が自分に語りかけることを、二度か三度しか。彼はそういう人間だった。

それが今出たということは、彼も彼なりに緊張しているのか寂しがっているのか。

どちらかは解らないが、いつもより少し違うのは間違いないだろう。


「…………」


―――――いいやしかし、そんな彼の独白を聞けたということは、いつもの寡黙も自分に向けては少しだけ解れているわけだ。

伊達に十年以上の付き合いではない。齢としては自分の方が丸々、十ほど上だが、他の誰よりも彼は自分によく話してくれる。

一番近い人間とさえ言えるだろう。自分もまた、彼に一番近い人間であるわけで。

つまり、そうだ。今はチャンスではないのか。この僻地、一応の領主家は用意されているそうだが、フォールの意向でメイドは自分しかいない。

つまり、それはそういう事ではないのか。やろうと思えばヤれるのではないか。

十年間、大亀の行進を彷彿とさせる関係性を、鷲の風切りを思わせる速度で進められるのではないか。


「……フォール様、突然ですが赤と白、どちらがお好みですか。黒もあります」


「む……、装飾の話かね? 気が早いな」


「はい、装飾と言えば装飾ですが気は早くありません。待ち焦がれました」


「そうか……、女性の好みには疎いのだが、君もそういった物を好くのだな。良い、好きにしてくれ」


「はい。承知しました」


若干話がズレている。ただし、フォールがそれに気付くはずもない。

馬車はそんな彼等を乗せたまま、がたんごとんと進んでいく。周囲に幾千と輝くモンスターの眼光を潜り抜けながら、進んでいく。

時に車輪が外れ、時にネインがフォールの隣に座ろうとしたこともあったが、日々はどうにか進み、やがて二度の夕日を見送って三度の朝日を見上げた後、彼等はようやくその邸宅へと辿り着いた。

逃げ帰る馬車に手を振る間もなく、その余りに小さな、牧草地の民家のような邸宅に、ただただ唖然とするばかりであったのだ。



【4】


「父上から書簡が届いた」


「そうですか。御父上は何と?」


家の中も、まぁ、酷いもので。

雨が降れば雨漏れはお任せあれと板を張る天井に、鼠叩きが捗りそうな穴ぼこの床。

窓は安物なのか亀裂が入ってるしところどころ曇っているし、扉は酷く立て付けが悪い。

家具もネインが希望したベッドだけがまともで、父であるアンドリュー男爵が用意したはずの家具は全てゴミ箱から引っ張り出してきたのかと思うほど薄汚れていた。

外観もさることながら、倍に倍を重ねて内面が酷い。まるでこの領地を現すかのような、とんでもない一軒家であった。


「どうにも悪質な業者に引っ掛かったらしい。君が注文したのは別口で無事だったが、その他は全て持ち逃げ……、と言うより勝手に交換されたようだ。何処かの盗賊共が身分を偽って申し込んだのだろう」


「何と……」


「手荷物が少なかったのが幸いしたな。持ち逃げと交換されたのはこの家を建てる私財や家具ばかりだ。最低限の食料などは父上から詫び代わりに届いているし、金も、まぁ、こんなところで意味はないが、送られてきた。節約すれば数ヶ月は食い繋げよう」


「はい、その辺りはお任せを。……しかし、大変なことになりましたね。如何なさりますか?」


「そうだな、父上も悪気があったわけではないし、最悪ではあるが家具もある。君の御陰でまともなベッドもだ。ならば特に困ることはないだろう。掃除すれば充分に住める家になるはずだ」


「よろしいので? 御父上に頼れば新しい家具も……」


「いや、良い。父上の言葉に甘えて全てを任せてしまった私にも責任はある。……もっとも、一番憎むべきはその業者に扮した盗賊共だが」


「フォール様がそう仰られるのであれば……。しかし残念ですね、私も最低限の手荷物は馬車に積みましたが、他は全て業者に任せましたので、メイド服の替えが……」


「む、そうかね。……いや言われてみれば私もそうだな。そうだ、衣服の替えがない。着衣がない。これは困った」


「幸いこの辺りはモンスターの群生地。何ならモンスターの皮から衣類ぐらいなら作れますが」


「……いや、私自身のものであれば構わないが、君は女性だ。そんな君の衣服の替えがないというのは些か気に掛かるだろう」


「いえ、特に気には……」


「そう言うな。己の不足で他人に迷惑を掛けるのは好かん」


「……さいで御座いますか」


「そこで、どうだ。確か……、少し離れてはいるが近くに町があったはずだ。首都より規模は小さいが服屋はあるだろう。足りない家具も買い足せば良い」


「はぁ、少しと申しますか、かなりですが。歩いては一日かかりますよ」


「構わない、私が行こう。帰りは馬車を使うから半日で帰ってくる」


「でしたら私も行きます」


「いや、君には家の補修を頼もう。何せ我々の新居だ、今日の夜は綺麗にして眠りたい」


「我々の新居」


「屋根は危ないから私が修繕しよう。落ちでもしたらコトだからな。君に何かあっては私が困る」


「ナニか!」


「取り敢えずそういう訳だから、私は町に行ってくる。色々と入り用だから買ってくるが、君は何か必要かね? であれば序でに買ってくるが」


「ゴムは要りません!!」


「……そうか? 色々と縛るのに便利だが」


「我々の未来はフリーダムにございます」


「……疲れているなら寝ていても構わな」


「寝るは夜から朝までしっぽりとです」


「あぁ、そうだな、健康的だ。うむ。……大丈夫かね?」


「はい、期待に胸が膨らみます」


「新居生活に胸躍らせてくれていて何よりだ」


若干話が以下省略。

ともあれ、歩いて一日掛かる距離ではあるが、フォールは町へ、ネインは家の補修をという話になった。

いや歩いて一日と言っているのに半日で帰るというのも些か可笑しな話ではあるが、彼等は当然のようにそれで予定を進めていく。

既に日は天半ばに掛かっており、時間で言えば大体十時頃だろうか。今から半日となれば帰ってくるのは夕方になるだろう。

その為、フォールは町で昼食を済ませ夕飯はこちらで食べると言い残し、普段通りの鉄板仕込みの革靴と愛用の剣を携えた。

旅路用の衣と、手荷物を入れる革袋も。


「では行ってくる。来客はないと思うが、新人に挨拶に来る輩もいるだろう。その者達の世話は君に任せよう」


「はい、承知しました。他には何かございますか?」


「……そうだな、夕飯は多めに頼むよ。昼食は少なめに取る」


「折角の町だから美味しいものを食べてきては如何です?」


「いや、君の料理より美味いものを知らないだけだ」


「ありがとうございます。では、お気を付けて」


「あぁ、それじゃ」


扉が閉められ、三秒ほど。

ネインは1カメ2カメ3カメから射点を入れられそうなガッツポーズと共に指を天へ突き上げる。

相変わらずの平然さと共に次の瞬間にはいつもの業務に戻るのだが、こういうデレがあるから良いのですという言葉だけは漏れてしまったようだ。

あと序でに台所まで向かう足取りにも。るんるん新婚気分なようで。


「さて、と」


ネインは、彼が口に出したことはないけれど、好物であるボッズミートパイの食材を手に取った。

赤南瓜と干し肉。あと香辛料。南瓜の中身をしっかり煮込んで干し肉をつめ、ボッズの身を押し込む郷土料理だ。

彼女は手際よく食材の下準備を終わらせていく。どうせ町に行くなら入籍届けを貰ってきてもらえば良かったとちょっとだけ後悔しながらではあったけれど。

彼の帰りに胸躍らせて、小刻みにステップを踏みながら、相変わらずの無表情で食材を捌いていくのであった。



【5】


夏目邦彦は不幸である。

もし彼の人生を一冊の小説にして誰かに読ませれば、十人中八人がこれは悲劇だと嘆くだろう。

一人は胸クソの悪い駄作だと怒るだろう。一人は何も言わず途中で本を閉じるだろう。彼の人生は、そういう作品であった。

裏切られ、見捨てられ、転生した後であっても苦難は多くあった。

最早、自分は不幸を呼び込む星の下に産まれているのだろう、と。そう彼自身でさえ思うほどに。


「……ふむ」


フォールは町に到着していた。

太陽は少し傾いていて、昼時には少し遅い時間だろう。ランチタイムサービスにはどうにかまだ間に合うか、と言った時間だ。

本来であればもう少し早く到着していたのだが、道中でちょっとした事故があったせいで遅れてしまったのだ。

それに関しては一応の後片付けはしてきたが、帰りにも少し様子を見ておいた方が良いかも知れない。

さて、それは後ほど行うとして、少し困ったことになった。町まで来たは良いが道が解らない。

せめて何処かで道を聞きたいのだが、人は何故か自分を見るとそそくさと逃げてしまう。何故だろう。

かと言って道を教えてくれそうな場所もないし、酒屋に入ったら未成年は駄目だと叩き出された。

いや、年齢を言わなければそのまま迎え入れられていたのだが、法的にはその責任は店主に行くので、自己申請したのだ。

その結果が叩き出し。まぁ、当然であろう。


「市場を辿ってみるか? いや、家具屋と服屋を探さねばならないし……」


せめて、商店通りがあれば解りやすいのだが中規模の町だ。広さは割とある。

町の地図を買おうか。しかしそういうものは決まって割高である。

父、アンドリューから送られてきた金は詫び代わりに色を付けられていたが、できればこんな事で使うより貯金したいところだ。

これからこの慣れない土地で何が起こるか解らない。ならば供えて然るべきだろう。


「……と、なれば、ふむ」


彼は軽く周囲を見渡した。

そしてそのまま、何かに納得するかのように軽く頷いてみせる。

その動作が何を示すのか定かではなかったが、彼は悠々と町を歩き出した。

幾つかの路地を覗き、大通りを見回り。商店街を見た後も買い物するでもなく、ただ歩いて行く。

時に商人の馬車行列を避け、人波の中をすいすい歩き、かと思ったら何でもない道でずんと遅くなる。

そんな事を繰り返して三十分ほど。彼は突然に今まで覗くだけだった路地裏へと入っていった。

それも消えるような速度で、だ。通路に面する建物の窓から顔を覗かせていた少年は幽霊がでたと騒ぎ立て、母親に怒られて。

その子供の泣き声を聞きながら彼は、行き止まりの壁先に爪先をぶつけるのであった。


「へ、へへ、やっと追い詰めたぜ……!」


彼の背後から迫るは、これまた如何にもと言わんばかりの追い剥ぎだった。

性別こそ女性で小柄ではあるが、骨肉の隆起とした肉体と大柄のナイフからして、容易に追い剥ぎだと解る。

あと背格好。これもボロ布やモンスターの皮で編まれたポーチからして堅気のそれではない。

要するに、さて、彼女はドワーフだ。ドワーフの追い剥ぎだ。見た目こそ幼児だが、内年齢はきっとフォールよりも高いだろう。

いや、それを言うとフォールの内年齢は四十歳にもなるわけだが。


「手間ァかけさせやがってよぉ……! へへ、だが俺のホームグラウンドで戦ったのが悪かったな! もう逃げられねぇぜ!! そこの壁を越えてみっかぁ!? お前が鳥人族なら、だがなぁ! 意地汚い人間めっ!!」


「……そうだな、ふむ。大体5メートルぐらいか」


コンッ、と。


「ンなぁっ!?」


登った。と言うか走った。

壁に靴底を打ち付けたかと思うと、重力を直角に曲げたかのようにコンコンコンッ、と。

ドワーフの追い剥ぎは唖然としながら口を開き、情けない呆け顔を空へ向けていた。

開いた口が塞がらない、なんて。それ以上に適切な表現がないほどに。


「ありがとう、君の御陰で町の構造は大体解った。これで地図を買う手間が省けたな」


「……は、ぁ? あっ?」


「悪いが尾行には慣れていてね。相手を目的の場所へ行かせたくなると、素人はどうしてもそちらへ身を寄せてしまうものだ。路地の繋がりと大通りと、あぁ、うむ。これで町の地図が完成した」


「はぁ!? だってお前、レパーラ通りにはまだっ……!!」


「レパーラ通りは東のキッシェル通りに。カルカロッソ雑貨店から抜ければ近い。一番主要な大通りはキッシェル二番通りだ。……あぁ、レパーラ通りというのは途中にすれ違った商人の名前だな。有名なのかね?」


「なんっ……!? こ、こ、の、ガキぃいいいいい…………!!」


ドワーフの追い剥ぎはわなわなと震え、自身の持っていた大柄のナイフをフォールへと投げつけた。

鷹鳥のような速度で迫る刃だが、フォールは相変わらずの平然とした表情でそれを摘み止める。

そして、軽く腕を返して壁下へと落とした。当然の如く、摘んだ指先さえ無傷であった。


「……はぁああ!?」


「女性が刃物を投げるな」


彼は短くそう言い残すと、平然とした表情のまま壁から降りていった。

着地音はない。ドワーフの追い剥ぎはもしかして奴は幻だったんじゃないかと首を捻ってしまう。

いやしかし、置き去りにされた刃物はあるし、あの男とは確かに喋ったし。


「……人間、だよな」


もしかして精霊の類いだったんじゃ……、と。彼女は肩を抱えて震え上がった。

今までこの手で追い剥ぎをしていて逃したことなんかなかったのに。この町で冒険者に護られて平和呆けした大体の奴は泣きながら財布を置いていく。

憲兵にだって掴まるものか。僻地近くの町は仕事がやりやすくて良い。

だとか思い始めていたのに、これだ。ーーー……いや、止そう。きっと悪い夢か何かだったのだ。

アレは悪夢。そう思おう。そうだ、悪夢なのだ。そうなのだ。


「よし! 飯でも食いにいっかぁ!!」


人生何事も切り替えが大事。

いつまでもくよくよしてたって仕方ない。午後には新しい獲物を狙うのだ。

こんなところでくよくよしてなるものか。そうだ、今日はちょっと贅沢して美味しいものを食べよう。

酒場で器にヒビが入るほど冷えたビールを飲みながら、ほくほくのジャガイモをつまむのだ。

いやいや、今日はジャガイモなんて言わずにミーティアフィッシュの刺身でも良い。宝石のように透き通った刺身を湯に通して食べるのだ。

そうだ、そうしよう。こんな日ぐらい、そうしたって、バチはーーー……。



【6】


「む」


「何でお前がいるんだよッ!!」


酒場に響き渡る絶叫。振り向く店員と驚きに飛び上がる客達。

当たった、見事に当たった。バチが。つい先ほど逃したはずの男が平然と飯を食っている。

しかも自分が喰おうとしていたミーティアフィッシュの刺身を生で。正気かこの男は。


「数分振りだな。進境はどうかね」


「テメェのせいで今日の稼ぎはゼロだよ! 良い身形の坊ちゃんだから狙い目だと思ったのにぃい……っ!!」


「人を見た目で判断しないことだ。あくまでそれは判断に必要な一つの材料なのだから。……では、人を知るに必要な三つの材料は何か解るかね?」


「知るか、そんなもんっ!!」


「一つが外見、一つが内面、一つが時間だ。外見は人を現すに事足りないが全く無いというわけでもない。私のように身形をよくすれば君の言う通り、優男にも見えよう。しかし内面と外見は比例しない。優男でも卑屈なもの、陽気なものと様々いる。それを知って、初めて人を四割知れるのだ。やがて残り六割は時が埋めよう。……だからその三つがあって、初めて」


「うるせぇなぁ! 俺ァ飯を食いに来たんだっ!! お前のうんちくを聞きに来たんじゃねぇ!! この、トーヘンボク鬼目付きお坊ちゃんが!!」


「……そうか、それもそうだな。失礼した」


彼女はふんと鼻を鳴らし、態々足音を大きく立てながらカウンターへと歩いて行った。

そんな彼女が高いカウンターに飛びついて店主に何かを怒鳴りつけている様を一瞥し、フォールは再びミーティアフィッシュの刺身にナイフを突き立てる。

美味い。鯛と鮪を混ぜ合わせたような味だ。どうやらこの世界には生で食べる文化がないらしく、本家にいた頃はこういう食べ方をするとよく父アンドリューが引き攣った顔をしていたのを思い出す。

つい昨日まではそれが日常だったのに。今ではもう、何故か数年前の事のように懐かしく感じた。


「……しかし、何だ。醤油がないというのが玉に瑕だな」


我が儘を言えば白米と山葵も。

そんな風に思いながらもも、彼は相変わらずの無表情で黙々と刺身を摘んでいく。

まるで老人のように、食を楽しむ風でも、栄養を取る行為と割り切っているわけでもない。

ただ、黙々と。然れど美味そうに食べる。無表情だと言うのに、何故か見ている者はそれに引き込まれた。

黙々。ナイフを突き立てフォークを運び、黙々。隣の席でパンを食べていた荒くれ者がごくりと生唾を飲んだ。

瞬間、ドンッ、と。弾けるような音と共に彼のテーブルへビールが叩き付けられた。

その際に縁から飛んだ飛沫がフォールの衣に掛かったが、彼は特に気にする様子もなく、静かに視線を移す。

そこにいたのは、つい先ほど文句を言いながら立ち去ったはずのドワーフの追い剥ぎだった。


「トーヘンボク鬼目付きお坊ちゃんに何か御用かね、お嬢さん」


「お嬢さんじゃねぇ! 俺ァ、お前なんかよりよっぽど年上なんだ!! 今年で二十七歳だぞ。に、じゅじゅ、う、な、な! テメーなんか見たトコ二十五ぐらいだろ!?」


「今年で十四だが」


「じゅ、えっ? 何? 二十四?」


「十四歳だ。目付きが悪いから年上に見られるがね」


酒場の中がしんと静まった。ある物はフォークを落とし、ある物は口端からビールを零す。

店主は口を押さえながら未成年じゃねぇかと震え上がった。三十四歳だと思っていたという呟きは聞こえなかったことにしておこう。

フォールはそんな空気にも関わらず、また平然とした表情で刺身を食べ始める。

その音だけが奇妙に店内へと拡がるばかりだった。


「う、嘘だろ。な? お前そういうのいいよ。おい。俺が追い剥ぎだからって舐められないように言ってんだろ、おい」


「見た目で判断するなと言ったろう。それを言うなら君も幼子ではないか」


「お、おさなごぉ!? っざけんな! この筋肉モリモリな腕が見えねぇってのかい!!」


机の上に片足を乗せ、腕まくり。掲げられた腕に酒場から歓声が上がった。

筋肉モリモリと在り来たりなことを言うだけはある。その華奢で小柄な体躯からは予想もつかないほどしっかりした腕だ。

あの大柄なナイフを投げたのもこの腕の御陰だろう。追い剥ぎで鍛えた筋肉、といったところか。


「良い腕だ」


「おふっ、お、おぉう、そ、そうだろそうだろ! 俺の腕は天下一よぉ!!」


「よっ、いいぞネーちゃん!!」


「良い腕だねぇ、殴られたらへばっちまいそうだぜ!!」


周囲から囃し立てる声が聞こえる。彼女も調子に乗ってばんばん腕を見せつけた。

歓声は留まるところを知らず、終いには服を脱げだ何だと言い出す輩まで出始めた。

止せば良いのに、この腕に勝てたらな、と彼女。歓声が酒場を揺らすほど響き渡った。


「お、俺だ! 俺が行くぜ!!」


「いやいや俺だ! 俺が行く!!」


「引っ込んでろ雑魚どもっ! ここは腕相撲大会七連覇の俺様に任せるんだな!!」


やいのやいのと大盛り上がり。彼女の前に、腕相撲大会七連覇を自称する大男が歩み出た。

成る程、彼女の腕も中々だが、この男の腕の方が何倍も太い。それこそ彼女の両腕ほどはありそうな太さだ。

二人はがっちりと腕を組み合い、いや、むしろ男の掌が彼女のを握り潰すような形ではあったのだが、それでも彼女は頑として引くことはなかった。

そして、停止。腕を組み合ったまま、不敵な笑みを向け合って止まる。

合図はない。周囲の歓声も枯れ細るように無くなっていき、やがてしんと静まり返っていた。

音があるとするならば、彼女の腕が倒れたら刺身をメチャクチャにされるであろう場所で、フォールが操るナイフとフォークの音ばかり。


「…………」


「…………」


かちゃりかちゃり。

決して大きくはないはずの、フォークとナイフが皿を擦る音が反響する。

誰もが息を呑んだ。隣のテーブルの男が、先とは別の意味でまた生唾をのみ込んだ。


「…………」


かちゃり、と。ナイフとフォークの音が止んだ。

フォールは横の杯を手に取り、水を喉へ流し込む。何と言うことはない行為だった。

だが、誰も彼もがその行為に目を向ける。机へ置かれる杯の底へ、視線を縫い合わせる。

そしてーーー……、こつり。杯がテーブルと、接した瞬間。


「ぬぅううううううううううんっ!!!」


「おりゃぁあああああああああっ!!!」


静寂が爆発して、歓声の濁流が溢れ出した。

実力は意外にも拮抗。双方の血管浮かび上がる腕がみちみちと音を立てる。

つい先程まであんなに皆の注目を集めていたフォールの動作は何処へやら。誰も彼もがぴくりとも動かない、重圧な勝負に心惹かれていた。

ただ一人、隣で相変わらず刺身を摘むフォールを除いて。


「や、やるじゃねぇか嬢ちゃん……! この俺と張るとはなぁああああああ…………!!」


「け、この辺りに来るのは滅多にねぇからな、その腕相撲大会とやらも俺が出てりゃアンタは優勝さえできなかったんじゃねぇの……!?」


僅かに、女の方へ。


「抜かせ……! アンタを倒して八連覇の礎にしてやらああああああ……!!」


僅かに、男の方へ。


「「ぬぬぬぬぬぬぬぬ…………!!」」


眉間に血管を浮かべながら、拮抗。その度に歓声が倍々上がりになっていく。

表を通る通行人達がぎょっとして店を見るほどに、マスターが余りの五月蠅さに酒瓶が落ちやしないだろうかと戸棚を気にするほどに。

盛り上がり、盛り上がり、盛り上がり。豪雨の轟きよりも激しくなった頃。

遂に二人の腕に、動きが見え始めた。


「ぐ、んっ……!」


やはり男女の体力差か。ドワーフの腕が段々と下がってきたのである。

男はここだと言わんばかりに全体重を掛けていく。彼女の何倍もあろう肉の塊が重圧となり、感覚さえ怪しくなってきた腕にのし掛かる。

肩からみちりみちりと肉の締まる音が聞こえてきた。


「どうしたお嬢ちゃん……! もう服を脱ぐ準備した方が良いんじゃねぇか……!?」


「こんなガキ体型に躍起かよ変態め……!」


「馬鹿言え、勝負挑まれたら男ってのは答えるもんで……! 勝負の勝ち負けってのはハッキリ付けたがるもんよぉ!!」


ぐ、と。彼女の手の甲が一層テーブルへ、いやフォールが刺身をなぞる皿へと近付いた。

手首の汗が皿の縁へ落ちる。今にも震える腕が杯を押し倒してしまいそうだった。

然れど熱狂止まず、それどころか彼女の手の甲がほんの数ミリ動くだけでもさらに勢いを増していく。

最早それは狂乱に近かった。誰も彼もがそのテーブル廻りに集い、鼻息荒く勝負の征く末に野次を飛ばす。

そんな中でもやはり、フォールは平然と刺身を摘んでいた。一枚一枚を丁寧に掬い上げて、口へと運んでいた、が。

フォークの切っ先が皿を擦った。そこにはもう刺身はなかった。

思いの外、刺身に夢中になっていたらしい。まぁ、食べるのは久しかったし良い息抜きでもあったのだろう。

困難続きな日々に一瞬の安らぎ。周囲は安らぎなんて言葉とは程遠いが、フォールはちょっとした満足感を心に携えつつ杯に手を伸ばそうとしてーーー……。


「……ちぃっ!」


急に、ドワーフの追い剥ぎが肘を押し上げた。

それに連られて男もずるりと肘を滑らし、フォールの掴もうとしていた杯を机から落としてしまう。

杯の水は彼の脚に引っ掛かり、男がそれに驚いた瞬間、ドワーフは全力で腕を押し上げた。

そしてばちんッ、と。明らかに優勢だったはずの男は一瞬の不意を突かれて手の甲をテーブルへ押しつけられてしまったのである。


「…………は、あ?」


唖然。男だけでなく、周囲の者達もただ唖然としていた。

フォールもまた唖然と言うよりはいつも通りの平然でこそあるが、杯を掴むはずだった手を引っ込められずにいる。

ただ得意げにふんと鼻を鳴らすドワーフの声だけが、酒場にある音だった、が。


「ふ、ふざけんじゃねぇええええええええーーーーーっ!!」


飛び交う飛び交う、怒号の嵐。

男の叫びを初めとして、酒瓶だの皿だの食いかけの骨肉だのがドワーフへと投げつけられた。

彼女はそれ等をひょいひょいと避けつつも、事故だから仕方ないと白々しく言い張るばかり。

それがまた彼等をヒートアップさせる。終いには喧嘩腰に負けた男が腕を鳴らす始末だった。


「表に出な嬢ちゃん! 社会の厳しさってぇのを教えてやるぜ!!」


「はぁ!? 何だよぅ、お前が勝手に驚いただけだろ! アレは事故だったんだっつーの!!」


「事故もクソもあるか! あんな赤っ恥掻かされたんじゃ引き下がるに引き下がれねぇ!! 良いから表に……」


怒号の隙間に針を通すが如く、彼は椅子引く音と共に立ち上がった。

誰もがびくりと、肩を震わせた。何も物言わぬはずだった男の存在感に恐怖したのである。

恐ろしい、と言うよりは、不気味。禍々しい置物が動いた、と誰かが思ったが、正しくその通りであろう。

しかし彼のその様に喧嘩をふっかける男も吹っ掛けられる女も、一種の不安と期待を込めていた。

まさか、この喧嘩を止めーーー……。


「店主、会計を頼む」


否。平然と店主の方へ向かって行って金を払い、店を出ようとする。


「いやいやいやいや待てよテメェ! 俺を置いてくつもりかアァン!?」


「止めねェのかよテメェ!?」


同時に入るツッコミ。店中から何かやれよと野次が飛ぶ。

彼は相変わらず何も言うことなくそんな怒声など何処吹く風。

漆塗りの財布から銅貨を三枚取りだし、店中の喧騒に怯える店主へ金を払う。

踵を返してすいすいと進む様など、まるで何もなかったと言わんばかり、だったが、そのまま退店しようと出口へ足を運ぶ彼の前に太い腕が突き出された。


「兄ちゃんよぉ、このまま帰るってぇのかい? そりゃちょっと筋が通らんなぁ」


「筋と言われてもこちらにはそも、その筋すらない。その娘が勝手に腕を見せびらかし、勝手に賭け勝負を言いだし、勝手に負けただけだ。因果応報……、はこの世界になかったな。自業自得だ」


「いん……、せか? い、いやだが、自業自得ってのはねぇだろうよオイ! お前さん、あんなところに水置いてたんだ、グルじゃあねぇのかぁ!?」


酷い言いがかりだ。むしろ巻き込まれた立場であると言うのに。

流石にこれは野次馬達も首を傾げざわついた。一人で頭に血を上らせた男が言い出したイチャモン、と言ったところだろう。

フォールもまた、何を言うでもないが一層冷たい、それだけで人を刺し殺せそうな眼で男を見詰めてみせる。

男はたじろいだが、ここまで来ては引くに引けない。苦しい言いがかりを付けてやろうと身を乗り出した、が。


「そーだよ! コイツは俺のツレさ!!」


突然、ドワーフの追い剥ぎが叫びだした。


「いやぁ、やるねぇお前! まさあ見破られるとは思わなかったな!! にしても酷いじゃねぇか兄貴、俺を置いて逃げっとはよぉ!! 俺みたいな使いぱっしりは兄貴がいねぇと何もできなくてなぁ~! なっ、旦那! 俺と兄貴が話してたとこ見たろ?」


「え、お、おう?」


隣の席の男性は驚いて飛び上がり、思わずその白々しい言葉に頷いてしまった。

明らかに出任せな言葉だったが、この不安定な酒場の敵意を一点に集めるには余りに充分過ぎるもので。

野次やら絶叫やら、もう何が何だか解らない騒音が店内に反響する。店主は戸棚から震え落ちる酒瓶を拾うので精一杯だった。

フォールは自身に向けられる幾つもの暴言を聞き流すように静かに目を閉じた。しかし、入り口はもう何人もの荒くれ者が構えている。

このまま何事もなく出るのは不可能だろう。と、なればやる事は一つだけだ。


「解った、勝負するとしよう」


「しょぉおおぶぅうう!? このガキ、イカサマしといて何を」


「賭けるのは私の身包みだ。何なら財布も付けるが、如何かね」


取り出したるは先ほど見せた漆塗りの財布。

傍目に見れば真っ黒なそれだが、よくよく観察するとかなりの高級品であることが解る。

身形もそうだ。元よりこの酒場には合わない、キッチリと調えられた衣類。

となればこの財布、見た目だけでなく中身もそれなりにあるということだろう。


「……ま、まぁ、良いだろう! ただしテメェが負けたらそこのガキと同じく裸踊りでもして貰おうか」


「あぁ、どうとでも。ただし勝てたら見逃して貰うとしようか」


「上等だぜ! 俺がお前に負ける様なことがあればなぁ!!」


「はぁ!? ちょ、待てよ! 俺はそいつ……、じゃなくて、兄貴の命令でやっただけで!!」


「うっせ! お前だって俺を馬鹿にしたんだから逃がすもんかよ!!」


計算が狂った、とドワーフの追い剥ぎ女。

この男に批判が集まっている内に逃げるはずが、気付けば自分の周りもガッチリと固められている。

つまりこの男が負ければ裸踊り。いやいや、最悪もっと酷いことになるだろう。

逃げられるはずがこの有様とは、何たる誤算か。今日は全くもって厄日である。


「おいテメェ! 負けたら赦さねぇかんな!! 解ってんだろうな!? 負けたらアレだぞお前、ホント赦さねぇぞ!!」


「うっせー! 誰かそのガキ抑えてろ!!」


「ガキじゃねぇつってんだろオッサン!!」


彼女がぎゃあぎゃあと喚く中、男はテーブルの食器だの何だのを薙ぎ払って肘を叩き付けた。

構えられた腕は心なしか先程より大きく見える。筋肉が隆起し、怒りにより体が前のめりになっているのだろう。

フォールはそんな彼と反して静かに席に座り、静かに肘を置く。差し出された掌を脂ぎった指が押し潰さんばかりに握り締めた。


「おぉい! 誰か合図しろッ!!」


どう見ても、始める前から勝負は付いている。

大男と青年だ。体格も、まぁ青年は年頃にしてはしっかりしているが大男のそれとは比べものにならない。

かと言って屈強で知られるドワーフでもなければ獣人でもない。この勝負は先のそれより熱中することもなく、一瞬で終わるだろう。

フォールもそれを確信しているのか、にやにやと口端を崩す男に対して、相変わらずの冷静さを保っていた。


「それじゃあ、いくぞぉ……」


荒くれ者の一人が、がっちりと組み込まれた腕を掴む。

軽く、触れるか触れないか。ほんの少しだけ浮かせたままに、双方の視線を確認して。


「ファイトォッ!!」


自身の腕を、跳ね上げた。


「ぬぅ……えっ」


ぱすんっ。確かに勝負は一瞬だった。

ただし、勝ったのはフォールである。彼はでは、と一言だけ残して荷物を調え、出口へと向かって行った。

荒くれ者達も平然と歩んでくる彼を止めることはできず、ただ唖然としている。何が起こったのか理解できず、呆気にとられている。

いいや、彼等だけではない。腕相撲をしていた男も、周囲の野次馬も、突然店が静まり返ったものだから慌てる店主も。

誰も彼もがフォールを止められず、そのまま退店を赦してしまった。後に残るはぎぃ、と扉が軋む音ばかり。


「お……、おい、何やってんだよ? あのガキ、そんなに強かったのか?」


「ち、違ぇ。違ぇよ。気付いてたら負けたんだ。ちょ、今、俺負けたのか? なっ?」


「こっちに聞くなよ……」


皆はただ、何が起こったのか理解できずに騒然とするばかりであった。

ただ、一人が取り囲んでいたはずのドワーフが消えていたことに気付き、また喧騒が店を取り囲むのだけれど。

その声が響き渡る頃にはもう、フォールの影は店から見える場所にはないのであった。



【7】


「なっ、なっ! やるじゃねぇか、旦那!!」


人混みの中をとてとてと着いてくるドワーフの追い剥ぎ。

彼女の瞳に映っているのはこちらに見向きもしない男の姿だった。

先の酒場から彼の御陰で脱出することができたのだ。いや、それ以上にこの男は何かある。

身形や持ち物と言い、先の勝負と言い。何か良い臭いが、金の臭いがぷんぷんするのだ。

ならば逃す手はないだろうと着いてきた次第。まさあ厄日だと思ったら大物が釣れるとは夢にも思わなかった。


「俺ぁリズエラってんだ! な、見ての通りドワーフでよ、年齢は言ったろ、二十七だ! でも人間で言ったらもっと若いからよ、な? どうだ、なぁ! 俺とちょっと良いことしねぇか、おい!」


何を言っても反応しない。完全に無視の態勢だ。

ちょっとお色気を出してやっても、胸をちらつかせても、背中によじ登って耳元で囁いてやっても、微動だにしない。

お堅いを通り超して化石のような奴だ。確かに筋肉はあるが、これでも外見には自信がある方だと言うのに。

ちょっと手を引っ張って胸を触らせてやろうか。小柄なドワーフだからって馬鹿にする奴等も多いが、これでも胸は結構ーーー……、と。

彼女が手を引こうとした瞬間、ふいっと襟首が持ち上げられた。手足が宙に浮き、何が起こったのか理解する間もなく人混みの景色に押し流される。

一度か二度ほど瞬きして、気付けば見覚えのある路地裏に来ていた。先程、丁度この男に逃げられた、行き止まり壁のある路地裏に。


「お、おぉ、何だよ何だよ。外でやんのか? ん? へへ、旦那も好きものだねぇ!」


「……リズエラ、といったか」


「リズでいいぜ! な、どうだ? ほら服脱ぐ時は恥ずかしいからさ、後ろ向いててくれよ! それとも俺が脱がそうか? なっ?」


「こんな事をいつもやっているのかね」


「……んだよぉ。説教か? 面倒臭いことすんなよな、ほら、やった後でも良いじゃん? だから、なっ?」


「いや、説教するつもりはない。君のような性格に説教は意味がないと知っているからな。無論、更正のさせ方もだ」


「はぁ~? こーせー? んだよ、同じじゃねーか! 解った解った、私が悪ぅござんしたよ!! な、だから反省してるから、ほら」


「欲しいのはこれだろう」


懐から取り出された財布。飛びつくリズエラ。空を掴む手。

まるで漫才のように決まり切った動作だった。リズエラの身長では高く掲げ挙げられた財布には届かない。

彼女はその後も何度か飛んだりよじ登ったりしてみるも、尽く、弄ばれるように財布を掴むことはできなかった。


「ん、だよテメェっ! 知ってんのかよ、くそっ!!」


「あぁ、当然。お前は視線の動きが露骨過ぎる。プロのスリ師ともなれば視線は他所に向けておくものだ」


「すりしって何だよ! ってか寄越せよ!! おい!!」


「却下だ。そんなに金が欲しければ働けば良いだろう」


「無理なんだよ、くそっ! 亜人なんてぇのはな、嫌われるもんなんだ! さっきの荒くれ者の酒場なら良いが、ちょいと良いトコに行くと亜人は臭ぇだ何だって言われちまう! それに俺はガキん頃から盗みやってっから、この町じゃもう何処も雇ってくれねぇ! そういう風になってんだ!!」


「……だから、自業自得なのだ。先の酒場のように自分で自分の首を絞める」


「仕方ねぇだろ! こうしなきゃ生きてこれなかったんだ!! 捨てられて、ゴミ漁ってよぉ! 俺だってこんな生き方したくてやってんじゃねぇ!!」


荒げた息は、段々と金切り声になっていく。

喚く、ではない。嘆く。それはリズエラが本心から叫んだ言葉だった。

珍しい話ではない。何処の世界、何処の国、何処の町にでもこういう者はいる。

フォールーーー……、いや、夏目が説教が無駄だと言ったのもだからこそだ。刑事時代、彼女のような不良娘は何人も補導してきた。

もっとも、年頃の荒くれと生まれついての貧乏であることの悲惨さは比べものにならないが。


「……ふむ、そうか。ふむ」


「あ? 同情かぁ!? 同情すんなら金を寄越せ! 金がなけりゃ飯も食えねぇっ!! 今日はお前のせいで儲けもねぇし、結局は酒場で飯も食い損ねたんだぞっ! だから、おい! 金を寄越せ!!」


「あぁ、良いだろう」


「こうなったら力尽くで……、え?」


「金が欲しいならくれてやる。ただし、条件付きだがな」


「……は、ははっ! さっきの腕相撲みたくまた何かやんのか!? 良いぜ、次こそは負けないぜ!!」


「そうか、なら良い。ただし途中で逃げ出さないことだ。それが護れるなら……」


「護る護る! やってやるさ!」


当然、リズエラは途中で逃げ出すつもりである。

どんな形でも良い。コイツが隙を見せた瞬間に財布をスってやる、と。

お堅い上に隙もなく、何を考えてるか解らないし人は三十人ぐらい殺ってそうなツラだが、必ず何処かでヘマをするはずだ。

そこを突いてやれば良い。長年、路地裏で生きてきた身だ。そういうのには慣れている。

辛抱強く耐えてやるとも。それまではコイツのご機嫌を取って、ニコニコしながら下手に出れば良いのだ。

財布をすられて顔を真っ赤にぷるぷる震えるコイツを想像すれば何だって耐えられる。さぁ、どんなのでもやってみやがれーーー……。



【8】


彼女は顔を真っ赤にしてぷるぷると震えていた。

その背格好は先程までの薄汚いものと違い、外見相応の可愛らしいピンク色のドレスだった。

今まで着たこともないひらひらしたドレス。動きにくいわごわごわするわで散々だ。

似合ってますよぉなんて、店員の鼻から抜けるような声がもっと苛つかせる。


「ど、お、ゆ、う、つ、も、り、だ、よぉぉおおおおおおおおお…………!!!」


「どういう? 何、約束通り金を使っているわけだが」


店員に服裾を調えられているリズエラの前で、フォールは新聞を拡げ読んでいた。

怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にした彼女など知ったことではないと言わんばかりだ。

まず、彼はリズエラを理髪店に行かせて髪型を調えさせた。そして今、こうして服屋で身形を整えさせている。

更正の第一歩。まずは身形、と。つまりはそういうことだ。

いやしかし、年齢を知っているのにピンクの、明らかに子供向けな衣服を着させる辺り、少し意地が悪いようにも思えるが。


「こんな、こんな服着れっか! お、俺はお前の着せ替え人形じゃねぇっつーの!!」


「言っただろう、人を判断するには外見と内面と時間が必要である、と。多くは時間であるが、外見もまた重要な要素の一つだ。ぼさぼさな髪やボロ布のような衣服では初めて見た相手が嫌悪感を抱きかねない」


「ちげーよバーカ! 俺は追い剥ぎなんだ、嫌悪されて上等だっつーの!!」


「ではこれから嫌悪されない追い剥ぎになりなさい。店員、悪いがその服は着たままで良い。元の服は私が持とう」


「はい、料金は一銀貨八銅貨になります!」


「あぁ、ありがとう」


「嫌悪されない追い剥ぎって何だよテメェエエエエエエエーーーーッッ!!!」


頭から湯気を上げるほど怒り上がる彼女と、その前で悠々と料金を支払うフォール。

店員は喧嘩した親子か、叔父と姪かな、なんて。その微笑ましい光景に客商売以上の笑顔を浮かべていた。

男が新聞を畳み、少女がその後ろを怒鳴りながら付いて行く。あぁ、もしかすると養子養父の関係なのかも知れない、なんて。

まさか彼等が十四歳と二十七歳の、いや十四歳の少年と二十七歳の女とは思うまい。

内面で言えば四十歳と二十七歳だが。ーーー……それでも数の差は変わらないけれど。


「お、おい! テメェ何処行くんだよ、おいっ!!」


さて、店外へ出た彼等。先のように平然と歩くフォールと後ろを付いて行くリズエラ。

けれど先程と違って、リズエラの調子はすこぶる悪い。

路地裏でどうとか金がどうとか。言おうと思えば言えるのだが、嫌に周囲の視線が気になるのだ。

こんな服装をしているから周りの連中に見られているんじゃないのか、と。

走ればだぼだぼのスカートが捲れるし、何より視線の集まりが尋常じゃない。いつもは皆が自分を見れば吐き気を催すような視線を逸らすのに。

何故か、今日は、そういうのじゃなくて。


「な、なぁ、何処行くんだよ、おい……」


声も段々と弱々しくなっていく。目端には涙さえ。

その様は追い剥ぎと言うよりは外見相応の少女だった。


「軽食店だ」


「……め、飯かよ。さっき喰ったろ」


「君の食事だよ、酒場では喰い損ねたろう? 料金はその衣服のように私が払おう。……が、この辺りの地理には疎いのでな、君に店を教えて貰いたい」


「み、店なら、ベルミ爺のトコ行けばあるよ……、他のトコよりマズいけど安いし、誰でも喰える」


「そうか、そこは駄目だな。言い方は何だが日陰者が好んで行く場所では意味がない。小綺麗な店にしなさい」


「な、んだよっ! ベルミ爺のトコにゃ行くなってかぁ!?」


「そうは言ってない。ただ今日は行くなという話だ。明日でも明後日でも好きな時に行けば良い。私は君とその老人の仲を否定できるほど出来た人間ではないのでね」


リズエラは歯軋りした。ぎりぎりと奥歯を噛み潰す勢いで、だ。

気に入らない。この男の何もかも見透かした感じ。こっちの方が随分年上だと言うのに、何故か説教を受けているような気分になる。

そもそもこの男は何なのだ。町の構造を自分を利用して把握するし、ナイフは指先で捌くし、とんでもない身体能力をしているし。

酒場の腕相撲だってそうだ。身形はキチッとしてるくせに、妙に手練れな雰囲気がある。

これで十四歳だと言うのだからほとほと冗談にしか聞こえない。いや、そもそも見た目からしておかしいのだ。

明らかにガキの目付きじゃない。ドラゴンでも殺してきたって言い出しても信じてしまいそうな目だ。


「……お前よぉ、何者なのだよぉ」


「足長おじさんだ」


「ふざけんな! 足……、は長いけど、そんなに言うほどじゃねぇだろ!!」


「……そうか、無かったな。足長おじさんは」


フォールはそう呟くと彼女の手を取った。

一瞬身を引くように驚いたリズエラだが、その手には何故か安堵した。そして、だからこそ恐怖した。

岩だ。いいや、鉄だ。この手は知っている、何度も何度も潰れて肉が上塗りされたマメ(・・)だ。

それが掌どころか、指先までびっしりとできている。できて、固まっている。


「な、何だよぉ、この手は……」


「右手だが」


「ちげーよ、そういう事を聞いてんじゃねぇっ! この、この手か! この手でさっきの腕相撲だって相手をブチ倒したのかっ!?」


「……力は無闇に振るうものではない。人は全力の出し方を忘れれば怠け者となるが、力を抜くことを忘れれば粗暴者となるからだ。……先程の腕相撲は力を抜いていただけさ」


「はぁ!? 何で力抜いて勝てんだよ!!」


「例えば、だが。君がスリをしたとして、相手がそれに気付きながらも無視して歩いて行ったらどう思う? 呆然とするだろう? つまりはそういう事だ。人は何かこうなったらこうなるという思い込みがある。そこを利用したんだ」


「う、腕相撲で何を思い込むってんだよ……!」


「相手は随分とヒートアップしてたのでな。初めから全力で来るだろうから、こちらは逆に全力で手を抜いた。力が入ってないから相手はフライングしたのかと思って驚いたんだ。その一瞬、相手の手が緩んだからそこを倒した。……それだけのことだ」


相変わらずの平然さで彼は言い放つ。

だが、リズエラは驚愕して、いや、最早恐怖さえしていた。

力を抜くなんてさらっと言ったが、もしあの場所で相手が驚かなかったらどうするつもりだったのだ。

身包み剥がされて裸踊りしろとまで言われて、廻りにあれだけ野次を飛ばされても、その可能性を信じ切ったのか。

もし少しでも力を入れていたら、相手は迷わず振り切っただろう。彼は手を抜くつもりだったのだから、どんなに力強くても押し切られていたはずだ。

にも関わらず、この男は全力で力を抜ききった。抜いて、そして相手が一瞬だけ怯んだ隙を見逃さず、倒した。


「お、お前の血は鉄でできてんのかよ……」


こんなの、人間業じゃない。

いや、人間どころか悪魔にだってできやしない。

この男の血は赤くなんかないのだ。銀色の鉄ーーー……、いや、鋼。そう、銀色の鋼でできているのだ。


「生憎と人間でね、血は赤い。……店はあそこにするか」


彼女の手を引いて人混みを離れ、フォール達は小綺麗な喫茶店へと向かっていく。空は相変わらず青く、太陽はほんの少しだけ傾いている。

昼時には少し遅い時間帯。フォールがこの町に来てから、既に数時間が経っていた。



【9】


「駄目だね」


一件目。


「遠慮します」


五件目。


「出てけぇっ!!」


十八件目。


「…………はぁ」


「んだよぉ……」


初めの小綺麗な喫茶店に始まって、そこら辺の料理店や屋台に到るまで、フォールとリズエラはとことん入店を断られた。

とは言っても、原因など解りきっていることだ。リズエラの度重なる食い逃げにより多くの店にはブラックリストが回って、彼女を徹底的に追い出しているのである。

裏の店や粗暴者が集まる酒場ぐらいにしか行けなかったのはそういう理由だろう。全く持って自業自得である。


「ちくしょう。小綺麗な格好してりゃ騙せると思ったのに……。やっぱ駄目じゃねーか!」


「……リズ、君はいったいどれだけの店で食い逃げをしたんだ? この辺りの飲食店は全て入店を断られてしまったぞ」


「うっせぇなぁ。スリやってりゃ駄目な時だってあるよ。そういう時は店とか、裏のゴミ箱とか。……何だよ、俺が悪いってのか? 仕方ねぇだろ喰わなきゃ死ぬんだ! 強盗しなかっただけマシと思って欲しいね!」


「そういうものではないだろうに。……仕方あるまい。次の店に入るか」


フォールの革靴が砂利を踏んづけ、爪先を向けた先。

そこには周囲のそれ等とは格の違う、一等豪華な店があった。

金と黒の装飾や、漆塗りの金属で作られた扉。取っ手は純銀だ。

メニュー表だって触れば指先でつるつる滑るし、紐で縛られたペンは万年筆。

窓硝子は曇り一つなく、中に見える客は誰も彼もドレスやスーツを着ていて、明らかにそこら辺の店とは違っていた。


「お、おい、そこはやめとけ! そこだけは駄目だ! レパーラ・ベルフィニーニョがやってる店で食い逃げなんかにゃ容赦ねぇ! 一回そこの残飯漁ろうとしてえらい目に遭ったんだ!!」


「レパーラ……、商人だったな。個人の店を持つということは中々に身分が高いらしい」


「そういうんじゃねぇ! アイツはやべぇんだ。王都のマフィアと繋がりがあるって聞くし……。俺はボッコボコにされたってのに客は誰一人見向きしねぇ! そういう店なんだよ、あそこは!」


「ふむ、上流階級の店か……」


都合が良い、と。彼が零した気がした。

そして彼はあれだけリズエラが忠告したというのにずんずんと店の中に入っていく。

彼女を引っ張りながら、だ。必死に抵抗してもまるで自分の腕が同化してしまったかのように離すことができない。

彼は純銀の取っ手を引いて店に入るとウェイターに指を立て、席へ案内させた。

奇妙なほど手慣れている。しかし、今のリズエラにそんな事を気にする暇はない。

暴れ振り払っていた手は恐怖に縮こまり、引き摺られるばかりだった彼女はもう子供のように怯えながら彼の後へ付いて行くばかりだった。

やばいよやばいよ、と。ただ恐怖を口に出しながら。


「いらっしゃいませお客様、本日のランチはフェイフェイ豚のソテーとなっております」


「そうだな、ではそれで。この子もだ」


「はい、畏まり……」


そこまで言いかけて店員は目付きを変えた。

お客様を見る目からゲテモノを見る目に。口端が引き攣り、真っ白な歯と真っ赤な歯茎が覗く。


「……お客様、このガキとはどういうご関係で?」


「先ほど知り合った。私のせいで昼食を取り損ねたようなのでお詫びにね。何か問題があるかな?」


「えぇ、大ありです。お客様がどのような形で騙されたかは知りませんが、コイツはうす汚いこそ泥でねぇ~……」


ウェイターはリズエラの髪を掴み、彼女を引き摺り倒した。

テーブルの花瓶が転げ落ち、椅子が引っ繰り返る。とんでもない音が店内に響き渡った。

けれど客達は悲鳴をあげることなく、それどころか興味深そうにその様を見るばかり。当然、止めようともしない。


「おい、お前もうこの辺りには来るなつったよなぁ~? しかも身形の良いお坊ちゃん騙して驕らせる気か? あぁ!?」


「ち、ちげぇよ! コイツは俺のこと知って……」


「言い訳すんじゃねぇ!! 残飯の次は生意気に店の飯を食うつもりだろ、このっ!!」


ウェイターの鋭い蹴りが彼女の脇腹を貫いた。

衝撃は全身に響き渡り、リズエラは悶絶しながら転げ回る。

上等なドレスが床の絨毯に擦り回って埃を被った。だが、ウェイターはそれを上塗りするように蹴りを叩き込んでいく。


「お前のような! うす汚いっ! 奴がっ!! この店に来るんじゃあないっ!!」


何発も何発も、蹴りが入れられていく。

その度にリズエラは嗚咽し、頭を護って怯えるばかりだった。

周囲の客達の笑い声が聞こえる。くすくすと、彼女の様を嘲笑いながら肉を摘む音が聞こえる。水を啜り呑む音が聞こえる。

滲み始めた視界の隅っこに、平然と自分を見下ろすフォールの姿が見える。


「ち、ちくしょう……」


ハメられたのだ。

何が君の食事、だ。結局コイツも自分が痛めつけられる様を見るためにこんな店に入ったのだ。

偉そうな高弁垂れときながら結局はそこらの金持ちと変わらない。自分を痛めつけたいなら自分でやりゃ良いのに、こうやって人に手を下させる。

最低だ。コイツ等みんな、最低だ。人が痛めつけられるのがそんなに楽しいか。くそ、くそっ。


「何とか言ったらどうなんだ!? えぇっ!? 小汚いガキめ!!」


「う、ぅうっ……」


「唸ってるだけじゃ解らんだろうッ!!」


ドズッ!

今までで一番鈍く重々しい、何かが潰れた音だった。

思わずウェイターも足を引いたが、直ぐに思い直して薄ら笑いを浮かべ出す。

他の客達も良い音がした、良い蹴りだ、と囃し立てた。それがまた彼を調子に乗せる。


「は、はは……! どうだ、何か言ってみろ、おい!?」


「や、やめ……」


「止めろじゃないんだよ盗人め!!」


蹴りの音が、また鈍くなった。

リズエラの口端からは赤黒い血が流れており、頭を護る腕にも力がない。

段々と動き藻掻くことをやめ、嗚咽さえ零さなくなっていく。

ウェイターが一息ついた頃にはもう瞬きさえしていなかった。虚ろな眼で、何かを呟き続けている。

よくよく聞けばそれが謝罪の言葉だと解ったが、ウェイターはもう蹴りを止めるつもりなどなかった。


「この、死っ……!!」


蹴り出そうと振りかぶった脚が、止められる。

仔猫でも摘むように、爪先を指先で抑えられたのだ。

いったい誰がと見てみれば、薄ら汚いガキに騙された哀れな少年がそこにいた。

先と違ってこのガキを見下していた冷徹な目付きではなく、何処か慈愛を孕んだ、優しい目付きだ。眉間に手まで添えて汗を拭き取っている。


「……お、きゃ、く様? どうしました? その薄ら汚いガキがどうかしましたか?」


「彼女は謝った。罪は謝罪と罰により赦されて然るべきだ。そして彼女は蹴られて傷を負った。これが罰だ」


「あぁ……、あのですね、お客様。ご存じないかも知れませんがそいつは小狡い盗人なんです。貴方がちょっと慈愛の心を出すのはとても良いことですが、コイツは救うに値しないって奴なんですよ、ね? 貴方だってもう一歩で騙されてたんだから」


「彼女は赦された。ならばこれ以上の気概は貴様の罰になる……」


「だーかーらー! 下らないことをゴチャゴチャとっ!!」


フォールの指先を離れ、彼の手から脚撃がリズエラを叩き落とそうとした。

しかし脚撃は空を蹴り飛ばす。ふゅんっと、情けない音と共に。

店の客達はその様を見て大笑いしたが、次の瞬間には顔から血の気を引かせていた。

曲がっている。脚が、有り得ない方向に。


「……貴様は今、罪を犯した。犯罪者となった」


「ひ、ぇ、はっ!?」


「この世界に憲法はない。警察組織も現代より遙かに劣り、人々の道徳的良心は階級によって大きな差がある。……ならば何が正義だ? 何が護るべきものだ? そんなものは決まっている」


彼はリズエラに自身の衣を被せた。

そして軽く襟首を直し、髪を掻き上げる。その双眸は彼女を見下ろしていた時よりも遙かに冷たく、鋭く。

殺気と称すべきものを、帯びていた。


「我が正義だ」


フォールーーー……、いや、夏目邦彦の経歴について今一度確認しよう。

彼は非常に優秀な刑事だった。述べ数千人に到る犯人を捕まえ、内、指名手配犯が数百人、テロリストグループのリーダーを七人だった。

これは刑事であっても異常な経歴である。一種の伝説的な人種になってもおかしくはない。

地位もそれに応じて昇格するだろう。『鉄血』は警察組織の中でより高く掲げ挙げられただろう。

だが、そうはならなかった。何故か? ーーー……単純な話、上層部がそれを拒んだのである。

確かに夏目は優秀だった。だが、そのいき過ぎた正義感と異常なまでの執念と信念は組織の中枢へ置くにしては危険過ぎたのである。


「ウェイター、貴様はこの子に罰を与えた。謝罪を聞いた。にも関わらずまた罰を与えようとした。これは罪である」


「は、はぇ……?」


「そして客ども。貴様等はいき過ぎた罰に対し傍観した。これもまた罪である」


ならば、と。

彼は帯刀していた剣を鞘ごと引き抜いた。

双眸を刻むが如く、緩やかに、然れど確かに。


「罪は、断罪する」


リズエラは薄れゆく意識の中で聞いていた。怒号を、悲鳴を、衝突音を。

けれどその顛末を聞き届けることなく、彼女の瞼は閉じられる。意識は闇に墜ちていく。

蝕むような痛みを感じながら、男の背中だけを滲む視界に映してーーー……。



【10】


ガタンゴトン。僅かに跳ねた頭が壁にぶつかった。

その痛みで目が覚め、腹の痛みでまた気を失いそうになる。

どうにか歯を食いしばって耐えたが、直ぐに耐えなければ良かったと彼女は後悔した。


「気付いたか」


そこは馬車の中だった。

彼女、リズエラの身の上では一生乗ることがないような上等な馬車だ。

目の前にも、硝子越しにしか見たことがないような商品が置かれているし、ピカピカの家具だってある。

対面式の座椅子の片方に自分が寝そべっていて、反対側に荷物の山に埋もれながら本を読むあいつがいる。そんな状況だ。


「……やっぱテメー、良いトコの坊ちゃんかよ」


「ゾルバ男爵家の嫡男だ。貴族階位を持っているから、確かに良いところと言えば良いところかも知れないな」


「けっ……、くそ。坊ちゃんが暇潰しに遊んで、俺が痛めつけられるのを眺めてたってわけかい。いいや、助けてヒーローごっこしたかったってか?」


正義ヒーローごっこではない。正義ヒーローだ」


ぱたん、と。手元の本を閉じた。


「君は決して褒められる人種ではなかったが、罰を受け、謝罪をした。これであの店の残飯を勝手に漁った罪は赦されるだろう。だが他の店で食い逃げした罪や盗みを働いた罪、多くの人にスリをした罪は赦されない。……それに関してはこれから償えばよろしい」


「ふ、ざけんな……。何で、そんなことっ……!」


「更正のためだとも。私は私の正義に従って行動していた(・・)。……もっとも、今は平穏のためだがね」


「何なんだよお前……、気持ち悪ぃ。正義とかいたとか……、意味解んねぇ」


「解らなくて良い。君はただ罪を償えば良いのだから」


「償うって、あんなハメるみてぇなやり方でかよ!? アレがお前の正義だってのか!? ありゃどー見ても悪だろうよ!」


「正義と正義は共存しないが、正義と悪は共存できるのだよ」


男の眼は平然としていた。違う、平然ではない。冷静や冷徹でもない。

この男には感情なんかないのだ。全てを達観し、全てを分別している。

まるで辞書だとか図鑑のように客観的にそれを見るばかりで、嬉しいだとか可哀想だとか、そういう感情なんかありゃしない。

彼女はこの男に血なんか流れてないと思った。だけれど、それは違う。血どころか、彼は人間でさえないのだから。


「……いったい、お前、何をやればそんな目になんだよ」


「冷静なだけだとも。私はな」


彼は知っている。絶望を、不幸を。

彼は識っている。希望を、幸福を。


「……ただ人より多くを見る機会があり、人より我が儘だっただけだ」


夏目邦彦は悪であった。正義の名を借り正義を執行し正義に生きる悪であった。

フォール・エドルバ・アル・クライン・ゾルバは平穏であった。度重なる不幸こそあれど、それ等を超える力を持っていたし、超えられる精神も持っていた。

だから彼は我が儘になった。二度目の人生を平穏に、夏目でありフォールとして過ごすために、我が儘になった。

それが夏目邦彦という男だ。三十六歳にて全てを捧げた人生に裏切られ死した彼の。

それがフォール・エドルバ・アル・クライン・ゾルバという少年だ。十四歳にて追放され僻地に飛ばされた少年の。


「私は私だ。『鉄血』こそ私なのだ」


狂っていると言えばその通りなのかも知れない。

いや、彼は正常だ。何処までも果てしなく正常だ。正常だから、狂った。

子供が夢見る御伽噺のような、悪いコトをしたら怒られて謝らないといけない、なんて。そんな道徳を本気で心の中から信じている。

けれど時にそれが通じず、無慈悲に鉄槌を下さねばならないことも信じている。

否定と肯定の二面性を両立させているのだ、彼は。人間として矛盾していると言っても良い。


「人は人生によって価値観を培い、道徳心を育む。ならばそれが二度あるのなら、はたして人はどうなるのだろうね」


リズエラの背筋に寒気が走った。氷柱を差し込まれたような悪寒だ。

この男はいったい何なのだ。訳が解らない。ただただ恐ろしい。

もしかして自分はとんでもない男に手を出してしまったのではないか。

関わってはいけない、触れてはいけない何かを開いてしまったのではないか。

今までどんなゴロツキにも荒くれ者にもこんな恐怖は感じなかった。怖くないことが恐ろしい。

何歳も年下の、ただのガキが、どうして、こんなーーー……。


「さて、それはそうと、だ」


呆気なく、彼は声から針金を抜いた。

別に声色が変わったわけでもないけれど、急に緊張感が抜けたのでリズエラは大きく息を吐き出した。

その際に脇腹が酷く痛んで悲鳴をあげてしまう。すると、フォールは彼女の腹部に手を当てて軽く抑え付けた。

するど何故か、自然と痛みが引いていって。


「圧迫療法だ。楽になったかね?」


「……あ、あぁ」


「さて、では……、その、なんだ。君には悪いが我が家に来てもらうことになる。今、町に戻るのはちょっとマズいのでな」


「は? どういう……?」


「……若いというのは良いものだな。暴れすぎる」


おかしい。相変わらず平然としているはずなのに、フォールの口がぎっちり縛られている。

何やったテメェ、と。リズエラの問いにも悪戯した子供のように押し黙り。

何だか急に年齢が逆転したようだ。年相応のガキみたく縮こまって、見詰めると視線を逸らした。


「お、お前、何したんだよ……」


「まぁ、うむ……。謝罪は、大事だ」


視線逸らした先に思い描くのは丸々引っ繰り返したような店の惨状。

少しやり過ぎた。抵抗されたというのもあったが、昔から暴れ出すと自制が効かないのが悪い癖だ。

今度またあの店に行って謝罪と、掃除の手伝いもしよう。レパーラという支配人の商人にも頭を下げねばなるまい。

自身が夏目邦彦であった時は、大体謝罪に行くと悲鳴を上げられたものだが、今回はきっと大丈夫だろう。きっと。


「まぁ、ともあれあの店についての謝罪は済んだ。これからは他の店に謝罪していこう。その間は我が家に住んでくれて構わない」


「い、嫌だよ! 何で俺が!!」


「君はまだ犯罪者だ……、謝罪と罰を受けなければならない。そして君が今日、あの店で行った贖罪はあくまで幾多の一つだ。だからこれから君は私と一緒に罪を償っていく。その間の衣食住は補償する、というだけだよ」


「だから、何でっ……!!」


「それが私の正義だからだ」


リズエラは喉を潰すように押し黙った。

この男は頑固者じゃない。もっと、それ以上の何かだ。鉄血どころか鋼どころか、もっと、もっと固い。

何を言っても無駄だろう。断るとか断らないとか以前に、きっとコイツは何が何でも諦めない。

熱血でも冷血でもなく鉄血。否、鋼血。表面だけは人間を装った、自己正義の権化。


「頭おかしいんじゃねぇの……」


やっぱり厄日だった。こんな男に掴まるなんて、目を付けられるなんて。

金なんて餌でしかなかったのだ。身形だって見た目だって、年齢だってそうだろう。

この男の目付きは生まれ付きでも格好付けでもなかったのだ。本当に、ヤバい。頭の芯まで何十回転も狂ってなければこんな考えは思い浮かばないだろう。

何で、どうして、こんな男に関わってしまったと言うのだ。


「……な、なぁ、お前男爵サマなんだろ? だったら、家に来いってやっぱアレだ。凄い家だろうしさ、こう、親とかが赦さねぇんじゃねぇの? なぁ?」


「確かにある意味では凄いが、邸宅の責任者は私だ。問題はない」


「うぐ……。じゃ、じゃあ、家は何処にあんだよ! 遠かったら行けねぇだろ!?」


「あぁ、距離は問題ない山中僻地の……」


「……何? 山中?」


「そう、山中だ。町から北への道程で、馬車なら数時間ほどで到着する。町まで戻る時は歩くが、これも贖罪の一環として……」


「ふ、ふざけんじゃ……、ふざけんじゃねぇ!!」


リズエラは跳ね飛ぶように席を立ち、切迫した表情で叫びだした。

腹が痛んで眉間が熱せられたように熱くなる。いや、それでも背筋は冷え切っていた。

この男は自分が何を言っているか、何処に住もうとしているか解っていないのだ。山中は、あの山中はマズい。


「お前……! 解ってんのか!? 北部の山中はモンスター共の群生地だ!! Sランクモンスターが何体もいてAランクからBランクの化け物共が従ってて……! あそこ冒険者共に何て言われてるか知ってるか、裏ステージだぞ裏ステージ!! 町にだって、偶に怪物級が来て騒ぎにっ……!!」


「良いじゃないか。素材が売れる」


「ふざけんな! お前みたいなキチ野郎に付き合ってられるか、俺は帰るぞ!!」


窓に飛びついた彼女の眼前に現れる巨大な龍の双眸。

ひぃと瞬間最大風速の悲鳴が巻き起こり、彼女は固まって転げ落ちる。

Sランクモンスター、ドラゴニカ・アブソリュード。黄金の瞳を持つ唯一の龍であり、世界の天を覇す五龍帝が直属配下。

奴は、この周囲一体を仕切るそのはぐれ個体だ。どんな冒険者やモンスターだって奴には敵わない。

時折、町に降りてきては嵐を巻き起こす災害として認識されてるような奴でーーー……。


「……へれ?」


窓から見えていたドラゴニカ・アブソドリュードの双眸が右から左へと流れていく。

いや、それどころか流れるようにダルガニア・タイガーだとかベヘモット・ホーンだとかミルゲア・スライムだとか。

どれもこれもSからAランクの化け物ばかりが、右から左へ博覧会。

暑くなっていた腹も顔も真っ青に染まっていく。それ等全てがこちらを睨むでもなく、虚ろな眼のままそこにいた。

いたというか、飾られていた。首だけ地上に出して、他全てを地中にごっそり埋められて。


「大理石の彫像みたいで格好良くないかね」


平然と言い放つこの男。

ヤバい。マジでヤバい。狂ってるとかいう次元じゃなかった。

頭捻ったとかそういうレベルじゃない。頭打ち付けて沸かして茹でて水揚げしてから磨り潰して粘度を混ぜたら土に埋めて上で焚き火焼いて丸三日放置して出来たのを砕き割ってからまた元の形に戻そうとしたけどダメでやっぱり粘度加えてからそこら辺の毒薬とか適当にブチ込んだら大変なことになってしまったとかいう、そういう次元だ。


「か、かえりゅ……。お、おれかえりゅ……」


「うむ、だから今から帰っているだろうに」


これは、そう。

十人中八人が首を捻る物語だ。平穏を望む正義は、如何なる事態にも屈しない。

例え不幸であろうと災害であろうと、それが彼の正義に叛するなら決して赦しはしないだろう。

だが、彼は正義を貫き通すことを望んでいるわけではない。ただそうであることしか知らないだけだ。

平穏に過ごすこと。それが彼の、何よりの望みであるがーーー……、正義を捨てるつもりも毛頭ないという矛盾。

だから、これは首を捻る物語。矛盾を抱えたまま完成してしまった正義が平穏を望む物語。

人間の形をした鋼が、僻地の山中で、様々な人と出会い、正義と平穏に生きる物語。



【エピロ-グ】


「お帰りなさいませ旦那様。ご飯(ワタクシ)にしますか、お風呂(ワタクシ)にしますか。そ、れ、と、も、私に(ベッドイン)しますか?」


無表情裸エプロンメイドという、属性てんこ盛りが彼等を出迎えた。

ご丁寧にピースサインを目元に当てて年齢的にちょっと無理あるキュピ感を出している。

フォールはそんな彼女に遅くなったと一言謝りながら自宅の中へと入っていく。当然のようにスルー。

しかしネインも負けていない。一秒に満たない硬直を解除し、そのまま彼へ擦り寄ろうと歩み出した、が。

彼の後から入ってきたドワーフの女。彼の上着を羽織り、とてもドン引いた目でこちらを見る女。

それを確認した瞬間、包丁がリズエラの頬横に突き刺さっていた。


「何ですか誰ですかどうしてフォール様の上着を羽織っているんですか現地妻ですか愛人ですか赦しません赦しませんよ私はまだあの方の為に処女を取っているのですからあの方に童貞でいていらっしゃるのですから赦しません絶対赦しませんよ初めては私以外に譲るつもりはありませんので最悪殺しますのでどうぞ御覚悟なさってあの方に色目使った瞬間首が飛ぶ事実を噛み締めながら恐怖に悶えて死んで戴けますかこのクソガキめが」


「ひ、ひぃ…………」


「ネイン、彼女は客人だ。町で案内をしてくれてな、そのお礼に我が家へと招いたのだ」


「何と、そうでしたか。これはお客様、失礼を……」


「そして今日から我が家に住む」


包丁がリズエラの頭頂部を掠めた。


「ひ、ひぃいいい……!」


「……今、何と?」


「言った通りだ。彼女は暫くここに住んで貰う。ドワーフの種族で、彼女自身も身軽だからこの家の修繕を手伝って貰うとしよう。それ以外にも理由があるし、互いに町へ出掛けることもあると思う。……あぁ、それと夕飯は彼女も一緒だ。確か多めに作ってくれていたな」


「えぇ、はいたっぷりと愛情を込めて。……しかし、そうでございますか、成る程。ところでフォール様、お疲れでしょうから水を浴びてきては? それとこの辺りは悲鳴が響くような場所ではありませんよね? あと奥の庭に花を植えるので立ち入らないよう」


「む、そうかね。それでは……」


「待て行くなテメェエエエエエエエエエエッッ!!! 行ったら死ぬ、絶対俺死ぬからぁああああああああああああああ!!!」


絶叫響き渡る中、出て行くフォールと顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして泣き叫ぶリズエラ。

そんな彼女を捕まえながら器用に片手で包丁を研ぐネイン、と。僻地のボロ屋にはとんでもない喧騒が巻き起こっていた。

結局、無表情と平然の二人に囲まれたリズエラはこれから色々と大変なことに巻き込まれるのだが、さて。

それはまたーーー……、別のお話としておこう。


読んでいただきありがとうございました


お茶濁しに一本。ヤンデレ無表情メイドは趣味です。悪いか

とまぁこんな感じの作品ですがフォールはアレです、絶対主人公に向いてねぇ

挫折もしない初っ端カンストみたいな奴なんで、葛藤がなければ無慈悲無情な平然マスィーン。

多分、魔王とか極悪非道な貴族とか出て来たら問答無用でぶった切ります。そんで戦争になったら戦陣切って相手の将軍暗殺とかに行きます。お前刑事やろ

ただ彼が十四歳の年齢になって父アンドリューから追放されるまで何もしなかったのか、とか。ネインって普通のメイドなの、とか。リズエラはこれからどうなるの、とか。被害に遭った店の支配人商人は大丈夫なの、とか。

それは、まぁ、また別のお話ということで。基本短編ってアレですよね、連載ものを手直しするよね。え、違う?


という感じに別所で連載中なものの合間にポポンと一本。

アレだよね、流石に殺されるかなって思ったけど生きてるよね。大丈夫まだまだやれるさ。

だって世界は平和だもんいけるいける! 何、そんなに平和じゃない? 私は平穏だから大丈夫!!


てなワケで読んでいただきありがとうございました。

次回作はちゃんと作成中です。いや、別所の連載終わったらちゃんと連載しますとも!

別サイトなんかにも誘われてますが、多分ここですかね。読者様とか色々あるけど何より、その、ね?

登録めんどい……。



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[良い点] 何でこうMTL2さんの書く変な人(失礼)とそれに振り回される不幸な方は皆魅力的なんでしょう。 新作も楽しみにしています。 [気になる点] すいません報告を 指名手配班が数百人。→指名手配…
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