瞳の中の火
「一番ホーム、電車が参ります。白線の内側までお下がりください」
そんなアナウンスが流れた後、私が乗る予定の本日の最終電車が到着した。
開いたドアをくぐり、空いている席に座り、一息つくと私は周りを見てみる。
車内には私の他には、スーツを着た帰宅途中と思われる男性や耳にイヤホンを着けた大学生のような女性、塾の帰りなのか参考書を開いている眼鏡をかけた男子学生の三人しかいなかった。
最終電車だから人が少ないのは当たり前だが、いつもよりも少ない気がする。
足下から吹き付ける暖房の風のおかげで、外は水が凍りつくのではと思うほど寒いというのに車内は暖かく、私は残業の疲れもあって眠くなってしまう。
しかし、規則正しい振動が車内に響くたびに、閉じそうになるまぶたが開き、私を眠りの底へと落としてはくれなかった。
十数分間、そんなことを繰り返していたのだろう。
学校の校内放送のお知らせのような電子音の後、男性の声が聞こえた。
『次は――、お降りの際は足元にご注意ください』
どうやら、次の停車駅は私が降りるべき駅のようだ。
重い腰を上げてドアの前に立ち、私の顔がぼんやりと映る窓の外の景色を見てみる。
ほとんど真っ暗で街明かりしか見えないのだが、それでも白い軌跡が電車の走る反対方向へと流れていくのが確認できた。
雪だ、雪が降り始めたのだ。
黒い闇を白く染め上げようと雪が舞い降りている。
私はそれを見て、今晩あの場所へ行こうと決心した。
電車がブレーキをかけ、徐々にスピードを落としていく。
車輪が鳴らす金属同士が擦れる音が大きくなっていくにつれ、体が自然と進行方向へと傾いていく。
その傾きはやがて無くなり、電車が完全に停まると同時にドアが開いた。
冷気がたちまち車内に入り込んでくる。
薄明かりに照らされた駅のホームには屋根がなく、先程から降り続く雪により薄く白く染まっていた。
私以外に降りる人はいないらしく、発車のベルが鳴り終わると、何かから逃げるようにさっさと電車は走りだし、やがて闇の向こうへと消えていった。
あとに残るのは雪さえ音を奏でるような白い静寂だけだ。
風が雪とともに私の体を急速に冷やしていく。
緩んでいたマフラーをきつくして、私はホームの階段を昇っていく。
階段からは屋根があるので、雪が積もっていることはなく、改札口を抜けるとそこには灯りを無くした街が待っていた。
黒くくすんだ空からは雪が変わらず降っており、止みそうにはなかった。
いや、その量を少しずつ増やしているように見えた。
吹き付ける風と雪が私の肌を冷やそうと躍起になっている。
日付が変わってしまった今、もう私が乗る予定のバス路線は走っていない。
仕方なく私はタクシーを拾うために大通りへと向かった。
大通りも街灯以外の灯りらしい明かりはなく、数台の車のランプしか動くものはないように見える。
私は一台のタクシーを見つけて、中に乗り込むとある場所を告げる。
運転手は心得たようで、そのまま迷うことなくその方向へとタクシーを走らせた。
タクシーが大通りを走っている間、私は電車のときと同じように外を見続けていた。
雪が、この街に降り注いでいく。
真っ暗と言っても差し支えのない闇の中、タクシーはあの場所に向かってただ走っている。
私はまぶたを閉じてみる。
そこに映るのは一人の男の子の姿だった。
彼の瞳には小さくも揺ら揺らと炎がチラついている。
「またな、つぐみ」
不意に再生される彼の声。
その声に反応したかのように、私の心の中にも雪が降り始めた……。
それはまだ私が制服を着て東西京高校に通っていた頃だ。
当時、私は何をやっても人より上手く出来ない人間だった。
勉強、スポーツ、陸上部……。
特に陸上は短距離走を中学からやっていたのだが、高校で初めて短距離を始めたという一年女子に負けたのだ。
そして、夏の県予選大会では二百メートル走はその子が走ることになった。
それが決定打となり、私は体調不良を理由に部活を休むようになった。
二学期の期末試験では部活に参加していた時間を全て勉強に費やしたのにも関わらず、せいぜい六十点ほどしか取れなかった。
私と同じ時間勉強した子はみんな全教科八十点は超えているのに。
勉強も運動も出来ない人間に近づいてくることなど決してない。
容姿も平凡な私には誰にも負けないモノなど何もなかったのだ。
ただ、他の人より少し足が速いだけ。
だから、私の周りには友達はいるけど、仲が良いかどうか言われると自信はなかった。
今日の授業が終わり、家に帰宅してくるとジャージに着替えて家を出る。
秋も終わりが近づいているからか、日が暮れ始めた町に冷たい風が吹き始めた。
空が黒灰色の雲に覆われてきたのが気になった。
もしかすると、一雨降るかもしれない。
でも、天気予報では何も言ってなかったから、今日もいつもと同じコースを走ろうかと考えていた。
ランニングは中学のときに陸上部に入部したばかりの私にコーチがやれと指示をくれたものだ。
短距離走を志願して入部したのだから、ランニングはいらないのではと質問をした当時の私にコーチはこう答えた。
「走ることに慣れてない野方は、まずは走ることそのものに慣れないといけないぞ」
その言葉に納得した顔を私がしなかったのか、コーチはこうも言った。
「短距離走にも体力はいるんだ。だから、ランニングはその基礎体力を上げるのに役に立つんだよ」
たしかにそれまで私は運動らしい運動をしてこなかったのだから、まず体を動かすことを覚えなければいけない。
私はその日から早朝か学校から帰宅後に毎日走ることに決めた。
最初はそんなことが役立つのかと疑問に思っていたのだが、結果として私のタイムはみるみる内に縮まっていった。
だから、私は毎日かかさず走るようになったし、高校二年で一年女子に負けるまでは陸上は楽しいと思っていた。
けれど、それが間違いだったのだと今なら分かる。
楽しいというだけでは、競争に勝てるわけがない。
勝つためにはあらゆる努力をしなければならないのに、私が行っていたのは部活以外ではこのランニングのみだったのだ。
だから、努力している人に負けるのは当たり前だったのだ。
それでも私は走ることを止めない。
たとえ部活での私の存在価値が無くなってしまったとしても、走ることを止めてしまったら私が私で無くなるような気がしてしまうのだ。
そんなことを思いながら、私は住宅街を抜け、大通りを走り、ゴールとして定めている公園へと入る。
この公園は敷地面積が広く、休日になるとロードワークをしているおじいちゃんや家族連れの人たちで賑わっている。
しかし、今日は平日のもう日が沈むという時間だ。
おまけに雲が空を覆いつくしているため、いつもよりも大分暗い。
ちょっと危ないかなと思い、私はいつもより短めの時間で切り上げようと思った。
だが、途中から雪がちらつき始めた。
例年に比べて早い初雪だ。
さすがに雪が降ってきてしまったら、風邪を引いてしまうかもしれない。
私は仕方なく帰ることにした。
決して強くはない勢いの風だったが、雪が降り始めた影響なのか、家を出たときよりも更に冷たくなっていた。
私は体が冷えないように急いで帰ろうと思い、公園の出入り口へと向かう。
完全に日が沈んだ空は急速に黒く染まっていく。
その途中で、私は何気なくそっちの方を見た。
公園中央に造られた噴水はこんな時間でも水を中空へと巻き上げている。
電灯の明かりに照らされて。水しぶきはきらめいている。
こんな寒い日に立ち止まって見る人などいないだろうに、それでも噴水は光を浴びながら動き続ける。
まるで私みたいだと、ありえない考えが浮かんだ。
じゃあ、そんな私のような噴水がなぜ気になったのかと言えば、その噴水の前に私に背を向けて誰かが立っていたからだ。
決して大きいわけではないのに、その背中の広さがやけに気になる。
白いジャンパーを着ているせいか、まるでこの雪の白さに溶け込んでしまいそうな寂しさがたたずんでいた。
背丈からすると男だろうか。
男が気になった私は体が冷えてしまうことも忘れて、彼に近づいた。
その足音で気づくそぶりを見せず、彼は彫像のように噴水を見ていた。
「何、しているの?」
私は恐る恐る声をかけてみた。
彼はこちらに顔を向けることなく答えた。
「噴水を見ている」
透き通る氷のように綺麗でいて、どことなく冷たい声だった。
声には邪魔をするなという響きが含まれているような気がした。
私はそれでも疑問を口にする。
「どうして見ているの?」
「理由がなければ駄目なのか」
「こんなに暗くて雪が降るほど寒いのになんでわざわざ見ているのか、普通なら不思議に思うけど」
私の言葉を聞いて、彼はようやくこっちに振り返る。
私よりも背の高い彼は私を見下ろすように見ている。
短く黒い髪に少しきつそうな眉、一文字に結んだ唇、そして細く見えるその体型がクールな感じを持たせている。
かっこいいと私は素直に思った。
しかし、振り返った一瞬、彼の顔には苦悩のような怒りのような表情が浮かんでいたように見えた。
そして、それ以上に印象的だったのはその瞳だ。
冷たいイメージとは裏腹に、その瞳に宿っているのは揺ら揺らと燃えている炎だ。
この凍てつく寒ささえも暖めてしまえそうな炎が宿っているように思えたのだ。
けど、その揺らめく炎はどこかで見た気がする。
「俺がここで何をしていようが、お前には関係ないだろ」
私を突き放すように再び彼は言い放った。
「だって、気になるじゃない」
「じゃあ、気にするな」
「どうしても?」
「……もういい。そんな格好だと風邪引くぞ」
そう言って、彼は公園を出て行こうとする。
私はその背中になんと声をかければいいのか分からなくて、ただただ見送ることしかできなかった。
そうして雪のカーテンの向こうに、彼は消えていった。
どうして私は彼のことが気になったのだろう。
その答えはもうここには無いような気がする。
だけど、一つだけ分かったことがある。
去り際の彼の言葉、あれは私のジャージ姿を見て寒そうだと思って気遣ったのだろう。
見た目に反して優しい人だと思った。
そして、もう一度彼に会いたいと願った。
その日から、私は噴水を気にするようになった。
また彼が現れるだろうかと思ってランニングするが、なかなか現れない日々が続いた。
学校での日常は変わらず、私はただただ学校へ通うだけになっていた。
しかし、それも今日で一旦お終いだ。
二学期の終業式を終えた私はいつもどおり公園に向かった。
今日は快晴なのだが、冬本番というかのように吹き付ける風は一層冷たくなっている。
吐く息を白くさせながら、私は公園に入ると噴水の方へ目線を向ける。
噴水の周りには今日はいくらか人の姿が見える。
「いた!」
噴水の側のベンチに、忘れもしない雪のように白いジャンパーを着た男がいる。
私は迷うことなく彼に近づいた。
足音で気づいたのだろう、私がベンチの側に来ると彼は顔を上げてこちらを見た。
「また会ったね」
そう声をかけると、彼は顔をしかめる。
「お前か」
いかにも迷惑そうに彼は言った。
「暇なのか? どうやら練習しているようだが」
「まあね、でも私はあなたに興味があるのよ」
彼は私の言葉に対して何も反応をしなかった。
しかし、その目が少し泳いでいるように見える。
「隣に座ってもいい?」
彼が腰掛けているベンチは三人ほどが座れるタイプのものだ。
彼と少し話をしてみたい、彼の瞳に見えた炎がどのようなものなのか知りたい。
そんな思いがあったから、自然とそのような言葉が口からするっと出てきた。
しかし、彼は黙ったままだ。
「嫌じゃないなら座るね」
沈黙は肯定と強引に解釈して、私は空いている彼の右隣に座った。
ストンと座ってみるが、それでも彼はこっちに一瞬目線だけ向けるも、何も言わずまた噴水の方を見始めた。
夕陽に染まった噴水から噴き出す水飛沫は、赤く染まってルビーのように輝いている。
どこか遠くから子供たちの喧騒が聞こえる。
私たち二人はただ黙っていた。
正真正銘ただの赤の他人のはずなのに、私は彼に対して嫌な気持ちにはならなかった。
ただ沈黙が続く中でも、彼が私を排除しようという雰囲気が出ていないからだろうか。
いつまでもこの静けさが続けばいいのにとさえ思い始めた頃だった。
「何で?」
隣から声が聞こえてきた。
「何で、そんなに気になるんだ?」
「……気になったから、じゃあ駄目なの?」
私は正直に答えた。
嘘をつくようなことではないし、何より彼がどうしてあのとき噴水を見ていたのか知りたかったのだ。
「お前にはお気に入りの場所ってものはあるか?」
「場所?」
私は思わぬ質問に聞き返した。
彼はそれ以上何も言わず、私の言葉を待っていた。
「そうね……この公園かな?」
中学のときから、この公園で私は走っていた。
ただひたすら速くなろうと足を動かしていた。
ここは私にとって、大事な場所になっていたのだと気づいた。
「そうか。俺にとってもここはお気に入りの場所なんだ」
だから、俺はこうして噴水を見ていたんだ。
そう続けて言ったように思えた。
だが、そうなると当然のように私は疑問を口にした。
「じゃあ、どうしてここがそうなの?」
「そんなこと、お前に教えるものか」
そう簡単には教えてくれるわけがなかった。
だけど、どうしてだろうか、私は彼のことが知りたかった。
なぜなのか。
初めて覚えた感情に私は素直になっていた。
「私は走ることが好きなのよ。それでここでいつも走っているの。だから、この公園が気に入ってる」
「はあ?」
「さ、私の理由は教えたから、あなたの理由も教えてよ」
「……なんでそうなる」
眉をひそめて私を見る。
私でも理不尽なことを言っているなと思ってるぐらいだから、彼にしてみれば何を言っているんだってことになるのだろうか。
でも、彼は優しい人だから、きっと言ってくれると信じている。
「ここは昔、家族とよく遊びに来ていた場所なんだ。だから、今でもここに来ると落ち着くというか……考え事をするにはいい場所なんだ」
「そうなんだ……」
やっぱり、彼は優しかった。
だから、彼が突然席を立ったから私は驚いてしまった。
「そろそろ帰る」
その声は最初にあったときのように氷のような声ではなくなっていた。
私はそれが嬉しくて、思わず声をかけていた。
「あの、またここで会えるかな、えっと……その……」
ここまで話をして、私は初めてお互いに自己紹介をしていないことに気づいた。
だから、白ジャンパーの彼のことをなんと呼べばいいのか分からなかった。
「……たかとり」
「たかとり?」
「ああ、高取誠だ」
高取誠……聞いたことがない名前だ。
東西京高校の生徒なのかもしれないと思ったが、どうも違うようだ。
「それで、お前の名前は?」
さっきの仕返しのつもりだろうか。
私が理由を聞いたように自分も名乗ったのだからお前も名乗れと、目が言っていた。
「私の名前は野方つぐみよ。じゃあね、高取くん」
「ああ、じゃあな、野方」
そう言って、彼はここから立ち去っていった。
私は彼が出て行くのを見送ってから、ランニングをしようとベンチから立ち上がった。
夕陽が完全に向こうへと沈み、気づけば子供の声も聞こえなくなっていた。
翌日から冬休みに入ったのだが、それから私たちは公園でよく会うようになっていた。
ぶっきらぼうな高取くんだが、よくよく話してみるとそんなことはなかった。
しかし、そうやって話を重ねるたびに、あの揺らめく炎をやはりどこかで見たことがあるのだと疑いを強めていった。
そして、その炎は日に日に弱まっているように思えた。
彼と話をしていると、そういうのが言外に伝わってくる。
初めて会ったあの雪の日、彼は何かに怒っていたのだと今なら分かる。
その後二度目に会ったとき、燃え盛る炎を雪がすっかり覆ってしまったように怒りが無くなっていたのだと思う。
だけど、その瞳の炎は消えていなかったのだから、あの炎は怒りの炎ではなかったのだ。
じゃあ、何の表れなのかと聞かれても分からなかった。
分かることは、その炎さえも今刻一刻と消えつつあるということだけだ。
「ねえ」
「ん?」
今日も夕方の公園のベンチに座って、私たち二人はおしゃべりをしていた。
その他愛もない話に一区切りついたとき、私は思い切って聞いてみた。
「今、何を考えているの?」
「何って……何も」
「嘘よ、きっと何か考えてる」
このとき私は間違いなく高取くんが守っている領域に足を踏み入れていることを自覚していた。
だけど、彼の表面を見ているだけじゃあ、きっといつまでもあの炎の正体にはたどり着けない。
高取くんは私の目をじっと見る。
その瞳にはやはり何らかの意志が見られる。
「……俺は……」
彼はそう言うと、唇をかんだ。
そして、私から目線をそらすと再び口を開いた。
「野方はさ、陸上をやっているだろ? それはどうしてた?」
考えながら口に出したのだろう、たどたどしく出てきたその疑問は意味がよく分からなかった。
「どうしてって、それは……」
そもそも、私はもう陸上部で活動をしていない。
だけど、それならどうして私はここで走ることをやめないのだろうか。
私が私でなくなるような気がすると前は思っていたが、今はどうなのだろうか。
やっぱり陸上が、走ることが好きなのだろうか。
それとも、諦めきれないだけなのだろうか。
そこまで思って、私は心の中で違うと叫んだ。
諦めきれないのなら、どうして陸上部に行かないのだと責める声が聞こえた気がした。
とりあえず、私は返事を待っている高取くんに言った。
「走ることが好きだから、かな? 走っていれば嫌なこととか忘れられるし」
「嫌なこと?」
彼の言葉を聞いて、私は自分の言葉に驚いていた。
一年生に負けたことが私の中では気分の悪くなることになっていたのだ。
しかし、彼の聞き方は私のことを好奇な気持ちで知りたいわけではなく、なんだか心配しているように感じた。
彼のその真剣な声に答えたくて、私は全てを話そうと思った。
一年生に負けたこと、何をやっても上手くいかないことをかいつまんで話した。
私が話をしている間、彼は黙って耳を傾けていた。
そうして、気がつけば夕方ももう終わるという時間になっていた。
「なるほど、だけど、俺にとって、みれ、ば……」
何か言おうとしていた高取くんは胸あたりを手で押さえている。
その顔は青ざめており、冷や汗が流れている。
「う、ぐっ、ぐうう……!?」
口から声にならない声が漏れる。
彼は身体を揺らし、ベンチから滑るように地面に落ちた。
私は目の前で起こった突然の出来事にどうすればいいのか分からなくなっていた。
「きゅ、救急車……」
かろうじて出てきた彼の言葉に私は携帯を取り出して、急いで一一九番を押す。
プルルルルと電子音が聞こえ、やがて女性の声が聞こえてきた。
『はい、こちら災害救急情報センター。火事ですか、救急ですか』
「あ、あの……高取くんが、男の人が胸を押さえて苦しそうなんです!」
『分かりました、場所はどこですか?』
「えっと……西京市東西京区の古池公園です」
女性のオペレーターのどこまでも冷静な声に私はだんだん落ち着いてきた。
それから、オペレーターが色々な指示を出してくるので、私はそれに答える。
そして、救急車が来るまでの間、高取くんの容態を安定させなければいけなかった。
私は彼のジャンパーを脱がして、オペレーターに言われたとおりの方法で心臓マッサージをしていた。
周りにはいつの間にか人だかりが出来ていた。
しかし、その中の誰も彼を助けようとはしてくれない。
私は胸の辺りに手を重ねて押しながら、心の中で叫んでいた。
お願い、助かって、お願いだから――。
やがて、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
人垣を掻き分けて、救急隊員が高取くんを担架に乗せて運んでいく。
マッサージを続けていた疲れもあって、私はただ呆然としていた。
「君、通報者だね? 一緒に乗っていくか?」
一人の救急隊員に言われ、私は頷いた。
彼は救急車の後ろから私を乗せると、発車した。
車内では高取くんを中心にして色々な人が慌しく動いている。
彼の命を助けようとしているのがよく分かった。
私にとってはその光景はまるでテレビを見ているような感覚で眺めていた。
そして、今私は西京病院内のICU(集中治療室)と書かれた部屋の前の椅子に腰掛けている。
救急隊員だが医者だかにここで座っていなさいと言われたのだ。
時間がただただ過ぎていく。
高取くんは無事なのだろうか。
私はただそれだけが気になっていた。
携帯をみると時刻はもう夜の六時だ。
外は完全に真っ暗になっていることだろう。
私は家で心配しているかもしれない母に少し遅くなる旨のメールを送っておいた。
そこに足音がバタバタと聞こえてきたので、私はそちらの方を見た。
熟年の男女二人組だ。
男性の方はスーツを着たいかにもサラリーマンのような風貌で、女性の方はこれまた主婦と言わんばかりの格好をしていた。
「誠! 誠は無事なの!?」
女性が叫びながらICUの中へと入ろうとする。
それを男性が止めないかと言いながら後ろから抑えている。
どうやら、高取くんの両親のようだった。
騒ぎを聞きつけ、ICUの中から白衣を着た一人の男性が現れた。
「先生! 誠は無事なんですか!?」
女性は先生と呼んだ人、恐らく医者と思われる人に詰め寄っている。
彼はひどく困惑した顔つきになっていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「今のところ容態は安定しています。すぐに死ぬようなことはないでしょう」
私は医者の発した言葉の意味を即座に理解できてしまった。
『すぐに死ぬことはない』
それはつまり、裏を返せば今でなく近いうちに死ぬということだ。
「発作が起きたとき、すぐに通報と応急処置があったおかげです。その二つをやっていただいたのは、そこにいる方ですよ」
医者の言葉に二人は私の方を見る。
急に振り返ったので、私は少し驚いてしまった。
「すみません、まだ処置が終わっていないものですからこれで失礼します。 終わり次第、また御連絡致しますので」
そう言って、医者は再びICUの中へと入っていった。
残された二人は私に近づく。
「すいません、本当にありがとうございました。あなたは誠の命の恩人です」
そう言って、男性は頭を下げた。
それに倣ってか、女性の方も何も言わず頭を下げる。
「いえ、別にそんな……」
私はそんなお礼よりも、今は聞きたいことがあった。
「それよりも高取くんは一体何の病気なんですか? 命に関わるほど重病なのですか?」
公園での出来事を思い出す。
突然胸を押さえて、顔も白くなり、呼吸さえ出来ないように見えた。
あれが普通の病気であるはずがない。
私の思いが伝わったのか、二人は顔を見合わせた後、私の方に向いた。
「分かりました、説明したいと思います」
私たちは場所を変えることにした。
少し歩き、病院内のレストランに入った。
これだけ大きい病院だと、レストランぐらいはあるのだろうか。
私は初めて入るレストランの中できょろきょろと辺りを見渡す。
普通のファミリーレストランと内装は変わらない。
違うことといえば、入院患者と思われる人たちもテーブルについて食事をしていることだろうか。
私たち三人はウェイトレスに案内されて、四人用のテーブル席に着いた。
私の正面に高取くんの両親が座る形になった。
席に案内したウェイトレスが水を三つテーブルに置いた後、注文が決まったら呼んで下さいという内容の決まり文句を言って去っていった。
「さて、紹介がまだだったね、私たちは誠の父親と母親です。君は?」
「私は野方つぐみです」
「つぐみさんか。改めて礼を言わせていただきたい。本当にありがとう」
そう言って、父親は再び深々と頭を下げた。
私はいきなり名前で呼ばれたことに内心動揺したが、慌てて言った。
「いえ、そんな本当にいいんです。頭をあげてください」
そう言うと、彼は顔をあげる。
よく見ると、彼の顔は雰囲気よりも大分老け込んでいるように見えた。
「それよりも高取くんのことです。一体、彼は……?」
「……誠は、心臓の病気を患っているのです」
「心臓の?」
「ええ、ご存知かも知れませんが、心筋漸次弱体症という病気なのです」
その病気については、医学に詳しくない私でも知っていた。
ドラマでもヒロインが心筋漸次弱体症を患っているという悲劇があるぐらいなのだ。
原因は不明、病態も不明なのに心機能が少しずつ悪くなっていき、延命処置を行わなければ数ヶ月か数年かで死に至る。
癌でさえよほど悪化していなければ治療可能というのに、今の時代でも治せないようだ。
「そ、そんな……」
だからこそ、先ほどの医者の言葉に納得してしまった。
やはり、いずれ近いうちに死んでしまう運命に彼はあったのだ。
「つぐみさん、誠のことでそんなに気に病むことはないですよ。これは仕方が無いことです」
「仕方が無いって、あなた……!」
母親が口を挟むが、彼の方は特に何とも思っていないようだった。
「高取くんはこのことを?」
「ええ、知っています。一ヶ月ほど前に言われたばかりですから……」
一ヶ月前というと、丁度私が高取くんと初めて会ったあの日に近い。
彼らは昔から高取くんは疲れやすかったとか、ときどき動悸が激しかったとか言っている。
その話を聞きながら、私は何の根拠もなく、告知された日があの初雪の日ではないかと思った。
いずれ死ぬことになると医者から言われ、彼はあの公園に来たのだ。
あの噴水を見つめながら、高取くんは一体何を思ったのだろうか……。
私は高取くんの両親と軽く食事をした後、二人と別れた。
また今度ちゃんとお礼がしたいと言われ、父親の方と携帯番号を交換しあった。
病院玄関から外へ出ると、いつの間にか空を雲が覆いつくし、雪が遠慮がちに降っていた。
自宅がある方角へと足を動かしていると、私の脳裏にあの日の高取くんの様子が浮かんでくる。
雪が降る中、ただ一人噴水を眺めていた彼。
寂しそうな背中には、死を背負っていた。
だけど、彼の瞳には炎が宿っていた。
きっと、死に抗おうとする強い意志だったのだろう。
だけど、そこまで考えて私はそんな強い意志を見たことがあると思った。
そう、確か私はあの炎に見覚えがあるのだ。
一体どこで……。
帰宅した私に母が声をかけてくるが、私は夕飯はいらないことを告げ、自室に入る。
そのままベッドに倒れこもうと思ったが、ふと私の目に鏡が入った。
姿見用の鏡は私のジャージ姿を映していた。
そして、私の疲れが残る顔も映っていたのを見て、私はぎょっとした。
私の顔は特に変わったことはなかった。
なかったのだが、私を見る瞳には火が小さく揺らめいているように見えたのだ。
その時、携帯が鳴り出した。
着信名は高取くんの父親の名前だった。
私は急いで電話に出た。
「もしもし!」
『ああ、つぐみさんですか? 私です、誠の父親です』
その声は先ほど病院で別れた彼の声だった。
「どうしたのですか?」
『ええ、実は誠の容態が安定しまして、意識もはっきりとしているのですが……』
彼の声に混じって、車のクラクションの音も聞こえる。
どうやら、外で電話をしているようだ。
『誠がですね、あなたに会いたいと言ってまして。もうしわけないですが、今からこちらに来れませんか?』
私は二つ返事で承諾し、ICUにまだいることを確認するとジャージから私服に着替えて、ダッフルコートを羽織る。
居間にいる母に私は出掛けることを簡潔に伝えると、家の外に停めてある自転車に乗り込んだ。
先ほどよりも雪の量が増して道に積もり始めていたが、私は寒さなど気にせず車輪を回した。
歩いて帰るときよりも半分の時間で西京病院にたどり着くと、自転車を駐輪場に停めて夜間専用玄関から入る。
コートを脱ぐこともなくICUにまで走ってくると、ICUの前には高取くんの両親が椅子に座っていた。
「ああ、つぐみさん、早かったですね」
父親の方がそう言うと、立ち上がって近づいてくる。
「さ、この部屋の中に誠はいます。会ってあげてください」
私は彼に促されるままに、部屋の中へと入っていった。
少し歩くと、白いベッドに眠る高取くんの姿があった。
ピッ、ピッ、ピッと規則正しい電子音が響くだけだ。
「野方か、よく来たな」
彼には色んなチューブがくっつけられてはいるが、口にはよくある呼吸マスクは取り付いていなかった。
容態が安定したというのは本当のことだろう。
普通ならいるはずの医者や看護師らしき人は誰も見当たらなかった。
「二人きりで話をしたかったから、出来るだけ人が入ってこないようにお願いしておいた」
私の疑問に答えるようににこやか言う彼の顔を見ていると、本当に死ぬのだろうかと疑ってしまう。
だけど、周りの人間が私に嘘を吐く理由など何もないのだから、疑うだけ意味がないことだ。
「私に会いたいって」
「ああ、公園で言いかけて倒れたからな」
やはり、そのことだろうなという予感はあった。
だけど、自分の体調のことよりも私のことを優先するなど、どういうつもりなのだろうか。
分かりつつあった彼のことが、また少し分からなくなっていく。
「俺の病気のことは父さんたちから知っただろ。俺はもう明日にも死ぬかもしれない命なんだ。だから、お前の悩みは些細なものだなと思ったんだ」
些細なこと。
その言い方に私は何か引っかかるが、私は黙って話しの続きを聞いていた。
「一年生に負けたことなんて、これから続くお前の人生にしてみれば多分そんなに大事なことじゃない。お前は好きで陸上をしているんだから、気にするなよ」
さらに続けて何か言おうとして、高取くんは口を開くが言葉が出ることなく口を開いては閉じてを繰り返した。
その様子が何か心の中に凍りついたものを溶かそうとしているように見えた。
彼は私の方をちらりと見て、目を閉じた。
「それが言いたかったんだ。俺にはもう未来なんてないからさ」
静かに言ったその言葉のなんと寂しそうなことだろうか。
部屋の中は再び規則正しい電子音だけが鳴っている。
私はなんと言えばいいのか分からなかったが、とにかくこの沈黙だけは嫌だったので震える声で言った。
「未来がないだなんて、そんな言い方……」
分からない。
死を目の前にした彼に対して何と声をかければいいのだろう。
もうすでに死を受け入れてしまった彼にどう言えばその心の氷を溶かしてあげられるのか。
それが出来るほど、私は自分がまだ幼いのだと気づかされる。
「どうせ死ぬんだ。今から何をしても無駄さ」
「後悔していることとか、やり残したことはないの?」
とにかく彼の言うことに反論がしたくて、私は考えずに口を動かす。
運動も勉強も出来ない私には言葉を使うことしか出来ないのだから。
「そんな感情、死を目前にした俺には意味が無いよ」
そんな私の努力を否定するように彼は淡々と言いのける。
私は絶句した。
もう彼を死から遠ざけることなど出来やしないのだと思い知らされたからだ。
私はどうして彼にこんなに言葉を投げかけるのかますます分からなくなっていく。
「だから、無駄にあがくのはみっともないだろ。死にたくないって騒ぐほど子供でもないし」
そんなことを平気な顔して言う彼に私は今哀れんでいる。
同情こそ、死に臨む彼にとって最もしてはいけないものだと頭の中では分かっているのに。
胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だから、野方がそんな泣きそうにならなくてもいいんだ」
そう言って、彼は微笑んだ。
俺のことは気にするなと言っているのだと気づいた。
だけど、その作り笑いの中に私はまた見た。
瞳の中に小さくもどんな寒風でも消えることのない灯火を。
その火は、私の瞳の中にも宿っているものと同じだと確信した。
「な、何よ……泣きたいのはそっちのくせに」
「野方?」
何かを感じたのか、高取くんは私の名前を呼んだ。
その直感は正しい。
私は私の中の炎を抑え切れそうになかった。
「らしくないよ」
「何がだ」
「そんなに饒舌になっちゃって……本当は未練があるんでしょ!」
そのとき、彼はその目を私からそらしたのを見逃さなかった。
「ほら見なさい! 何をどう悩んでいるのか分からないけど、何もかも諦めましたって顔しちゃってさ」
そこまで言ったとき、炎の正体に私はようやく気がついた。
いや、気づいていたけどやっと認めることが出来たのだ。
揺らめく炎は私の中にくすぶっている心そのものだった。
勝てない競争から逃げたはずなのに、ランニングをやめなかった理由。
陸上が好きだから、というだけじゃない。
私はまだ諦めていなかったのだ。
今は雌伏の時なのだと、自分に言い聞かせるために公園を走っていたのだ。
「私はそんなのは嫌だ。まだ、まだ諦めたくない! あの一年生に勝つまでは!」
「お前……」
「あなただってまだ生きているじゃない。だったら、あがけばいいじゃない。みっともない? そうやって諦めましたって言い訳する方がよっぽどみっともないわよ」
この感情を抑えることは無理だった。
私は自分でも何を言いたいのか半分分からないまま、ただ思ったことを叫んでいた。
最初は私の様子が変わったことにただ驚いていた高取くんだったが、私の言葉に何か思うところがあったのか、顔を真っ赤にして言い返した。
「う、うるさい。お前なんかに何が分かる! 死ぬぞと言われた身にもなってみろ!」
分からないわよ、分かるわけがない。
だけど、私と同じように諦めていないのだと分かった以上、死を受け入れたふりをする彼が許せなかった。
「だからって、死ぬことから目を背けて良いことにならないわよ、最期まで精一杯生きてから死を受け入れればいいでしょう!」
「軽々しく言うな! 俺にはそんなことは無理に決まってる」
そう言った高取くんの顔はさきほどまでの諦観はどこに行ったのだか、すっかり跡形もなく消えていた。
また、彼が言ったことも、なんだか自分に言い聞かせているようで、私はそれがすごく情けなく見えた。
それがどうにも悔しかった、我慢できなかった。
だから、言ってやった。
「あなたになら、それが出来る! 私が好きになった人はそんなに弱くないんだから!」
言い切った私は少しすっきりしていた。
しかし、高取くんはなんだか信じられないものを見るような目で私をじっと見ているから、私は段々恥ずかしくなってきた。
「お前、今、好きって」
呆然と彼は呟いた。
思わず言った告白だったが、私は恥ずかしいと思う反面、納得していた。
ああ、だから、私は彼のことがこんなにも気になっていたのだ。
だけど、それを伝えるのはもっと恥ずかしいので口には出さないでおいた。
「恥ずかしいなら、そんな言い方しなけりゃいいだろ」
「……でも、今伝えないでいつ伝えるの」
震える声で私はささやいた。
諦めるなと私は言ったが、それでもどうしようもなく彼は死に逝く人間なのだ。
だから、私は自分が後悔しないようにしただけなのだ。
「けど、俺は遠からず死ぬぞ」
「分かってる。叶わない恋だとしても、この想いを抱えて生きていくほど私は強くないし」
そうだ、認めよう。
私は今陸上から逃げてしまうほど心が弱い人間だ。
だから、誰かに恋をしてしまったら、片想いのまま伝えずに生きていくことはできないだろう。
私の真剣な想いが伝わったのか、高取くんは息を吐くと私の方を向いた。
「分かったよ、俺、最期まで生きてみるよ。惚れた女にそこまで言われちゃ、やらない訳にいかんだろうし」
「えっ、今なんて」
今度は私が驚く番だった。
だけど、彼はもう一度それを口にすることはなかった。
「さて、時間も遅いし、話は終わりだ。退院できたら、また連絡するから」
そう言われて私は携帯を見ると、時刻はもう夜九時を過ぎていた。
これ以上言いたいこともないので、私は素直にICUから出ることにした。
「ありがとう」
私の背中に向かって、高取くんが言った。
私は部屋を出る前に一度振り返って、彼の方を見た。
高取くんはそれに気づき、また何かを言った。
少し距離があったが、私の耳にははっきりと届いた。
「またな、つぐみ」
私は手を振って、部屋から出て行った。
初めて下の名前で呼ばれたことに赤面しているであろう顔をなるべく見られたくなかったのだ。
それに、また会おうと言われたのだ。
今はしっかり彼には休んでもらいたいと私は思ったのだ。
しかし、その口約束が果たされることはなかった。
あの日から数日間、彼は意識不明の重体に陥ってしまい、そのままあっけなく亡くなってしまったのだ。
その知らせを父親から聞いた私は彼の死に顔を見ることにした。
線香の匂いが香る遺体安置室の中に、彼は寝ていた。
私は側に立つ高取くんの両親に許可をもらって、彼の顔にかかっていた白い布を取り外す。
寝ているようにしか見えない彼の顔は白くなっていた。
私はその頬に手を添えてみる。
固く冷たくなっていた。
その冷たさに私はもう二度と彼と話が出来ないのだと理解した。
目から涙がじわりとにじんできた。
だけど、声を上げて泣くことはなかった。
病院からの帰り道、また雪が降っていた。
今年はいつになく雪が多いなと思った。
私は家へと向けていた足をあの公園へと向けた。
公園の噴水周りには誰もいなかった。
私はベンチに座ると、噴水を見るでもなく彼の眠る顔を再び思い出していた。
そう、本当にただ寝ているように見えたあの顔を……。
惚れた女の言葉を聞き入れた彼のことだ。
きっと、意識がなかった間も彼は生きようと必死だったはずだ。
そう思うと、私は言葉しか彼に送ることが出来なかったことに気づく。
もっと、彼と生きてみたかった。
いつの間にか、再び涙が頬を流れている。
私は誰もいないことを幸いに、声をあげて泣いた。
この日、十二月二十八日から、私は二度と晴れることのない後悔を背負うことになった。
だけど、私はそれから変わろうと努力し始めた。
勝ちたいと思うようになった私は新学期が始まると部活に復帰した。
最初は誰もが私のことを部活をサボっていた駄目な人間という態度で接していた。
しかし、私には周りの態度なんて関係なかった。
ただいつも練習に熱心に取り組むだけなのだから。
そうして、冬が過ぎ、春も半ばを迎えると徐々にタイムが縮まり始め、夏の県予選大会の出場を賭けて再びあの女子と対決することになった。
諦めなかった結果だったが、残念ながら私はそれ以上上には行けなかった。
再び後輩女子の方が速かったのだ。
当たり前のことだが、私と同様に彼女もまた練習に取り組んでいたのだから彼女も速くなるに決まっている。
だけど、私は去年よりも速いタイムを出せたので満足していた。
私はこれで前に進むことが出来ることだろう。
蝉の鳴き声が響く高取くんの墓前で、私はそう思った。
私が降りると、タクシーは発車していく。
雪は飽きることなく降り続いている。
顔を上げて、前を見る。
ここは彼のお気に入りの場所だったあの公園だ。
地面には雪はとうに積もっている。
私はそこに足跡をつけながら、公園の中へと入っていく。
薄暗い灯りを頼りに、私の足は噴水へ向かう。
雪を踏みしめる音だけが辺りに響く。
もちろん、こんな夜中に誰かがいることはないだろう。
噴水の前に辿り着く。
あの白い背中がそこにいることもなく、噴水がただただ水飛沫を撒き散らしているだけだ。
あれから、高取くんが亡くなってからもう六年近く経とうとしていた。
高校も大学も卒業して、今私はある中小企業に勤めている。
毎日が忙しく、残業になってしまう日も少なくないが、やりがいのある生活だった。
きっと、高取くんと出会わなければ、こんな風に汗水垂らして働くことはなかっただろう。
そして、今の私には恋人がいる。
大学時代から付き合っている彼だったが、数日前彼にプロポーズされた。
半ば予期していたことだったのだが、私はその場ですぐに返事することは出来なかった。
どうしても、最後に彼に言っておきたかったから。
本当なら墓前で言うのが正しいのだろうが、きっと彼の魂はここにいると思い、私は今日ここに来たのだ。
噴水の手前まで来ると、墓前で行うみたいにしゃがんで手を合わせる。
目は閉じず、水面を見てみる。
そこには薄明かりに照らされた私の顔が映っている。
その瞳にはあの日から消えることなく燃え続けている炎がある。
「高取くん、多分これで最後だから、私の言うこと黙って聞いてて」
そう呟く私に答える声はもちろんない。
だけど、彼が側で聞いていると思い、私は続ける。
「私ね、この前プロポーズされたの。その人のこと好きだから、私受けようと思う」
静かだった。
かすかに鳴る風の音も聞こえるぐらい静かだった。
「高取くんのこと、忘れるわけじゃない。けど、私も自分の人生、精一杯生きてみたいから」
それは私が彼に向けて言った私自身の言葉だ。
高取くんがいなくなっても、私の人生はまだまだ続いていく。
「だから、これからも私がちゃんと諦めずに生きていくかどうか、見守ってて欲しいかな」
そこまで言うと、私は立ち上がりくるりときびすを返し、公園を出て行こうとする。
彼の声が聞こえるはずもないが、私には高取くんが笑ってくれているように思えた。
だから、私は最後に噴水の方へ振り返ることなく言った。
「またね、誠」
その言葉に答える声はもちろんない。
ただ、雪だけが降り続いているだけだった。
終