BLUE the BLUE
ゆら、ゆら、ゆら。
水底に座って見上げれば、いつも通りの透き通った青。ほう、と息を吐けば小さな泡となり、新たな揺らぎを生みながら水面にのぼっていく。本日は晴天。気持ちの良い空から降る光は、水中に射して余計に綺麗だった。ゆらゆらと色を変えて反射する光が面白くなって、アオイは何度も何度も気泡を生んだ。
——と。
アオイは突然今までとは全く違う、それでも嬉しそうな顔をする。水面をかき回す手はセセリの手に違いない。
「むっ……」
大好きなセセリの隣にはもう一つの見知った手がある。あのガサガサと落ち着かない波はユールに違いない。あの波を生み出すことが納得できる通り、男の子たちの大将のようなものになっている。悪い人間ではないのだが。
「もう、またセセリと一緒にいる!」
何かと乱暴な仕草のユールはなぜかセセリとよく一緒にいる。別にアオイがユールを嫌っているわけではないが、お隣に住む大好きなお姉さんを取られたようで面白くないのも確かだ。丸い頬をぷっくりと膨らませながら彼女は水底を蹴った。
やがて賑やかな子供たちの気配が遠くなった泉では。大人ぶったようなアオイの口調はセセリを真似たものだと、背伸びする少女に微笑ましさを含んで水は流れていった。
生まれた時からかもしれないし、後からだったかもしれない。とにかく気づいた時には、アオイはすでに水の精の愛し子だった。ひんやりとした水場は夏の涼みに、ほんのりと暖かい水場は冬の暖に。水の精霊はアオイを水の危険から守り、助ける。アオイは水を、他人とは違った意味で生活の一部として育っていた。
もちろん、辺境に生きる彼女は辺境の民特有の感覚の鋭さをもって、それが『ふつう』でないことを理解している。しかし彼女は自分の力を恐れも賛美もしていない。これは自分に備わった力であり、自分の一部。それ以上でもそれ以下でもないと両親や村の大人たちから言い含められていたし、周りの子供たちとの付き合いからも『そういうものだ』と学んでもいた。
厳しい環境に生きる辺境の民には精霊の愛し子が生まれやすい、という事実も、アオイが普通でいることができる一因ではあったが。
「もっと離れてよユール! セセリはユールのじゃなくて私のお姉ちゃんなんだから!」
「うるせーな、おチビ。お前のねーちゃんでもねぇだろ」
「チビじゃないもん! アオイ、チビじゃないもん!」
村では泉と呼ばれているそこは、村から子供の足で四半刻のさらに半分ほど歩いた場所にある。都会の近くならば子供だけで森に入ることを禁じられるが、この村では別だった。例えばアオイにしてみれば、たくさんの湧き水のおかげで、水の精の加護がその身から薄れることは基本的にはない。大いなる力を怖れることで、人里近くの獣の方がアオイを避けるのだ。
他の加護を持つ者、愛し子たちも同様で、村人たちは特に怯えることもなく森の中を少人数で行き来することが多い。それでもこうして――言い合いをしつつも寄り添うように歩くのは、加護や気配だけで乗り切れる危険ばかりではないと理解しているためだ。
人には人の世、獣には獣の世界がある。この辺境では、小さなアオイから見てすら死は遠いものではなかった。
「あらあら」
両側からギャンギャンと言い合う幼馴染たちに、真ん中にいるセセリは笑っている。その表情がセセリの母親とそっくりで、優しそうな空気がアオイは大好きなのだ。
一方のユールは別にセセリの隣でなくても良いのだが、自分の胸ほどしかないアオイが元気よく吼えたてるのが大変面白いらしい。数え切れない回数のやりとり後もなお、彼の態度が改まることはない。
「だいたい、ユールのは優しくない!」
「かき混ぜた波に優しいも何もねーし」
「そんなんだからダメなんだよ、バカユール!」
片や噛みつき、片やからかい、間に入るセセリは笑いながら。同じようなやり取りを飽きずに繰り返しつつ村と森の境界を越えると、すぐに仕事中の大人を見つけた。仕事道具の手入れをしていた猟師は作業を止めて手を上げる。
「よぉ、仲良いな」
「仲良くないもん!」
無礼なことを言う大人にアオイは『セセリの真似』を忘れてまでムキになる。
「そうか。それは悪かったな」
「次からは気をつけてよね!」
肩を竦めただけのユールと鼻息の荒いアオイ、間で楽しそうに笑うセセリを面白そうに見ただけで、猟師はその件には触れないことにしたらしい。あっさりと流して先を続ける。
「また泉か?」
「うん。今日も綺麗だったんだよ」
あれがよかった、これが素敵だった。今日の波はいつもよりゆっくりだった。水の中で生きていける存在特有の景色を自慢げに披露するアオイ。どれだけ素晴らしいかを語る高い声に猟師は『うん、うん』と頷く。実際、子供特有の感性に少しばかり感心をして、ちょうど良い頃合いで言葉を挟んだ。
「で、その泉な。悪いんだけどよ、次に行ったら底に指輪が落ちてねぇか見て欲しいんだわ」
「え? いいけど……」
猟師の領分は森の中で本人も森の精霊の加護は得ているが、水の中は特に行動範囲とはしていない。それはわかるが指輪などなぜそんな場所で探すのか。探すほど大切な指輪を、普段は装飾品など身につけない猟師がなぜ泉に落としたのか、戸惑うアオイに猟師は苦く笑った。セセリとユールはなんとなく思い当たる節があるのか、まるで『仕方がない』とでも言いそうな顔をしている。
「死んだかーちゃんのやつで、バカ息子が持ち出して泉で落としたらしいんだ。俺じゃどうにもなんねぇし、ゼズにも探してもらおうかと思ったが、あいつはパン焼きが手いっぱいでなぁ」
ゼズはアオイと同じく、大地の精霊に愛されたパン屋だ。仲の良い精霊に聞けば大地に接している限り情報が集まるが、子供の頃ならいざ知らず、今のゼズは村の主食であるパンを担って毎日忙しい。そんな彼に小さな依頼をすることをためらったこともあるが、アオイと会えたのは猟師にとってちょうど良かった。
精霊の愛子が異常に多い土地ではあっても、泉や川、沼ではなく水そのものの精霊たちから加護を得ているのは――しかも彼の頼みが仕事などの邪魔にならない人材は、村にいる人間ではアオイだけだ。
夏の終わりが近くなり、大人たちは買い出しのために、近隣の村や少し離れた——辺境以外では決して『少し』などという程度の距離ではないが——町に代わる代わる出ている。
「ゼズおじさんのパンは美味しいから好きだなぁ……セセリ、わたしお腹すいたぁ」
「家に帰ればおばさんがお昼を作ってくれてるよ」
腹ぺこのアオイにセセリはクスクスと笑う。セセリの笑う顔を見てアオイもまた楽しくなりかけたが、ちょうど良い間合いでユールがアオイをからかった。
「チビのアオイはデカくなる分だけいっぱい食うもんな。腹も空くよな」
「だーかーらー、アオイはチビじゃないってば! バカユールが大きすぎるんでしょ!」
「残念でしたー。俺はこれでもまだまだ小さいんですー」
「ユール、まだ大ききくなるの!? ずるい!」
「おいおい、喧嘩すんなよ」
元気に言い合う子供達に今度こそ笑って、猟師は話を畳む。
「ダメならダメでいいから、ちょっと探してみてくれると助かる。物はアシュレイに聞けばわかるはずだ。悪いがユール、誤魔化したら締め上げて吐かせてくれ」
「うん、わかった」
「はいよ」
恐ろしいことを平気で言う猟師に、さらりと了承するアオイとユール。どうせアオイはアシュレイ——猟師の息子を締め上げるために精霊の力を借りて自分でやろうと思っているのだろうが、彼らは普通の子供には厳しいことも平気でしでかす。『お願い』をするアオイ自身がまだ小さいために加減が利かないことも大きく影響するだろう。
もしもアシュレイを締め上げることになったとしたら、情けとして自分がやろう。ユールはそっと心に決めた。
「それでね、お姉さんたちがいっぱい、キラキラを見せてくれたの!」
「そうか。よかったな」
父親の返事にアオイは大きく頷いた。精霊たちの加護をもつ者は彼らの世界に馴染んでいるせいもあってか『あちら側』に呼ばれやすい。そしてお姉さんたち——水の精霊たちもまた例に漏れずアオイを可愛がっている。それを知っているからこそ、きちんと呼び戻してくれるセセリとユールに、アオイの両親はいつも感謝しているのだ。
父親のジェイルは顎を撫でるようにして、懐かしそうな表情を浮かべた。
「昔はゼズも同じようなことを言ってたなぁ。土の中があったかくて、キラキラした特別な石があって、楽しかったらしい」
「えぇっ、いいなぁ!」
「あぁ、言ってたわねぇ」
ジェイルと同じく母のルカもこの村で生まれ育った幼馴染である。当然、パン屋のゼズとも仲が良い。同じように昔を懐かしむ色を目に浮かべ、食後のお茶をテーブルに配り終えた彼女は夫の向かいに座った。
「あんまりにも土の中が楽しくて、よく夕飯の時間に間に合わなくておば様に拳骨をもらっていたり」
「時々ゼズとアンナとルツが一緒になって大きな木を一日で育てて、ユールの爺さんからとんでもなく叱られてたりな」
「大きな木?」
「あぁ。森の木を縦に二本くらいだったかな。とにかく高くて立派な木だった」
「えぇぇっ、すごいねぇ!」
「さすがに一日で育てたものだから、すぐに枯れちゃってなぁ。寂しかったな」
「アオイも見たかったなぁ。すごい大きかったんでしょう?」
「そうだな。アオイが見たことがないくらい大きかったと思う」
キラキラした瞳の娘に父がもっと話を聞かせようとしたところで、食卓の向かい側から思わぬ横槍が入る。
「あら、お父さん。他人事みたいに言って!」
「どういうこと?」
よくわからなかったアオイが首を傾げている。ルカはクスクス笑い、悩む娘に悪戯めいた笑顔を見せた。
「その大きな木を作ろうって言ったのはお父さんなのよ。木の上に秘密基地を作ろうって。それにゼズの土とアンナの植物、あとはルツが森の精霊さんに聞いていい場所を見つけてね。大人たちに捕まるまでは四人で木の上で遊んでたのよ。だからひどく叱られたのはお父さんも一緒」
ゼズは村で唯一のパン職人、アンナは子供が何人もいる体格の良い『お母さん』、ルツは昼間に会った猟師だ。全員が全員、普段は大人らしい澄まし顔でアオイたち子供を諌めているのに。
「ズルい! アオイも遊びたい!」
そうねぇ、自分たちだけで楽しんでズルいわぁ。ルカから飛ぶおっとりとした批難にジェイルは苦笑した。
「今思えば、あんなに大きな木だったら目立ちすぎて、全然ヒミツじゃなかったけどな」
「それでも、無茶は子供の特権でしょう」
ふんわり笑う母に隣家のセセリを思い出し、アオイは『あっ』と声を上げた。
「そういえば、ルツおじさんからね、お願いされたよ! 明日からアオイ、お仕事するの」
「ん?」
不思議そうな両親に、アオイは猟師からの話を聞かせた。
「アシュレイなぁ……あのくらいの男は難しいから」
「大変よねぇ、アシュレイも、ルツも」
アシュレイはもちろんのこと、ルツもまた、妻を亡くした寂しさを忘れてはいない。それだけに残された宝物と言ってもいい息子とのすれ違いが辛いのだろう。ほぼ生まれた頃からの付き合いがあるジェイルもルカもわかっている。しんみりした空気を理解しきれず、アオイは少しだけ首を傾げてから手を挙げた。
「だからアオイがお手伝いするの。お姉さんたちがね、今日は大雨だからって。アオイは大丈夫だけど、セセリたちもくるなら明日のほうがいいよって言ってたから、明日からね」
「そろそろ雨も風も強くなってきたからな。ちょうどよかったな」
「そうね。頑張ってね、アオイ」
「うん!」
小ぶりながら辺境らしく頑丈な家だが、雨戸がガタガタと音を立てている。水の精霊がアオイに伝えた通り、今夜は大雨になりそうだった。
しばらく話をしていると、突然家のドアが叩かれた。大人が寝るには早いが、子供のアオイはそろそろ眠い。他家を訪うには少しばかり遅い時間帯にジェイルとルカは顔を見合わせる。
「こんな時間に悪い! 俺だ、ルツだ!」
「あら」
先ほど話に上がった猟師の男の訪問にルカは驚き、ジェイルがさっとドアを開けに行く。こくりこくりと舟を漕いでいたアオイは突然のことにすっかり目が冴えてしまった。
「どうした?」
「悪い。アシュレイは来てないか?」
「うちには来てないが……」
「ルツ! 誰のところにもアシュレイいないって!」
「そう……か……」
いったい何があったというのか。ルツの背後に村の男衆が何人か見える。ユールまでもが走り込んできたことでいよいよ理解が及ばなくなった三人に、俯いていたルツがのろのろと顔を上げた。
「ちょっとあってな、飛び出していきやがった。森の精霊に聞いても木の近くにはいねぇって言うし、雨のせいで水の気配が濃くてよくわからんと。念のためゼズに聞いたんだが、そっちも水の気配が邪魔をしてどこにいるか分からんらしい」
「水……あぁ、だからアオイに」
「そうだ」
パン屋のゼズは土の精霊から加護を受けている。そのため大地に接しているならば村の人間の行動範囲内を余裕で探索することができるが、水や木の上、そのほか大地に直接触れていない場合やその精霊の近くにいる場合は情報を得ることができない。
ルツ自身も森の精霊の加護を受けているが、この大雨では水の気配が邪魔をして、子供のような小さな気配を探し出すことは困難だった。
本当はルツも、話を聞いただけのジェイルもルカも理解していた。アシュレイは母の指輪を探しに泉まで行ったのだろう。嵐のせいで普段よりも危険な森の中を抜けて、水の加護を持たぬ身で、話せば親の反対を振り切ってまで助けてくれるだろう仲間たちに声を掛けることもなく。それを認めたくなくて、わずかばかりの望みを託して、ルツはアオイを訪ねてきたのだ。
「ちくしょう……」
ルツがとうとう俯き、どうしたらいい、どうすればいいと、何度も何度も小さく呟いた。動揺が激しすぎるために上手く考えを纏められない状態だった。
この村は国はおろか大陸の中でも辺境にある。森の中にひっそりと佇む村は人の住む領域の端ともいえる位置であり、一度森を東に歩けばあとは果てのない獣の世界である。その森がどこまで進めば果てなのか、それとも果てがないのか、どの国であっても調査すら満足にできないほどの辺境だ。
そこには危険で懐深い大自然の驚異しかなく、その前には大人も子供も命に区別はない。いわゆる『辺境と呼ばれない地域』に住んでいる人間たちの間では『宗教』というものが流行っているそうだが、この辺境ではそんなものが入り込む隙間など欠片もない。生きていけない、キレイ事ばかりの教義や権力は自然の前では何の足しにもならないからだ。
そのおかげといえるのだろうか、辺境人たちの欲に濁らない精神を精霊たちは好ましく思うようだ。結果的に他の地域よりも圧倒的に多い確率で、精霊の愛し子と呼ばれる加護持ちや、加護とまでは言わないが精霊と相性のいい者が生まれていた。王都で崇め奉られる加護であってもこの村では乳幼児のお守り程度の扱いである。
「ジェイル、申し訳がないとは思っているが」
辺境にしては多い二百人ほどの村人の中で、はっきりと『精霊の愛し子』と呼べる加護を持っているのは現在は十五人程度。だが人数が多いとはいえ、その加護は全ての精霊が平等に調整して与えているものではない。この悪天候の中、最悪の場合は水の中に入ってしまっているアシュレイを助けられるのは、今夜この村にいる人間ではアオイだけだ。
何しろアオイは水そのものの精霊から加護を受ける身。泉だろうと沼地だろうと、大雨でさえ、およそ水分と呼ばれるもの全てを操ることができる精霊たちから愛されているのだ。泉の加護では大雨からの影響を受けた水中を完全に把握することができず、雨の加護では水に入ることすら叶わない。
「……悪いが」
「ごめんなさい、ルツ」
穏やかな気性の夫婦がどちらも厳しい表情で首を振る。いくら幼馴染の頼みであり娘が水の加護を強く持とうとも絶対はない。この辺境では精霊の愛し子ですら普通に命を落とすのだから、少しの危険でも警戒しすぎるということはない。
ましてや無ではないがお守り程度の加護しか持たないジェイルやルカでは、あっさりと流されるか溺れるか、自分自身が永遠に水の底を漂う未来しか待っていないのだ。まだ幼いアオイをこの夜中に、自分たちが守りきれない場所へ連れて行くことは容認できるはずがなかった。
「あ、お姉さんだ」
その時、大人たちの話を神妙な顔で眺めていたアオイが台所に歩み寄った。
とっさに何が起きているのかを理解できない大人たちをよそに、アオイはニコニコと水場を覗き込む。そこにはおよそアオイの指先から肘くらいの身長になった、ガラスのように透明な美しい女性が浮いていた。『彼女』は、困ったように眉を寄せたままアオイを仰ぎ見る。
《アシュレイが、泉に近づいているわ》
姿は見えども声を受け取るためには大人たちの力は弱すぎるか、そもそも馴染んだ属性が違う。唯一声を受け取ることができたアオイは、おや、と首を傾げた。難しい話をしていてよくわからなかったが、アシュレイを今、大人たちが探しているのではないだろうか。
《あんまり良くない気配もするのだけど、あの子は私たちのことが見えないから守ってあげられないの》
基本的に精霊は人ではないため、愛し子以外を積極的に守ることはしない。しかし流転の風とは違い水や大地、木などの古くからこの土地に留まっている精霊たちは、この村の人間が生まれた瞬間からすべてを見てきた。それなりに愛情も持っているため村の人間ひとりひとりを個人として把握しており、誰かに危険が迫っている場合は、こうして会話のできる愛し子を通じて知らせることも多かった。
《アオイ、みんなにこのことを伝えてくれるかしら》
「うん、大丈夫。アオイ、ちゃんとお話できるよ!」
アオイの返事にニッコリと笑った水の精が、ぱしゃりと水に戻る。そこでようやく、ルカがアオイにゆっくりと近づいた。
「お姉さんは何て?」
「うん。あのね、アシュレイが泉に行ってるって。お母さん、あのね、アオイがアシュレイを迎えにいっちゃダメ?」
アオイには怖い顔をした両親とルツの話がよくわからない。幼いなりに、自分の考えが安全と言えないことは分かっている。だが、アシュレイも大切な友達だ。友達が大変な時には助けてやるものだとユールが言っていた。だからアオイは母親に、一生懸命に頼むことにした。
「あのね、アオイ、ゼズおじさんにも頼んでみる。一緒に来てくださいって。だから、アシュレイのところにいきたいの」
「水が危なくなくても、流れてきた木にぶつかって大怪我をするかもしれないよ」
「うん。だからお姉さんたちにも、いつもよりもちゃんとお願いする」
「アオイ」
「う……でもアオイは行きたいの!」
普段は優しい父親が、今にも怒りそうな顔で自分を見ている。それに怯みそうになる心をどうにか支えて、アオイは何も言わずに父を見上げ返した。泣かない。泣いてしまえばアオイは子供扱いをされ、そうなればもう、自分の考えが絶対に通らないとわかっていた。
「誰に似たんだろうな、この頑固者は」
やがてジェイルは深いため息を吐き出して娘に歩み寄ると、叱られるのではと身を固めた彼女の頭をひと撫でする。ざっと見回したが遠巻きにも集まる顔ぶれにゼズはいない。あとはそのまま無言で、パン屋に向けて雨の中を走り出していった。
「アオイ、お隣に行くわよ」
「え?」
「セセリにも一緒に来てほしいって、お願いしないと」
アオイが見上げたルカの顔もまた、先ほどのルツのように何かを決意したような、厳しいものだ。
「セセリとユールがいたら、あなたを失わなくて済むわ」
たとえそれが隣家の娘を危険にさらすことになろうとも、ルカもまたルツのように、我が子を諦めることができそうにない。
聞かせるともない囁き声にもかかわらず、怖くなるほど強い呟きの音。その意味は、アオイには分からなかった。
アオイが泉に着いたときには既にあたりに人の影はなかった。代わりと言えるかはわからないが、泉のふちには誰かが踏み込んだような足跡がある。子供の大きさだとはっきり分かるそれ。ぬかるんだ土にくっきりとついた窪みは、叩きつけるような大雨でだんだんと滲みはじめていた。
「あのバカ……」
森を知る猟師として、そしてアシュレイの父親として同行したルツがぎゅっと顔をしかめる。同行してきた村の大人たちもまた一様に厳しい表情だ。何かとんでもないことが起きている空気を敏感に受け取り、アオイは、自分の手を引く父の大きな手のひらを握りしめた。
「本当に行くのか、アオイ」
「うん。だって、ここにいるんでしょ?」
父を見上げれば、泣き出しそうな、嬉しそうな、よくわからない顔をしている。ジェイル本人もまた、自分と妻の子育てが間違っていないと誇りに思うものの、それを理解する機会が今だということが複雑だった。時に友人ですら見捨てることを選ばざるを得ないのがこの辺境の土地だが、彼らの娘はそれを良しとはしない人間に育っている。
育って、しまった。
「アオイ、ちゃんと戻ってきてね」
「遅くなったらまた水をかき混ぜてやるから、気をつけろよ」
ルカの説得のもと同行したセセリとユールが、アオイの両肩をそれぞれ軽く叩く。いつもと違う空気にコクリと頷くと、アオイはいつも通り、泉のふちから水の中に飛び込んだ。
——とぷん。
泉に入り込む泥水のせいで視界は大変悪い。それでも水に入ってしまえば思ったよりも遠くまで見ることができ、先に大人たちから言われていた話よりは怖くはなかった。それは水の精霊が最大限の協力をしているからだったが、いつもと違う環境でいつもと違うことをしているアオイにはそれに気づく余裕などなかった。
「えっと、お姉さんたち。アシュレイがどこにいるかわかる?」
《えぇ、こっちよ》
アオイに危険を知らせた精霊が彼女を導く。水で形を作った時とは違い今の精霊はカタチというものがない。それでもアオイはその姿を知覚でき、空気の媒介がない声を聴くことができていた。
昼間とは違い太陽の光がない水の底を、ぼんやりとした視界で進む。見知ったはずの泉の底が全く違う場所のように思えた。
《あそこにいるわ》
カタチのない繊手が示した先、言われてようやくわかったその場所で、アシュレイは漂っていた。ユールと同じ年の彼はアオイから見ればかなり背が高く存在感があるはずだったが、荒れ狂っているはずの泉で静かに漂っているその姿は今にも消えてしまいそうだ。
《急いであげて。アオイが手を引いてあげれば簡単に戻れるはずだから》
「うん、早く連れて行ってあげないとね」
そうして彼女がアシュレイに近づくと、小さく声が聞こえた。
——寂しい
思わずアシュレイの口元を見つめるが、そこからは小さな泡がか細く浮かぶのみ。もとより水の加護がない彼では水中で話すことなどできるはずがなく、だがしっかりと聞こえたその不思議な声にアオイは混乱してしまった。
「え、えっ」
《アオイ》
「あ、うん、今」
――寂しい
気のせいかと思った声が、今度はよりはっきりと耳に届く。アオイは首を傾げながらもまずはアシュレイの手を取り、水の底を蹴った。
(このまま水からあがったら、すぐに帰らなきゃいけないかな)
どうしても、先ほどの声が気になってしまう。少しだけ悩んだ彼女は水の中が見渡せないことを利用して、アシュレイだけをそっと水の淵に押し上げた。
《良かったの?》
「うん。もうちょっとだけ」
心配するような水の精霊の声を振り切って、アオイは先ほど声が聞こえた場所まで戻る。視界がふさがれているとはいえ、勝手知ったる泉の中で一度行った場所にたどり着けないなどあり得ないことだった。
「ここ、の、辺りだったけど……」
《そうね。……そこにいるわ。泥と一緒に紛れてきたのかしら。指輪の気配に惹かれたみたい》
水の精霊が示す先には質素な指輪が、水底に刺さる木に引っ掛かっていた。昼間アシュレイから聞いた形見の特徴によく似ている。それを守るように抱える形で、うすぼんやりとした精霊が漂っていた。
アオイを守る水の精霊とは違い、今にも消えてしまいそうなほどに薄く弱々しい少女の形を取っている。
《アオイ!!》
慌てて止める手も声もすり抜けてアオイは指輪を拾い上げる。しかしそれに触れた途端、まるで母の腕の中にいるように、彼女は安心して瞼を閉じそうになった。
安心する。そして、その中に少しだけ混じる寂しさ。その場所から動けばすぐにでも消滅するだろう。しかしその場所から動かなければ、一人ぼっち。水の精霊たちでは強すぎて害にしかならず、消えないためには誰と触れ合うことも出来ないのだ。
「寂しかったんだね。なら、アオイが」
一緒にいてあげる、と続けようとしたところで、アオイはふと上を見上げた。高い高い水面、そこでゆるゆると生じる波。それは嵐による波とは比べるまでもないほど弱々しいものだったが、アオイがそれに気づかないはずがなかった。いつもいつもアオイを呼ぶ『声』は、大好きなセセリとユールのものだ。
「……ごめんね、アオイ、ずっとここで一緒にはいてあげられないの」
へにゃりと眉を下げた途端、彼女の周りを薄い膜のようなものが覆った。手を伸ばそうとした少女は膜に阻まれ、アオイに触れることはできない。取り込むことができない。
《悪いけれど、この子は『私たち』のお気に入りなの。返してもらうわ》
厳しいながら、敵意も害意も含まれていない声。それはアオイだけでなく、彼女を誘った『何か』にも向けられた憐みだった。
《アオイ。軽々しく何にでも触ってはいけないと、いつも言っているでしょう。ジェイルとルカが心配するわ》
「ごめんなさい」
《その子は寂しがっていただけだからアオイには害を為せない。けれど、そうじゃないモノもいるのよ》
それは大好きな両親や、セセリやユールに会えなくなってしまうということ。しゅんと肩を落とす小さな愛し子の頬をそっと撫でると、その手のひらから指輪を持ち上げた。
《まだ弱い水妖ね。本当ならば、安定を司るだけの子。大切にされている指輪が羨ましくて、それを取りに来たアシュレイにずっと一緒にいて欲しかったのね。……そうね、この子の力があれば、アシュレイたちにもいいかもしれないわ》
水の精霊にとってこの土地に生まれた人間たちは子供のようなものだ。その苦しみを少しでも和らげる材料があるならば、それがまだ幼い水妖にとっても良い選択ならば、水の精霊は選ぶことを躊躇しない。
《あなた、この指輪に宿りなさいな。私が力を貸してあげるわ》
水の精霊が穏やかに言葉をかけると、今までウロウロとアオイの周りを漂い続けていた水妖は、ためらうように体を震わせて、すぐに小さく頷いた。水の精霊が『ふぅっ』と息のような何かを吹き込むと水妖もまた糸のようなナニカに変じ、指輪に吸い込まれていく。
色も形も変わっていないが、何かが違う。何か欠けていたものが埋まったような、指輪はそんな印象に変化する。それを少しばかり確認してから水の精霊はアオイに指輪を手渡した。
《アオイ。この子を、指輪と一緒にアシュレイに届けてあげて。そうすれば、あの子たちの苦しみが少しは》
「……これ、アシュレイのお母さんの?」
《そうよ。それが、アオイの探し物で間違いないわ》
「これで、寂しくない?」
《えぇ。それは大切にされていた指輪だから、『その子』も幸せになれる》
渡された指輪をじっと見つめた後、アオイはこくりと頷き水の底を蹴った。
「でよー、うるせぇの何のって」
「それはお前が悪いだろ」
「何だよ! お前まで父ちゃんの肩を持つのか、ユール!」
すっかり大雨の影響が抜けた秋口のある日、いつもの広場でアシュレイとユールが騒いでいる。どうやら今度はアシュレイの働き口で揉めたらしい。商家に奉公に出たいアシュレイが、ろくに勉強をしていないことをルツに咎められたそうだ。
それを指摘しているユールもまた勉強をサボることが多いのだからお互い様だろう。
「もう、ユールもアシュレイもばかなんだから」
「仕方ないお兄さんたちよねぇ」
二人のどうしようもない幼なじみを観察しながら、妙に大人ぶった振る舞いでアオイは肩をすくめた。セセリが同意してくれたことに得意になって、アオイは二人の会話に突撃していく。
「そこのどうしようもないの二人組ー!」
『誰がどうしようもないのだこのチビ!』
「アオイはチビじゃないもん!」
今日も辺境の村で育つ子供たちは元気だ。
アオイ:5歳
セセリ:10歳
ユール:12歳
アシュレイ:12歳