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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

明晰夢(めいせきむ)

作者: abb

 男は、漠然とこれが現実ではなく夢の世界だとわかっていた。朝起きて、出社し、仕事をして、普通に同僚と話をしていても、頭の片隅で、俺は今夢を見ているのだろう、現実にはまだ布団の中にいて眠っているのだろう、と認識していた。

 そして、男のこの曖昧な認識は、この世界で日々を過ごすにつれ、徐々に確信へと向かった。


 男は、「現実の世界」では、某社の管理部門に勤務し、薄給で長時間労働を強いられていた。休みはほぼ残業でつぶされ、大学の頃からつきあっていた彼女とも会う時間がなくなり2年で別れてしまった。出会いもなく、彼女なしの枯れた生活を送っていた。

 ところが、この世界では、男は、上場企業の某商社に勤務する商社マンである。商社関係の仕事などやったこともないのに、なぜか何となくですんなり業務が運んでいる。

 バリバリと仕事をこなし、部下を指揮する自分自身の姿に酔いしれる。本社とパートの主婦の板挟みになりながら、ノルマに頭を痛め、休みなしの生活によれよれになっている現実とは大違いだ。

 そして、なんと「夢の世界」では男には恋人がいた。

 女医で美女、しかもナイスバディー。才色兼備な彼女をいったいどこで引っかけてきたのか。彼女の豊かな胸に顔をうずめながら、幸せーとため息をつく男。

 こんな美女とおつきあいできるなんて、夢に違いない。


 × × ×


 週末、地元の母親から男に電話があった。


「辰也、元気にしている?」

「元気にしているよ」


 彼女は、月に一度、男に電話をかけてくる。交わす内容は全く代わり映えはしない。しかし、彼女はそれで満足をするのだから、これぐらいはきちんと対応しておくのも親孝行の一つだろう。


「仕事はどんな感じ?」

「ぼちぼち。そっちは?」

「こっちはねー、この間、お父さんと一緒にハワイに旅行したのよー」

「親父と? へー。いいね、ハワイ。楽しかった?」

「もちろん、楽しかったわよー。今度お土産を送るわね」


 男が、この世界を夢の中だと確信したのは母親から電話がかかってきた時だった。なぜなら、男の母は、男が小学生の時に病死していたからだ。母の死以来、父が男手一つで男を養育した。伯母が再婚を勧めていたが、それを断り、慣れない家事をしていた父の姿を忘れるはずもない。

 母親が亡くなって10年以上も経ち、忙しい日々の中、命日以外で彼女のことを思うのはほとんどなくなっていた。それなのに、心のどこかで、母が今も生きていたら、と思っていたのかもしれない。それが男の夢に「両親の幸せな老後生活」として反映されたのだろう。

 感傷に浸りながら、携帯を眺めていると、メールの着信音が鳴った。


  差出人:沙紀

  本 文:19日(金)から3日間、旦那は出張です


 メール本文の語尾にはハートマークがついている。

 男は手帳を開き日程を確認した後、20日の夕方に自宅に行くと返信した。

 沙紀とは、男の上司の妻である。

 男は上司の妻と不倫の関係にあったのだ。

 人妻とのアバンチュール!これぞ男の浪漫!夢はかくありき!

 男は、ガッツポーズをしてにやにやした。

 デキル男で美人の恋人を持ち、色気のある人妻と不倫関係、俺、こんなに幸せでいいのかな……、ベッドに飛び込みゴロゴロ転がった。この夢はいつまで続くのだろう、限りある時間を存分に楽しもうと男は固く決意した。


 × × ×

 

 充実した仕事と金と愛におぼれる男の薔薇色の生活に転機が訪れた。

 男の上司から、社長令嬢との縁談を持ちかけられたのだ。会社に彼女が訪れたとき、男を見初めたらしい。

 男の容姿は、ブオトコというわけではないが、いわゆるイケメンというものでもない。中肉中背でいたって普通の顔であり、一目惚れをする要素などひとかけらもない。夢の中とはいえ、容姿は「現実世界」と同じままであった。しかし、そこは夢補正、男が気づかないうちに社長令嬢に惚れられるという、都合のよい展開が待ち受けていた。

 男は現在26歳。結婚をするのに早すぎるとまでは言えないが、もう少し独身生活を楽しみたいという思いはある。しかしながら、彼の今後の社会的地位を考えると社長令嬢との結婚は魅力的である。しかも、5歳も年下の若い娘。逃すのは勿体ない。上司を通じて彼女とお見合いをし、話はトントン拍子で進んだ。

 だが、彼女との結婚にあたり、一つ障害が生じた。


「社長の娘さんと縁談の話が持ち上がっているんですってね」


 剣のある声で、女は男を詰った。

 いったいどこから聞きつけてきたのか。ここしばらく連絡をとっていなかった恋人、啓子から呼出されたとき、やっぱり自然消滅は無理だったか、とヒトデナシなことを思いながら男はため息をついた。

 いかにして、彼女をなだめながら別れを切り出そうかとやはりヒトデナシなことを考えながら、彼女と向き合う。彼女は、冷静沈着な女だ。喫茶店という人目につくところで、感情的な言動をすることはないだろうと打算が働く。しかし、彼女の次の台詞に男は狼狽えた。


「私、知っているのよ。辰也が、上司の奥さんと不倫しているってこと」

「えっ」

「気づいていないと思っていたんでしょう。言っておくけど、どうせ奥さんとのことは一時的なことだろうと思って、許していただけよ」


 才気走った女だが我が儘も言わず、男を立てるいいオンナだと常々思っていた。しかし、男はすべて啓子の手のひらの上で踊らされていたのだ。


「奥さんとのこと、会社に知られたらどうなるかしらね」

「啓子!」

「他の女と結婚ですって? そんな理由で別れるなんて冗談じゃないわ」

 さっと啓子は立ち上がった。

「支払いよろしくね」


 そのまま啓子は立ち去っていくのを男は愕然と見ていた。

 沙紀とのことが会社にバレたらどうなるかだと?そうなったら、会社での自分は一巻の終わりではないか。縁談を持ちかけた上司の妻と不倫なんて社会的破滅だ。なぜ、ここまでトントン拍子に自分の都合のいいように進んでいたのに、とんでもないジョーカーが現れるのか。啓子が切り札を持っている以上、社長令嬢との縁談は諦めざるを得ないのか。

 男は呆然として店を出た。

 啓子の衝撃の発言に呆然とした男だが、時間が経つにつれ、男は冷静になってきた。そして、マンションに帰り着き、考える。

 今回の縁談を断るとして、社長らにはどう説明をするべきか。ほぼ婚約をしたも同然の状態で、今後もわだかまりなく会社にいられる円満な断り方などあるだろうか。そして、たとえうまく破談となったとしても、沙紀と不倫をしていた事実は消えない。啓子が会社に告げないとは限らない。また、今後何かあったときの脅しとして切り札に使われるかもしれない。

 そうすると、縁談を断るというのはベストな方法とは言えないことになる。


 では、ベストの方法とは何か。


 男の中に、危うい考えが浮かぶ。

 この方法がうまくいけば、わざわざ上司の面目をつぶさず、社長令嬢とも結婚をすることができる。会社に自分の汚点をバラされることもない。

 唯一の問題は、この手段が失敗したときのリスクである。ただ、これは己の夢の中の出来事に過ぎない。これまで、啓子の恐喝行為以外はすべて自分の思うがままに事が進んでいることを考えると、失敗することはないとみてよいのではないか。

 それにたとえ失敗しても、いずれ醒める夢だと思えば、最悪な結末となっても問題はないだろう。

 啓子に対する罪悪感や己の倫理感についても、これが夢だと思えば、大した問題でもない。

 そう結論づけて、男は綿密な計画を立てることにした。


 × × ×

 

 啓子と喫茶店で別れてから1週間後、男は、啓子の部屋を訪れた。

 堅い表情をした彼女に対し、社長令嬢との縁談について断ったと告げた。


「すまない。あれは、気の迷いだった。やっぱりお前が一番なんだ」

 真摯な表情で告げる男に、啓子は涙腺を緩ませた。

「私も、辰也が好きよ」


 しばらくの間抱擁し、口づけを交わす。落ち着いたところで、二人は顔を見合わせ、笑みを交わした。


「夕ご飯を食べよっか。今から用意するね」

「わかった。俺はどうすればいい?」

「そこのテーブルを片づけてくれる?」

「了解」


 啓子は、キッチンに向かう。男はテーブルの上を一瞥し、彼女がこちら側に背を向けているのを確認すると、ベランダのある窓に近寄った。窓越しにベランダを見る。彼女の部屋には何度となく訪れ、ベランダにも足を入れているので構造は把握しているが、念のために確認をしたのだ。

 ベランダを一通り見た後、テーブルの上を片づけた男が、次に台ふきでテーブルをふこうと考えたとき、ふと背後に足音がして振り返った。そこには、男の想像通り啓子がいた。しかし、彼女の両手には男が予想していない物があった。


「け、啓子、その包丁は何だよ!」

 無言で男に包丁を向け突進してきた彼女を慌てて避ける。

「私、知ってるのよ! 辰也が縁談を断ってなんかいないってこと!」

「なっ」

「明日も、例のお嬢さんと会う約束していたでしょ! この嘘つき!」

「危ないっ、やめろっ」

「気づいていないと思って騙そうとするなんて、馬鹿にするのもほどにしなさいよ!」


 男は、包丁を取り上げようと彼女を取り押さえようとする。しかし、むやみやたらに暴れる彼女から怪我を負うことなしに取り上げることは困難を極めた。もみ合っているうちに、彼女は足を滑らせて後ろにひっくり返った。そしてそのまま直接頭をドアの角に打ち付け床に倒れる。彼女の頭付近から赤い液体がみるみる床に広まった。包丁を握ったまま、彼女はピクリともしない。

 男は、後ろに数歩下がった。

 予定外の結果に男は青ざめた。


 こんなはずではなかった。


 確かに、男は、啓子の殺害を計画した。しかし、あくまでも事故死に見せかけるつもりであった。このような死に方は想定していなかった。彼女の髪は乱れ、もみ合っているうちに彼女の手首を強くつかんだりしているので、そのアザも残っている。

 これでは、どうしたって不慮の事故に見せかけるなど到底無理である。このまま逃げたとしても、自分が犯人だとすぐに露見してしまうだろう。


 やはり、無謀な計画など立てるものではなかった。とにかく救急車を呼ぼう。彼女は包丁を握ったままで倒れているので、正当防衛が認められるかもしれない。


 男は携帯から電話をかけようとしたとき、玄関から音がした。


「啓子、ドアのカギが開いてるぞ。不用心過ぎないか」

 男が振り返ると、そこには5、60代ぐらいの男が立っていた。啓子の傍に立つ男と血まみれの彼女を見て、血相を変えた。

「お前! 俺の娘に何をした! 人殺し!!」

「違うっ! これは事故なんだ!」


 啓子の父親は大声で叫ぶと男に殴りかかった。騒ぎを聞きつけた住民が部屋に集まり、開いたままのドアから入ってくる。

 やがて、パトカーの音が聞こえてきた。

 

 × × ×


 男は、啓子の殺人容疑で逮捕された。

 啓子が包丁で刺そうとしたので止めようとしたら偶然頭を打ち付けたのだ、と弁解したが、その供述は無視された。なぜなら、啓子が握っていたという包丁がどこにも見つからなかったからだ。そのかわり、彼女の血液が付着した「鈍器」が見つかった。そんなものは知らない、見たこともない、男は言いつのるが、彼の指紋がついている鈍器は、彼の殺害を裏付ける決定的な証拠となった。

 

 そして、さらに男にとって青天の霹靂とも言える事実が発覚する。

 男の上司の妻沙紀が殺害されたのだ。

 男が逮捕された夜、上司は、帰宅すると血まみれで倒れていた沙紀を発見した。彼女の携帯の通信履歴により男と沙紀の関係が明らかになった。そして、沙紀を刺した凶器は、数日前に男が近くのショップで購入したことが判明する。もちろん、凶器には男の指紋がついていた。

 

 しかし、男にとって沙紀の殺害は全く身に覚えのないものだった。

 俺は、沙紀を殺していない、無実だ、そう叫んでも、状況は男にとって不利なものでしかなかった。社長令嬢との縁談を進めるために、恋人と不倫の関係にあった上司の妻を殺害した男。マスコミは計算高い冷酷無比な男として彼を報道し、世の人々は彼を非難した。

 彼の弁護士すら、無実の主張は難しい、精神鑑定をして刑の減免を求める方向を考えるべきだ、と言う。

 狭い部屋の中、男は頭を抱えた。


 どうしてこのようなことになってしまったのか。

 啓子が握っていた包丁はどうなったのか。彼女を殺害したという凶器はいったいどこから現れたのか。大振りのナイフなど購入したこともないのに、なぜそういう記録が店に残っているのか。

 何者かに陥れられたのか。それとも、弁護士が言うようにこの一週間急性ストレス障害により一時的に記憶が混濁したとでもいうのか。

 いや、そもそも、これは己の夢だったのではないか。ああ夢だから整合性があわないのか、それなら早く醒めてくれ。


 × × ×


 やがて月日が経ち、男は審判の日を迎える。

 その裁判は、傍聴希望者が殺到し抽選方式がとられた。そして満席の傍聴席からは、法廷に立つ男への罵声が飛び交う。

 裁判長は無慈悲に死刑を言い渡した。

 男は崩れ落ちた。床に両手をつく。

 傍聴席から聞こえる歓声など男の耳には入ってこなかった。


 死刑!!

 俺にはもうこの先全く未来はないのか!

 これは夢ではなかったのか!

 なぜ醒めない!

 俺はこれからはただ死を待つために生きるのか!

  

「死にたくない!! 早く夢から醒めさせてくれ!!」


 その瞬間、男ははっと目を開いた。

 見慣れた1DKアパートの天井が目についた。薄汚れた壁も目に入る。自分の安月給ではこの程度のアパートを借りることしかできない。


 ようやく、目が覚めたらしいと男は思った。

 長い、長い夢だった。己の願望を忠実に反映したものかと思えば、最後は谷に突き落とされるような展開で、改めて夢でよかったとため息をつく。男は窓を見た。辺りはまだ暗く朝までまだ時間があるようだ。目は覚めたものの覚醒にはほど遠く、眠気がある。もう一度寝直すかと寝返りを打った時、横から女の声がした。


「起きたの?」

 自分の部屋のベッドに女がいることに不審を覚えるも、男はすでに眠りにつき始めていた。

「ちょっと嫌な夢を見て……」

 うっつらとしながら声がする方に目を向ける。

 男の横には裸の女がいた。


「嫌な夢?」

「ああ、俺が死ぬ夢……」


 男の目が女の顔をとらえた。

 女は、男が殺したはずの啓子だった。


「啓子? 俺はまだ夢を見ているのか?」

「まだ寝ぼけているのね。朝までまだ時間があるから、もう少し寝ていたら? 眠そうよ?」

「ああ、そうする。おやすみ……」


 まだこれは夢だったのか。恋人の啓子と一緒に暮らす夢か。

 次に起きる時こそ、中小企業で仕事に追われつつよれよれになって働いている「佐川辰也」として目覚めよう、そう思いながら、男は目を閉じた。

 女は、再び眠りにつこうとする男を優しげに見守り、その背中に口づけをした。



「おやすみなさい。……今度こそ私を捨てないでね」





明晰夢(英語:Lucid dreaming)とは、睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことである [http://ja.wikipedia.org/wiki/明晰夢]

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