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前章

プロローグ


 鈍色の雲が見渡す限りの空を覆い、屋敷の前に造られた広大な庭園を陰鬱に染め上げていた。晩夏の乾いた風が、多種多様なユリの花々を小さく揺らしている。赤、白、黄、橙、薄桃と鮮やかな色彩を放つそれらを眺めながら、少年はふらふらとした足取りで歩を進めていた。美しさに見惚れていたから、というだけではない。この庭園は花壇が迷路のごとく複雑に入り組んでおり、案内人なしに足を踏み入れた客人を例外なく惑わせるという少々困った性質を持っていた。少年は小さく息を吐くと、いつ雨が降り出してもおかしくないほどに黒ずんだ曇天を見上げた。

「やっぱり、出口まで連れて行ってもらえば良かったかなぁ」

 数分前に別れた少女の顔を思い出す。心配そうに揺れるつぶらな瞳に、わずかに開いたままの桃色の唇。それに対し、「俺、一度通った道を忘れたことはないから」と胸を張って答えたシーンが、込み上げてきた気恥ずかしさを伴って脳内で再生される。あれだけ大見得を切っておいて、助けを求めに引き返すわけにはいかない。首を左右に振って情けない思考を追い出すと、少年は再び歩き始めた。静寂に包まれた庭園の一角に、靴底が路面を叩く音が規則正しく響き渡る。

 やがて、刈り込まれた芝生の先に一つの建物が見えた瞬間、少年は我知らず駆け出していた。数時間前に少女に手を引かれて通った場所とは違うようだったが、それでも前進する体の動きが鈍ることはなかった。むしろ、何かに突き動かされているかのような――胸の内に灯った感情の炎に勢いづけられるまま、少年はあっという間に忌まわしき花の迷宮を抜け出した。

 そして、立ち止まると同時に息を呑んだ。

「なんだ、これ……?」

 視線の先に屹立する建物は、物置とでも言うべき粗末な小屋だった。屋根には赤さびの目立つトタン材を載せ、四方を囲む壁は長い年月の経過を伺わせるくすんだ板張り。扉は蝶番が壊れているせいか傾いたまま閉じられておらず、窓に嵌められた木製の格子はあちこちが腐食したように途切れている。

 しかし、驚くべきはそれらではなかった。台風クラスの風雨に見舞われれば跡形なく瓦礫と化すだろう小屋の周囲には、植物らしき蔓が縦横無尽に巻き付けられていた。住宅街を歩いていると偶に見る、フックや針金を利用したエクステリア目的の植物とは比較にならないだろう。小屋を飾りつけているというよりも、まるで内部にいる何者かを逃がさないように拘禁しているかのような、そんなうすら寒い印象を少年は抱いていた。蔓のあちこちに飛び出た鋭い棘を視認するや、体の芯がすうっと冷たくなる。

「薔薇……なのかな」

 足を芝生の上に縫い付けたまま、少年はきょろきょろと視線を移ろわせた。小さいが、確かにあるべき形を為したつぼみが、棘よりもずっと大きな間隔で蔓の上に点在していた。

 しかし、そのどれもが萎れたまま色を失っている。

 蔓にしても、健康な状態を保っているとは言えなかった。ところどころが枯れて色落ち、細くなった部分が荷重に耐え切れずに断ち切れているのが散見される。こういった植物の育て方を知っているわけではないが、少なくとも長い間世話を放棄されていることだけはわかった。そうでなければ、これほど醜悪に絡まってしまうことはないだろう。

 少年はごくりと唾を飲み込むと、固く緊張した右足を前に踏み出した。

 それを認識するや否や、湧き出た疑問が心中に波紋を広げた。

 俺は――一体何をしようとしているんだ?

 この小屋は、薔薇らしき植物と同様に長期間に渡って放置されてきたはずだ。ならばその中に見るべきものはないだろうし、ましてや帰りの道順を懇切丁寧に教えてくれる人間がいるはずもない。そのことは、県下でも有数の私立学校初等部に通う少年には容易に理解できていた。しかし、それとは別の意識に支配されているかのように、手足はよどみなく動き続けた。花壇の迷路を抜け出した時に抱いた、あの感覚――それが、先ほどよりもずっと強い力で背中を押し続けている。抗うことは、もはや不可能に思えた。

 やがて、蜜の香りに誘われてひらひらと舞い寄る蝶のように――少年の体躯は古ぼけた扉の眼前へと移動を終えた。その瞬間、かかり続けていた重荷が解かれたように胸の内がスッと軽くなる。代わりに表出したのは、絶対的な予感だった。

――この扉を開ければ、取り返しのつかないことになる、という。

 少年は浅く深呼吸した。しかしそれは、選択を迷う心を落ち着かせるための行為ではなかった。彼自身も驚くべきことに、すでに答えは決まっていた。錆ですっかり赤茶けてしまった扉のノブに手を掛ける。

「…………行くか」

 十二年間分の記憶が脳内に、想いが胸の内に去来した。扉を引くことによって生じた軋み音によって、それらがガラスを砕いたかのように儚くも崩れ落ちる。後戻りがきかないという認識から来る不安を塗りつぶすように、少年は勢いよく小屋の中に身を躍らせた。

 そしてすぐに、手のひらで鼻の周りを覆った。

「うっ……」

 内部は、むせるような花の匂いに満ちていた。わずか八畳ほどの奥に広い空間を見回してみると、その至る所に薔薇の花が顔を出している。コンクリートの床は入り口から真っ直ぐに伸びたわずかなスペースを残して緑に覆い尽くされ、少年の膝上ぐらいの高さに開いている花弁を下部から支えていた。太く逞しい茎の側面には、やはり鋭利な棘。身震いしながら左右の壁面を見ると、二つの格子窓からは外から蔦ってきたらしい蔓が入り込み、部屋の奥に向かうにつれて密集度を増していた。ならば最奥はどうなっているのだろうかと、視線を投げかけたところで――

 少年の体は、凍りついたように動きを静止した。

 アンティーク調の大きな椅子の上に、一人の少女の姿があった。

 暗がりの中でも眩く存在感を放つ金髪。薄汚れたワンピースから大胆にのぞく手足はほとんど肉がついていないかのように細く、肌は蛍光を発しているかのように白く輝いている。顔のつくりは人形のように整っており、ほっそりと伸びた鼻筋も、サクランボのように艶やかな唇も、子細に見るほどに作り物めいているという印象が強まっていく。

 しかし、少年の目を奪ったのはそのどれでもなかった。

 少女の瞳――その虹彩は、根源とでも言うべき血の赤色を発していた。

 それは、あらゆる要素を一瞬の内に無に帰してしまうほどの、暴力的な色だった。

 小屋内部の景色が、少女を中心として放射状にモノトーンへと塗り替えられていく。薔薇の花の鮮やかな紅色も、葉や茎の生命力に満ちた緑色も、あちこちを穿たれたボロボロのコンクリート床の灰色も、もはや区別がつかなかった。まるで、それぞれが蓄えていた養分を根こそぎ奪われてしまったかのような――

 唯一、隔世の色を灯すことを許された少女の瞳に、少年は抱き続けてきた渇望の正体を朧に見出していた。

 その光に引き寄せられ、一歩ずつ前進していく。

 床を擦る乾いた音が、はるか遠くから響いてきているように感じられる。

 少女は身じろぎもせずに、ただ座してこちらを見つめていた。

 その様子は少年の暗い感情を煽り、ますます床を駆るスピードを速めていく。

 すると、不意に――脛の辺りに強い痛みが走った。足元は闇が深いために状況がつかめなかったが、間違いなく薔薇の棘による裂傷だと思い、気にせずに歩を進めようとした。

 その時――

 目の前に、跪く赤目の少女の姿が現出した。

 少年は驚いて飛び退ろうとしたが、少女はそれを許さなかった。痛みと熱の感触が支配する左足を細腕でがっしりと抱え込み、桃色の唇を開いて真っ赤な舌を覗かせ。

 傷口を、いたわるように優しく舐め上げた。

「ぐっ……」

 だが、それも最初だけだった。傷口の周囲を円を描くようにして舐め回した後、思い切り、肉の抉れた個所に舌先をあてがった。

「うっぐ……ああっ……」

 肉を裂き、更にその先へと向かおうとするかのように。少女の舌はうねり、這いずり、突き進んだ。少年は熱い息を吐きながら、必死で歯を食いしばる。

「ふっ……んぐ……」

 真っ赤に染まる双眸が、少年の苦痛に歪む顔を見上げた。表情に変化はなかったが、それは明らかに反応を待つ行動だった。

 少年に、答えを声に乗せる余裕はなかった。その代わりに――恍惚とした表情を浮かべて少女を見据えた。それは決して強がりではなかった。少年にとっては、胸の内に渦巻く感情を表現するのに最も適した形を取ったに過ぎなかった。それが一体何であるのか、解き放つことによって何がもたらされるのか、未だ若すぎる彼には知る術もない。

 しかし――

 この《薔薇の小屋》で感じた痛みは、少年の短い生涯の中で経験した一番の《快楽》だった。




八月三十一日(月曜日)


 放課後の教室の一角に、小さな人の輪ができていた。

 それは、二つの机を突き合わせてできた広い平板――正確には、その上に開かれた重厚なフォトブック――を取り囲み、普段の様子からは想像もできないほどの真剣な眼差しを四方より向けていた。仮に事情を知らないクラスメイトが目撃すれば、見当違いに想像を逞しくさせてもおかしくないほどの剣呑な雰囲気。誰一人として言葉を発さず、故に重苦しい沈黙が彼らの周囲を包み込んでいた。極限にまで高まった集中力が、耳から入り込んでくるあらゆる音声情報を遮断する。

 やがて、四人の内の一人が、抑揚の少ない淡々とした声を発した。

「……次。一年三組在籍、出席番号三十四番――吹雪冷衣」

 黒縁眼鏡を掛けた背の高い少年――日々野瑛ヒビノアキラが、フォトブックのページをめくる。新たに陽光を受けて輝く写真の出現に、他の三人はもちろん、幾度となく目を通しているはずの瑛も息を呑んだ。運動をこなしたせいか乱れた黒髪の下に、熱によって染まったのだろう薄桃色の鮮やかな頬。怜悧に整った目鼻立ちに、メイクをしているのではないかと疑ってしまうほどに艶やかな唇。首筋に輝く玉の汗が、無表情を貫く少女のクールな印象を更に引き立てている。

 これが、稀に見る豊作となった八十八期生の中でも群を抜く《三人官女》の内の一人――

 やけに説明口調で呟いたのは、首に白いタオルを掛けた小太りの少年だった。名をイシダと言う彼に対し、瑛がいかにもとでも言うように頷く。

「見事な一枚だろ? 俺は何度か生で見たことがあるけど、こいつを拝んだ時の衝撃と言ったらその比じゃなかったぜ。これほどパーフェクトな組み合わせがこの世にあるなんて、想像すらしていなかったからな」

 すると、イシダと並んで身を乗り出していた少年の口から、美しい、という短い言葉が紡ぎ出された。無口でシャイな美男子であるサエキが感想を漏らすなど、瑛が秘蔵中の秘蔵であるお宝写真集を貸し出した時以来のことである。瑛は驚きながら、しかしそれも当然であろうと思い直し、未だ有無を言わぬままの一人へと視線を定めた。

「どうだ、ナイト。流石のお前でもこれにはクラっと来ただろ?」

 にやりと口の端を持ち上げた親友に対し、ナイトと呼ばれた少年――青野貴士アオノタカシは、平素と変わらぬ微笑をその整った面立ちに湛えたまま、これまたいつも通りの文句を半ば機械的に告げた。

「そうだね。すごく可愛いと思うよ」

 それを聞いた瞬間、瑛は声にならぬ悲鳴を心中に震わせた。恨めしい視線を親友に投げかけると、下を向いて大げさに息を吐く。

「ったく、お前はどうしていつもそう冷静なんだよ。美少女の奇跡の瞬間を捉えた逸品なんだぞ。何も思う所がないっていうのか?」

「いや、だから言っているじゃないか。すごく可愛いって」

「それが社交辞令みてーなものだってのはもうとっくに気付いてるんだよ! そうじゃなくて、俺はナイトの本心が聞きたいんだ。お前が性的に情けない男だっていう風に呼ばれるようになる、その前に」

「……そんな風に呼ばれるようになるのか?」

「あぁ。俺があちこちで噂をばら撒くからな」

 平然と言ってのける瑛に対し、貴士は苦笑せずにいられなかった。

「やめてくれって言っても、聞き入れてくれないんだよな?」

「そりゃそうだろ。こいつは身から出た錆、つまりナイト自身に問題があるんだから」

「……そう言われてもなぁ。俺は正直に答えているだけなんだけど」

 返答に窮する貴士を助けようと、イシダがまぁまぁと瑛を宥める。サエキも無言の圧力を掛けてきたので、瑛は唇を噛みながらも両手を頭上に掲げ、それから黒髪の短く刈り込まれた後頭部で指を組み合わせた。

「しょうがねーな。ナイトの本心をあぶりだすのは次の機会にするよ……。それより、ようやくほぼ完成させることができた《高校女子図鑑八十八期生編》を皆で眺める機会に恵まれたんだ、最後までちゃんと楽しもうぜ」

 切り替えの早さは流石と言ったところだろうか。黒縁眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせると、瑛は勢いよくフォトブックのページをめくった。新たに現れた写真の中の少女に、四人は思い思いの反応を示す。

 《布野田高校女子図鑑八十八期生編》は日々野瑛が制作指揮を務め、新聞部に在籍する彼の友人の全面協力の下、ようやく完成まで後一歩という所まで迫った珠玉の一冊である。布野田高校一年次の女子生徒数はちょうど九十人。それだけの人数を相手に盗撮紛い(というかそのものだが)の行為を働くのは困難を極めるように思えたが、新聞部の活動内容と体育祭を初めとした特別行事の存在がフォトブックの製作を意外なほど容易にした。《校内新聞に載せるかもしれない》という大義名分の下、堂々とシャッターを押し続ける内に、目的の写真はあっという間に集まっていったという。全ては友人ネットワークの賜物だ、と瑛が数十分前に胸を張ったのは記憶に新しいが、もちろんそれを不特定多数の人間に対し堂々と披露するわけにもいかず(教員にばれたら最低でも停学処分だろう)、こうして静まり返った教室の片隅で選ばれし野郎同士が顔を突き合わせているというわけである。

 貴士以外の三人が童顔の巨乳一年生に程度の差こそあれ頬を緩ませた後、次に開かれたページを見るや、今度は四人全員が同様の反応を見せた。

「あれ? ここって……」

 貴士がわずかに首を傾げると、親友は写真のあるべき個所に指を当てた。

「さっき言った《ほぼ完成させた》ってのはこういうこった。まだ撮影できていない一年生女子がいるんだよ。しかも……」

「しかも?」

 貴士とイシダ、サエキが声を重ねる。それに対して、瑛は静かに答えた。

「その子は《三人官女》の一人、なんだってよ」

 ええっ、と驚愕のジェスチャーを示したのはイシダだけだったが、貴士もまた心中では驚いていた。おそらく押し黙ったままのサエキも同様だろう。

 なぜならば――合法的に盗撮ができる特殊な状況下で、《三人官女》と呼ばれ讃えられている美少女を逃すということは、心理的に有り得ないと思ったからだ。

 貴士たちの考えを察したのか、瑛は応じるように頷いた。

「《三人官女》っていうのは、誰が作ったか分からない冠でな。いつの間にか陰で使われ始めて、今じゃ男子生徒の大半が知っているって状態だ。もしかすると、その伝達の過程で何らかの齟齬があったのかもしれねえ。だが、少なくとも俺の持っている情報では、《三人官女》の一人はこの女の子ってことになってる。つまり……」

「その子が《三人官女》であるかどうかを確かめる術は、現状のところ無いってことか。だから、こういう言い方は失礼かもしれないけど……見逃してしまった可能性もあると」

「さすが学年トップクラスの秀才、理解が早いな。お二人さんも、それで納得したか?」

 イシダとサエキが首を縦に振るのを見て、瑛は年齢の割にあどけなさの残る顔をほころばせた。しかし、すぐに雲が覆ってしまったかのように影が差す。

「ただ、ちょっと気になることがあって。例の女の子のことだけど」

「……どうかしたのか?」

「そんなに大げさなことでもないんだけどな。実は」

 そこまで言ったところで、不意にガラガラと無遠慮な音が鳴り響いた。

 教室前方の扉が開き、そこから橙色の光と共に現れたのは――

「せーんぱい。一緒に帰りましょ♪」

 《三人官女》の一人にして貴士の恋人である、白河撫子シラカワナデシコ、その人だった。大きな鳶色の瞳をきょろきょろと移ろわせ、左手の人差し指をおとがいに当てると小首を傾げる。

「あれ、皆さんお揃いで何をしていたんですか? ひょっとして、来月の《お祭り》についての話し合いとか? だったらあたしも是非――」

「おっと撫子ちゃん、そういう無粋な真似はいけねぇよ。男には女子供に隠れてこなさなくちゃいけない仕事があるんだ。そのヘン理解できねぇと、ナイトの理想とする《花嫁像》にはいつまで経っても近づけないぜ?」

 瑛のでたらめな述懐を真に受けたのか、撫子は「し、知りませんでした……。メモ、メモしないと」と慌てて濃紺のスクールバッグから分厚い手帳を取り出し、まっさらなページにボールペン(赤色)を走らせた。瑛がこっそりと親指を立てたのが見えたので、貴士はこれまた気付かれないように苦笑する。

 それから撫子はハッと顔を上げ、

「ということは先輩、あたしはもしやお邪魔なのでは……校門かどこかで待っていた方がいいでしょうか?」

「いや、それは大丈夫だよ。どうしても今日中に終わらせなくちゃいけないわけじゃないし、ちょうど一段落ついたところだしね」

 そう言っても後輩は申し訳なさそうに表情を曇らせていたが、貴士が優しく微笑みかける段になってようやく相好を崩し、

「では瑛さん、イシダさん、サエキさん。先輩と一足先に帰らせて頂くので、後のことはよろしくお願いしますね」

 ぺこりと頭を下げ、花の咲くような笑顔を見せる。この輝きを中学以来の親友が独り占めする権利を得て、撫子を含む三人の一年生女子が《三人官女》と呼ばれる所以を作り出したのだと思うと、瑛は少々複雑な気持ちになった。男として先を行かれたという嫉妬心、そして友人として出会った当時に比べて明らかに表情が優しくなったことに対する素直な喜びが、彼の胸の内ではない交ぜになっていた。

 それを表に出さぬよう、童顔の少年は諸手を挙げるとそのまま左右に振った。

「いいってことよ。それより」

 不自然に言葉を切った後、聞こえよがしに声を張り上げる。

「今日こそキスぐらいしろよ」

 貴士と顔を見合わせた撫子が、夕日より赤く頬を染めるまでに時間はかからなかった。


 赤橙色に染まった通学路を、二人並んで歩いていく。

 それは、約三か月前に貴士と撫子が恋人同士になって以来、ほぼ毎日のように繰り返されている儀式のようなものだった。それを怠れば、今の関係があっという間に脆くも崩れ去ってしまうかのように――少なくとも、想いを告白した側である撫子は半ばそう信じ込んでいた。

 何しろ青野貴士という少年は、途轍もなくモテるのである。

 二年生にすごくカッコいい人がいる、という噂を撫子が耳にしたのは、入学して一カ月が経った晩春の桜舞い散る時期だった。ある事情からすでに貴士へと想いを寄せていた彼女は、このままでは悪い虫――もちろん口に出して言うことはないが――が付くのも時間の問題だと思い、それまで心身を拘束していた臆病な感情を振り払って、決死の覚悟で突撃を図った。玉砕する光景ばかりが目に浮かんでいた撫子だったが、意外にも貴士は好意的な態度で支離滅裂な言葉の一つ一つに頷き、やがて朗らかな笑顔と共に言い放った。

「今度、二人でどこか遊びに行こうか」

 それを聞いた瞬間、天にもどころか大気圏を超えて宇宙にまで達したかのような浮遊感が訪れ、撫子はそれ以降数時間に渡る記憶をほとんど思い出せなかった。帰宅してから習慣に従って手帳のスケジュール欄を確認してみると、直近の日曜日に赤丸が描かれ、丸っこい下手な字で《先輩とデート》と記されていて――

「撫子ちゃん?」

 横から声を掛けられ、撫子は意識を短い高校生活の回顧から現在へと引き戻された。何か話しかけられていたのかもしれないが、無論内容が分かるはずもなく、美貌の少女はとりあえず笑顔で誤魔化すことにした。

「はい。なんでしょう先輩」

「いや、えっと……そういう反応は意外なんだけどね。撫子ちゃんってすごく女の子らしいし、その」

「先輩、もしかして! あたしのこと褒めてくれているんですか?」

「……はい?」

「女の子らしくて可愛らしいだなんて。そんな歯の浮くようなセリフを言われたのは初めてです。ちょっぴり恥ずかしい……けど、それ以上にすごく嬉しいですよ、先輩」

 上目遣いで、二十センチ以上高い位置にある貴士の顔を窺う。しかし見た目の割に頭が固いことで有名な恋人は動ずる様子も見せずに、小さく嘆息してから言った。

「いや、半分は勝手に創作したよね? 話が進まないから、聞いていなかったんであれば正直に言ってくれると嬉しいな」

「……はーい」

 つまらなそうに口を尖らせる撫子の頭を撫でると(それだけで彼女は機嫌を取り戻した)、貴士は再び口を開いた。

「と言っても、そんな大した話じゃないんだけどね。最近、学校の行き帰りや休日に街へ出るときに、妙な視線を感じることがあるっていうだけで」

「ストーカーさん、ですか?」

「わからない。ただ、それを強く意識するのはいつも、撫子ちゃんと一緒にいるときでね。ひょっとしたら君を尾けている奴がいるんじゃないかと思うと、何だか急に心配になってきて」

「きっと先輩のファンの子ですよ。あたしと仲良くしているのを見て、嫉妬しているんじゃないですか?」

 撫子が暢気な調子で考えを述べると、貴士は薄く笑った。

「そんな子がいるのかどうかは知らないけど。俺のことであれば、自分で対処できるだろうから問題はないんだ。だけど、もしターゲットが撫子ちゃんなのだとしたら……やっぱり気が気じゃないよ。君はどう見たってか弱そうだし、それに、その……すごく可愛らしいしね」

 珍しく頬を赤らめた恋人の逞しい腕を、撫子は急速に湧き上がってきた感情に従って優しく胸に抱き寄せた。

「な、撫子ちゃん?」

 戸惑って身を固くした貴士の耳元に、それまでとは毛色の違った甘い声が囁かれる。

「それで、どうするつもりなんですか? 女の子らしくて、か弱くて、可愛らしいあたしを……。先輩はどうやってストーカーさんから守ってくれるんですか?」

「えっと、その……いつでも一緒って訳にはいかないだろうけどさ。例えば、今までは下校するときに家の方向が違うからって途中で別れていたけど、これからは撫子ちゃんの家の前までついて行こうかなって」

「そうですか。……あたしは別に構いませんけどね。いつでも一緒でも」

 狼狽する貴士に対し、撫子は「ふふっ」と短く笑い声を漏らした。

「冗談です。もしそんなことになったら、緊張のしっぱなしで心臓が駄目になっちゃうだろうし」

「……そりゃ、大変だね」

「ええ、大変です。今だってほんとうは……」

 撫子が皆まで言わなかった理由を、貴士は腕に伝わってくる震えから察していた。本来ならば、手を繋いだだけでも歩き方がぎこちなく変わってしまうほどに気の弱い女の子なのだ。こうして密着した状態を保つためにどれだけの無理を重ねているのか――貴士は恋人の健気な気持ちを汲みながらも、弱点である頭を撫でて伝わってくる力を弱めてから、そっと腕を引き抜いた。

「あっ……」

「家まで送るよ。そろそろ暗くなってくるから、ストーカーも動きやすくなるだろうし」

「そう、ですね……」

「……」

 貴士としては、慣れないながらも精一杯に撫子の心身を案じたつもりだった。そのことは、誰よりも他人に優しい撫子もおそらく理解してくれているだろう。しかし、恋人のうなだれる姿を見るにつけ、少年の心は大きく揺れ動いた。それでは本末転倒じゃないかと思いながらも、口を突いて出る言葉の奔流を止めることはできずに――

「あのさ、折角通りがかることだし……《ファミール》に寄っていかない? その、新しいパフェがメニューに追加されたって聞いたの思い出したら、何だか急に食べたくなっちゃって」

 撫子はしばらく「え?」の形に口を固定したままだったが、やがて鳶色の瞳をうるうるさせると、「先輩……」と濡れた声で呟いた。先刻までの無理を反省したのだろう、距離を詰めようとはせず、代わりに花の咲いたような笑顔を夕空の下に浮かび上がらせる。その光景は、ただひたすらに美しかった。

「そこまで言うならしょうがないですね。お腹一杯になって夜ご飯が食べられなくなったら、先輩がお母さんに謝ってくださいよ?」

「うっ、それは……ちょっと、保証できないかも……」

「男に二言はない、っていうのがお父さんの口癖です。この機会に覚えておくといいかもしれませんね?」

「それって、どういう意味……」

「さっ、早く行きましょう。売り切れちゃったら大変ですから♪」

 足取り軽やかに遠ざかっていく少女の背中を、同級生たちの中でも一際立派な体躯を持つ少年が慌てて追っていく。

 その脳裏に、不意に一つの言葉が浮かび上がった。

――今日こそキスぐらいしろよ。

 必要ない、と貴士は首を振った。恋愛に理想の形なんていうものは存在しない。俺たちは、俺たちのペースで一歩ずつ歩いて行けばいいだけだ。立ちはだかる障害の数々を、二人が力を合わせて乗り越えることができたら。その時には、二人の絆は誰にも分かつことのできないほどに強固なものになっているだろう。例えどんなに荒れ狂う風が吹きつけようとも、無慈悲な濁流によって押し流されようとも、変わらずその場に立ち続けることのできる、つがいの彫像のように。

 しかし――

 仮に喫茶ファミールでのデートを提案せず、強引に抱き寄せて唇を奪っていたとしたら。その後の未来は変わっていたのかもしれないと、貴士は後に思わずにはいられなかった。


 新作パフェの濃厚な味わいに二人で舌鼓を打ってから、約一時間後。

 晩夏を迎えた布野田町の日没は早く、午後六時を過ぎたところで周囲は薄闇に染まり始めていた。月よりも心もとない街灯の光が、頭上の高い位置で微かに明滅している。貴士は整備の行き届いていない田舎町の公共設備に呆れながら、これでは日が落ちてからの女の子の一人歩きは危険だと考えていた。やはり、最低でも下校時に行動を共にすることは必須だろう――その認識を改めて確認しながら、貴士は今しがた恋人と通った道を引き返していく。

 その時の彼の心理状態は、端的に言って油断の極みにあった。

 撫子の身の安全を考えて申し出た提案の意味深さに僅かながら酔いしれ、つい十数分前まで堪能していた甘いひと時の記憶に浸り。全身から力が抜け、その足取りすらいつもの小気味良さを失っていた。おそらく、ライトを灯した大型トラックが正面から近づいて来たりでもしない限り、貴士の意識を現実へと引き戻すことはできなかっただろう。

 故に彼は――電柱の陰に隠れていたその姿に、気付くことすらできなかった。

「可愛らしい彼女さんですね」

 撫子よりも低い、凛とした涼やかな声。しかし、貴士が足を止めたのはそれが原因ではなかった。かつて狂おしいほどに近い距離で感じていた、あまりに強すぎて見る者からすべてを奪い去ってしまうかのような引力に――

 今ではすっかり癒えた傷のあった箇所に焼けるような熱を感じながら、体格ばかりを大きくした少年は恐々と振り返った。

 その瞬間――頭頂からつま先まで、全身に電撃が貫いたかのような衝撃が走った。

「あっ……ああっ……」

 自然と声が漏れる。しかしそれは言語としての意味を持たず、野生動物が恐慌をきたした際に発する呻き声に近かった。記憶領域の奥深くから蔵出しされたばかりの映像が脳裏に際限なく流れ、頭部全体が沸騰したかのように熱くなる。一方で首から下の身体は命令の伝達が途切れたかのように動かず、冷気が手足の指先から体幹へと徐々に侵食していくようだった。唯一心臓だけが、別の生き物であるかのように激しい鼓動を続けていて――

「……!?」

 突如、視界が大きく揺れ動いた。

 しかしすぐに、原因が自分にあることがわかった。平衡感覚が上手くつかめず、重心が前後左右に激しく移ろっていく。生まれつき身体能力が高く、運動が不得意な者の苦しみを知らない貴士にとっては、世界が急に変じられたかのように感じられた。このままでは、いずれかの方向へと倒れ込んでしまう――感情のベクトルがパニックから危機感へと、にわかに移ろい始めた瞬間だった。

 貴士の立派な体躯を、何者かが正面から、胴に両手を回すことで支えた。

 細腕の感触が、学生服の厚い布越しに伝わってくる。ピタリと横顔を据えられた胸部には、微かな吐息が規則正しくぶつかってきた。艶やかな長髪が周囲の薄闇や学生服の黒色と溶け合い、詳細な顔貌を窺い知ることはできない。

 しかし、貴士は一目で確信していた。全身から薔薇の香りを立ち上らせるこの少女が、一体何者なのかということを。邂逅からわずか数秒で、二つのシルエットは寸分の狂いもなく重なり、ある特定の一色を少年の澄んだ瞳に浮かび上がらせていた。

 どくん、どくん、どくん。意識の遥か遠くから響いてくるような周期的な心音を聞きながら、貴士は顔を上げた少女と視線を交錯させた。

 それは、どこまでも深い根源の赤色だった。一瞥しただけでその者の不安を掻き立てる、世界共通の危険の象徴。血液の色を灯した少女の瞳は闇の中でも妖しく瞬き、故にそれは彼女の存在を支える絶対的なアイデンティティであった。西洋人形のように整った顔の造作も、抜けるように白いきめの細やかな肌も、比すれば存在感としてはゼロに近い。

 やがて赤目の少女――姫咲いばら(ヒメサキイバラ)は、その作り物めいた面立ちに満面の笑みを浮かべた。それはかつて《薔薇の小屋》を訪れていた少年が見たことのない、航空機の客室乗務員が作るような完璧な笑みだった。その中で、緩やかな弧を描いていた唇がゆっくりと蠢く。

「ねぇ、貴士さん。立ち話もなんですし、わたしの部屋に来ませんか? ここから歩いてすぐなんです」

 その提案を強引にでも断れなかった理由を、現在の貴士は以下のように考えている。

 あの赤い瞳に一度魅入られてしまった自分には、そもそも抗うという選択肢自体がなかったのだ――と。


 いばらの住居は、二人が運命の再会を遂げた地点から五分ほど歩いた場所にある、近代的なデザインの施された分譲マンションだった。完成から間もないため内部は磨かれたように美しく輝き、至る所に高級そうな建材が使われている。布野田町にこのような建築物があったことも驚きだったが、それ以上にいばらが一人でここに住んでいるという事実の方が貴士を混乱させた。どのような紆余曲折を経てこのマンションの一室に住まうことになったのか――知りたかったが、仮にこれ以上の心的負担が掛かれば精神が崩壊しかねないと考え、少年は押し黙ったまま、長い黒髪の揺れる背中に続いた。

 動作音がまるで聞こえないエレベータに乗ると、微かな上昇感覚が二人の身体を包み込んだ。いばらは予想に反して何も言葉を発しようとしない。しかしそれを重苦しく感じる間もなく、扉が左右に開いて目的階への到着を告げた。いばらは後方の様子を窺いもせず、淀みのない動作で前進を再開する。黒のパンプスが硬質の床を叩く音が響き、同色のワンピースの裾がそれに合わせてひらひらと舞う。黒のタイツに包まれた太腿が大胆にも露わになったが、少年はそれを全く意識せずに、少女の歩調に自分のそれを合わせることだけに神経を遣った。

 やがてコツコツと規則正しい音が途切れると、いばらはようやく首を回して貴士を一瞥した。しかし表情を変えることはなく、すぐに前へと向き直って扉のロックを解除すると、どうぞ、と無言で手招きした。内部は暗闇に満ちていたが、貴士が足を踏み入れるや頭上の白熱灯から光が降り注ぎ、女性の住居としては――あくまで貴士の主観だが――寂しい玄関の様子を浮かび上がらせた。初めから設置されているのだろう靴箱以外には何もなく、足元に忍び寄る冷気が殺風景な印象を否応なく強めていく。

 いばらは後ろ手で扉を閉めると、無言で貴士の隣を通り抜け、長い廊下の先にあるドアの前まで移動した。そのまま中へと入りこむと――玄関同様に自動で照明が点いたようだった――それ以降音沙汰がなかったので、貴士は恐る恐る廊下を進んでいった。

「うっ……」

 初めに刺激されたのは、視覚ではなく嗅覚だった。《薔薇の小屋》ほどではないが、鼻に付くような薔薇の香りが部屋内に満ち満ちている。広さは少なく見積もって二十畳はあるだろう。床には暗灰色のカーペットが敷き詰められ、中央に豪奢なソファセット、その右奥に天蓋付きの巨大なベッドが置かれている。しかし他に調度品の類は存在せず、広い空間のほとんどを活用していないのが、貴士には疑問だった。物を置くつもりがないのなら、初めからもっと小さな住居を選べばいいのではないか……。

 それに答えるかのようなタイミングで、死角から少女の声が聞こえた。

「今、お茶を淹れますから。適当な場所に掛けていてください」

 円筒型の缶を胸に抱いていたいばらは、反応も待たずに部屋の奥に設置されたキッチンへと歩いていった。貴士は素っ気のない態度を訝しみながらも、指示通りにソファセットの前まで移動した。途端に、強まった薔薇の香りに咽そうになる。どこが発生源なのかと視線を彷徨わせた結果、すぐに部屋内の一箇所へと釘付けになった。天蓋付きの巨大なベッドの上――あるいは周辺のカーペット上に、枯れた薔薇の花弁のようなものが散らばっていた。と言っても《まばらに》というレベルではなく、一本の大樹から落ちた枯葉をかき集めて投下したかのような、極めて高い密度を形成している。これだけの数であれば、広大な空間を満たす空気をムラなく染めるのにも時間はかからなかったかもしれない。

 そして――仮にあの中で眠っているのだとしたら、いばらからあれほどに深い香りが漂ってきたのにも頷ける。貴士はそこまでを流れるように思考してから、ふかふかのソファにゆっくりと身を沈めた。

 しばらくして、いばらが黒一色のトレーに花柄カップを載せて現れた時、貴士は無意識に少女の全身を注視していた。

 昔と比べて大きく変わったのは、黒を基調としたファッション・スタイルである。

 ワンピースはスカート部分がふんわりとしている以外はタイトな作りで、艶めかしい体のラインを浮き上がらせている。すらりと伸びた脚にはやや厚めのタイツを纏っており、素肌の色はほとんど透かし見ることができない。両手は肘が完全に覆い隠されるほどに長い手袋を嵌めていて、ワンピースの袖との間にできたわずかな隙間から抜けるような白が見え隠れしていた。

 そして極めつけは、絹のように滑らかに輝くロングヘアである。

 かつて眩いほどの金色を薄暗い《薔薇の小屋》内に放っていたそれは、まるで燃え尽きてしまったかのように純粋な黒を宿していた。それでも消し炭のような醜さはなく、あくまで美しさのベクトルが変わっただけのようだったが、それでも貴士は不吉な想像を働かせずにはいられなかった。

 すると、不意にクスクスという妖しげな笑い声がいばらの口から洩れ出した。

「そんなに見つめちゃって……。わたしのこと、食べたくなっちゃいましたか?」

 貴士はドキリと心臓を跳ねさせると、そのまま俯いて赤面をやり過ごした。ここで言う《食べる》という単語が常用外の意味を孕んでいることは、頭の固い彼にも理解できていた。その様子を見て、いばらは更に口の端を歪ませる。

「初心ですね。やっぱり、あの頃と全然変わっていない……。ちょっとだけ安心しました」

 何が《やっぱり》でどうして《安心した》のか理解不能だったが、これ以上ペースを握られるわけにはいかないと考え、貴士は無言で黒の長手袋に抱えられたトレーを見つめた。

 いばらはその変化に目敏く気付き、「冷めないうちにどうぞ」とソーサーに載ったカップをガラステーブルの上に置いた。深紅色の紅茶から立ち上る甘い香りに誘われ口をつけると、程よい熱さが心身の緊張を少しずつ和らげていく。気付かれないようにホッと息を吐き、高級そうなカップを慎重にソーサーへと戻そうとした――その時。

 ソファ全体が微かに揺れ、次いで貴士の左肩に温かな感触が寄りかかった。

「貴士さん……」

 密やかな声が耳元で囁かれる。貴士は数瞬前まで全身を強張らせていた感情を再燃させ、どうにかしてソファから離れようとした。しかし、見えない蔓に拘束されてしまったかのように、五体は力なく震えることしかできない。そうしている間にも密着度は更に増し、二の腕や太腿の柔らかな感触が、親友曰く《情けない男》である少年の深部を、微弱な電流が伝わるように刺激していく。

 ――駄目だ、このままじゃ……また……。

 意志力を振り絞って叫ぶつもりが、いつしか訪れ始めた《快楽》に意識を薄れ掛けていたところで、いばらが再び猫なで声で囁いた。

「ねぇ、知ってます……? わたし、今の学校にずっと前から通っていたんですよ」

「…………え?」

「ふふ、やっぱり分かっていなかったみたいですね。その素直な反応に免じて、教えてあげます……。わたしは半年前、生涯のほとんどを過ごしてきた姫咲の家を出て、この町に単身やってきました。理由は……そう、貴士さんの通っている、布野田高校の入学試験を受けるためです」

「……なっ……お、れの……?」

 驚きのあまり掠れてしまった声に、いばらは拗ねたように唇を尖らせた。

「その反応、わたしとしては少しばかりショックです……。それとも、なぜわたしがあなたの引っ越し先を知っているのか、そっちの方に驚いたのかな? だとしたら、あなたは……相当なお間抜けさん、ですね」

 ふふ、と短い笑いを零すいばらの言っていることが、貴士にはほとんど理解することができなかった。ただでさえ心臓が早鐘を打っているというのに、この上混乱が脳内を埋め尽くすようなことがあれば、もはや自我を保っていられる保証もない。己の中にある獣じみた感情を抑え込むために、貴士は必死で言葉を紡いだ。

「……俺の住所を、調べたのか? 当時の友達はもちろん、担任の先生にも教えなかったのに、どうやって……」

「あらあら、やっぱりお間抜けさんでしたか。あるいは……世間知らず、と言った方が正しいかも知れませんね。何しろ貴士さんは、姉と同じ有名私立小学校に通っていたエリート、なんですから。世の中がどれだけ歪んでいるか、知る機会もなかったのでしょう。お察しいたします」

 明らかに皮肉の込められた口調に、貴士は震える唇をギュッと噛みしめた。脳裏をよぎる《姉》の姿に心を痛めながら、先よりも芯の通った声を発する。

「……君が、俺を追って布野田高校に入学した、と主張したいのはわかった。だけど、俺は今日まで一度も、君の姿を見た記憶がないよ。いくら六年もの長い間、会っていなくとも……気付かないのはおかしいと思わないか? 実際、今日は夜道で顔を合わせただけで、すぐに君を君だと認識することができたし……。ひょっとして、嘘をついているんじゃないのか。本当は、布野田高校に通っているなんていう事実は、ないんじゃないのか……?」

 貴士はそこまで言い切ると、激しい運動を終えたばかりのように浅い呼吸を繰り返した。実際、消費したエネルギーはそれに近いものがあっただろう。動悸がある程度落ち着いてから、ようやく顔を持ち上げる。

 対していばらはその問詰に眉一つ動かさず、真紅色の双眸を妖しく瞬かせて、少年の青白く生気のない顔をひたと見据えた。次いで、弧を描いていた桃色の唇が開かれる。

「貴士さんがそう思うのも、無理はありません。だってわたし……見つからないように、いつもあなたの背後を尾けていたんですから」

「…………え……? それって、つまり……」

「はい。有体に言うなら……《ストーカー》というやつです。ふふ」

 その軽々しい口調から放たれた衝撃の告白を、貴士はしばらくの間呑み込むことができなかった。ここしばらく頭を悩ませていた《ストーカー》の正体、それがまさか、六年前に別れたはずの赤目の少女だったなんて……。にわかに生じてきた怖気に耐え切れなかったせいか、膝頭が小刻みに揺れ始めるのを感じた。それは次第に隣接する部位へと伝播し、やがて少年の内側をも打ち震わせていく。

「怖がらないで。話はまだ、これからなんですから」

 スラックスに包まれた太腿の上を、いばらの手がいたわるように優しく愛撫した。その瞬間、貴士の内側を黒く染めていた感情が、根源の赤というべき色によって急速に塗りつぶされていった。激しい精神状態の移り変わりに、思わず声が洩れ出そうになる。しかしそれをどうにかして堪え、後に残った少女の温もりに意識を傾けると、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。奥底で唸り声を発している《怪物》を刺激しないよう、膝の上に置いていた拳をぎゅっと握りしめる。

 いばらは貴士に気取られないよう片頬を歪ませ、話を続けた。

「本当は、すぐにでも貴士さんにお会いしたかったんです。成長した姿をお見せして、この胸にぎゅっと抱きしめて……。その場で愛してしまいたいとさえ、思っていました。でも、それは……できなかったんです」

「……どう、して?」

 貴士は反射的に尋ねていた。自ら話さない時点で訊くべきでないと、常の彼であれば冷静に思考することもできただろう。しかし、あれだけ忌避し続けてきたいばら本人とそれにまつわる記憶に触れてしまった今、そんな余裕が残されているはずもなかった。

 いばらは真っ赤に淹れた紅茶で舌を湿らせると、例の作り笑顔を浮かべて告げた。

「貴士さんが、とてもつまらない表情をしていたからです」

「……つまらない……?」

「はい。表面上はどうにか取り繕っているようですけど、心の奥底には暗澹たるものを秘めているかのような……。それともあるいは、深部を除く内面すらも偽っていたのかもしれませんね。でなければ、あんなにも瞳を清らかに輝かせることはできなかったでしょうし……。でも、肝心のわたしを欺くことはできなかった。……そして、あなたの本心も」

 もはや何を言われても驚くまいと思っていたが、これには再びの戦慄を禁じ得なかった。もしや心の中を覗き込まれているんじゃないかと疑ってしまうほどの、あまりにも正確過ぎる描写に、目の前の少女がヒトならざる存在のように思えてくる。

 ――あなたのその《力》は、この世界にあってはならないもの。だから……消えて?

 不意に記憶の片隅から蘇った声を聞いた時、いばらは身を乗り出し、息が触れ合うほどの距離にまで顔を近づけた。艶やかな桃色の唇から、妖しく歪んだ声が洩れ出す。

「だから……あなたがもっと幸せを感じ、そのほっそりとした心を丸々と太らせてから、わたしが満を持して美味しく頂くことにしたんです。……そうでなければ、六年間も我慢した甲斐がありませんから。《焦らし屋さん》のあなたなら……この気持ち、分かって頂けますよね?」

 赤色の瞳が三日月型に変じたのを見て、貴士は背筋が凍りつくのを感じた。それは明らかに嘲りの意味を含んでおり、そのことを裏付けるかのように「ふふ……」という忍び笑いが聞こえてくる。そんな状況下で、貴士の思考はどこまでも冷たく沈んでいく。

 いばらが布野田高校に入学してから二か月後――今から三か月ほど前に、貴士と撫子は恋人の関係になった。しかしそれは、果たして偶然だったのだろうか? 今までの人生とは不釣り合いなほどに大きな幸せの感慨に浸り、何か見落としていたのではないだろうか? そしてそのことをいばらは勿論、撫子もまた嘲笑っているのではないだろうか……

 やがて、居心地の悪い静寂が二人の周囲を包み込み――

 後に、少女の高らかな笑い声が周囲の空間に響き渡った。

「アッハッハッハッハッハッハ!」

 貴士が唖然としてその光景に目を奪われる中、いばらは胸に手を当てて情動を鎮めると、満面に笑みを咲かせて言った。

「冗談です。貴士さんと彼女さんが付き合うことになったのは、全くの偶然です」

 それを聞いた瞬間、貴士は背もたれに深く身を預け、震える息を吐き出した。温度を取り戻した血液が体中を駆け巡り、ドクドクと脈打って熱を放散していく。何度か大きな呼吸を繰り返す内に、ようやく気持ちが落ち着いてくるのを感じる。

 そんな貴士の様子を見て、いばらはわずかに表情を改めた。

「ごめんなさい、ちょっと意地悪しちゃいました……。だけど、貴士さんだって悪いんですよ? あんなに……あんなに……」

「……?」

 急に歯切れが悪くなったいばらに、俯き加減だった顔を上げた瞬間――

 貴士の厚い胸板の上に、左右から華奢な手のひらが押し付けられた。

「あっ……」

 いばらが何を意図しているのか、気付いた時にはもう遅かった。

 貴士の巨躯は背中から柔らかなソファに沈み込み、肘掛けに軽く後頭部をぶつけたせいもあって動きを止めた。その隙にいばらが下腹部へと圧し掛かり、逞しく伸びた両腕を華奢な手のひらで優しく押さえ込む。乱暴にもがけば造作もなく抜け出せただろうが、やはりそれはできなかった。少女の体温と甘い香りが、身体の芯を痺れさせる。

 やがていばらは、真っ赤な瞳に妖しい光を湛えながら、密やかに告げた。

「ねぇ、貴士さん。わたしと《契約》してください」

「け、契約……?」

 オウム返しに呟く貴士に対し、いばらは殊更に甘い声音で応じる。

「そうです。その内容は……毎週日曜日、この部屋でわたしと一緒に過ごすこと」

 ほっそりとした指による愛撫が、胸元に歪なループの感触を作り出す。心臓が早鐘を打ち出したことによる息苦しさを覚えながら、貴士はどうにか言葉を絞り出した。

「なに、言ってるんだ……。さっき見たんだろ? 俺には、彼女が……」

「構いません」

「…………は?」

「恋人がいたって構いません。この部屋に二人きりの時、わたしだけを見てくれるなら……それ以外の場面で、誰とどのようなお付き合いをしようとも。わたしはあなたを慕い続けます」

 それは、言い換えるならこういうことだった。

 ――わたしたち、浮気をしましょう……。

 尚も胸元への愛撫が続き、少女の甘く優しい体温が抱かせる夢のような心地の中で、貴士は声にならない呟きを漏らした。

 意味がわからない、と。

 目立った反応を示さない年上の少年に対し、いばらは変わらぬ調子で続けた。

「もちろん、関係が彼女さんやお友達にばれないよう、わたしは出来る限りの策を講じるつもりです。例えば、学校や街ですれ違っても目を合わさないようにするし、会話をするような状況は不自然にならない程度に避ける。電話を掛けたり、メールを送ったりということもしません。どうです、これならどうにか隠し通せそうでしょう?」

 閉じられた口の端が歪に持ち上がる。しかし今の貴士には、そんな挙措の変化など意識する余裕はなかった。その代わりに、心中で一つの言葉を呪文のように復唱する。

 断らなければ――ことわらなければ、コトワラナケレバ。

 六年前に犯した過ちを繰り返すことだけは、絶対に避けなければならない。

「貴士さん……」

 猫撫で声が耳元で囁かれる。柔らかな吐息が吹きかけられ、体の芯が甘く痺れる。愛撫する箇所が胸から腹、その先へと、徐々に移ろっていく。

 それでも歯を食いしばって、貴士は逞しい両腕に力を込めた。

 その時――

「……っ!?」

 柔らかな感触が、貴士の固く強張った唇を塞いだ。

わずかに開いた隙間から、お互いの熱に染まった吐息がこぼれ出す。

 うねる舌先が貴士の前歯を舐め洗い、生じた唾液が泡立って音を立てる。

「ふっ……あっ……」

 十秒以上は続いていたであろうか。やがていばらが口付けを解くと、その下には放心した貴士の顔があった。感情の色を失い、瞳孔は広がったまま瞼の落ちる気配はない。

 そんな状態の彼に微笑みかけ、いばらは冷徹な宣告を下した。

「これで、《契約》は完了しました。後でやっぱり嫌だと言っても、もう遅いですからね」

 貴士は、もはや何も考えられなかった。過去と同じ過ちを重ねてしまったことに対する自嘲と、撫子という最愛の人を裏切ったことに対する自責が、心の奥底をかつてないほどに震わせる。言葉は出て来ず、代わりに涙が一筋頬を伝った。貴士の胸に横顔を載せていたいばらはそれに気付かない。

「ずっと……ずっと、我慢してきました。この町に来て初めて貴士さんを見つけたときから、今日こうしてわたしの部屋に招くまで。校舎の窓から登校する姿を眺めていた時も、教室でお友達と談笑しているのを見かけた時も、街のアーケードで彼女さんと歩いているところをすれ違った時も。いつも、気持ちを抑え込むのに必死でした。ずっと――ずっと、こうしたかった」

 いばらが愛おしそうに頬を摺り寄せてくる。艶やかな黒髪が鼻先をくすぐり、薔薇の深い香りが漂った。両肩が華奢な手のひらによって握られ、そこに込められた意外なほど強い力に驚きながら、貴士は徐々に全身を底なしの沼へと沈めていき――

 薄れゆく意識の中に、少女の震える独白を聞いた。

「……わたしは、いつも怯えていました。それは周りの人間に対してではありません。彼らを知らずの内に傷つける、自分自身の《魔力》にです。だからわたしは、意識して人を遠ざけるようになりました。貴士さん、あなたに対しても……初めて出会ったときにまず《警告》をしました。それ以上近づかないようにって、そういう意思を込めて。でも、あなたはそこで引き下がらなかった。今日だって、何度も引き返す機会を与えたのに……それでもわたしの前から去らずに、ずっと隣にいてくれた。嬉しかっです、本当に……」

 愕然としながら耳を傾ける貴士の胸元に、熱い吐息が零れ出した。

「あぁ……あたたかい、貴士さん……」

 まるで薔薇の蔓にがんじがらめにされてしまったかのように、貴士の身体はしばらくの間、ぴくりとも動かなかった。



九月一日(火曜日)


 黒一色に身を包んだ会葬者たちが、歪な輪を作って石畳の上に立っていた。年齢も性別もバラバラで、しかし口を重く閉ざしている点では共通していた。遊びたい盛りの年頃だろう少年少女でさえ、父親あるいは母親に手を引かれたまま落ち着いた様子を見せている。貴士もまたその一人であったが、彼の傍らに立つ人間はおらず、故にこの場では少々目立つ存在であった。周りから訝るような視線を感じながら、少年はただひたすらに輪の中央に鎮座する真っ白な柩を見据える。まるで、右斜め前方に佇む金髪の眩しい少女の姿を、意識の彼方へと追いやろうとするかのように――

 やがて、会葬者の一人である痩せぎすな男が一歩進み出ると、嗄れた声で言った。

「それでは、故人との最後のお別れとなります。ご家族の方から順に――」

 葬儀での常套句がそこまで続いたところで、絶叫とでも言うべき音量が晩秋の冷たい空気を震わせた。

「嫌ぁあああぁあああぁ! さゆりぃいいぃいいいぃ!」

 発生源は、柩に最も近い位置で腰を折る、年若い女性だった。

 ボサボサの長い茶髪と着崩れた洋服が、その精神状態の不安定さを物語っている。

 叫び声はやがて収束し――悲痛な呟きとなって、女性の震える口から零れ出していく。

「さゆり……お母さんを、一人にしないで……嫌……いや……いやぁ……」

 その光景に、会葬者たちは自然と顔を伏せる。そうしなかったのは物好きな数名と、故人のクラスメイトであった貴士だけだった。いばらは太陽光が眩しいのか、終始面を上げようとしない。

 周囲の時間が静止する中、女性の呟きはさらに続いた。

「お母さんには、あなただけなの……あの人も、あの人が海の向こうから連れてきた《お人形》も……どうでもいい。あなたさえいてくれたら、私は一生幸せでいられるの。だからお願い、目を開けて……おねがい……」

 崩れ落ちる女性の肩を、親族らしき者たちが駆け寄って支えた。それでもなお柩に縋ろうとするその姿に、貴士はとうとう堪え切れなくなって目を逸らした。熱いものが込み上げてきて、視界に映る風景を大きく歪ませる。

 俺は、取り返しのつかないことをしてしまった――

 激しい自責の念に囚われ、貴士はその場に蹲った。嗚咽を上げながら、固い石畳の上を何度も何度も拳で叩く。鈍い痛みが骨にまで響き渡ったが、気にしなかった。あの子が――さゆりが感じていただろう痛みは、この何十倍にも及んでいたはずだ。皮膚のところどころが裂け、血が手首にまで滴る段になっても、貴士は自傷をやめなかった。

 そのせいで――

 いばらが、まるで焦点の合っていない真っ赤な瞳をひたすらに自分へと向けていたことに、貴士はしばらくの間気付くことができなかった。


「…………イト。おい、起きろよナイト」

 瑛が親友の名を呼び肩を揺すり始めてから、三十秒後。

 両腕で作った枕の中からくぐもった声が聞こえ、次いで上半身がゆっくりと持ち上がった。寝ぼけ眼を擦りながら、美形の少年はのろのろとした調子で尋ねる。

「あぁ、瑛……。俺、どのくらい寝てた?」

「えっと、四限目の序盤からだから、大体五十分くらいだな。ちなみに今は昼休みが始まって少し経ったところ」

「……そうか、サンキュー」

 貴士が礼を言うと、メガネがトレードマークの親友は「おう」と短く返す。今日のフレームは輝く金色で、それを見てようやく今日が《週替わり》の火曜日であることを認識する。昨日にあれほど濃密な時間を過ごしたせいで、曜日感覚が狂ってしまったのかもしれない。

 そんな貴士の心中をよそに、瑛は愉快そうに口の端を持ち上げ、

「それにしても、ナイトが授業中に居眠りなんて珍しいよな。おかげで物理の川崎も困ってたみてーだったぞ。何度も確認するように見ては、悩んだ挙句注意しないってのを繰り返していたし」

 その光景を思い出したのか、瑛が乾いた笑い声を上げる。ナイトこと青野貴士は学年でも有数の成績優秀者なので、川崎教諭が持て余したのも無理はないだろう。「天は二物を与えた」を体現する少年は次に会ったときに一言謝ろうと思いながら、不意に突きあげてきた不安を胸に教室の入り口に視線を走らせる。

「ん、どうした?」

「……いや、なんでもない」

 貴士は小さく安堵の吐息を漏らす。しかしそれも長くは続かず、気付けば再び廊下を歩く生徒の姿を目で追っている。こうして教室にいる時だけではない。早朝に家を出た瞬間から、貴士はまるで一筋の光も見えない暗闇の中を歩いていくような、そんな恐怖感で身を震わせ続けていた。授業中に居眠りをしてしまったのは、睡眠不足と精神的疲労が重なった結果に違いない。

 血の色に染まった二つの瞳が、いつ再び自分の前に現れ、そして籠絡するのか――

 想像しただけでも全身から血の気が引き、足は床に縫い付けられたように動かなくなる。

「おい、ナイト」

 瑛に再び呼びかけられ、貴士は意識を現実へと戻した。

「えっ、何?」

「姫様のご到着だ。騎士殿は速やかに行って差し上げろ」

 その冗談めかした口調に意味を理解し、貴士は今日何度目か分からない動作を再度実行する。

 教室内と廊下を分かつ境界――その真ん中にぴったりと合わせた両足を載せていたのは、貴士の後輩であり恋人である白河撫子であった。目が合うとその整った面立ちにパッと花が咲き、口の動きだけで言葉を形作る。

――せーんぱい、お昼ごはん食べましょ♪

 手にした二つの弁当箱を掲げながら、撫子は笑みを深める。しかしそれを見て、恋人である貴士の心はズキリと傷んだ。昨夜《薔薇の部屋》で犯した罪が、否応なく思い出されて手足の動きを拘束する。俺に、撫子の傍にいる権利はあるのか――

「どうした? ほら、行った行った」

 瑛にバシバシと背中を叩かれ、貴士はようやく我に返った。未だ後ろめたい気持ちは消えていなかったものの、親友の幼顔に浮かんだ朗らかな笑みに少しばかり勇気づけられる。

「じゃ、また後でな」

 頭を振って迷いを振り落してから、貴士は首を長くして待つ撫子の元へと駆け寄った。


 二人が昼食の場所に選んだのは、初秋の心地よい風が薫る中庭だった。布野田高校の校舎は俯瞰するとちょうどコの字型となっており、東に生徒玄関が口を開け、そこから入って南北に各学年の一般教室がびっしりと詰めている。それぞれの端から西に伸びた直線上には特別教室――理科室、家庭科室、音楽室などのこと――を初めとした趣の違う扉が立ち並んでおり、そのうちの一つがこの中庭へと通じていた。三方を校舎の高い壁に囲まれているため陰鬱とした雰囲気が漂いそうに思うが、正午以降は唯一障害のない西から日光が差し込むので、利用する生徒たちの評判は上々だった。校舎の隅々までを知っている撫子においても「おすすめのスポットです」と口を揃える。

「それじゃ先輩、お手を合わせて」

 貴士が言う通りにしたことを確認すると、撫子は大きく口を開き、

「いただきます♪」

 二人の声が重なって、ちょうど吹いてきた柔らかい風の中に溶けていく。

 撫子が早くも大きな桃色の弁当箱からから揚げをつまみ出しているのをよそに、貴士はそれよりも一回り小さな青い弁当箱を緩慢な動作で開いた。美味しそうなおかずの数々に食欲をそそられるが、反して箸は宙を掴んだまま動こうとしない。

「そうだ先輩、今日の部活のことなんですけど」

「うん、何?」

 密かに胸をなで下ろしながら、貴士はまだあどけなさの残る恋人の顔を見つめた。

 その抜けるように白い肌の輝きに、昨夜感じた真っ赤な瞳の引力が生々しく蘇る。

「実は昨日の夜、サヤさんが…………」

――あの子、姉さんに似ていますよね。

「…………で、それから…………」

 ――生まれた時から、何一つ不自由なく育ってきたような所とか。

「………だから、日曜日に…………」

 ――きっと、奪われることがどんなに辛いのか、知りもしないんでしょうね。

 違う。

 撫子も……さゆりも。そんな風に揶揄されるような女の子じゃない。

 確かにその人生はいばらに比べて平坦かもしれないが、だからといってそれを否定する権利など誰にもないはずだ。だいたい、物事の価値というのは個人が決めるものではないのか。そのことを、未だ衰えぬ血の光を発するあの少女は分かっているのだろうか――

「あの、先輩?」

「……うん、何?」

 思考がせき止められ、貴士は無意識に同じ言葉を繰り返す。撫子は滑らかな頬を膨らませて、

「それは二回目です。さっきから、あたしの話を――」

 不満そうな声がそこまで聞こえたところで、貴士の背中を大きな掌が叩いた。

「うわっ!?」

「おいおい箸が進んでねえじゃねーかよ。何なら俺が全部食べちまおうか?」

 振り向くまでもなく、声で瑛からの攻撃だと分かった。青の弁当箱を見て途端に表情を曇らせる撫子に気付き、どうやって言い繕おうか考えようとしていると、

「ホントだ。青野くん、私も少しもらっていい? 前に撫子ちゃんの手料理を食べた時、すっごく感動したのが忘れられないのよね。後学のためにもせめて一口」

 瑛とは反対方向から顔を寄せてきたのは、同じく親友である恩田佐弥オンダサヤであった。高校に入ってクラスは別れてしまったが、部活動を共にしている上に、こうして事あるごとに気さくに関わり合う仲である。年齢は撫子と一歳しか違わないが、落ち着いた物腰はそれ以上の差を――これは決して撫子を貶めているわけではない――貴士に感じさせる。

 喜々としてトレードマークである黒髪ツインテールを揺らす彼女に向かって、瑛は大げさに肩を竦めた。

「ったく、学食でカツカレー平らげた上にまだ食うのかよ。そのまま全部クソになるわけじゃなし、こりゃ腹回りが逞しくなるのも時間の問題だな。それとも、冬を前にして防寒着の予約のつもりか?」

 二つのマナー違反を堂々と犯す幼馴染に対し、佐弥はどこまでも冷静に返す。

「あんたと違って運動しているから大丈夫。むしろこのままじゃ体重が減って困っちゃうくらいなんだから。あんまり軽くなると竹刀にしっかりと力が伝わらなくなるしね……。まぁそれでも、瑛みたいな雑魚中の雑魚には千回戦っても負ける気がしないけど」

「なっ……なん、だって……?」

 おいおい早くも弾切れかよ、と呆れる貴士の視線を感じてか、瑛はグッと握りしめていた拳から人差し指を立てて腐れ縁の少女へと突き出した。

「そこまで言うなら、明日の放課後、武道館に乗り込んでやる……ナイトと一緒に」

「えっ、何で俺も?」

「……つれないこと言うなよ、俺だけだったらコテンパンにされて終いだろうが」

 ぼそぼそと耳元で囁かれ、貴士は困惑した顔を作り出す。佐弥は「ふふ」と短く笑い、

「しょうがないから相手してあげる。その代わり……私が勝ったら一つ、お願い事を聞いてもらおうかな」

「げっ……なんだよそれ。無茶なことだったら聞いてやれないぞ」

「大丈夫、全然難しいことじゃないから……ふう」

 なぜか満足げな吐息が漏れ出したのに首を傾げ、ふと視線を落としてみると――

「ああっ!?」

 貴士が手にしていた弁当箱は、すっかり開封時の重さを失っていた。米粒一つ残さない《仕事》の完璧さに、貴士は憤りを通り越してただ驚くばかりである。この短時間の内に、しかも瑛の相手をこなしながら――もはや達人の境地に至っているのではないかと思いながら、貴士は中学時代に剣道でボコボコにやられた時と同じ言葉を心中で呟いた。

 恩田佐弥、やはり只者ではない。

 貴士ががっくりと頭を垂れているのをよそに、佐弥は新たな獲物へと視線を定め、

「さてと、次は撫子ちゃんのお弁当箱に突撃しちゃうぞ―」

「へっ? えっ?」

 ツインテールを結わえる蜜柑色のリボンを輝かせながら、未だ事態を呑み込めていない様子の撫子に襲い掛かる。と言ってもセクハラまがいのことをするわけではなく、佐弥にそういった気は全くないのだが、撫子はそれをされたのに近い叫び声を上げた。

 その光景に自然と頬を緩ませていると、肩にポンと手のひらが載せられた。

「どうだ、少しは元気出たか?」

 瑛が白い歯を見せる。そこに至って、貴士はようやく親友二人の乱入の意味を理解した。自然と胸が熱くなり、先刻とは違う理由で顔を伏せる。

 それでも瑛は表情を変えずに、

「ったく、あんまり心配かけんなよ。今は撫子ちゃんだっているんだから」

「……あぁ、そうだな」

 心の黒い霧が完全に晴れたわけではなかった。しかし、俺には頼もしい仲間たちがいる――それを思い出すことができただけで、貴士の瞳は昨日までの輝きを取り戻していた。感謝の気持ちが溢れだし、それは満面の笑みという形で皆の前に示される。

 やがて――撫子が細切れの悲鳴を上げる中で、佐弥がくるりと振り向いた。

「あっ、そうだ瑛」

「……何だよ」

 《お願い》について未だ警戒している様子の瑛に対し、佐弥は貴士が朝からずっと踏みとどまっていた壁をあっさりと突き破った。

「その金ピカの眼鏡、すごくダサいよ」

「なっ、にいいいいい!?」

 今度は瑛の絶叫が、秋の突き抜けるように高い青空に響き渡った。


 楽しい中庭でのひと時から、二つの授業と帰りのホームルームを経て。

 貴士と撫子、それに瑛と佐弥の面々は、再び一つどころに集合していた。と言っても今度は中庭ではなく、場所は校舎二階、貴士たちの所属する二年三組教室であった。昨日の放課後《布野田高校女子図鑑八十八期生編》を一緒に眺めたイシダとサエキ、それに数人の一年生も空間を共にしている。

 全員の着席を確認すると、教壇に立つ貴士は普段よりも歯切れのいい声で言った。

「それでは、《地域振興部》の活動を始めたいと思います」

 おいおい固いよ、という瑛の野次が飛んだが、貴士は気にせずに続ける。

「議題はもちろん、今月末に迫った《じゃがいも騎士まつり》について。今日は参加するイベントについての役割分担を決めたいと考えています。まずは内容をおさらいすると……」

 貴士はハキハキとした調子で話し続ける。《じゃがいも騎士まつり》とは布野田町で毎年開催されている一大行事で、期間中は外部からも多くの参加者が訪れて町全体を賑わせる。イベントは駅前に設置されたステージ発表の他、屋台による主にじゃがいもを使用した調理品の販売、市街地から離れた農村地帯でのじゃがいも掘り競争が開催されることになっており、また近年では姉妹都市関係を結んでいるオーストラリアの都市にちなんだ催しが行われるようになっているから、今後は町全体がにわかに活気づいていくだろう。

 貴士は一旦言葉を切ると、集まった皆の顔を順に見やった。小刻みに頷いてから、その佇まいを元に戻す。

「前の会議でも確認しましたが、俺たち《地域振興部》はステージで演劇を披露し、屋台を出店して創作料理の販売をしたいと思っています。それで、誰が何を担当するかですが――」

 そこで、佐弥のしなやかな腕がピンと真上に伸ばされた。

「……屋台での調理係主任には、撫子ちゃんを強く推します。その場合、私も陰ながら支えていきたいと考えています」

 鼻息荒く発言する佐弥に対し、瑛は頬を意地悪そうに歪ませる。

「おうおう、実感が籠ってるなぁ。腹の肉たちも全員賛成ってか?」

 最近はやけに突っかかるなぁと思いながら、貴士は平静を保ったままの佐弥の顔を見つめる。その薄い唇から溜息が吐き出され、

「同じネタを繰り返すなんて、芸人として最低クラスの行為ね。もはや見るべきところはその眼鏡しか…………ぷっ」

「……こっ、この野郎おおおおおおおお!」

 案の定、切れたのは瑛の方であった。童顔を鮮やかなサーモンピンクに染め、またしても幼馴染に向かって細長い指を突きつける。

「この眼鏡はなぁ……あの難儀な親父が、これを掛ければ貧しい家の子でもゴージャスに見えるからって言って、利益がほとんどないような値で売り出した特別なモノなんだぞ! それを何だ、間違ったファッションなのに堂々と歩く田舎の不良を見た時のような態度を取りやがって。お前には気遣いの心というものがねーのかよ?」

「……あんたって、たまに随分と的確な表現をするよね。それが両刃の剣どころか自分にだけ刺さっちゃうから面白いんだけど」

「ぐっ、またすぐにそうやって……言っておくが、俺は芸人なんかじゃねーぞ。皆の心を温かくさせる、どんな時にも必要不可欠な《太鼓持ち》だ!」

 その堂々たる宣言に、教室内は一足早い師走の風が吹き付けたかのように凍り付いた。

 やがて、佐弥が嘆息したのち優しい声音を発する。

「……しゃべる前に、辞書を調べた方がいいよ。私がいつも使っているコンパクトなやつを貸してあげるから」

 ツインテールの少女が差し出した手には、文庫よりも小さな、しかし厚さはそれ以上の国語辞典が載っていた。貴士は訝りながらもそれを受け取り、ぱらぱらとページをめくっていく。

「さて、だいぶ話が逸れちゃったね。部長さん、お話を続けましょう?」

 佐弥が微笑みを湛えたまま視線を向けると、教壇に立つ貴士はは慣れない響きにむず痒さを感じながら、ほんの少し声を上ずらせる。

「それでは……屋台班のリーダーは白河さん。その補佐には恩田さんということで、決まりでいいですか?」

 えーっそんな勝手に、と可愛らしい声で抗議する撫子以外に反対する者はいなかったので、貴士は背後の黒板に二人の名前を白く刻んだ。手に付いたチョークの粉を掃いながら、部員たちの前に向き直る。

「折角なので、演劇班のリーダーも先に決めてしまいましょう……。誰か立候補する人はいませんか?」

 そんな呼びかけでは駄目だろうと佐弥は予想し、果たして壁掛け時計の秒針が一周しても誰も手を挙げることはなかった。相変わらずの不器用ぶりに苦笑しながら、貴士の女子としては初めての親友はその清らかな声を響かせる。

「私、やります」

 一瞬のざわめきが教室内を伝播した。

 それから、貴士が一同を代弁するかのように言葉を絞り出す。

「えっ? でも、さや……恩田さんは屋台班の補佐を――」

「別に掛け持ちしちゃいけないって決まりはないでしょう。それにお話の内容を考えているのは私なんだから、その方が手っ取り早くていいと思いませんか?」

「それは…………まぁ、そうですけど」

 貴士が不承不承といった体で首肯すると、佐弥は椅子から立ち上がった。その背筋の伸びた姿勢には、彼女と出会って四年近くが経った今でもついつい目を奪われてしまう。しかしその視線に気付いた様子もなく、佐弥は竹刀の流麗な捌きからは想像もできないほどの細い両腕を前に広げた。

「では、皆さんはどう思います? 自分で言うのもなんですが、私はここよりも部員数の多い剣道部でまとめ役をすることも多いですし、それなりに自信はもちろん、見合うだけの能力もあると考えています」

 口調こそ淡々としているが、内容は不釣り合いなほどに堂々としたものだった。一年生たちはそれぞれ顔を見合わせ、貴士もまた恋人である撫子と視線を交錯させる。右に約十五度という首の動きをリンクさせていると、教室の後方から遠慮しがちな声が聞こえてきた。

 い、いいんじゃないでしょうか――

 皆の注意を集めたのは、九月に入ったというのに未だパタパタと団扇を揺らしているイシダだった。額に浮かんだ玉の汗を白いタオルで拭い、はにかむようにしてから顔を伏せる。続いて隣に座るサエキも、適任、と短く口を揃えた。V系バンドのフロントマンを務めていそうな面立ちにほんの少し朱が染まる。二人とも恥ずかしがり屋だというのもあるが、こうして佐弥を前にする機会があると毎回似た反応をするので、《鈍い奴》に分類される貴士でもその理由に薄々勘付いていた。もちろん声に出したりということはせず、視野を広く取って皆の反応を窺う。

 やがて一人の一年生部員が、賛成です、と声を上げる段になって、残りの少年少女達が次々と同意を示すように挙手をし、支持多数であっという間に演劇班リーダー誕生の運びとなった。佐弥は「承りました」と細身の割に膨らんだ胸に手を当て、派手過ぎず控えめ過ぎない絶妙の笑みを浮かべる。

 ――しかし。

 いつの間にかグイグイ引っ張っていくのはいつもの事だからともかく、今日はやけに口数の多い《自信家》だったよなぁ……と貴士が親友の女の子に対して少しずつ疑念を深めていた、その時であった。

「さて。それでは早速、リーダーとして発表させていただきます。今年度の《じゃがいも騎士まつり》で、私たち《地域振興部》が駅前の大きなステージで発表する演劇の主役は……青野くんと撫子ちゃん、あなたたちに決定しました」

「「…………はぁ!?」」

 若きカップルの反応が美しいまでに重なるのを見て、佐弥は眩しそうに目を細める。

「やっぱりね。適任どころか、演じ切れるのはこの学校を探しても二人しかいないはずよ。……というか、君たちの顔を思い浮かべながらお話を作っているんだから、そうなるのは当然と言えば当然なんだけど」

「……な、何を」

「考えているんですか!」

「おおっ、そういうパターンもあるんだね。心を通わせたカップルともなると、自然とお互いの考えていることが分かるようになるのかな……。それって、何だかとっても羨ましいであります、青野大佐」

 からかうようなその口ぶりに、貴士は羞恥心から「大佐ってなんだよ」と少々ぶっきらぼうな反応を返した。しかし佐弥はそれにも全く動じず、プリーツスカートのポケットから出したメモ帳を開いて、わずかに口の端を持ち上げる。

「ちなみに、役どころは撫子ちゃんが城という名の檻に囚われたお姫様、青野くんが隣国の王子様に遣える優秀で寡黙な騎士よ。内容については、まだ完成していないから詳しくは言えないけど……二人がやがて恋に落ち、最終的に国から逃げ出すっていう部分は変えないつもりだから安心してね」

 案の定、佐弥が考案している物語は恋愛ものらしい。貴士は痛み始めた頭に手を当てながら、この頃一段と女性らしくなった親友の澄んだ瞳を見つめる。

「いや、安心も何も……まだ俺はやるって言ってないよね? だいたい、撫子ちゃんだって――」

「…………撫子ちゃんだって?」

「……」

 佐弥が浮かべる笑みの中に妖しげな色が滲んだのにも気付かず、貴士の視線は少し離れた場所に座る恋人の顔へと釘付けになっていた。その肌は熟れた林檎のように真っ赤に染まっており、視線を虚空に投げかけたまま、小さな口だけがしきりに動いている。

「……あたしがお姫さまで、先輩がそれを救う騎士さまで……あたしがお姫さまで、先輩がそれを救う騎士さまで……あたしが姫……」

 うわ言のように繰り返し呟く撫子に怖気を覚えながら、貴士は駆け寄ってその小さな肩をポンポンと叩いた。

「はうっ! …………あ、あれ、あたしは今まで何を……?」

「気にしないで。できればそのまま忘れたままでいてくれると嬉しいな」

「は、はぁ……?」

 にっこりと微笑む貴士だったが、それを佐弥が黙って見ているはずもなく。仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐった時には、ツインテールが視界の端で揺れていた。

「そんな小狡い真似をしたって無駄よ。撫子ちゃんとは衣装の素材を買いに行く約束をしているんだから、その時にどうやったって思い出すことになるでしょ?」

「衣装の、素材……?」

 貴士が怪訝そうに眉を寄せると、佐弥は小首を傾げ、

「あれ、撫子ちゃんから聞いていないの? 日曜日、一緒に隣町の生地屋さんに行きましょう――って。青野くんも誘っておいてって言ったはずなんだけど」

「うーん、聞いてないな……って、待てよ。そういえば昼休みに……」

 貴士が数時間前の記憶を手繰り寄せていると、傍らから再びたどたどしい声が聞こえてきた。

「……衣装……着るのは、お姫さま……あたし……それと、先輩……騎士さま……えへへ、えへへ……」

 どうやら再び異世界へと飛び立ってしまったらしい。夢見がちな子だとは思っていたが、まさかここまでとは……と対処に困窮する貴士をよそに、佐弥は平素の淡々とした声音で言った。

「それで、青野くんはどうする? 日曜日」

「ん? あぁ……」

 演劇の主役に抜擢されたことに対する驚きがようやく落ち着いてきたせいか、貴士は深く考えることもせずに、脳内に記憶されたスケジュールを確認し――

 そして、一瞬で周囲の風景が色を失った。

 血に染まった瞳の色が、鼻を突くほどの深い薔薇の香りが、官能を刺激する甘いささやき声が、瞬く間にフラッシュバックする。

――契約の内容は、毎週日曜日、この部屋でわたしと一緒に過ごすこと……。

 毎週、日曜日。

 それは、貴士が姫咲の立派な屋敷に招かれ、その度に許されざる《罪》を犯していた日であった。あの《薔薇の小屋》で過ごした濃密な時間の記憶は、六年が経過した今でも驚くほど生々しい感触を呼び覚まし、彼の逞しく成長した全身に執拗なほど纏わりついて拘束する。

 たった一度の誤った選択が、こんなにも悲しい未来へと繋がるなんて――

「あの、青野くん……?」

 心配そうな佐弥の声に、貴士は朧ながらも意識を取り戻し、半ば反射的に笑顔を形作った。それは彼がこの地へと移り住んで以来、親友たちの温か過ぎる気遣いを避けようとして身につけた、悲しい処世術であった。撫子と出会って以来ほとんど使っていなかったのだが、特に抵抗なくできていることに自分で驚く。これだけの情愛を受け取っていながら、まだ自分には足りないのか――そう、貴士が思い詰めていた所に。

「フフ……フフフ……」

 突如、不気味極まりない笑い声がどこからか漏れ聞こえてきた。

 貴士と佐弥はきょとんと目を丸くしてから、ほぼ同時に教室内の中心へと視線を向ける。イシダとサエキ、一年生部員たちもそれに続く。

 そして――注目を一身に受けた《地域振興部》ヒラ部員である日々野瑛は、普段のお気楽な調子とは打って変わって押し殺した声を放った。

「……《太鼓持ち》。意味、宴席に出て客の遊びに興を添えることを職業とする男性。そして……もう一つ、人にへつらって気に入られようとする者。人に、へつらう。つまり、つまり……」

 ようやく自らの勘違いに気付いたのだろう。皆がどんな反応をするのかと期待と不安に胸を膨らませる中、瑛はその童顔を傾きだした太陽の光に輝かせ、きりっとした表情を作り出し。

 思い切り、首を傾げた。

「……どういうことだ?」

 その間抜けすぎる発言は、その後しばらくの間、佐弥の腹部に例えようのない苦しみを与え続けたのだった。


 《地域振興部》の活動が終わって、帰り道。

 貴士と撫子は、真っ赤に染まった通学路を二人並んで歩いていた。昨日と、あるいはここ三か月の日々と何ら変わることのない、まるで同じシーンを繰り返し再生しているかのような光景。

 しかし――今日この瞬間、傍から見ているだけでは分からないほどのわずかな《距離》が、二人の間に存在し、見えない壁を形成していた。ゆえに先から続いている沈黙は苦痛以外の何者でもなく、それに耐えかねた撫子は、妙に高く飛んだ声を秋の澄んだ空気に響かせた。

「……でも、びっくりしちゃいましたよね。いきなり演劇の主役だーなんて言われて。きっと佐弥さん、それがしたいが為にリーダーに立候補したんだろうなぁ……。もうあたし達は恋人同士になったんだから、そんなことしなくてもいいのに」

 わざとらしく振る舞う撫子だったが、恋人である貴士はその変化にも気付かず、あさっての方向を向いたまま返事をする。

「まぁ、佐弥は意外と、って言ったら失礼かもしれないけど、少女漫画とか恋愛ドラマとか好きだからね。面倒見のいい所と合わさって、つい気に掛けちゃうんだと思うよ」

「ははぁ。なるほど、さすが中学からの付き合いだけあって詳しいですね。《地域振興部》でも、お二人は息ぴったりって感じだし……。あたし、ちょっぴり嫉妬しちゃったりして」

 からかうような口調だったが、それに対して貴士は深刻そうな反応を返した。

「……もしかして、気に障った?」

 撫子は目を瞠った後、首をぶんぶんと振り、

「そんなわけないです! あたしは佐弥さんのこと大好きだし、その……色々と相談に乗ってくれた恩もありますし。今のはちょっとした冗談です、すみません」

 撫子は律儀に頭を下げる。今度は貴士が手のひらを往復させ、

「いやいや、気にしないで。俺が勝手に心配になっただけなんだからさ」

「……心配、ですか?」

「うん。撫子ちゃんと付き合って三か月経つけど、未だに自信のない部分も多くてね。もしかして間違った行動を取ったりしているんじゃないかって、そう思うことがあるんだ」

「先輩……」

 複雑そうな表情を見せる撫子から視線を切り、貴士は前を向いた。

 この子だけは絶対に傷つけたくない。例え俺の身にどんなことが起きようと、絶対に幸せになってほしい。その強い想いが、自然と彼の眼光を鋭くさせていた。夕闇に沈み始めたアスファルトの上に、余すところなく視線を走らせていく――

「せんぱい?」

 不意に学生服の裾をつままれ、貴士は歩行に急制動をかけた。振り向くと、長年の経験から培った笑顔を浮かべる。

「何でもないよ。ごめん、急に黙ったりして」

 撫子はそれに応じて表情を崩したが、鳶色の瞳はまたすぐに暗く沈んだ。しかし貴士はそれに気づかず、再び周囲に警戒の目を光らせる。

 それからしばらく歩き続け、先週まではそこで別れていたという地点に差し掛かったところで、撫子が口を開いた。

「あの、先輩」

「うん?」

「日曜日の話、なんですけど。先輩に従妹さんがいるなんて初耳で、ちょっと興味が湧いちゃって。どんな感じの子なんですか?」

 その瞬間、淀みなく動いていた貴士の足がピタリと静止した。鼓動の間隔が短くなっていくのを感じながら、震える声を絞り出す。

「別に、普通の女の子だよ。少し気難しいところがあるから、相手するのが大変な部分はあるけど」

 適当なプロフィールをでっち上げるつもりだったが、自然といばらを意識していることに気付いて小さく頭を振る。歩行を再開しながら、正反対のイメージを作り出そうと思考をフル回転させていく。その背中に、少女のか細い声がぶつけられた。

「あの、途中からあたしも行っていいですか……? 初対面の子と話すのは得意だし、きっとお力になれるんじゃないかと……」

 おそらく撫子は、精一杯の勇気を振り絞って発言したのだろう。いくら恋人同士とはいえ、ここまでプライベートな話に首を突っ込むのは、あまり一般的であるとは言えないからだ。振り返らずとも、その唇が緊張にわなないているのが目に浮かぶ。しかし――貴士の答えは、地中に深々と根を張る大樹のように、揺らぐことはなかった。

「ごめん。気持ちは嬉しいんだけど、あの子、すごく人見知りだから……。買い出しの件については、今度必ず埋め合わせするからさ。それで、許してくれるかな?」

「……わかり、ました」

 消え入りそうな声が聞こえた後、ぷつりと会話が途切れた。周囲の闇が一層深くなったように感じられ、貴士は更に警戒を強める。背後から猛烈に迫ってくる足音に気付いて肝を冷やすが、それが撫子のものだと分かって初めて、自分が半ば駆け出すように勢いよく歩を進めていることに気付いた。

 俺は、一体何をやっているんだ。撫子ちゃんを守ることが、俺の使命じゃないか――

 それからは歩調を緩め、ローファーの奏でる小さな足音に気を配りながら、人が隠れられそうなあらゆる陰へと視線を向けた。喫茶ファミールの前を通り過ぎ、もう何本目か分からない電柱への恐怖をやり過ごしたところで――二人はようやく、白河家を囲う塀の前までたどり着いた。貴士はホッと息を吐き、数分ぶりに撫子と顔を合わせるため振り返ろうとした、その時。

 貴士の広い背中に、少女の一回り以上小さな身が寄せられた。

 少女の温もりが、肌寒い空気の中で一層優しく溶け込んでくる。

「な、撫子ちゃん……?」

 貴士が首を後方に回しながら呟くと、撫子は背中に身を隠すようにしてから言った。

「ごめんなさい。…………けど…………けど、何だか怖くて」

 華奢な手のひらが肩甲骨の辺りにあてがわれる。小刻みな震えが生地を通して伝わってくる。消え入りそうな声が――多分、きっと、濡れている。

 貴士はそこで、今日の自分が撫子に対してどれだけ冷たい態度を取っていたのかを自覚した。いばらの赤い視線に怯え、いつ現れるか分からない恐怖に心を乱され、昔の記憶にいつまでも囚われ続けて。その結果、お昼の楽しいひと時と、放課後の《地域振興部》の活動と、何より大切な二人並んでの下校の時間を――台無しにした。撫子ちゃんを守る? 冗談じゃない。こんな風に彼女を悲しませて、その先に幸せが見えてくるはずがない。撫子ちゃんは俺を好きでいてくれている。だから俺は、それができるだけ長く続くように彼女の望みを叶え続けるべきなんだ――

「撫子ちゃん、明日さ」

「……えっ?」

 背中に寄り添った身体がピクリと震える。貴士はそんな些細な反応に心を痛めながら、続く声をできるだけ明るい調子に変えた。

「明日さ、帰りにどこか遊びに行かない? 新しく上映される映画があるらしいから、それを見に行くのとかどう?」

 しかし、意外なことに撫子の反応は芳しくなかった。「えっと……」と言葉を濁した後、恐れていた一言が発せられる。

「ごめんなさい。……その、明日は友達と、前から約束をしていて……」

 噛み合わない、と貴士は思った。二人の距離感を体現したかのような、微妙であるが故に違和感を強く抱かせるズレ。「そっか」と力なく返事をしながら目に浮かべていたのは、いばらの不吉に歪んだ唇だった。妖艶さを感じさせる輝きが上下に動き、そこから言葉が紡ぎ出される。

 ――恋人がいたって構いません。いつまでも、あなたを慕い続けます。

 その日は結局、いばらが貴士の前に現れることはなかった。




九月二日(水曜日)


 バチイイィィィッ! という乾いた音が、広い武道場の中に響き渡った。

 直前、「決まった!」と貴士は内心で呟いた。鍔迫り合いに持ち込み、その巨躯に込めた全霊の力で以て佐弥の華奢な体をよろめかせ、そこに渾身の打ち込みを放ったのだ。

 しかし、竹刀が佐弥の面金に達するよりも早く。

 貴士のがら空きになった左胴を、体勢を低くした佐弥の鋭い打突が襲った。

「なっ……」

 佐弥はその勢いのまま駆け抜けると、振り返って即座に構えを作った。まるで隙のない流麗な動きに、貴士はしばし心を奪われる。その姿に戦意の喪失を理解した佐弥は、竹刀を納めるとようやく緊張の解けた声を発した。

「逆胴が完璧に入ったね。私の勝ち」

 面の下で涼やかな笑みを見せる佐弥に、貴士は悔しさを滲ませる。しかしそれを押し殺して帯刀すると、開始点に戻って背筋を真っ直ぐに伸ばした。佐弥もそれに倣い、二人はその場から数歩下がって互いに礼をする。正式な試合の手順とは多少違うが、大切なのは真に感謝の気持ちを持つことだという佐弥の教えを思い出し、貴士はそれを言葉という形で素直に表現した。

「ありがとうございました」

 面を脱ぎ、額に浮かんだ汗を手のひらで拭う。久々に運動したこともあって清々しい気分に自然と頬が緩む。それに対して、蜜柑色のリボンで結った黒髪を艶やかに濡らした佐弥が、口元に笑みを作りながら言った。

「ねぇ青野くん、やっぱり剣道部に入る気はない?」

 貴士は虚を突かれて目を大きくしたが、すぐに苦笑を浮かべた。

「コテンパンに負かしておいて言う台詞じゃないよね。それとも、慰めのつもりかな?」

「違うよ、男の子にそんなことするわけないじゃない。前にも言ったけど、青野くんの才能には目を見張るものがある。しっかりと基本を学ぶだけで、私といい勝負ができるようになると思うの。どう、一週間でいいから入部してみない? 私が付きっきりで指導してあげるから」

 佐弥は漆黒の瞳を輝かせる。そこに真剣な光を見出した貴士は、しかしそれ故に困惑した。適当な気持ちで応じるわけにはいかなくなり、どう答えるべきか固い頭を悩ませる。

 そこに、少し離れた場所から緊張感のない声が届いた。

「いいじゃねーか、ちょっとぐらい入ってやれよ」

 すでに防具をあらかた脱ぎ去った瑛が、だらしない姿勢で床の上に腰を下ろしていた。味方を得たはずの佐弥は唇を引き結んだまま、貴士は妙な雰囲気の醸成を察しておろおろと視線を彷徨わせる。

 そこに、再び親友の投げやりな声が飛んできた。

「手取り足取り教えてもらってさ、それで強くなりゃいいじゃねーか。撫子ちゃんを守る力を得ることにも繋がるし――まぁもっとも、その話をあの子が聞いたら、むしろ悲しい思いをするだろうけどな」

「……どういう、意味だよ」

 貴士が珍しく険のある声を発したと同時に。

 佐弥の凍てつくような視線が、瑛の弛緩しきった童顔を正面から貫いた。

 すぐさま動揺の色を見せた親友は、打って変わってひ弱な声を漏らし出す。

「な、何だよ。そんな目で見やがって」

 それでもなお睨み付けるのをやめない佐弥に、瑛は「くそっ」と呟くと共に立ち上がり、そのまま武道場の出入り口に向かって歩いて行く。

「おい瑛、どこに行くんだよ」

 貴士が背後から呼びかけると、瑛はほんの少し歩調を緩め、少しの沈黙の後「ジュース買ってくる」と言って扉の向こうに消えていった。それを見届けてから、貴士はようやく長い長い息を吐き出す。

「ふー、びっくりした。二人のこんな雰囲気に立ち会ったの、物凄く久しぶりな気がするよ。心臓に悪いから、できればやめてほしいな」

「……ごめんね。私も、別にそうしたいわけじゃないんだけど。どうしても、許せなくて」

 未だ衰えぬ感情の炎をその瞳に宿す佐弥を見て、貴士は気圧されながらも尋ねた。

「気に障ったのは、俺に対して言ったこと? それとも、さっきの試合について?」

「……どっちも。強いて言えば、後者の方が大きいかな」

 押し殺した声が、普段の淡々とした、それでいて暖かみのある響きを失わせる。単純な怒りだけではない、複雑に絡み合った親友の胸の内を察し、貴士は表情を暗くした。

 彼が鮮やかな逆胴を食らって立ち止まる、十数分前のこと。

 貴士と共に武道場に乗り込んだ瑛は、怖気づきながらも提案した手前拒否することもできず、佐弥と向き合って竹刀を合わせていた。彼女の全身から漂う歴戦のオーラに、幼馴染である少年は気迫という部分で圧倒的に劣っていた。故に、その時点で既に勝敗は決していた。

 試合開始後、わずか五秒。迷いなく振り下ろされた竹刀を、瑛は為すすべもなく面金で受け止めた。乾いた音が武道場に響き渡り、またすぐに静寂が戻ってくる。佐弥は男のプライドを気遣ったのだろう、何も言うことなく開始点に戻って竹刀を納めた。しかし瑛はしばらく経っても動かず、やがて――竹刀を肩に担ぐと、とぼとぼと壁の方へと歩いて行った。その背中に、佐弥の普段からは想像も出来ないほど大きな声が飛んだ。

「待って! 例えどんな負け方をしたって、ちゃんと礼だけはしてほしい。でないと、剣道をやっている意味がないもの」

 それは、端的に言ってあまり良い表現ではなかった。瑛はピクリと肩を揺らしただけで、そのまま壁を背にして腰を下ろした。乱暴に防具を取り払ってから、青色フレームの眼鏡を外して顔全体を拭う。

 最近の瑛は、いつもこんな調子だった。元来負けず嫌いなのは貴士も知るところだが、佐弥を前にすると情緒が不安定になり、今までは言わなかった、あるは踏みとどまっていた言葉を零すようになった。何が彼をそうさせているのか、はっきりしたことはわからない。ただ、このままではいけないという思いが、二人の親友である貴士の中にはあった。

 それを知ってか知らずか、佐弥は滔々とした口調で話し出す。

「私ね……剣道で一番大切なのは、《感謝の気持ち》を忘れないことだと思っているの。相手を務めてくれる選手の人格を尊重し、ここまで導いてくれた指導者や仲間の力添えを胸に抱き、試合の場へと巡り合せてくれた全ての事象に感謝する。それを初めてお祖父ちゃんから聞いた時はよく分からなかったけど、今ではすごく実感してるんだ。これは剣道に限ったことじゃなくて、青野くんや撫子ちゃん、それに…………瑛と出会えたこと。笑われるかもしれないけど、私はいつも感謝してる。だから……」

 下唇を噛む佐弥を見て、貴士は優しい声音でその続きを引き取った。

「……だから、あんなに怒ったんだね。ごめん佐弥、君の気持ちも理解せずに、あんな雰囲気はやめてほしいとか言っちゃって」

 貴士の謝罪に佐弥は目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みと共に首を振った。

「いいの。私だって、瑛と喧嘩したままじゃ嫌だもん」

「……そっか。じゃあ――」

 そこまで言ったところで、武道場で唯一の扉がギイ……と音を立てて開いた。

 現れたのは予想通り瑛で、その手には三本の缶が握られている。きまり悪そうにしているのを見て、貴士が仲裁を買って出ようと近づいていったところで――

彼の頭上に、ふわりと一本の缶が放物線を描いた。

 ぎょっとして振り返る貴士だったが、佐弥は臆することもなく両手でキャッチし、缶のラベルを確認した。その瞬間、華やかに咲く笑顔。佐弥がこんなに嬉しそうな表情をするのは、いつだって瑛が傍にいる時だけだった。

 やがて、そこに悪戯っぽい色が加わり、

「これじゃ駄目。ちゃんと言ってくれないと分からない」

 瑛はそれに対して、佐弥の期待通りの反応を見せる。

「はぁ!? お前、俺がどれだけ勇気を振り絞ってそれを」

「……」

「……わ、分かったよ。言えばいいんだろ言えば」

 瑛は不承不承といった様子でぼそぼそ呟くと、その場に正座して離れた位置に立つ幼馴染を見上げた。ごくりと喉を鳴らしてから、意外なほど明瞭な声を静かな武道場に響かせる。

「さっきは、あんな態度取って済まなかった。思い出すと恥ずかしいし、後悔してる。そして――試合の相手をしてくれて、ありがとうな。やっぱり全然適わなかったけど、それでもお前と勝負できて嬉しかった」

 素直な言葉の連続に、さしもの佐弥も頬を少し赤らめた。それは、貴士が二人の親友と出会って以来幾度となく見てきた光景だった。佐弥が怒り、瑛が逃げ出し、でもすぐに戻ってきて仲直りをする。その度に佐弥は決して他の者に向けることのない笑顔を見せ、瑛はホッと胸をなで下ろしてはにかむのだった。

「……まったく、しょうがない二人だなぁ」

 気づけば、貴士は苦笑していた。心配をしていた自分が馬鹿らしくなり、次から次へと笑みが零れてくる。この二人を結ぶ絆は、例えどんなに引き延ばそうとしても断ち切られることはないだろう。多少の不安定な状態に陥ろうとも、意に介する必要はない。お互いを思いやる心が消えない限り――それはないと貴士は確信している――いつまでも隣り合って笑っていられるはずだ。

 貴士が羨ましさと、ほんの少しの寂しさを胸に抱いていると、佐弥が「あっ」と頓狂な声を上げた。

「そういえば、私が勝ったらお願い事を一つ聞いてもらえるんだったよね」

「げっ」

 覚えていやがったのか、と言外に匂わす瑛の反応に、佐弥はにやにやと口の端を持ち上げた。色白な裸足が徐々に近づいてくると、瑛は覚悟を決めたようにスッと背筋を伸ばす。やがて正面ではなくその隣に立ってから、佐弥は背伸びをして幼馴染の耳元に囁いた。

「後で教えてあげる。あんたと二人きりの時に、ね」

 色香に溢れたその声を聞いた瞬間、瑛の顔は昨日よりも数倍赤く染まった。

「なっ……なっ……」

 佐弥は「ふふ」と小さく笑ってから、背を向けて出入り口へと歩いていく。その首筋が鮮やかな薄桃に色づいているのに気付いた貴士は、認識を少し改めることになった。

 二人の関係は、自分が心配したのではない方向に変わり始めているのかもしれない、と。


 武道場を出ると、初秋の涼しい風が貴士たちの汗に濡れた体を冷たく癒した。赤橙色に染まったコの字型の校舎が、夕日が沈むのとは反対方向へと長い影を伸ばしている。それだけで自然と撫子の顔が目に浮かぶ貴士だったが、今日は友達と遊びに行くと言っていたのを思い出し、久しぶりに親友二人と帰宅することにした。事情を説明し(佐弥に不審がられたが)、武道場から続く和やかな雰囲気の中を三人並んで歩いていく。

 昨日の登校時は、猛獣の潜む密林の中を彷徨う子猫のように身を縮こまらせていた貴士だったが、今日はその目に浮かぶ警戒の色も薄くなり、下校時の今となってはほとんど常の状態で歩を進めていた。もちろん二人の親友が隣にいるという心強さもあるだろうが、本人が《契約》時に宣言した通り、あれ以来一度も姿を見せていないというのが大きかった。油断しているつもりはない。しかし、貴士の中で妙な安心感が生まれているのも確かだった。もしかして、一昨日のあれはすべて夢だったのではないか――そんな願望に満ちた現実を期待できるほどに、貴士の精神は落ち着きを取り戻していたのだ。

 そのため――

 瑛たちと別れた後、物陰から突如現れた漆黒の少女の姿に目を奪われた時。貴士は心臓を掴まれたかのように、自律的に行える身体活動の全てを停止させた。

「こんばんは、貴士さん。今日もいい天気ですね」

 夕闇の中に立ついばらは、その瞳に深い黒色を落とし込んでいた。おそらく外出の為に装着したコンタクトレンズのせいだろう。彼女の虹彩は先天的に色素が不足しており、故に血液の色である鮮やかな赤を見る者に発しているのだった。初めてそれを《薔薇の小屋》で聞かされた時、貴士は全身が総毛立ったのを覚えている。

 ようやく心拍数が落ち着いてきた貴士が口を開くより早く、いばらは言葉を重ねた。

「ごめんなさい。陰から貴士さんを見守りながら、今まで通り我慢するつもりだったんですけど……どうしても、自分を抑えられなくて。こうして会いに来てしまったわたしを、許していただけますか?」

 その濡れた瞳は、いつもの赤色とは違う《少女の魅力》を放っていた。今までは殺されたままだった艶やかな黒髪や抜けるように白い肌、西洋人形のように整った顔貌が、貴士の胸中にごくシンプルな感情を表出させる。

 ――美しい、と。

 それでも貴士は、震える声を絞り出さずにはいられなかった。

「……《契約》では、俺と会うのは日曜日に限られていたはずだよね。外では絶対に目を合わせない、会話はやむを得ない限りしないって。あれは、嘘だったのかな」

 嘘、という言葉の響きに、いばらは少し動揺したようだった。しかし反応自体は想定していたのだろう、すぐに答えを返した。

「これはあくまで、わたし個人の《お願い》です。《契約》とは関係ありません」

 ならば断われるはずだ、と貴士は胸中で叫んだ。日曜日でさえ半ば勝手に取り付けられた約束なのだ、これ以上の義理は目の前の少女との間には存在しない。今度こそ勇気を振り絞って、己の確固たる意志を示さなければならない。貴士は、握りしめていた拳にグッと力を込めた。

 しかし。

 その熱の塊が柔らかく冷たい手のひらに包まれた瞬間、貴士の決意は急速に氷解していった。

 そして、視界の下方から囁くような声。

「こんなことを言うと、貴士さんは怒るかもしれませんが……そもそもあれは、秘密を守るための《手段》に過ぎません。《契約》の内容はただ一つ、毎週日曜日に貴士さんとわたしがあの部屋で過ごすこと。つまり、それが周囲に露見しない状況――例えば、親友さん二人がそれぞれの家に帰りつき、彼女さんが友達とアーケード街に繰り出している今のような場合であれば、わたしたちの間に遠慮は必要なくなるんです。あとは貴士さん、あなたが……受け入れるのか、拒否するのか。それを判断するだけ」

「……そんな、かってな、こと」

 貴士は必死に抵抗を試みたが、すでに舌はほとんど回らなかった。まるで痛みのない神経毒を打たれたかのように、自分の体が自分のものでないような感覚に襲われる。そんな彼の様子を見て、いばらはここが好機とばかりに甘い声音で言った。

「ほんの数時間でいいんです。貴士さんと一緒に、行きたい場所がありますから……。それを果たせさえすれば、すぐに自由にして差し上げると約束します」

 約束、という言葉の響きが、ひどく軽いように感じられた。最終防壁である理性が立ち上がり、ほっそりとした指が薔薇の蔓のように絡まる拘束を解こうとする。しかし、その意志すらも一瞬で溶かす香りが、貴士の鼻腔に容赦なく入り込んだ。

「お願いです、貴士さん……」

 少女の温もりは、吹き始めた寒風の中であまりにも甘く、優しかった。


 帰途に就くサラリーマンたちの行き交う駅前通りを抜け、線路を横断して坂道をしばらく歩いた先に、《夕陽が丘公園》の威容が広がっていた。空にはすでに宝石をちりばめたような星の瞬きが点在し、鮮やかなグリーンであるはずの芝生は暗緑色に沈んでいる。敷地面積四十ヘクタールを誇るこの地には、多目的広場やパークゴルフ場などのアウトドア施設の他、体育館や温水プール場のような屋内施設も揃っており、町内はもちろん地域一帯でも最大級の《遊び場》として老若男女問わず親しまれていた。

 いばらは貴士と組んでいた腕を名残惜しそうに離すと、「こっちです」と指差して歩き出した。二日前と同じく全身に黒を纏ったその姿は少し離れただけで闇に溶け込み、その度に貴士は慌ててその背中を追った。サクサク、サクサクという草を踏む音だけが二人の間を繋ぎ止める。しばらく沈黙が続き、やがて展望台が見えてきたところで、いばらは舞うように振り返った。

「着きましたよ。ここです」

 黒づくめの少女が手を広げる先には、布野田町の夜景が煌びやかに広がっていた。宝石箱を倒したように、とまでは言えないものの、声を漏らすには十分な輝きが貴士の広い視界に飛び込んでくる。これが、いばらの見せたかったものなのか――ホッとしたような、肩透かしを食らったような、複雑な感情を抱いていると、いばらが「ふふっ」と笑い声を漏らした。

「気持ちはわかりますが、わたしの目当てはそっちじゃありませんよ。……こっちです」

 視線を下げるいばらに従い、貴士は視界を下方に修正する。そこには、漆黒の闇に彩られた無数の花が、まるで光に飢えているかのようにその花弁を星空に向けて咲かせていた。近くで確認するまでもない。浮かび上がったシルエットは、六年前に幾度となく目にしたあの花の姿を、貴士の脳裏に蘇らせた。

 それはすなわち――薔薇。

 展望台に設置された大きな花壇、そのすべてに余すところなく薔薇が植えられていた。《薔薇の部屋》のように無造作な印象はなく、整然とした並びはしっかりと管理が行き届いていることを裏付けている。その理由を、《地域振興部》部長である貴士は当然のごとく知っていた。だから、いばらがそのことについて尋ねてきた時、彼はあえて深く考えようとせずに、淀みのない説明を披露した。

「……この薔薇は、布野田町と姉妹都市関係を結んでいるオーストラリアの都市ブローゼンから来た人たちが、友好の象徴にと植えて行ったものなんだ。《ブローゼン》は年中、街の至る所で薔薇を見ることができるらしくて、特別な日に花を贈るときには必ず薔薇が採用されるんだって。ちなみにこの花壇は町の人が責任を持って管理していて、今では夕陽が丘公園の中でも名所の一つに数えられるほどだよ。俺も、その、何度も見に来たことがあるし……」

 嘘だった。

 貴士はこの場所を、初めて訪れた時から避け続けてきた。

 理由は明白だ。姫咲の屋敷から、あるいは《薔薇の小屋》に住む赤目の少女から遠ざかるためにこの町へ来たというのに、そこで再び《縁》を感じることなど、未だ幼い少年には耐えられなかったのだ。故に、その事実を記憶の奥底に封じ込めて半ば抹消し、瑛や佐弥と過ごす穏やかな日々の中で必死に忘れようとした。しかし胸の深いところをちりちりと焼く感覚はいつまでも消えず、それは時に哀しい記憶を思い出させ、貴士の表情に暗い影を落とすこともあった。その度に親友たちは心配し、そうさせるまいと作り物の笑顔を身につけ――

「貴士さん」

 不意に名前を呼ばれ、貴士はいつの間にか俯けていた顔を上げた。夜の冷え冷えとした空気が、意識をあっという間に鮮明に戻していく。そこに、静かな声が明瞭に響いた。

「運命って、信じますか」

 貴士は「うんめい?」と訊き返しそうになるのを寸前で踏みとどまった。それは、決して口にしてはいけない響きを孕んでいるように思えた。動揺しているのを見抜かれないよう、押し殺した声で応答する。

「えっと……俺は男だから、そういうのにはあまり興味ないかな。実感したことがないせいでそう思うのかもしれないけどね。……でも、どうしてこんな急に?」

 訊くべきではなかったのかもしれない。しかし、この地に連れてこられた時点で、何らかの話をしようとしているのは予想できていた。ならば主導権を握られないためにも、あえて攻めることも重要なのではないか――貴士がそんな後付けで自身の行動を納得させていると、いばらの忍び笑いが闇夜の中に漂ってきて、彼の頑強な全身を粟立たせた。続いて、いつの間にか傍らに立っていた少女の口から、纏わりつくような甘い声音が漏れ出す。

「本当は、気付いているくせに……いいでしょう、全てを教えてあげます」

 貴士が動揺を見せる間もなく、いばらは魅惑的な笑みを浮かべて告げた。

「わたしの本当の母親……姫咲一葉ではなく○○は、生まれも育ちも……オーストラリアの都市である、ブローゼンなんです」

「…………なっ」

 なんだそれは。胸中の第一声はそれだった。

 いばらの本当の母親が……ブローゼンの出身? 有り得ない。そんな偶然があるわけがない。何しろ俺は、この布野田町がブローゼンと姉妹都市関係を結ぶ前に移り住んできたのだ。そのことを予想できるはずがないし、できていたらそもそもこの町を選んでいない。

 貴士が脳裏に浮かび始めた二文字を必死で追いやろうとしていると、それを掬い取るかのようにいばらが声を発した。

「運命」

 全身を石像のように硬直させる貴士に、更に甘く歪んだ響きが届けられる。

「そんな言葉、あなたと出会った当時のわたしは知るべくもありませんでしたが……今ならはっきりと、自身を持って言えます。これは、抗うことのできない神のお導き――すなわち、運命であると」

 運命、うんめい、ウンメイ。

 噛みしめるように心中で何度も呟きながら、しかし、暴れはじめた《怪物》を必死で押さえ込もうとして、貴士は徐々に意識を暗くしていった。激しい頭痛が何度も襲い、気付いた時には――自分のものとは思えないほどに低い声が、闇の中を重く震わせていた。

「……だからって、無茶苦茶だよ。俺の引っ越した先を調べて、あの広いマンションに一人で移り住んできて。大体、君には血が繋がっていないとはいえお母さんがいるじゃないか。確かに態度は冷たいかもしれないけど、それは複雑な事情があることを考えれば無理もないんじゃないかな。今からでも遅くはないよ、もう一度姫咲の屋敷で一緒に――」

「殺しました」

 氷の刃のように冷たい声が、続く言葉を切り裂いた。

 貴士は鋭く息を呑むと、自らが忌避すべき話題を持ち出したことも忘れ、いばらの発した短い言葉を恐る恐るなぞった。

「ころ、した……?」

 いばらは周囲の闇と同化したように佇んでいたが、貴士の声が聞こえるやいなや嘲笑に唇を歪ませ、それから真っ赤な口内を覗かせた。

「何をそんなに驚いているんですか? 《父》も……そして《姉》も、わたしが殺したんですよ」

 その漆黒の瞳には、感情のゆらぎというものが全く見出せなかった。貴士は《姉》の響きに胸を締め付けられながら、姫咲家において早くに命を落とした二人の姿を朧に思い浮かべた。当然だが、どちらもいばらが手を下したというわけではない。しかしその内面に深く関わっていたことは間違いなく、故に彼女の言うことは全く嘘という訳ではなかった。

 貴士の神妙な顔つきを見てか、いばらは声のトーンを低くした。

「悼む必要はありませんよ。あの人もまた、気が狂っていたんですから……それとも、まさか、同情したんですか?」

 その瞬間、突風のように吹き付けた怖気が貴士の全身を震わせた。

 顔は笑っている。しかしその下に途轍もない形相が隠されていることに、《薔薇の小屋》で蜜月の日々を共にした少年は気づいていた。足は自然と後退し、背中に吹き出た汗が背筋を冷たくさせる。

 やはりいばらは、今でも俺のことを――

「……貴士さん」

 不意に、前方から身体を包み込む暖かな感触。

 腰に巻きつけられた細腕から、想像を遥かに超える強い力が伝わってくる。

 皮膚が湿ったシャツと擦れ、若干の痛みすらあるほどだったが、貴士は何も言えなかった。この子もさゆりと同じ――いや、受けてきた痛みの数は比較にならないほどかもしれない。そんな彼女を一人《薔薇の小屋》に放置し、背を向けて逃げ出した自らの過去に固く目を閉じると、貴士はひたすらにその身を預け続けた。

「……わたしには、あなたしかいないんです。六年前の、季節外れの雪に染まったあの日から」

 その言葉に、貴士は思い出す。自らの愚かしさの極みとでも言うべき選択、それが招いた成れの果てを――

「愛しています、貴士さん」

 それは、相反する感情に彩られた、しかしいばらにとって心の底からの言葉だった。




九月四日(金曜日)


 鼠色の雲に覆われた空の下、貴士は親友二人と並んでアスファルトの上を歩いていた。

 今日は《地域振興部》の活動があり、主に佐弥が脚本を務める演劇についての打ち合わせを進めたのだが、そこに撫子の姿はなかった。理由は簡単で、貴士たちが今向かっている喫茶ファミールでアルバイトをしているからなのだが、どうにも腑に落ちない点がいくつかあり、恋人である少年は首を捻っていた。

「絶対、おかしいよね」

 貴士の心中に同調するように、隣の佐弥が言った。

「今までだったら、アルバイトがある日でも欠かさず部活に顔を出してたのに。それも時間ぎりぎりまで残れるように、何度も腕時計を確認したりして。休み時間に廊下ですれ違った時は元気に挨拶してくれたし、病気って訳でもないと思うんだけど」

「……そうだよね。何か、あったのかな」

 貴士は心配顔で応じたものの、心の中には一つの驚きが存在していた。というのも、彼が校舎内で偶然に撫子と対面した時、彼女は気まずそうに顔を背け、一礼しただけで去ってしまったのだ。昨日も「家の用事があって急いでいますから」と一緒に帰ってくれなかったし、もしや何かあったのだろうかと本気で頭を悩ませていたのだが――

「バッカだなぁお前ら。そんなの決まっているじゃねーか」

 佐弥を挟んで隣を歩く瑛が、指で眼鏡のブリッジを押さえながら言った。今日のフレームは黄色で、湾曲したフォルムがバナナを連想させる。

 ピクリと眉を動かす佐弥に対し、瑛は堂々とした声で告げた。

「いいか、撫子ちゃんは女の子なんだぞ。ということはつまり……おつきさ」

 ズビシッ! という音が聞こえてきそうなくらい見事なチョップが頭頂部を襲い、瑛は「ぐへっ!?」と漫画のキャラクターのような悲鳴を上げた。前後によろめきそうになるのを何とか踏みとどまると、童顔の少年は煙を噴出さん勢いで声を荒げた。

「らりしやらるんら! しらかんりゃっらりゃねーか!」

「……何言ってるのか分かんないけど、悪いのはあんたでしょ。いつもいつもデリカシーに欠けることばかり言って。もう少し考えてから発言しなさいよね」

「ははは……」

 苦笑する貴士をよそに、二人の掛け合いはまるで漫才のようにヒートアップしていき、ギャラリーがいないことが残念に思えるほどの盛り上がりを見せた。この場に撫子がいたなら、きっと腹を抱えて笑っていただろう。貴士は恋人の沈んだ表情がパッと華やぐ光景を想像し、自然とアスファルトを蹴る足に力を込めた。

 やがて、目的地である喫茶ファミールにたどり着くと、三人は顔を見合わせたのを合図に中へと入った。

「いらっしゃいませー」

 涼やかに伸びる声と共に現れたのは、いきなり目当ての人物だった。

 襟の大きな紅茶色のブラウスとストレート・スカートを華奢な身体に纏い、その上にギンガムチェックのエプロンを重ねている。短めの栗色ヘアは後ろで束ねられ、辛うじてポニーテールと呼べる小ぶりな可愛らしさを発揮していた。両手でお盆を胸に抱いたまま、こちらを驚いた表情で見つめている姿も笑顔とはまた別種の魅力があり――

 と、そこでようやく思考を軌道修正すると、貴士は努めて明るい調子で言った。

「や、撫子ちゃん。久々に二人を連れて来てみたよ。案内、してくれるかな?」

 撫子は唇を噛むような仕草を見せていたものの、流石に逃げ出すわけにはいかないと思ったのか、妙に高らかな声を発しながらくるりと背を向けた。

「ご案内します。三名様、テーブル席でよろしいですね?」

 貴士が「うん」と返すやいなや、撫子は背後を気にせずにスタスタ歩き始めた。店内はそれほど広くないので遅れを取ることはなかったが、いつもの数倍は速い歩調には驚かざるを得なかった。やはり、俺に対して何か思う所があるのか――窓側の椅子に腰を落ち着けてからも、恋人である少年は自然と撫子の働く姿を目で追っていた。

 その様子を見て、瑛は深々とため息を吐いた。

「ナイトさ、お前もしかして……」

 珍しく陰気な声を発した親友に気を引かれ、貴士は顔の向きを戻した。すると、間もなく再び唇が開き、

「……浮気したんじゃねーだろうな」

 その瞬間、まるで胸元を度突かれたかのように息が止まった。すぐに否定しなければと思うが、口はそれに反して開こうとしない。からかったつもりだったのだろう、追って「冗談冗談」という言葉が軽い調子で流れてきたが、貴士は顔を俯けて押し黙ったまま、数秒が経過してからようやく「えっ?」と反応を返した。瑛はもちろん、佐弥もそれまでとは変わって心配そうな表情を作り出す。

「青野くん、どうしたの? もしかして瑛の言うことが気に障った? それとも――」

「違うよ、ちょっとボーっとしていただけ。その……いきなり根も葉もないことを言われたから、驚いたのは確かだけど」

「……そっか。それならいいんだけどね」

 佐弥は声を弾ませながら、隣に座る瑛に冷たい一瞥をくれる。童顔の少年は「うっ」と身を引きながら、拗ねたような口調で話し出す。

「俺だって、根拠もなしに言ったんじゃねーよ。あの撫子ちゃんが気まずそうな顔していたから、やっぱり何かあったに違いないと思って、その」

「だからって浮気はないでしょ。瑛ならともかく、青野くんに限ってそんなことするわけないし。そうは思わない?」

「……まぁな。ナイトは見かけによらず堅物だし、撫子ちゃんと付き合い出す前からモテモテで選び放題だったからな。けどよ、それなら一体何があったって言うんだ? 別にケンカしているわけでもないし、一方的に避けられるような心当たりがあるわけでもねぇ。やっぱりあれか、月に一度訪れるという女の子の――」

 そこまで言ったところで、再び佐弥の手刀が瑛の頭蓋を震わせた。今度は声こそ漏らさなかったものの、更に強く舌を噛んだらしくひとしきり悶絶したのち、瑛は涼しい表情で隣に座る幼馴染を涙目で睨み付けた。

「しららしぎれれしまふろばららろう!」

「……何を言っているの分からないけど、ここは公共の場よ。節度のある発言をお願いね、瑛クン」

 にっこりと笑う佐弥に対し、瑛が更なる抗弁を重ねようとしていたところに――

「ご注文をお待たせしました」

 涼やかな、しかし撫子よりも幾分低い声に首を傾げながら、三人はそろって顔を上げた。

 そして、貴士一人だけが――まるで巨大な蛇に睨まれたかのように、その動きを硬直させた。

「うふふ、この台詞ずっと言ってみたかったんです。……探しましたよ、貴士さん」

 その言葉に、親友二人は貴士の顔を覗き込む。単に目の前の少女が誰なのか説明を求めているのだろうが、まるで責められているかのような錯覚に陥り、貴士は一言も発することが出来なかった。それを見かねたのか、黒づくめの少女は一方的に話を続ける。

「部活が終わるまで待っていなさいと言っていたのに、黙って学校から出て行っちゃうんだもの。いくらお友達との付き合いが大事だからって、あんまりじゃありませんか? せめて連絡くらいしてくれればよかったのに」

 クスクスと笑う少女の意図が、貴士にはまるで理解できなかった。急にこんな場所へと姿を現して、ねつ造した情報をさも事実であるかのようにべらべらと喋り出し。単純に俺の反応を楽しんでいるのか、あるいは――にわかに表出した危機感に鼓動を速めていると、佐弥が平静を保った口調で尋ねた。

「ねぇ、青野くん。そちらは?」

 それは極めて当然の疑問だった。しかし、貴士はどう答えるべきか窮した。名前だけを答えるならば容易いが、関係を正直に明かすわけにはいかない。固い頭を悩ませているところに、またもいばらが救いの手を差し伸べた。

「申し遅れました。わたしの名前は姫咲いばら……貴士さんとは従兄妹です」

 完璧な作り笑顔を浮かべるいばらの《嘘》に貴士はドキリとしたが、幸い二人は納得したらしくその点を疑うことはしなかった。

 しかし瑛は別の部分で気になったことがあったらしく、

「ひめ……さき? 君、ひょっとして……」

「はい?」

 小首を傾げる仕草に「ぐはっ」と胸元を押さえながら、瑛は身を乗り出して対面に座る貴士に囁いた。

「まさか、こんな所で最後の一人にお目にかかれるとはな……しかも、ナイトの従妹だって? 聞いてないぞそんなの」

「……話が見えないな。一体何のことだよ」

 落ち着かない様子で訊き返す貴士に、瑛は「驚くなよ」と前置きする。

「月曜日に話しただろ、《三人官女》のこと。その最後の一人が……彼女、姫咲いばらちゃんなんだよ」

「……えっ?」

「俺も半信半疑だったんだけどな、今日初めて会って確信したぜ。この子こそ間違いなく《三人官女》の一人、撫子ちゃんや吹雪冷衣と肩を並べる存在だってな。くそー、カメラを持ってきていないのが悔やまれるぜぇ……なぁ、後でケータイでいいから一枚撮らせてもらってもいいか?」

「……本人に訊けよ、そんなの」

 貴士は苦笑し、おかげで緊張した心が徐々にほぐれていくのを感じた。狭まっていた視野が徐々に広がり、店内の落ち着いた様子が目に映るようになる。そして、何気なく視線を左右に動かし――

「あっ……」

 三人分のお冷を盆に載せた撫子が、通路の真ん中で立ち尽くしているのに気付き、貴士は小さく声を洩らした。その鳶色の大きな瞳が見据えているのは、顔の方向からしておそらく……。他のウェイトレスに注意されても気付かない様子を見て、貴士は両手の拳に力を込めた。感情の勢いに任せて、鋭い声を発する。

「それで、どうしたんだ? 見て分かる通り、俺たちはちょっと話の途中なんだ。特に何もないのなら、悪いけどどこか別の席で――」

 勇気を振り絞った発言は、いばらの歪んだ笑い声に遮られた。彼女はその表情を変えないまま、

「やだなぁ、貴士さんが言ったんじゃないですか。わたしに、《地域振興部》に入部しなさいって」

 貴士がその言葉の意味を理解するのとほぼ同時に、通路の方からグラスの割れる音が連続して鳴り響いた。それはまるで日常が崩壊した音のように聞こえ、貴士は撫子を気に掛けることにも思い至らぬまま、ただひたすらに少女の漆黒の瞳を見つめ続けた。

 やがていばらは、音のした方へと心配そうに視線を向ける二人に対し、

「どうでしょう、恩田さん、日々野さん。わたしの入部を許して頂けますでしょうか?」

 場の空気を読まない問い掛けに、佐弥は「えっと……」と曖昧な返事をし、瑛は「俺は構わないよ」と言って朗らかに笑った。それから駆けつけた他のウェイトレスさんが協力して片づけ始めたのを確認すると、佐弥は再び首を戻して「青野くんの従妹さんなら、歓迎……かな」とややぎこちなさの残る笑みと共に答えた。

 それを聞いて、いばらは満面に笑みを咲かせ、

「うれしい。今からわたしも、地域振興部の一員ですね。……それで、その記念といってはなんですが、皆さんと席をご一緒してもよろしいですか?」

「もちろん! っていうか、そんなに固くならなくていいよ。それと……俺のことは、《瑛先輩》って呼んでくれ」

「……わかりました。ありがとうございます、瑛先輩」

 語尾に音符マークが付きそうなくらいに可愛らしい声音に、瑛は「ぐふっ」と悶絶したようにずるずると椅子から滑り落ちた。その様子を、佐弥は氷のように冷たい目で見つめる。

「全然おかしくない呼び方なのに、瑛が要求するとどうにも変態っぽくなるよね……なんでだろう、持って生まれた才能かな」

「おいおい、人を犯罪者予備軍みたいに言うんじゃねぇよ。俺は歴とした善人だぜ、何しろナイトの一番の友達なんだからなぁ?」

 瑛は胸を張りながら、貴士の名を出すことで返しの手を鈍らせるという卑怯な戦法を持ち出す。それに対し、佐弥は怯むどころか不敵な笑みさえ浮かべ、

「ふぅん……そう、善人なんだ。それならコレ……あんたには必要ないよね?」

 佐弥が手に持って掲げていたのは、紙製のページにビニールを貼っただけの簡素なフォトブックだった。しかし、瑛の顔は驚きを通り越して一気に蒼白になり、

「お、お前……それを、どこで」

「昨日、あんたの家にノートを返してもらおうと思って行ったときにね。あんたはいなかったけど、おばさんが良いって言うから部屋に入らせてもらったの。そしたら……散らかった机の上に、これが無造作に置かれていたから、つい」

「見たのかよ!」

「ちょっと興味があったからね。あんたが写真を集めているなんて、意外だなぁって思ったから……でも、中身を見てすぐに理解した」

 佐弥の声が重く沈み始め、幼馴染の少年は縮こまって体を震わせ始めた。

「こんなに沢山の写真を、どうやって入手したのか知らないけど……あんたは《善人》なんだから、コレは必要ないよね? だってきっと拾っただけなんだし、まさか中身を鑑賞してニヤニヤしたりということはないだろうし」

「……あ、当たり前だよ。俺は、ぜ、善人なんだから、そんなモノはいらねぇよ」

 すると佐弥は掲げていた手をテーブルの上に落ち着け、

「そう、安心した。ならコレは、帰ってから私が責任もって処分するね。本当の持ち主さんにとっても、その方がいいだろうし」

「……そ、そうだな。そうしようそうしてくれ」

 瑛は泣きながら(これは比喩ではない)、佐弥の持つフォトブックに親愛を込めた視線を送った。それから胸元をギュッと握りしめ、何やらぶつぶつと独り言を洩らし出す。

 そうしてようやく、佐弥は本来の微笑みで瑛の頭を優しく撫でた。

「ほーら、泣かないの。男の子でしょ?」

「くっそ……お前がそれを言うか……」

 悪態をつきながら子ども扱いを拒否しない瑛を見て、長らく黙っていたいばらが堪え切れなくなったように笑い出した。

「お二人は仲がいいんですね。まるで長年連れ添った夫婦さんみたい……何だか羨ましいなぁ」

 その言葉に瑛はわかりやすく赤面し、恥ずかしさを誤魔化すように声を荒げた。

「そ、そんなんじゃないよ。こいつってばすぐに突っかかってくるから、俺としては毎回対処に追われて大変で」

「きっかけを作るのはいつも瑛の方でしょ。反省していないようだと、別の《大事な本》も燃やしちゃうよ?」

「ゲッ! それは勘弁……」

 瑛の慌てぶりに、佐弥といばらが口を押さえて笑う。そこからはいばらも徐々に会話へと加わっていき、あっという間に打ち解けて声を弾ませていく。お互いの呼び名もあっさりと決まったらしく、早くも瑛が《地域振興部》の活動内容を説明し始める……。

 ――なんだ、これは。

 貴士は三人と同じ机を囲みながら、自分だけビデオカメラを通して別の部屋からモニタリングしているような、名状しがたい距離感を感じていた。まるで、姫咲いばらという名の《棘》が、自分の必死で築いてきた温かな世界へと徐々に侵食していくような――いつまでも在り続けると信じていた居場所を奪われたような気がして、貴士はかつて抱いたことのない不安を胸の内で急速に膨らませていった。瞳に映る世界が徐々に暗く染まっていく。やめろ、やめてくれ――悲痛に歪んだ心の叫びだったが、当然それが黒づくめの少女に届くはずもなく。貴士がきつく瞑目しようとした……その時だった。

「白河さん、どこに行くの!?」

 ウェイトレスの一人が発した大声に、四人は意識を通路へと向けた。そこには、しゃがみこんでガラスを拾っていたらしい、声の主である背中。そしてその少し先には――

「撫子ちゃん……?」

 佐弥が動揺した声を発する。瑛も思いがけない事態が起こったことを察したらしく、おろおろと視線を彷徨わせた。唯一落ち着いた様子を保っていたいばらは、カラン、と乾いた音を響かせて開いた扉を食い入るようにジッと見据え。

 その唇を、注意して観察していなければ見落としてしまうぐらいに、微かに歪ませた。

 瞬間、貴士は走り出した。

「おい、ナイト!?」

 いばらの挙措の変化に気付いたわけではなかった。ただ単純に、撫子がなぜこの場から逃げ出すように走り去ったのか、その理由を何となく察したからだった。店内のあちこちから集まってくる視線も気にせず、全力で板張りの床を蹴り続け、閉じて間もない扉を勢いよく押し開ける。

「撫子ちゃん!」

 わずか数メートル先に、薄闇の中で小さめのポニーテールを揺らす少女の背中があった。闇色に染まった道路を左に曲がり、白河家のある方向へと突き進んでいく。まさか、このまま自宅に籠ってしまう気じゃ――そうなっては手の打ちようがないので、貴士は慌てて駆け出した。

 しかし、恵まれた体格と高い身体能力を持つ彼に対し、小柄で運動音痴な撫子が逃げ切れるはずもなく。二十メートルも進まぬうちに、貴士は少女の小さな肩に手を掛けた。

「ほい、捕まえた」

 元々逃げ切れるとは思っていなかったのだろう、撫子はすぐにスピードを緩め、道路の真ん中で立ち止まった。貴士はゆっくりと歩み寄りながら、恋人の小さな背中にできるだけ優しく声を掛ける。

「どうしたの、急に飛び出したりして。お店の人たち、皆心配してたよ?」

 撫子は反応を示さない。いばらの訪問は、彼女にとってよほどショックだったのだろう。誤魔化していても埒が明かないだろうと察し、思い切って本題を切り出すことにする。

「……昨日から、俺たちずっとぎこちないよね。そしてその原因は、たぶん俺にある……。本来なら、俺が真っ先に謝るべきなのかもしれない。だけどその前に、撫子ちゃんが今何を思っているのか、それを聞かせてほしいんだ。ありのまま全てを、この場で伝えてほしいと思う」

 我ながら情けないと貴士は思った。後ろめたい感情をもっともらしい言葉で塗り固め、辛く苦しんでいるのだろう撫子に話の主導権を押し付けて。とはいえ、彼女の心中を正確に推し量ることが貴士にとって困難であるのも事実だった。あまりにも情報が少なすぎる上に、元来奥手で《女心》とは無縁の生活をずっと送ってきたのだ。今後のためにも、ここは恋人である撫子の本心を聞いておきたい――それが、貴士の偽らざる本音だった。

 その弱気ではあるが真っ直ぐな想いが通じたのか、撫子はぽつりと呟いた。

「……怖いんです」

 それは、闇の中に儚く消え入ってしまいそうな、微かな声だった。貴士が「えっ?」と反応を返すと、撫子は小さく体を震わせる。

「……全部言っちゃって、それでもし、先輩があたしのこと嫌いになったらって思うと……どうしても、口に出すことができなくて。態度も、いつも通りにしなきゃって頑張ろうとしたんですけど、やっぱり、むずかしくて……」

 細く揺れるその声は、貴士の胸を痛いほど強く締め付けた。気の弱い撫子のあまりに寂しい想像に、背後からではあるがきっぱりと首を振ってみせる。

「そんな、嫌いになんてなるわけないよ。だって俺、その……多分撫子ちゃんが想像している以上に、君のこと……好き、だからね? じゃなきゃ、こうして付き合ったりしないし……。だからさ、遠慮なんかいらないんだよ、恋人同士である俺たちの間にはさ」

 何度も口ごもりながらの《告白》に撫子は一瞬振り向き、再び顔を俯けて拳をぎゅっと握りしめた。それから、長い長い逡巡。貴士は恋人の背中を見つめながら、その時をじっと待ち続けた。神様が気を利かせてくれたのか、細い道路に車は一台も通らず、時間だけがゆっくりと過ぎ去っていく。

 やがて――辺りの暗闇が一段と濃度を増したところで、撫子はそれまでよりも大きな、しかし震える声を吐き出した。

「……一昨日のこと、なんですけど。久しぶりに友達と街で遊んで、いつになく遅い時間に帰ろうとしたとき――」

 貴士はにわかに身体を緊張させ、聴覚に全神経を集中させた。そして、続く言葉に――鋭く息を呑み、歯を食いしばった。

「見ちゃったんです、先輩が……その、女の子と、歩いているところ」

 ――やっぱり、そうだったのか。

 それは、喫茶店での反応から薄々勘付いていたことだった。撫子があんなにも負の感情をむき出しにした視線を送ることなど、今までに見たことがなかった。あの時は気付きもしなかったが、いばらはおそらく意図的に行動したのだろう。腕を組んで駅前通りを歩くなどという愚行を許してしまった自分の思慮浅さに愕然とする。しかし、本質がそこではないことに思い至り、貴士は即座にかぶりを振った。

 そこに、撫子の悲痛に濡れた声が響き渡る。

「あたし……二人の関係を必死で理解しようとしました。絶対にそうじゃないんだって、先輩のこと、何が何でも信じようとしました。だけど……だけどっ、嫌な想像ばかりが頭の中をかけ巡って……」

 掛けるべき正しい言葉を、貴士は見出すことができなかった。「誤解だ」と叫ぼうにも、二日前の光景が思い出され口を重くする。沈黙を続ける恋人に対し、撫子は更に続けた。

「さっき、あの子が従妹さんなんだって聞いて……ちょっとだけ安心したんですけど、一昨日の姿を思い出したら、またすぐに暗い気持ちが出てきちゃって……。先輩があたしだけのものじゃないってこと、頭では分かってるんです。でも、それでも、溢れてくる感情を抑えきれなくて……。どうして、こうなっちゃうんだろうなぁ。あまりにも醜くて、自分でも目を逸らしたくなっちゃうくらい。ほんと、何なんだろう……」

 自嘲気味に笑う撫子の乾いた声が、貴士の胸中に形容しがたい感情を生み出した。それは驚きと悲しみと後悔とが複雑に混ざり合ったもので、彼の表情を自然と暗くしてしまう。それを見て、撫子は強く唇を噛みながらも、浮かんだ涙をゴシゴシと袖で拭き、赤くなった顔に活力の乏しい笑顔を浮かべた。

「……あーあ、やっぱり先輩を困らせちゃった。駄目ですね、あたし……。迷惑を掛けてしまって申し訳ないです。……明日からは、いつも通りの白河撫子でいられるようにします。だからその、今日……きょう、だけ、は……っ」

 しゃくりあげそうになるのを、口に手を当てて強引に食い止める。あまりにも痛々しい年下の少女の姿に、貴士は周囲が静かな住宅街であることも忘れ、勢い込んで尋ねた。

「どうして! ……どうして君は、そんなに優しいままでいられるんだ。さっき言ったばかりじゃないか、遠慮なんかしなくていいって。……俺を、責めていいんだ。撫子ちゃんにはその権利があるし、俺自身もそれを望んでる。だから頼む、この場で全部吐き出して――」

 必死の形相に心動かされたのか、撫子は今日初めて、本当に笑ったように見えた。しかし動かしたのは桃色の唇ではなく、華奢な片手一本。貴士の話を遮るように手のひらを見せてから、撫子は再びくるりと背を向けた。

「撫子ちゃん?」

「……覚えていますか、先輩。あたしと、初めて出会った時のこと」

 唐突な問いに、貴士は首を傾げながらも答える。

「……五月の、ゴールデン・ウィーク明けだよね。放課後、俺が校舎裏に呼び出されて、そこで――」

「違います」

 貴士が驚きに目を瞠ると、撫子は可笑しそうに頬を緩ませ、

「それは、高校に入学してからの《初めて》です。本当は、もっとずっと前に出会っているんですよ」

「え……っ」

 貴士は腕を組みながら、高校入学前から中学時代に至るまでの記憶を遡った。しかし、撫子曰く《再会時》に蘇らなかった記憶を、今必死になったところで思い出せるはずもなく。貴士が降参の合図とばかりに苦笑を浮かべると、撫子は少しだけ寂しそうに笑った。

「気にしなくていいですよ、先輩が覚えていないのは、あの時すぐにわかりましたから……。でも、あたしが《初めて》の時のお話をすれば、もしかしたら思い出すかもしれません。……その、もし良かったら、聞いてもらえませんか?」

 相変わらずの低姿勢に、貴士は胸を温かくしながら「もちろん」とにこやかに応じた。撫子はホッと息を吐いてから、記憶の糸を手繰り寄せるようにゆっくりと話し出す。

「……今からちょうど一年くらい前のことです。あたしは中学三年生で、もうすぐ高校受験だっていうのにろくに勉強もせず、だらだらと街の中を歩いていました。週末に行われるお祭りのせいか人出が多くて、うんざりしながら時間を潰して……。駅前広場のベンチに座ってからは、ステージが設営されるのを遠目で見ながら、ひたすらケータイをいじっていたんです。そしたら、急に声を掛けられて――」


 ***


「ねえ君、ちょっといいかな?」

 不意に声を掛けられ、撫子はビクリと体を震わせつつも、恐る恐る顔を上げた。

 目の前に立っていたのは、かなり年若い男だった。スラリと伸びた長身に、雑誌のモデルかと思わせるほどに整った面立ち。しかし格好はお洒落とは無縁と言うべきジャージ姿で、そのデザインから男が布野田高校の生徒であることが分かった。ひとまずホッと胸をなで下ろし、警戒の色を含んだ目で男を睨み付ける。

「……何でしょうか」

 男は特に怯んだ様子もなく(それだけで撫子は少しイラっとした)、爽やかな笑顔で答えた。

「今、ちょっと人手が足りなくてさ。君、たぶん暇でしょ? 仕事が山ほどあるから、今日一日それを手伝ってくれない?」

「…………は?」

 怒気を孕んだ一声に、ピロリン、という空気を読まない電子音が重なる。男はポケットから携帯電話を取り出し、

「おっと、またメールが来た。なになに……今度は商店街のマツヤさんか。多分調理関係だろうから佐弥に任せておきたいけど、あっちも忙しいだろうからなぁ……。しょうがない、ここは俺が引き受けるとするか。……おっ、またメール」

「……あの」

「これ以上溜まるのはマズいんだけどなぁ……って、瑛かよ! あいつめ、メールしてくる気力があるなら風邪ぐらい我慢して来いよな。何とかは風邪ひかないって言うくらいだから、どうにかなりそうなもんだけど……。まぁ、後で佐弥と一緒に《ファミール》でキングストロベリーパフェを奢ってもらうとするか。そのぐらいはしてもらわないと割に合わないよな、うん」

「ちょっと!」

 叫ぶようにして言うと、男はようやく顔をこちらに向けた。しかし撫子の予想に反し、その瞳はきょとんとしたまま不思議そうに瞬き、

「何してるの、早くジャージに着替えておいでよ。汚れるような仕事もあるからさ」

 そう告げたきり、男は再び視線を携帯電話の画面に落とした。撫子は男の意図が分からず混乱していたが、やがてそれも一つの感情へと収束し、華奢な手は乱暴にベンチの上に置かれたままのスクールバッグを掴み取った。石畳を踏み鳴らすようにしながら、通りの方へと歩き去っていく。

「ちょっと、どこ行くの?」

 意外なことに背後からすぐ声が掛かり、撫子はそれにもまた怒りの炎を滾らせ、振り向きざまに言い放った。

「何で見ず知らずのあんたに指図されなきゃいけないのよ。少しカッコいいからっていい気になるな、この軟派男!」

 その大声は少しばかり周囲の視線を集めたが、撫子はそれすらも気付かないほどの充実感と後ろめたさを味わいながら、震える足を必死で前へと進めた。ここまで思ったことをはっきり口にしたのは、一体いつ以来だろうか――撫子が暗く寂しい記憶に思いを馳せ始めたその時、不意にトントンという感触が肩を通して伝わってきた。続いて、耳元で囁かれる声。

「サボってるの、学校にバラしちゃうよ?」

「……!」

 撫子は咄嗟に振り返り、先よりもキツイ眼差しで男の不敵に笑う顔を睨み付けた。こいつは、全部理解した上であたしに声を掛けたのか――布野田高校の生活指導部に直接電話を入れたいぐらいだったが、そうすれば自分がこの時間に駅前広場にいた理由を説明しなくてはならないだろう。撫子はグッと唇を噛み、短い秋季休暇中であるはずの男をありったけの怒りを込めてねめつけた。

 それに対し男は苦笑を浮かべながら、

「はは、随分と嫌われちゃったなぁ。心配しないで、ちゃんと報酬は用意してあるから」

 そういう問題ではないと断ずる間も勇気もなく、撫子は言われるままに男の背中についていった。


 簡単な自己紹介を交わしながら(撫子は念のため偽名を使った)十分ほど歩いてたどり着いたのは、見慣れた商店街の一角だった。撫子も時折利用する《惣菜のマツヤ》、年季を感じさせるガラスケースの前には揚げたての商品を手に入れようと主婦らしき客が早くも列を作っている。そこから少し離れた扉をノックすると松谷夫人が出迎えてくれ、二人は奥の一室へと通された。

「おもてなしも出来なくて申し訳ないけど、頑張ってくださいね」

 松谷夫人はその言葉と、カゴに入った大量のジャガイモを残し、すぐに部屋を去っていった。粗末なテーブルの上にはピーラーとまな板が二セット用意され、手拭きや未使用のカゴなども完備されている。

 布野田高校に在学中の男――青野貴士は「ふむ」と呟くと、畳の上に座って早くもじゃがいもを手に取った。ピーラーを装備し、手慣れた動作で皮を次々と剥いていく。その光景に不覚にも見惚れていた所で、貴士が口を開いた。

「シラモトさん、やり方分かる?」

 撫子は反射的に眉間にしわを寄せた。こいつはひょっとして、わざとあたしをイライラさせているんじゃないだろうか――早くも今日何度目か分からない怒りを感じながら、撫子は対面にドスンと音を立てて座り、ややぎこちない動作で仕事を開始した。すでに貴士は三個を剥き終わり、四つ目も半ば裸にしているところだった。競うつもりなど微塵もなかったが、それに反してピーラーを引くスピードは自然と速まっていく。何度か指の皮を持って行きそうになりながらも、ペースを緩めることはせず、ひたすらに処理を続ける。

 ――なんで、あたしがこんなこと。

 放り出したくなる衝動を押さえつけ、撫子はじゃがいもとの格闘を続けた。つまらない怒りの感情など捨て去り、青野貴士などという人間のことは忘れて、いつものように自分だけの居場所に閉じこもっていればいいではないか――彼女の冷静な一面はそう告げていた。実際、脅し文句を言われる前はそのまま立ち去ろうとしていたのだ。今更学校での立場が悪くなろうと気にならないだろうし、思い切ってこの場から飛び出してしまえば……。

 …………。

 ……。

「よし、終わりっ」

 貴士が最後の一個をカゴの中に積み重ねると、撫子は深く息を吐いた。

 ――あたしは、いったい、どうしたいの。

 その答えを探る間もなく、貴士は「さて、お次はどこかな」と携帯電話をチェックし、ほどなく行き先が決定された。帰り際、松谷夫人が持たせてくれたアツアツのコロッケを頬張りながら、二人は慌ただしく商店街を後にする。

「ありがとう。本当に助かったわ」

 松屋夫人のその言葉は、撫子の心をしばらくの間不快に揺らし続けた。


 その後は駅前通りでテント設営の手伝い、街のあちこちで出たゴミの収集、各種備品の配達など、ありとあらゆる仕事を消化していった。貴士が布野田高校で結成したという《地域振興部》は地域社会への貢献をモットーであるというから、こういった《便利屋》を任されることはむしろ喜ばしいことなのだろうが、高校生の部活動としては色気が少なすぎると撫子は感じていた。物好きそうな貴士だけがやっているのならまだ理解できるものの、話を聞く限りでは少なくともあと二人……。よほど深い間柄なのか、それとも別の理由が存在するのか。その正体を掴めぬまま、撫子は課せられたタスクを黙々と処理していき――

「サンキュー、恩に着るぜ」

「本当にありがとう。これでどうにか間に合いそうだわ」

「君たち若いのに感心だねぇ。こりゃ布野田町の未来も明るいなぁ」

「早速で悪いが、また次も頼まれてくれるかい?」

 ――なんだろう、これ。

 感謝の言葉を受け取るたび、撫子は心が例えようもなく震えるのを感じていた。悶えそうになるほど恥ずかしく、しかし縋ってしまいたくなるほどに温かい、ある時を境に失ってしまった懐かしい感情。象徴的な記憶があるわけではなかったが、撫子は確かに思い出していた。両親に愛され、友達と笑いあい、幸せに過ごしていたあの日々を――

「あぁ……そっか……」

 声にならない呟きが、胸の内から零れ出す。撫子は、長らく自分を苛立たせていた闇の正体を、ようやく今になって見出していた。いや、それは正確ではないかもしれない。なぜなら彼女は、自らが本当に求めているものを朧ながらずっと感じ取っていたのだ。ただそれを、思春期特有の偏屈な考え方によって押し流し、意識の彼方へと追いやっていたに過ぎない。

 ――あたし、ほんとうは……。

「シラモトさん?」

 不意に声を掛けられ、撫子は歩行に急制動をかけた。二人はすでに最後の仕事を終え、夕焼けに染まった駅前広場にたどり着いたところだった。奇しくも数時間前に出会った場所で顔を見合わせ、撫子は湧き上がってくる感情に赤面しながらも、素直にその願望を告げた。

「あの……ちょっとだけ、お話できますか」

 貴士は少々驚いたようだったが、すぐに柔らかな笑みと共に頷くと、近くにあるベンチを手で示した。並んで腰を下ろし、赤橙色に輝く駅前広場の美しさにしばし見惚れる。

 やがて先に声を発したのは、貴士の方だった。

「今日は本当にありがとう。いきなり強引に部の活動に付き合わせちゃったのに、文句も言わずに仕事をこなしてくれて。俺だったらきっと、途中で逃げ出しちゃっただろうなぁ」

 何度もそうしようと思いました、と言っては台無しになりそうだったので、撫子は代わりに終始抱いていた疑問をぶつけることにした。

「……あの、どうしてあたしに声を掛けようと思ったんですか? 確かに暇そうにしていたかもしれないけど……あたしみたいな人間を見たら、普通はまともな戦力にならないだろうって考えるのが普通かなって、その……」

 自虐の辛さに声が萎んでいったものの、貴士は朗らかな表情を崩さずに答えてくれた。

「まぁ、俺が北中出身だからっていうのもあるけど……一番は、同じ《匂い》を感じ取ったから、かな」

「……同じ《匂い》?」

「うん。俺もさ、君みたいに学校をサボっていた時期があったんだ。転校したばかりで馴染めない、っていう尤もらしい理由を自分に言い聞かせていたけど、本当は違った。――自分から、避けていたんだ。クラスメイトたちの差し伸べてくれた手を振り払って、一人で勝手に頭を悩ませて。本当は仲良くなりたいのに、自分の中の何かが素直にさせない、っていうかさ……」

 それは、撫子の心情と多くの部分で似通っていた。胸を突き上げてくるじんわりとした感情を抑え込んでいると、続く言葉が聞こえてきた。

「俺の場合、それでも優しく接してくれる二人がいたから、どうにか自分を保ててきたけど……。白河さんはきっと、そういう人に巡り合えなかったんじゃないかな。だから、お節介だとは思ったけどね、君に声を掛けることにしたんだ。俺が素晴らしい仲間たちと創り上げた《地域振興部》の活動を通して、何か得られるものがあればって……ははっ、改めて考えてみると、本当にお節介だよね」

 貴士は苦笑したが、撫子は真面目な顔でかぶりを振った。

「あたし、あの時は暴言を吐いたりしたけど……本当は、嬉しかったんです。多少強引さは感じましたが、そうでもされなかったらずっとあのままだったと思うし……。だから、その……感謝、してます」

 夕焼けの色に負けないぐらい赤く頬を染めつつ発した最後の一言に、貴士はきらきらとした瞳を大きくし、それまで以上に優しげな表情を形作った。

「……今の言葉を聞けただけで、俺のお節介が無駄じゃなかったって、そう思えるよ。ぜひとも《地域振興部》に入部してほしいくらいだけど、君はまだ中学生だしなぁ……」

 悔しそうに唸る貴士に対し、撫子は人差し指をおとがいに当てる仕草を見せ、

「あの、《地域振興部》って、青野さ……先輩が創ったんですよね。すごく有意義なことをしているとは思うんですけど、正直その、高校生としてはお堅いというか……どういう経緯で、この部を創ろうと思ったんですか?」

 貴士はよくぞ聞いてくれたとばかりに頷くと、静かに口を開いた。

「さっき君が発した一言を、町のみんなに伝えるため……かな。俺はこの町に来て、数えきれないほどの恩を受けた。親友二人との出会いはもちろん、商店街の活気あふれる雰囲気には何度も気持ちを温かくさせてもらったし、駅前通りにずらりと並ぶ専門店がなかったら生活するうえで本当に困っていただろうしね。そういう想いを何とか形にできないかと思って始めたのが、この《地域振興部》なんだ。つまり、感謝――その心を忘れないように、あるいは恩返しをするために、俺たちはこの数か月ずっと活動してきた」

 撫子は、目の前の男が自分よりもはるかに立派な存在なのだと、遅まきながら認識した。学年は一つしか違わないはずなのに、こうまで考え方が違うなんて……。愕然とした思いで耳を傾け続ける撫子だったが、しかし話はそこで終わりではなかった。

「……でもね、本当はそれだけじゃないんだ。ここからは、ちょっと偉そうな話になるから、聞き流してくれてもいいんだけど……。俺はさ、《感謝》することってとても大切だと思うんだ。そして《感謝》の念を抱くには、相手のことをきちんと《理解》していないといけない。あるいはその逆で、《理解》があることで自然と《感謝》が生まれるというか……。分かり辛い話で申し訳ないけど、つまり」

 貴士はそこで一旦言葉を切り、赤く焼けた空を見上げた。

「俺は――あるいはシラモトさんもそうかもしれないけど、他人をきちんと《理解》しようとしてこなかった。こいつは自分と違う人間だ、と切り捨て続けて……。いつの間にか、周りに誰もいなくなっていた。それで勝手に寂しいとか思っているんだから、笑っちゃうよね。……だから俺は、もっと他人のことを《理解》するようにしたんだ。《否定》するんじゃなくて《理解》しようと努める。そうするだけで俺は他人に優しくできるようになったし、次第に自然と友達も作れるようになったんだ。……《理解》は人を優しくする。そしてその心が《感謝》を生み出していく。《地域振興部》は、この考え方をできるだけ多くの人に伝えられるように、そう願って創った部分も大きいんだ」

 話が終わると、貴士は恥ずかしそうに顔を背けた。しかしそれは、撫子にとって都合が良かった。目の淵から溢れ出てくる感情の塊を拭い続け、一度大きく洟をすすり――撫子は、その日一番の笑顔で言った。

「先輩……本当に、本当にありがとう。あたし、ずっと見失っていた大切なものを、ようやく掴むことができたような気がする」

 貴士ははにかむように笑いながら、最後に優しく、撫子の頭を撫でた。


 ***


「あの日から、あたしは生まれ変わったんです。先輩のおかげで」

 撫子は記憶の中の表情とリンクするように、柔らかく微笑んだ。貴士は一年前に出会った少女との記憶に浸り、たった今まで忘れていた自らの注意力のなさを責めた。いくら外見が当時の派手派手しい印象と大きく変わっているとはいえ、顔を突き合わせて言葉を交わしたのだから、会話をしていくうちに思い出すのが自然ではないだろうか。そのことをどう謝るべきか悩んでいると、撫子は胸元に手を当て、一語ずつを噛みしめるように告げた。

「……だからあたしは、例えどんなに疑いの気持ちが出てこようとも、それによって自分がどれだけ辛い思いをしたとしても、先輩を信じます。……だって、あなたがどういう人間か、《理解》している自信がありますから」

 きっぱりとした口調は、信念の強さを貴士に感じさせた。自分のように未熟な人間が偉そうに言い聞かせた話を、この少女は真摯に受け止め、誰しもが胸の内に秘めている優しさを大切に育んできたのだ……。その努力が、誰よりも他人に優しく、不器用ながら精一杯に取り組む姿が愛される、現在の白河撫子という女の子を作り上げていったのだろう。そんな彼女を陰で裏切り、過去に経験のない悲しみを与えてしまった自分が、許されざる存在であることを自覚する。

 しかし――

 撫子の大きな瞳が、強気な言葉とは裏腹に揺れ動いているのを見た瞬間。自らの不甲斐なさを忘れてしまうほどの強い感情が、貴士の全身を熱く包み込んだ。突き動かされるように前進し、驚きに変わる少女の表情も無視して、正面から、その華奢な身体を胸に抱きすくめる。

「せ、せん……ぱい……?」

 その囁き声すらも感情の炎へとくべる薪となり、貴士は腕に込める力を更に強くしていく。撫子を苦しませるつもりはなかったが、しかし衝動に抗うことはできなかった。可能な限り撫子を近くに感じられるように、強く、強く――。

「……俺が今、誰かに優しくすることができているのだとしたら……それは撫子ちゃん、君のおかげだよ……」

 その言葉は口から零れることはなく、熱となって最愛の人の身体へと溶け込んでいった。



愛憎に塗れた女の子を描きたいと思って考え付いた作品です。

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