相席
私は小説家だ。
書き始めてずいぶんたつが未だに代表作を持たない。
その日もいつものようにカフェに入った。
私は小説が好きだった。幼い時から好きだった。
今日の愛読書はミステリ。
その日のカフェは混んでいた。
「相席でもよろしいですか?」
ここのマスターともずいぶん長い付き合いだ。
「構いませんよ」と私は言った。
マスターは寡黙な男。流行ってないカフェでいつもカップを磨いてる。
今日は彼も忙しそうだ。
「いつものをください。」
「かしこまりました。」
「相席失礼します。」
「・・・お気になさらず。」
目の前の男は初めて見る。常連ではない。
彼はこの真夏に真っ黒なスーツを着て黒縁のメガネを掛け、カフェラテを飲んでいる。
若い男だが疲れているのか、ひどく老けて見えた。
「父と喧嘩をしましてね。」
彼は話し始めた。
「頑固で潔癖な父でした。私とも喧嘩ばかりでしたよ。
昔から決めたことを曲げようとしない愚かな父でした。
それでも家族を大切にしていました。」
彼はカフェラテを一口のんだ。
「あれは5つの時でしょうか。私が迷子になって帰れなくなった時、見つけてくれたのが父でした。
何時間も何時間も・・ひとりで心細い時間を過ごした私を父は殴りました。
それから抱きしめてこう言うんです。『もうどこにもいくんじゃないぞ』と。
仕事で忙しいのによく遊びに連れて行ってくれました。
せっかくの休日は休みたいだろうに。」
「すてきなお父さんですね。」
彼は決まりが悪かったのか、曖昧に微笑んだ。
「きっかけは些細な事でした。私はそれでも父を尊敬していましたし、父の仕事をする姿も好きでした。
しかし私にも夢があったのです。
父は後を継げと言いました。私は嫌だと言いました。
父の仕事姿が好きでした。私にはああはなれないと常々思っていたのです。」
「好きなことをして生きていくのは楽しいもんですがね。
私は売れない小説家ですが自分の作品が好きですよ。
他人の小説を読むのも好きです。これさえあれば楽しいですがね。」
「もう戻れませんよ。」
彼は泣きそうな顔で微笑んだ。
「20年たってしまいましたから。」
「・・・・・・」
「仕事はそれなりに順調で、それでも父には会えなくて。
結局喧嘩別れしたみたいに家を飛び出したままですよ。
昨日父がなくなりました。
勝手なもんですがこうなるともう話せないのが寂しくてしょうがないですよ。」
真っ黒なスーツは喪服だったのか。彼の顔はスーツに劣らないくらいに暗い。
「これからお葬式ですか?」
「そうなんですが・・・どんな顔して行ったらいいかわからなくて。」
「寂しいことを言わないでやってくださいよ。
どんなに会ってなくてもどんなに憎みあっても親子はいつまでも親子なんですから。」
誰にでも言えるようなことを言う。
こんなことしか言えないから小説が売れないのかもしれない。
「それにお仕事をきちんとしてお葬式に帰ってくるだけで充分に孝行息子でしょう?
私はそれでいいと思いますがね。それにお父さんもあなたに会いたいと思いますがね。」
「そう言っていただけると助かります。」
静かな店内に静かな音楽、静かな男と静かなおしゃべり。
甘いカフェラテは心も癒す。疲れた体に優しくしみる。
それも彼の顔は晴れないのだ。
そこからしばらくお互い無言で、読みかけの小説を開こうか迷ってると彼は言った。
「実は最初、父だと思ったんですよ。」
「・・・?」
「あなたのことを。なんででしょう。顔もふるまいもしゃべり方もなにもかも違うのに。
頑固で潔癖な父はもういないのに。
それでも最後に父としゃべれたようで楽しかったです。」
そして彼は今日一番の笑顔でこう言った。
「ようやく父にお別れを言える気がします。」
彼は去った。
入れ替わるようにマスターがコーヒーを持ってきた。
「あぁ。ひさしぶりに小説でも書いてみますかね。」
誰にともなくつぶやいてみるのだった。