思想小説 哲学小説 [カンディード」 ボルテール作 研究試論
思想小説 哲学小説 [カンディード」 ボルテール作
その、代表作といわれるのが、ボルテールの「カンディード」であろう。
これは予定調和説、ないしは、神のつくりたもうたこの世界が悪かろうはずがない、全て善なりという思想にもとずいて書かれた思想小説である。
とはいえボルテールはからかい半分に書いているわけだからそれは諧謔精神に満ち満ちていて面白い。
一見これはピカレスク小説の形態を踏襲しているが、それらよりわさびが利いている。
そもそも思想小説とは、何かしら訴えたい考えがあってそれを公布宣伝するための、小説であるから
登場人物は全て操り人形でしかなく、リアリズムの見地からしたら児戯童話の類にしか過ぎないということにもなりかねない。
ドイツロマン派はまさに、思想小説の最たるものである。第一ロマン小説であるからそもそも、その述べるところが事実でありうるはずがない。
しかし、、リアリズム小説の限界というものはおのずとある。なぜなら、事実は事実を超えないからである。つまり事実はそれだけのもの、もしその事実をどう位置づけるかという哲学がなければただ事実がれんれんとして記述されるだけという惨敗になってしまう。ただしその事実が破天荒なとんでもない一代記とかであればまた話は別だ。
カザノヴァ回想録はそうした好例であろうか。ただしカザノヴァも脚色しているのである。事実だけではなかったのである。もっとひどいのは?フランクハリスの「マイラブアンドライフ」である。この日とはカサノヴァ以上にかなり脚色しているようである。つまり事実だけでは面白みにかけるために、つい、筆をくわえてしまったというわけだ。
ことほど左用に事実とフィクションは絡み合っている。純粋にドキュメントって、意外にないものだ。
対、作者の主観が入ってしまって、フィクションぽくなってしまうからである。
反対に全くのフィクションが案外人間心理の深奥をえぐって魅せたり、事実以上の働きをすることもある。
だからフィクションも捨てた物ではない。というかフィクションの方が案外物事の真理に迫りやすいとさえ言えるわけだ。
カンディードは全くのフィクションであるが、その冒険譚は嘘とわかっていても結構引きずられる。
キュネゴンド姫のけなげさに恋している自分がいたりするのである。
カンディードとキュネゴンドは結局、散々運命に翻弄された挙句やっと、ふるさとに帰り着き、
過去の悲惨な運命を振り返り、それらが結局はこうして今の幸せを手に入れるために良き働きをしたとして全て肯定するのである。
結語はこうだ。
「さあ、私達の畑をたがやしましょう」
カンディドからゲーテの「ウイルヘルムマイスター」へ移ると、これも結局は哲学小説であることが分かる。
つまりゲーテの思想やら理念を表すための、ミニヨンであり、老竪琴弾きであるのだ。
いわばこれらはゲーテの操り人形としての存在だ。
だからといって駄目といっているわけではない。ちゃんと生命が吹き込まれているのだから実在の人物以上かもしれない。
ドイツロマン派の小説は全て思想小説。哲学小説である。
つまりリアリズム小説ではない。
ユーリエにしろアウレーリエにしろ、実在のモデルはいてもそんな物からは遠く返信した作者のアニマに大変身してしまっている、それがドイツロマンはの登場人物たちだ。
フランスの例えば、ゾラ、バルザック、などの小説とドイツロマン派の小説、
こんなに違うものもない。
私はナナの一生を読んでも「うーん」としか言いようがないし感動もしない。
というか第一読みきれない。途中で嫌気が差してしまう。
読み続けられないのである。人間の悲惨をこれでもかという風に描いた悲惨ドラマは
やはり小説としてどういうものかと思う。
まだルサージュの「ジルブラース」でも読んでいたほうがマシとすら思う。
小説とは作者の小説世界である。
事実だけならドキュメンタリーでいい。
作者の味付けがなされて始めて事実は小説となる。
その極端まで行ったのが、ドイツロマン派である。
作者の空想世界そのものだからである。
どちらを取るか。
というより私にとっては
バルザックはともかく、ゾラは問題外だ、選択肢に入らないということだ。
私は思想性をとる。思想なき事実のみは受け付けない。
というわけでドイツロマン派が選択されるということになる。