プロローグ一歩手前の前日譚
「私の恋人になってくれない? 白瀬君」
「……へ?」
放課後の教室。
本日の日直当番最後の仕事として日誌を職員室に届けてきた俺は、白上さんから突然の告白を受けていた。
彼女の鋭い眼差しを受け、俺はまごつきながらも周囲に視線を配る。
もしかしたらこれは何かドッキリの一種であり、教室の外からクラスメイトがニヤニヤしながら俺の様子を窺っているんじゃないかと思っての行動だった。
けれどそんな人影は見当たらない。
今この場には、日直当番で最後まで教室に残った俺達二人しかいなかった。
「外には誰もいないわよ。さっき君が職員室に行っている間に確認したから」
「え……あ、そ、そうなんだ」
しかもそれは白石さんが既に把握済みだったようだ。
つまり彼女は今、俺と二人っきりになるこのタイミングを見計らって告白をしてきたことになる。
俺に告白……本当か?
言ってはなんだが、俺は今までモテたためしが無い。
女子と付き合った事は無いし、性にまつわるエトセトラも未だ未経験だ。
……いや、キスなら一度あるにはあるのだが、それはお互いにとって不幸な事故と言えるものであるため俺の中では無かった事にしている。
と、そんなこと今はどうでもいい。
今は白上さんの真意を問うべきだ。
「えっと……つまり白上さんは俺の事が好き……なのか?」
「違うわ」
「…………」
俺が訊ねると白上さんはスッパリと否定の言葉を告げてきた。
なんだこれは。
告白されたと思ったら逆にフラれたカンジになったぞ。
なぜこんな唐突に精神的ダメージを受けなきゃいけないんだ。
「……白瀬君が一番無害そうだからお願いしてみたのよ」
「無害……」
しかも告白した理由は「無害そうだから」という男にとってあまり嬉しくないものだった。
それに異性の友達相手へ言うのならまだわからなくもないが、今この場面で使う言葉ではない。
だったらなんで告白したって話だ、全く。
「今、ならなんで告白した、と思わなかった?」
……白上さんを疑ったのが表情に出てしまっていたようだ。
俺は顔を引き締め直して彼女に問いかける。
「……そりゃ思うさ。一体何を考えているんだ、白上さん?」
正直言ってわけがわからない。
もしかして彼女はジョークを言っているのか。
だが好きでもない男に付き合ってとお願いするというジョークを言うのは、俺の持つ白上さんイメージからかけ離れすぎている。
「君に彼氏役を演じて欲しいのよ」
「彼氏役?」
「ええ」
なんだそれは?
俺は彼女が何をしたいのか上手く察せず、その場で首を軽く捻った。
「……最近ちょっとしつこく言い寄ってくる人がいるのよ」
「しつこくって……白上さんに?」
「ええ、そうよ。私って実は結構モテるのよ」
「いや、それは見ればわかる」
白上さんが男に言い寄られること自体はそこまで不思議じゃない。
クラスの中、というより学校の中でもトップクラスの美人であるとして男子から絶大な人気を集めている白上さんがモテることを変だと思うはずも無い。
けれど彼女の性格からして、フラれた男が付きまとうようなことはないだろうとも思える。
彼女、白上奏さんはクールにして苛烈。
常に余裕そうな微笑を顔に浮かばせて他者を圧倒するというのが俺の持つ彼女のイメージだ。
だから男が言い寄るものなら言葉の刃で切って捨てるのがこの人らしいと思っていたんだが。
「……どうだか。白瀬君ってあんまり人を見ないし」
「いきなり何俺のことディスってんですかね」
そんなこと言うならもう帰ってもいいですかね。
一体何が悲しくて俺は放課後の教室でクラスメイトから非難を受けなきゃいけないんですかね。
「今のは言葉の綾よ。それに本題はこれから」
「……白上さんが男に付きまとわれてるって話の続き?」
「そうよ」
男に付きまとわれてる、ねぇ。
一応それだけで白上さんが俺に何を頼もうとしているのかは大体察せられた。
「つまり白上さんは俺と恋人役を演じてその男に自分と付き合うことを諦めさせようとしている、てことか?」
「その通りよ、頼めないかしら?」
なるほど。
事情はわかった。
しかし……
「なんで俺に頼むんだ?」
彼氏役なら相沢とかの方が見栄え的に良い。
彼氏が超イケメンならその言い寄ってくる男も納得するだろうに。
「……だから、このクラスの中で白瀬君が一番無害そうだったからって言っているじゃない。『これを機会に俺達、本当の恋人になってみないか?』とか言われたら困るもの、ね?」
白上さんはそう言いながら、長くてサラサラな髪を指でいじりつつ微笑を浮かばせる。
つまり彼女はミイラ取りがミイラになることを恐れているということか。
「随分と自意識過剰だな。彼氏役に抜擢した男が自分に惚れるかもしれないとか、本当に思っているのか?」
「……あら、君にしては随分トゲのある言い方ね」
「そりゃそうさ」
まあ、確かに白上さんレベルならそれくらいの慎重さを持ち合わせていたほうが良いのかもしれないが。
でも本人からこうして「私美少女だから」的な発想を聞かされるのは微妙だ。鼻につくとまでは言わないけど。
「というか、俺だったら恋人役になっても白上さんに言い寄らないと確証を持って言えるの?」
「確証ではないけれど、多分大丈夫だと思うわね。だって白瀬君は奥手そうだし」
「へぇ……」
奥手ねぇ……
実際のところ、これまでの人生で女性と付き合った事も告白をした事もなかったわけだから間違ってはいない。
というより、人付き合いそのものを俺は今まであまりしてこなかったとも言える。
言うなれば俺はぼっち。
クラスの中では常に空気を演じ、一人静かに本を読んで周囲に荒波を起こすことなく生きてきた。
けれど、だからこそ白上さんは俺を彼氏役に選んだとも考えられるのか。
人付き合いの薄い俺ならボロを出す事も少ないだろう、と。
それに白上さんがこうも俺に自意識過剰女と思われてしまうような話をしているのも、俺へのけん制という意味合いが込められているのかもしれない。
万が一にも俺が彼女を好きになる可能性を潰すためにこういった言動をわざとしているというのなら納得だ。
それなら後は俺が彼女のお願いに快くイエスと言うかノーと言うかにかかっているわけだが……
…………
「……わかった。それじゃあしばらく彼氏役を務めさせてもらうよ」
「いいの?」
「いいよ、別に」
白上さんと付き合うことで俺に何か不都合があるわけでもない。
それなら今困っている彼女に手を貸すのも悪い話ではない。
人間、困っていたらお互いに助け合わないとな。
「その代わり、今後もし俺が困ったことがあったら白上さんも助けてくれよ?」
「ええ、わかったわ。ありがとう、白瀬君」
俺が気軽に彼氏役を了承すると、白上さんはお礼を言って頭を下げてきた。
そして彼女は少し崩れた長い髪を手で掬いながら俺を見て微笑む。
「そろそろ先生が見回りにくる時間だから私達も教室から出ましょうか」
「……もうそんな時間か」
教室の窓から外を見るとそこは既に夕焼け空となっていて、部活がなければ生徒はもう全員下校していてもおかしくない時間だった。
更に言うなら今は期末テストを一週間後に控えているから部活動も現在休止中。
だから学校に残っている生徒は俺達や図書室で勉強をしている奴らくらいのものだろう。
「それとメルアドと携帯番号も交換しておきましょう。話の続きはメールででもしましょうか」
俺が夕日を眺めていると白上さんがケータイを取り出して近づいてきた。
けれど俺はその場で頬を掻くだけで、懐から何かを取り出すこともしない。
それを見て彼女は首を傾げ、俺をじっと見つめてきた。
「……俺、ケータイ持ってないんだ」
「あっ……そ、そうだったのね。ごめんなさい」
白上さんはばつが悪そうな顔をして俺に謝ってきた。
別に謝らなくてもいいのにな。
どうせ俺がケータイを持っていても親くらいしか電話をかけてきそうな人もいないのは事実なわけだし。
悲しくなるから口に出して言うことはしないが。
「そ、それじゃあここで私達の関係を簡潔にまとめておきましょう」
「あ、ああ」
話を切り替えるためにか白上さんがそんなことを言ってきたので俺は了承の声を上げた。
「今日から私達は恋人同士。明日から私は学校の中で君の彼女として接するわ」
「わかった」
まあ問題ない。
流石に恋人だからといってスキンシップ的なものはしないだろうが、それも学校内では自重しているとでも言えば周りも納得するはずだ。
「それと私は白瀬君のことを下の名前……鋼って呼ぶから、君も私の事は奏って呼んでくれるかしら?」
「名前呼びか……了解した」
確かに恋人同士なら苗字呼びよりも名前呼びの方がそれらしい。
俺は白上さんの求めに軽く応じた。
「とりあえず今はこれだけ決めておけば十分ね。詳しい事は明日にしましょうか」
「そうだな」
そうしてここでの話は終えたと判断した俺は下校する準備を整え始める。
そろそろ先生が見回りに来る時間だ。
俺達が教室にいるところを見られたら何を言われるかわかったものではない。
「それじゃあまた明日、鋼」
「また明日、白――奏」
建前上彼氏彼女の関係になったといえど、必要がなければ下校も一緒にするということはないようだ。
俺と違ってもう帰る準備は万端だったらしい白上さんは別れの挨拶を言った後、速やかに教室から退室していった。
「彼氏役ねぇ」
困ってそうだからつい安請け合いしてしまったが、今更になって本当にこれでよかったのだろうかと思う自分がいる。
白上さんに付きまとっているという男だけならともかくとして、彼女と付き合っているなんて話がクラスに広まればどんな変化が起こるだろうか。
流石にそのことでいじめられたりするようなことはないだろうが、ある程度冷やかされることを覚悟する必要はあるのかもしれない。
俺はそんな事を考えながら、カバンを持って教室を後にした。
けれど俺はもっとよく考えるべきだった。
白石さんと付き合う、という事の意味を。
こうして俺はクラスメイト同士が血で血を洗う壮絶な争いへの第一歩を踏み出してしまった。