↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
PR

君に名前をつけるなら

作者: ハシビロコウ
掲載日:2026/10/26

「性同一性障害」

そう診断されたのは、十五歳のときだった。

その言葉を初めて聞いた日のことは、今でも覚えている。

医師は、僕の話を最後まで聞いてから、いくつかの説明をしてくれた。母は隣で静かにうなずいていた。僕はといえば、目の前に置かれた紙を見つめながら、自分の中にあるものがようやく誰かに伝わったような気がしていた。

もちろん、診断されたからといって、何かが急に変わるわけではなかった。

次の日も学校はあったし、制服を着て、授業を受けて、友達と話した。周囲から見れば、僕はどこにでもいる普通の女子生徒だった。

けれど、僕自身はずっと、自分のことをうまく説明できずにいた。

女の子として扱われるたびに、どうしても馴染めないものがあった。かといって、自分がどういう人間なのか、すべてを言葉にできるわけでもなかった。


僕は男だ。


それは、ずっと前から自分の中にあった気持ちだった。

ただ、そのことを誰に、どこまで話せばいいのかは、今でもわからない。

だから僕は、必要以上に自分のことを説明しないようになった。

聞かれたら答える。聞かれなければ、わざわざ話さない。

そうしていれば、少なくとも、余計な説明をしなくて済んだから。

高校二年生になった今も、その考え方は変わっていなかった。

自分のことをわかってもらいたいと思う一方で、わかってもらえなかったときのことを考えると、最初から話さないほうが楽だった。

そんなふうに、自分の中で折り合いをつけながら過ごしていた。


彼女と出会ったのは、秋の終わりだった。

その日は、病院の廊下がいつもより静かに感じられた。

窓の外では、木々の葉が少しずつ落ち始めていた。枝に残った葉も、風が吹くたびに頼りなく揺れている。

僕は診察を終え、母親を待っていた。

待合室に戻るには少し早かったので、廊下の窓から外を眺めていた。別に、何かを見たかったわけではない。ただ、椅子に座っているよりも、そのほうが気が楽だった。

そのとき、少し離れた窓際に、ひとりの女の子がいることに気づいた。

年齢は、僕と同じくらいに見えた。

彼女は窓の外を眺めていた。泣いているわけではない。誰かと喧嘩をしたようにも見えなかった。

それでも、どこか寂しそうだった。

いや、悲しそうなのかもしれない。

何かを考えているようで、何も考えたくないようにも見えた。

もちろん、それは僕が勝手にそう感じただけだ。

彼女がどんな人で、どうしてそこにいるのか、僕には何もわからなかった。

ただ、目が離せなかった。

顔立ちが整っていると思った。

きれいな人だな、と。

最初に浮かんだのは、そんな単純な感想だった。

そのあと、少しだけ話してみたいと思った。

友達になれたらいいな、とも思った。

ひと目見て惹かれたのは確かだ。でも、それは恋愛感情だったのだろうか。単に彼女をきれいだと思って、どんな人なのか知りたくなっただけではないのだろうか。

そのときの僕には、そんな違いを考える余裕もなかった。

気づけば、彼女のほうへ歩き出していた。

何を話せばいいんだろう。

「大丈夫ですか?」

結局、いちばん単純な言葉しか出てこなかった。

彼女が顔を向けた。

「私?」

「はい」

短く答えたものの、その先が続かなかった。

初対面の相手に、いきなり何を聞いているんだろう。そもそも、大丈夫かどうかなんて、本人にだって簡単には答えられないかもしれない。

僕は少しだけ視線をそらした。

「……すみません。急に」

「ううん。大丈夫」

彼女はそう答えてから、少し考えるように目を伏せた。

「でも、ほんとは、よくわからない」

予想していなかった答えだった。

僕は何も言えなかった。

大丈夫だと答えるか、そうでないと答えるか。その二つのどちらでもなく、わからないと言う人に、僕は何を言えばいいのだろう。

「……そう、ですよね」

結局、そんな曖昧な返事しかできなかった。

彼女は僕の顔を見て、少しだけ笑った。

「変なこと言ってごめんね」

「いえ。謝らなくていいです」

そう言ったあと、僕たちはしばらく黙っていた。

沈黙が気まずかったのか、それとも彼女も何か話したかったのか、今となってはわからない。

やがて彼女は、再び窓の外へ目を向けた。

「葉っぱ、ずいぶん減っちゃったね」

僕もつられて外を見た。

「そうですね。もう秋も終わりですから」

「なんだか、寂しいね」

その声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。

僕は枝に残った葉を見つめた。

「でも、残ったものが、見えやすくなるのかもしれません」

口にしてから、少し気恥ずかしくなった。

普段なら、こんな言い方はしない。自分でも、少し格好をつけたように感じた。

「……なんか、変なこと言いましたね。すみません」

彼女は首を横に振った。

「ううん。私は好きだよ、そういう考え方」

それから僕たちは、天気のことや、廊下が少し寒いこと、日が暮れるのが早くなったことなどを話した。

彼女は、雨が降ったあとの空気が好きだと言った。

「濡れた地面の匂いって、なんか落ち着かない?」

「わかる気がします」

「ほんと?」

「はい。雨が降ったあとは、いつもより静かに感じるので」

「それ、ちょっとわかるかも」

彼女は小さく笑った。

そのとき、廊下の向こうから看護師が彼女を呼んだ。

彼女は返事をしてから、僕に向き直った。

「話してくれてありがとう」

「いえ。私のほうこそ」

「また会えたらいいね」

その言葉を残して、彼女は看護師のもとへ歩いていった。

僕は、その背中が見えなくなるまで、なんとなく目で追っていた。

たった数分話しただけだった。

彼女のことは、ほとんど知らない。何が好きなのか、どんな学校に通っているのか、どんな友達がいるのか。そもそも、どうして病院に来ていたのかさえ知らなかった。

それなのに、僕は彼女のことを考えていた。

きれいな人だった。

話してみたいと思った。

友達になれたらいいと思った。

理由なら、いくつでも挙げられた。

彼女がひとりで寂しそうに見えたから、話しかけただけだ。誰だって同じことをしたはずだ。友達になりたいと思っただけなのだと。

けれど、その説明を繰り返すほど、どこかに小さな引っかかりが残った。

自分でも、少し不思議だった。

その日の帰り道、母親に何か聞かれた気がする。僕は適当に返事をした。何を話したのかは、ほとんど覚えていない。

ただ、窓の外の木々を見ながら、また会えるだろうかと考えていた。

そのことを、僕は誰にも話さなかった。

話したところで、うまく説明できる気がしなかったからだ。

恋だったのか。

ただの興味だったのか。

それとも、誰かとつながりたいと思っていただけなのか。

答えは出なかった。

そもそも、急いで答えを出す必要もないと思った。

そのときは、まだ。



彼女と会ってから半月がたった。

いつもと変わらない診察のために今日も病院に来ていただった。

受付を済ませ、待合室の椅子に座る。名前を呼ばれるまで、僕は特に見るものもなく、スマートフォンを眺めていた。

ふと、あの窓際のことを思い出した。

彼女は、今日もあそこにいるだろうか。

そう考えた瞬間、僕はスマートフォンを持つ手を止めた。

別に、会いに来たわけじゃない。今日は診察の日だ。たまたま同じ病院に来ているだけで、彼女がいるかどうかなんて、気にする必要はない。

そう思い直して、僕は画面に目を落とした。

「次の方、どうぞ」

呼ばれたのは、僕の名前だった。

診察を終えた僕は、母親と合流する前に、ほんの少しだけ遠回りをした。

理由は、特になかった。

ただ、あの窓の近くを通ってみようと思った。

廊下を曲がると、窓際には何人かの患者がいたが、彼女の姿は見当たらなかった。

やっぱり、いないか。

……?

どうして、がっかりしたんだろう。

彼女がいなかったから?

たった一度話しただけの相手だ。どんな人なのかもほとんど知らない。次に会える約束をしたわけでもない。

それなのに、少しだけがっかりした自分がいた。

「早く行くわよ」

母親の声に、僕は慌てて振り返った。

「あ、ごめん。今行く」

僕は窓際から離れ、母親の後を追った。

帰り道、車の窓から流れていく景色を眺めながら、さっきのことを何度も思い返した。

また会いたい。

ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。

彼女のことを、もっと知りたいと思った。どんなものが好きで、普段は何を考えていて、どんなときに笑うのか。

でも、それは別におかしなことじゃない。

友達になりたいと思った相手のことを、もっと知りたい。それだけなら、きっと普通のことだ。

そう自分に言い聞かせて、僕は窓の外へ視線を戻した。

それから数日、彼女のことを思い出す回数は、少しずつ減っていった。

学校では授業があり、提出物があり、友達との会話があった。家に帰れば宿題をして、夕食を食べて、風呂に入る。毎日はいつも通りに過ぎていく。

彼女と会ったことは、その日常の中に小さく挟まった出来事のひとつになりかけていた。

それでも、ふとした瞬間に思い出すことがあった。

窓の外を眺めていた横顔。

雨のあとの空気が好きだと言ったときの声。

そして、別れ際に見せた笑顔。

思い出すたび、僕は自分の気持ちを考えた。

会いたいと思うのは、恋だからだろうか。

それとも、話していて楽しかったからだろうか。

どちらでもない可能性だってある。

そもそも、恋愛感情というものを、僕はそれほどよく知らなかった。

誰かを好きになることについて、周囲の人間は簡単に話す。

あの人が好きだとか、付き合いたいだとか、顔が好みだとか。

僕には、それらの言葉がときどき、少しだけ遠く感じられた。

自分が男だという気持ちを、誰かに説明するだけでも難しい。まして、自分の中にある名前のついていない感情を、簡単に言葉にできるはずがなかった。

だから僕は、考えるのをやめることにした。

今はまだ、わからなくてもいい。

また会うことがあったら、そのときに考えればいい。

そんなふうに思っていた。

けれど、次に彼女と会ったとき、僕は自分が思っていた以上に、その再会を待ち望んでいたのだと知ることになる。



次に彼女と会ったのは、それから二月ほど経った日のことだった。

その日も、僕は診察を終えて廊下を歩いていた。

窓の外には、ほとんど葉を落とした木が並んでいた。前に彼女と話したときよりも、景色はずっと冬に近づいている。

もう、いないかもしれない。

そう思いながらも、僕の足は自然とあの窓際へ向かっていた。

窓のそばの椅子に座り、膝の上に置いた手をじっと見つめている。彼女はいた。

顔を上げる様子はなかった。

声をかけようとして、僕は足を止めた。

何をそんなに緊張しているんだろう。

前に一度、話したことがある。それだけなのに、いざ目の前にすると、最初の一言さえ簡単には出てこなかった。

「……こんにちは」

ようやく声をかけると、彼女が顔を上げた。

「あ、この前の」

「はい。また会いましたね」

「うん。また会ったね」

彼女は小さく笑った。

その顔を見て、少しだけ安心する。けれど、次に何を話せばいいのかわからず、僕は視線を窓の外へ逃がした。

「……あの、そういえば」

彼女が口を開いた。

「まだ、お互い名前も知らないよね」

そうだった。

二度も話したのに、僕たちはお互いの名前さえ知らなかった。

「私、楓っていうの」

「楓さん……。私は、零です」

「零ちゃんね。よろしく」

「よろしくお願いします」

名前を呼ばれただけなのに、なぜか少し照れくさかった。

「また会えてよかった」

楓は、何気ないことのように言った。

僕も同じことを思っていた。けれど、すぐには言葉にできず、少し間を置いてから答えた。

「……私もです」

楓はうれしそうにうなずき、窓の外へ目を向けた。

その横顔を見ながら、僕は心の中でもう一度、彼女の名前を呼んだ。

楓。

ただ名前を知っただけなのに、次に会うときは、今より少し自然に話せる気がした。

「零ちゃんって、普段からそんなに丁寧に話すの?」

突然そう聞かれて、僕は顔を上げた。

「え? あ、いや……そんなことないと思うけど」

「ほんと?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

楓は楽しそうに笑った。

さっきまで何を話せばいいのかわからなかったのに、彼女の調子につられて、少しずつ言葉が出てくる。

「楓さんは、誰にでもそんな感じなの?」

「どんな感じ?」

「……話しやすい感じ」

言ってから、少し恥ずかしくなった。

楓は一瞬きょとんとして、それから笑った。

「なにそれ。初めて言われた」

「そう?」

「うん。でも、ありがとう」

そのとき、廊下の向こうから看護師の声がした。

楓は「あ、呼ばれちゃった」と立ち上がる。

「もう行くの?」

口にしてから、しまったと思った。

引き止めるつもりなんてなかった。ただ、思ったことがそのまま出てしまった。

楓は少し驚いたあと、やわらかく笑った。

「うん。でも、また今度ね」

「……うん。また」

今度は、さっきより自然に返事ができた。

楓は手を振って、廊下の向こうへ歩いていった。

僕はその背中が見えなくなるまで、窓際に立っていた。

「零ちゃん、か……」

自分の名前に「ちゃん」がつくのは、少し不思議な感じがした。

嫌ではなかった。むしろ、楓にそう呼ばれたことが、思っていた以上にうれしかった。

その日、家に帰ってからも、何度か彼女の声を思い出した。

けれど、次に会えるかどうかはわからない。

病院に来る日が同じとは限らないし、楓がいつもあの窓際にいるとも限らない。

それでも、また会えたらいいと思った。

今度は、もう少し長く話せたらいい。

そう考えている自分に気づいて、僕は小さく息を吐いた。

まだ、理由を考えるのはやめておこう。

次に会えたときに、また考えればいい。


それから、僕は病院に来るたび、あの窓際を気にするようになった。


最初のうちは、楓がいるかどうかを確かめるだけだった。姿が見えれば少しうれしくなり、いなければ、そういう日もあると自分に言い聞かせた。


けれど、三度目に会ったときには、そんな言い訳も必要なくなっていた。

「零ちゃん!」

窓際から声が飛んできた。

振り向くと、楓が手を振っていた。

「こんにちは」

「こんにちは。今日も会えたね」

「うん。……そうだね」

隣の椅子に座ると、楓はさっそく聞いてきた。

「今日は何の話をしようか?」

「え、私が決めるの?」

「だって、零ちゃん、考えすぎて話せなくなりそうなんだもん」

「そんなことないよ」

「ほんとかなあ」

楓はいたずらっぽく笑った。

この前より、ずっと話しやすかった。沈黙があっても、無理に埋めようとは思わなくなっていた。

それから僕たちは、好きな食べ物や、苦手な教科、最近見たテレビの話をした。

楓は甘いものが好きで、特にプリンには目がないらしい。僕が数学は得意じゃないと言うと、楓は「私も!」と声を弾ませた。

「じゃあ、数学のテスト前は大変だね」

「うん。できれば、テストなんてなくなってほしい」

「それは先生に怒られそう」

二人で笑った。

こんなふうに誰かと何でもない話をするのは、いつ以来だろう。

気づけば、診察の順番を知らせる声が聞こえるまで、あっという間に時間が過ぎていた。

それからも、会える日は少しずつ増えていった。

毎回長く話せるわけではない。楓が先に呼ばれる日もあれば、僕が母に急かされる日もあった。それでも、会えば自然に隣へ座るようになった。

「零ちゃん、今日は元気ないね」

ある日、楓が言った。

「そうかな?」

「うん。いつもより静か」

「……ちょっと、学校でいろいろあって」

言ってから、後悔した。

いつもなら「なんでもない」とごまかしていたはずだった。なのに、楓の前では、ほんの少しだけ本当のことを話してみたくなった。

楓はすぐに理由を聞かなかった。

ただ、「そっか」とうなずいて、窓の外に目を向けた。

「話したくなったら、話してね」

その言葉に、僕は顔を上げた。

無理に聞き出そうともしないし、簡単に励まそうともしない。

「ありがとう」

そう言うと、楓はいつものように笑った。

「どういたしまして」

その日は結局、学校で何があったのか、最後まで話せなかった。

けれど、帰り道に思った。

いつか、この人になら話せるかもしれない。

自分のことを、ちゃんと。



次に僕が病院を訪れたとき、楓はいつもの窓際にいなかった。

少し探してみると、廊下の端にあるベンチに座っていた。いつもより顔色が悪く、手元の紙をじっと見つめている。

「楓さん?」

呼びかけると、楓は慌てて紙を折りたたんだ。

「あ、零ちゃん。こんにちは」

「こんにちは。……どうしたの?」

「ううん。なんでもないよ」

いつもの明るい声だった。

でも、笑顔は少しだけぎこちなかった。

僕は隣に座った。何か聞くべきか迷ったけれど、いつしか自分がしてもらったことを思い出した。

「話したくなったら、聞くよ」

楓がこちらを向いた。

一瞬、驚いたような顔をして、それから小さく笑った。

「それ、私のまね?」

「……うん」

「そっか」

楓は膝の上で手を組んだ。

しばらく、二人とも何も話さなかった。

やがて楓が、ぽつりと言った。

「私ね、病院に来るの、あんまり好きじゃないんだ」

「うん」

「来たくない日もある。でも、来なきゃいけないから」

その声には、いつもの軽さがなかった。

「ここにいると、いろんなことを考えちゃうんだ。これからどうなるんだろう、とか。前みたいにできることが、いつまでできるんだろう、とか」

僕は黙って聞いていた。

詳しい事情はわからない。何があったのかも、彼女が何を抱えているのかも、まだ知らない。

それでも、今の楓が無理をしていることだけは伝わってきた。

「でも、零ちゃんと話してるときは、ちょっと忘れられるんだよね」

楓は困ったように笑った。

「だから、ここで会えるの、うれしいよ」

胸の奥がぎゅっとなった。

僕も同じだった。

病院に来る日は、いつも少し気が重かった。けれど、あの窓際に楓がいるかもしれないと思うと、ほんの少しだけ足取りが変わる。

「……私も、楓さんと話すの、好きだよ」

口にした瞬間、顔が熱くなった。

楓は目を丸くして、それから、ふっと表情を和らげた。

「ありがとう、零ちゃん」

その声は、いつもより静かだった。

僕は、もう少しだけ自分のことを話してみようと思った。

「私、学校だと……自分のことをうまく話せないんだ」

楓は何も言わず、こちらを向いた。

「周りからどう見られてるかとか、何を言ったら変に思われるかとか。そういうのを考えてるうちに、何も言えなくなることがある」

言葉にするのは難しかった。

全部を説明できたわけではない。自分でも、まだ整理できていないことがたくさんある。

「本当は、もっと普通に話したいんだけどね」

最後は、少し笑ってごまかした。

楓はすぐに返事をしなかった。

それから、ゆっくりとうなずいた。

「そっか。話してくれてありがとう」

たった一言だった。

かわいそうだとも、気にしなくていいとも言わなかった。

ただ、僕の話をそのまま受け取ってくれた。

それが、うれしかった。

「……楓さんは、私のこと、変だと思わないの?」

尋ねてから、僕は彼女の顔を見るのが怖くなった。

楓は少し考えてから答えた。

「どうして?」

「どうしてって……」

「零ちゃんは零ちゃんでしょ?」

あまりにも自然な言い方だった。

まるで、そんなことを聞くほうが不思議だと言うように。

「私、零ちゃんのこと、まだ知らないことばっかりだよ。でも、だからって変だとは思わない」

楓は僕を見て、微笑んだ。

「これから知っていけばいいんじゃない?」

何かが、胸の奥でほどけた気がした。

自分のことを全部わかってもらえたわけではない。悩みがなくなったわけでもない。

それでも、わからないまま隣にいてくれる人がいる。

そのことが、こんなにも心強いなんて知らなかった。

「……ありがとう、楓さん」

「うん」

楓は窓の外へ目を向けた。

しばらくしてから、今度は僕に尋ねた。

「ねえ、零ちゃん。私も、いつかちゃんと自分のことを話してもいい?」

「もちろん」

僕はすぐに答えた。

「話したくなったときでいいよ。いつでも聞くから」

楓は、ほっとしたように息を吐いた。

「そっか。じゃあ、約束ね」

「うん。約束」

窓の外では、秋の終わりの風が木々を揺らしていた。

僕たちはまだ、お互いのことを知らない。

楓が何を抱えているのかも、僕が自分のことをどこまで話せるのかも、わからないままだ。

けれど、以前とは少し違っていた。

知らないことがあるから、離れているのではない。

これから知っていけるのだと、思えるようになった。

そして僕は、楓がいつか話してくれることを、急かさずに待とうと思った。


それからしばらくして、楓と会えない日が続いた。

最初の一、二回は、たまたま時間が合わなかったのだと思った。

三回目も、そう考えた。

それでも、あの窓際に楓の姿はなかった。

会えない理由を聞く相手もいない。連絡先を知っているわけでもない。僕にできるのは、病院に来るたび、いつもの場所を確かめることだけだった。

そして、四度目の診察の日。

廊下を歩いていた僕は、曲がり角の向こうから聞こえてきた声に足を止めた。

「楓さん、最近あまり調子がよくないみたいですね」

看護師の声だった。

「ええ。少しずつ症状も進んでいますし、ご本人も不安が強くなっているようです」

もう一人の看護師が答えた。

「まだ十七歳なのに……。ご家族も心配でしょうね」

「そうですね。ただ、病状の進み方には個人差がありますから。これからのことも、ご本人とご家族に丁寧に説明していかないと」

僕は、その場から動けなかった。

楓。

今、確かにそう聞こえた。

同じ名前の別の人かもしれない。そう思おうとした。けれど、胸の奥では、もうわかっていた。

あの窓際で笑っていた楓の顔が浮かんだ。

「……筋萎縮性側索硬化症」

看護師の一人が、病名を口にした。

聞き慣れない言葉だった。

それでも、深刻な病気なのだということは、声の調子から伝わってきた。

「今後、どこまで進行するかは、はっきりとはわからないんですよね」

「ええ。だからこそ、本人が何を望んでいるのか、きちんと聞いていきたいんです」

その先の会話は、ほとんど頭に入ってこなかった。

僕は気づかれないように、その場を離れた。

廊下を歩きながら、何度も考えた。

どうして、僕は何も知らなかったんだろう。

楓は病院に来るのが嫌だと言っていた。これからどうなるのか、考えてしまうとも言っていた。

あのときの言葉には、ちゃんと理由があったのだ。

それなのに、僕は何も聞かなかった。

いや、違う。

聞かなかったというより、聞けなかったのだと思う。

話したくなったら話してほしい。そう言ったのは僕だった。楓が自分から話してくれるまで待とうと決めたのも、僕だった。

それなのに、本人の口から聞く前に、他の人から知ってしまった。

知りたかったはずなのに、こんな形で知りたかったわけじゃなかった。

心配だった。

次に会えたら、何かできることはないか聞きたいと思った。

でも同時に、勝手に事情を知ってしまったことを、どう話せばいいのかわからなかった。

楓は、僕に知られたくなかったのだろうか。

それとも、まだ話せなかっただけなのだろうか。

答えは出なかった。

その日、診察が終わっても、僕はすぐには帰れなかった。

いつもの窓際を見た。

やっぱり、楓はいなかった。

「……楓さん」

小さく名前を呼んでみても、返事はなかった。


次に楓に会えたのは、それから数日後だった。

いつもの窓際ではなく、診察室の近くにある椅子に座っていた。

僕は姿を見つけると、すぐに近づいた。

「楓さん」

呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「あ、零ちゃん」

いつもと同じ呼び方だった。

けれど、声には以前より力がなかった。顔色もよくない。椅子の背もたれに体を預け、少し疲れたように息をついていた。

「久しぶりだね」

「……うん。久しぶり」

隣に座ったものの、何から話せばいいのかわからなかった。

会えてうれしい。

ずっと心配していた。

どうして何も話してくれなかったの。

頭の中には、いくつもの言葉が浮かんでいた。

けれど、どれも口にするには違う気がした。

楓が僕の顔をのぞき込んだ。

「どうしたの? 今日は静かだね」

「……楓さんこそ」

「私?」

「最近、ずっと会えなかったから」

楓は少しだけ目を伏せた。

「うん。ちょっと、調子が悪くて」

それだけ言って、笑おうとした。

その笑顔を見た瞬間、僕の中で何かが揺れた。

聞いてしまったことを、黙っているべきなのだろうか。

楓が話してくれるまで待つと、決めたはずだった。

でも、何も知らないふりをして、いつもどおりに話すこともできなかった。

「……私、聞いたんだ」

楓が顔を上げた。

「え?」

「この前、看護師さんたちが話しているのを聞いた。楓さんのこと」

言ってしまった。

一度口にした言葉は、もう戻せなかった。

楓は何も言わなかった。

その沈黙が怖かった。

「ごめん。聞くつもりだったわけじゃないんだ。でも、名前が聞こえて……。そのまま、病気のことも」

僕は膝の上で手を握った。

「勝手に知って、ごめん」

楓はしばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと息を吐いた。

「そっか。聞いちゃったんだね」

責めるような声ではなかった。

それがかえって、胸に刺さった。

「……うん」

「零ちゃんは、どこまで聞いたの?」

「病名と、病気が進んでいること。それから、これからどうなるかは、はっきりわからないって」

楓は膝の上に置いた自分の手を見つめた。

「そっか……」

小さな声だった。

「ごめんね。私から話せなくて」

「謝らないでよ」

思ったより強い声が出た。

楓が驚いたように僕を見る。

僕は慌てて、少し声を落とした。

「ごめん。でも、楓さんが悪いわけじゃない。話したくなかったのかもしれないし、話せなかったのかもしれない。私には、わからないから」

一度言葉を切った。

「ただ……心配だったんだ。会えない間、どうしてるのかなって。何かあったんじゃないかって」

そこまで言って、僕はようやく、自分がどれだけ彼女のことを気にかけていたのかを理解した。

楓はしばらく僕を見つめていた。

それから、ゆっくりとうなずいた。

「ありがとう、零ちゃん」

彼女は小さく笑った。

「ちゃんと話すね。私のこと」

僕はうなずいた。

今度は、急かさずに聞こうと思った。

楓は一度息を整えてから、話し始めた。

「私、筋萎縮性側索硬化症っていう病気なの。ALSって呼ばれることもあるよ」

病名を聞いても、まだ何もわからなかった。

楓は続けた。

「体を動かすための神経が、少しずつ働かなくなっていく病気なんだって。最初は、ほんの小さな変化だったんだけど……だんだん、できないことが増えてきた」

彼女は手を見下ろした。

「前は普通にできてたことが、うまくできなくなったりする。歩いたり、手を動かしたり。これから先、どこまで進むのかは、お医者さんにもはっきりとはわからないんだって」

僕は何も言えなかった。

楓は、そんな僕を見て困ったように笑った。

「ごめんね。急にこんな話をして」

「……どうして謝るの?」

「だって、楽しい話じゃないでしょ?」

「でも、楓さんのことだから」

そう答えると、楓は目を丸くした。

僕も、自分の言葉に少し驚いていた。

けれど、間違ってはいないと思った。

楽しい話だけをするのが友達なら、こんなふうに胸が苦しくなることもなかったのかもしれない。

「私、零ちゃんには、いつか話そうと思ってたんだ」

楓は静かに言った。

「でも、どう話したらいいかわからなくて。病気のことを話したら、今までみたいに話せなくなるんじゃないかって、少し怖かった」

「……今までみたいに?」

「うん。病気のことを知ったら、私のことを特別扱いするんじゃないかとか。何を話せばいいか、困らせちゃうんじゃないかとか」

僕は首を横に振った。

「僕は、楓さんと話したいよ。病気のことを知っても、それは変わらない」

すぐに言い切れるほど、僕は強い人間じゃない。

これから何を言えばいいのか、何ができるのか、正直わからなかった。

それでも、彼女と話すのをやめたくない。それだけは確かだった。

楓は僕の顔をじっと見ていた。

「……そっか」

それから、ほんの少しだけ笑った。

「ありがとう、零ちゃん」

その言葉を聞いて、僕はずっと胸の中にしまっていたことを、話してみようと思った。

「楓さん。私も、いや、僕も、話しておきたいことがあるんだ」

「うん。なに?」

僕は膝の上の手を見た。

自分のことを話すのは、いつだって難しい。

相手がどう受け取るのか、どんな顔をするのか。考え始めると、言葉が出なくなる。

でも、楓は僕に話してくれた。

だったら、僕も逃げたくなかった。

「僕は……男なんだ」

楓は、すぐには答えなかった。

僕は続けた。

「生まれたときに女の子として扱われて、それからずっと、周りにも女の子だと思われてきた。でも、僕自身は、自分のことを男だと思ってる」

喉が少し詰まった。

「十五歳のときに、性同一性障害って診断された。だけど、診断されたから急にそうなったわけじゃない。ずっと前から、自分のことをどう説明したらいいのかわからなかったんだ」

一度、息を吸った。

「学校でも、うまく話せないことがある。自分のことを言ったら、どう思われるんだろうって考えて、結局、何も言えなくなる」

僕は顔を上げた。

「楓さんに話したら、どう思われるか、ずっと怖かった」

話し終えると、急に周りが静かになったように感じた。

楓は、しばらく僕を見つめていた。

その沈黙の間、僕は彼女の表情を見ていられなかった。

やがて、楓が口を開いた。

「話してくれて、ありがとう」

僕はゆっくりと顔を上げた。

楓は、いつものように僕を見ていた。

「私、零ちゃんが自分のことをどう呼びたいのか、ちゃんと知れてよかった」

「……それだけ?」

思わず聞き返してしまった。

楓は少し首をかしげた。

「うん。ほかに、何かある?」

「いや……変だとか、思わないの?」

楓は少し考えてから答えた。

「零ちゃんが自分のことを男だと思ってる。それが、零ちゃんにとって大事なことなんでしょ?」

「……うん」

「じゃあ、私もそれを大事にしたいよ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

何もかも理解してもらえたわけじゃない。

僕の悩みが消えたわけでもない。

それでも、わかろうとしてくれる人がいる。

それだけで、こんなにも救われるのだと思った。

楓は、ふっと笑った。

「ねえ、零ちゃん」

「なに?」

「これからも、いろんなこと話そうね。病気のことも、零ちゃんのことも。すぐに全部じゃなくていいから」

僕はうなずいた。

「うん。僕も、楓さんのことをもっと知りたい」

それは、初めて会ったときから思っていたことだった。

でも、今は少しだけ意味が違っていた。

ただ気になっていたからでも、見た目がきれいだと思ったからでもない。

彼女が何を怖がり、何を大切にしているのか。

僕が知らなかった彼女のことを、これから少しずつ知っていきたい。

そして、僕自身のことも、少しずつ伝えていきたい。

窓の外では、冷たい風が枝を揺らしていた。

僕たちはまだ、お互いのことを知らない部分だらけだ。

それでも、この日、僕たちは初めて、相手に知られることを怖がりながらも、自分のことを話した。

それは、今までのどんな会話よりも、長く心に残る時間になった。


それから、僕は病院へ行く日を楽しみにするようになった。

以前のように、自分の診察がある日に偶然会えるのを待つのではない。母に頼んで、楓のお見舞いに行くようになった。

初めて病室を訪れたとき、楓はベッドの上で本を読んでいた。

「零ちゃん!」

僕に気づくと、楓は本を閉じた。

「来てくれたんだ」

「うん。お見舞いに来た」

「知ってるよ。ここ、病室だもん」

「……そういう意味じゃなくて」

「あはは、わかってるって」

楓は笑った。僕もつられて笑った。

病室は思っていたより明るかった。窓際には小さな花瓶があり、棚には本と飲み物、それから何種類かの小さな置物が並んでいた。

「それ、集めてるの?」

僕は棚の上の猫の置物を指さした。

「うん。かわいいでしょ?」

「猫、好きなの?」

「好き。気まぐれなところがいいよね。呼んでも来ないくせに、こっちが何かしてると寄ってくるの」

「楓さんみたいだね」

言ってから、僕はしまったと思った。

けれど、楓は怒るどころか、声を上げて笑った。

「私、そんなに気まぐれ?」

「……ちょっとだけ」

「へえ。じゃあ、零ちゃんは私のこと、けっこう見てるんだね」

「そういうわけじゃ……」

「はいはい」

楓は満足そうにうなずいた。

こうして話していると、ここが病室だということを忘れそうになった。

病気の話をしないわけではない。疲れた様子の日もあったし、以前より動きにくくなったことを、楓自身が話してくれることもあった。

それでも、僕たちはそれ以外の話もした。

学校のこと。テレビのこと。昔好きだった絵本のこと。

楓は、子どものころに読んだ本の結末をよく覚えていた。僕が内容を忘れていると、少し得意そうに話してくれた。

「それで、最後に主人公が帰ってくるんだよ」

「え、そんな話だった?」

「そうだよ。零ちゃん、ちゃんと読んだ?」

「読んだと思うんだけどな……」

「じゃあ、もう一回読まなきゃね」

「楓さんが貸してくれるなら」

「いいよ。元気になったらね」

その言葉に、僕は一瞬だけ返事を迷った。

楓は気づいたのか、すぐに笑顔をつくった。

「……なんてね。今度、持ってきてもらおうかな」

「うん。持ってくるよ」

僕はそう答えた。

そのときの僕は、約束を守ることができると信じていた。


お見舞いに通い始めて、二週間ほどが過ぎた。

楓の病室を訪ねると、彼女はベッドの上で窓の外を見ていた。

「こんにちは」

「……あ、零ちゃん」

いつもなら、すぐにこちらを向いて笑う。

その日は、少し遅れてから笑顔になった。

「来てくれたんだね」

「うん。今日はどう?」

「まあまあかな」

楓はそう答えたが、声に元気がなかった。

ベッド脇の椅子に座ると、テーブルの上に、開いたままのノートが置いてあることに気づいた。

「何を書いてたの?」

「日記。最近、忘れっぽくなったら困るから」

「そんなに忘れることある?」

「あるよ。昨日何を食べたかとか、誰と何を話したかとか」

「昨日は何を食べたの?」

「……えっと」

楓は少し考え、困ったように笑った。

「忘れちゃった」

「日記に書いてないの?」

「食べたものを書くのは忘れてたみたい」

二人で笑った。

けれど、楓はすぐにノートを閉じた。

「最近、疲れやすいんだよね。ちょっと何かするだけで、すぐ休みたくなっちゃう」

「そっか」

「前は、病院の中なら歩けたんだけどね。今は移動するのも大変な日があるんだ」

僕は、何と答えればいいのかわからなかった。

「でも、ここから出られないってわけじゃないよ。調子のいい日なら、少しは動けるし」

楓は、僕を安心させようとしているようだった。

「……無理はしないでね」

「うん。先生にも言われてる」

「ちゃんと聞いてる?」

「聞いてるよ。零ちゃんじゃないんだから」

「僕、そんなに言うこと聞かない?」

「うん」

即答だった。

「ひどいな」

「冗談だよ」

楓は笑ったが、すぐに疲れたように目を閉じた。

「ごめん。ちょっと休んでもいい?」

「もちろん」

僕は声を小さくした。

楓が目を閉じているあいだ、僕は窓の外を眺めていた。

病室の窓から見える木々は、少しずつ色を失い始めていた。

季節が変わっていく。

僕たちが話しているあいだにも、外の世界は止まらずに進んでいく。

そのことが、なぜか怖かった。


次に訪ねたとき、楓はベッドから起き上がるのにも時間がかかっていた。

以前より、手を動かすのも難しくなっているらしかった。

「ごめんね、零ちゃん。せっかく来てくれたのに」

「どうして謝るの?」

「今日は、あんまり話せそうにないから」

「話さなくてもいいよ。僕が勝手に話すから」

「なにそれ」

楓は小さく笑った。

僕は学校であったことを話した。授業中に先生が言い間違えたことや、クラスメイトが妙なあだ名をつけられていたこと。自分でもくだらないと思うような話ばかりだった。

楓はときどき相づちを打ち、面白いところでは笑ってくれた。

話しているうちに、僕のほうが楽しくなってきた。

「それで、先生がさ……」

「うん」

「……あれ、何の話してたっけ」

「えっ、零ちゃんが忘れたの?」

「ごめん。僕が一番話に夢中になってた」

「もう。しっかりしてよ」

楓は楽しそうに笑った。

その笑顔を見て、僕は少し安心した。

けれど、帰る時間が近づくと、楓の表情は寂しそうになった。

「もう帰るの?」

「うん。面会時間もあるから」

「そっか」

僕は立ち上がりかけて、ふと思い出した。

「そうだ。前に話してた本、持ってきたよ」

鞄から本を取り出す。

楓は表紙を見て、目を輝かせた。

「覚えててくれたんだ」

「約束したから」

「ありがとう。読むの、楽しみだな」

楓は本に手を伸ばしたが、うまく持ち上げることができなかった。

一瞬、彼女の顔から笑みが消えた。

僕は何も言わず、本をベッド脇のテーブルに置いた。

「ここに置いておくね」

「……うん」

楓は小さく答えた。

僕は、何か声をかけたかった。

大丈夫だよ、と言うのは違う気がした。

きっと大丈夫、という言葉は、僕がそうであってほしいと願っているだけだ。

だから、別の言葉を探した。

「次に来たとき、少し読もうよ。僕も内容、忘れちゃったし」

楓は僕を見て、それから、ゆっくりとうなずいた。

「うん。また今度ね」

その言葉は、いつもと変わらなかった。

だから僕も、いつもと同じように答えた。

「うん。また今度」

病室を出てから、僕は廊下で立ち止まった。

本を渡すだけのことが、あんなにも難しくなるなんて思わなかった。

楓ができなくなっていくことを、僕は少しずつ目の前で知っていく。

それなのに、何もできない。

僕にできるのは、会いに来ることと、話をすることくらいだった。

でも、今はそれを続けようと思った。


冬が近づくにつれて、楓は病室から出ることがほとんどなくなった。

以前は、調子がいい日に看護師と一緒に廊下を歩くこともあったらしい。けれど、僕がお見舞いに行くころには、それも難しくなっていた。

病室の窓から外を眺める時間が増えた。

ある日、僕が病室に入ると、楓は窓を見ながら言った。

「今日は寒そうだね」

「うん。朝、家を出たときも寒かったよ」

「いいなあ。外の空気、吸いたいな」

僕は返事に困った。

楓はそれに気づいたのか、すぐに言い足した。

「でも、ここからでも、けっこう景色は見えるんだよ」

窓の外には、風に揺れる木があった。葉はほとんど落ちて、細い枝ばかりが目立っている。

「前に話したこと、覚えてる?」

楓が聞いた。

「葉っぱが減ると、残ったものが見えやすくなるって話?」

「そう、それ」

「覚えてるよ」

「あのとき、零ちゃんが言ったんだよね」

僕はうなずいた。

あのときは、何気なく口にしただけだった。

けれど今は、その言葉を簡単に言い直すことができなかった。

楓は枝を眺めたまま言った。

「見えるものが少なくなっても、何もなくなるわけじゃないんだね」

「……うん」

「私、ここにいると、できなくなったことばっかり考えちゃうんだ。前ならできたこと。今はできないこと。これから、できなくなるかもしれないこと」

楓は、膝の上の手に目を落とした。

「考えないようにしても、勝手に考えちゃうんだよね」

僕は椅子を少し近づけた。

「怖い?」

楓はすぐには答えなかった。

やがて、小さくうなずいた。

「……うん。怖いよ」

その言葉を聞いて、僕の胸も苦しくなった。

楓はいつも、明るく話そうとしていた。冗談を言って、僕を笑わせて、何でもないような顔をしていた。

でも、怖くないはずがなかった。

「私、ずっと元気なふりをしてたのかもしれない」

楓は言った。

「零ちゃんの前では、楽しい話をしたかったんだ。せっかく会えたのに、私が暗い話ばっかりしたら、困らせちゃうと思って」

「困らないよ」

僕はすぐに答えた。

「本当?」

「うん。もちろん、何て言えばいいかわからないときはあるけど……楓さんが話したいことなら、聞きたい」

楓は僕を見つめた。

「じゃあ、怖いって言ってもいい?」

「いいよ」

「つらいって言っても?」

「うん」

「もう何もしたくないって思う日があっても?」

僕は少し息を吸った。

「それでも、いいよ」

楓の目が、わずかに潤んだ。

「ありがとう、零ちゃん」

僕は首を横に振った。

「お礼なんていらないよ。僕だって、楓さんに話を聞いてもらったから」

「……そっか」

しばらく、二人とも黙っていた。

その沈黙は、気まずいものではなかった。

無理に笑わなくてもいい。何か気の利いたことを言わなくてもいい。

ただ、そこに一緒にいる。

それだけでいい時間があるのだと、僕は初めて知った。

やがて楓は、目元を拭いて笑った。

「ねえ、零ちゃん」

「なに?」

「せっかくなら、楽しいことをしようよ」

いつもの言葉だった。

でも、その日だけは少し違って聞こえた。

「もちろん、怖いときは怖いって言うし、つらいときはつらいって言うよ。でも、それだけで一日を終わらせるのは、もったいないから」

楓は窓の外を見た。

「今日、零ちゃんが来てくれた。それは、楽しいことの一つだよ」

僕は、すぐには返事ができなかった。

やっとのことで、「僕も」と答えた。

楓は満足そうにうなずいた。

「じゃあ、今日は何の話をする?」

僕は少し考えてから、鞄の中の本を取り出した。

「この前の続き、読もうか」

「うん。お願い」

僕は本を開き、声に出して読み始めた。

楓は目を閉じて、静かに聞いていた。

途中で何度か、僕は読むのを止めてしまった。文字を追うのに夢中になって、変なところで区切ってしまったり、同じ行を読み直したりしたからだ。

そのたびに楓が笑った。

「零ちゃん、朗読、下手だね」

「……ごめん」

「謝らなくていいって。面白いから」

僕も笑った。

病室の窓の外では、冬の風が吹いていた。

それでも、その時間だけは、少し暖かかった。


年が明けるころには、楓の声は以前より小さくなっていた。

話すこと自体が疲れる日も増えた。長い会話は難しくなり、僕が話して、楓が短く返事をすることが多くなった。

それでも、僕は病室へ通い続けた。

何を話すか、決めてから行く日もあった。反対に、何も思いつかないまま病室の前まで来てしまう日もあった。

そんな日は、窓の外の天気を話題にした。

「今日は晴れてるよ」

「……ほんと?」

「うん。雲も少ない」

「いいね」

「明日も晴れるかな」

楓は少し考えてから言った。

「明日のことは明日考えよう」

僕は思わず笑った。

「それ、楓さんの口癖だね」

「そうだっけ?」

「そうだよ。前にも言ってた」

楓は、少し得意そうに笑った。

「じゃあ、今日も言っておこう。明日のことは明日考えよう」

以前の僕なら、その言葉を、嫌なことを先送りにするためのものだと思ったかもしれない。

でも、今は違った。

明日を考えなくていいということではない。

先のことがわからなくても、今日を過ごしていいということ。

怖さがなくならなくても、笑っていいということ。

楓は、そういうことを僕に教えてくれているのかもしれなかった。

「うん。明日のことは明日考えよう」

僕も、同じ言葉を返した。

楓は目を閉じた。

少し疲れたのだろう。僕はしばらく黙って、そばに座っていた。

やがて、楓が小さな声で言った。

「零ちゃん」

「うん?」

「また、明日も来てくれる?」

その問いかけに、胸が締めつけられた。

僕は、簡単に「絶対」とは言えなかった。学校もあるし、家の都合もある。毎日来られると約束することはできない。

だから、できることを、そのまま伝えた。

「来られる日は来るよ。できるだけ、会いに来る」

楓はうなずいた。

「うん。それでいいよ」

「……また今度ね、って言ったら、また会えるよね」

言ってから、僕は自分が何を確かめたかったのか、わからなくなった。

楓はしばらく僕を見ていた。

「うん。また今度ね」

それから、少しだけ笑った。

「零ちゃんが来てくれるの、楽しみにしてる」

僕はうなずいた。

帰り際、いつものように「またね」と言った。

病室を出たあと、廊下を歩きながら、僕は何度も振り返りそうになった。

また会える。

そう思いたかった。

そして、会える日には必ず会いに来ようと決めた。


春が近づくころ、楓は以前より眠っている時間が長くなった。

目を覚ましていても、話せる時間は短かった。僕が病室に着くと、看護師から「今日は少し疲れやすいので、無理のないように」と言われることも増えた。

僕は椅子に座り、学校であったことを短く話した。

楓が返事をするまで、少し時間がかかる。

それでも、僕は急かさなかった。

ある日、僕が話し終えると、楓は小さく笑った。

「零ちゃん、話すの、上手になったね」

「そうかな」

「うん。前は、何を話すか迷ってたのに」

「……楓さんが聞いてくれるからだよ」

楓は目を細めた。

「そっか」

それから、少し間を置いて言った。

「私も、零ちゃんには、いろんなこと話せるようになったよ」

僕は彼女を見た。

「最初はね、病気のことを話したら、全部がそれになっちゃう気がしたんだ。何をしても、何を話しても、病気の人として見られるんじゃないかって」

楓はゆっくりと息を整えた。

「でも、零ちゃんは、私の好きなものも、苦手なものも、くだらない話も聞いてくれたでしょ」

「うん」

「だから、病気の話をしても、私が私じゃなくなるわけじゃないんだって、思えるようになった」

僕は、何も言えなかった。

それは、僕自身も感じていたことだった。

自分のことを話したら、相手の中で自分の見え方が変わってしまうのではないか。知られたくない部分を知られたら、今までの関係が壊れてしまうのではないか。

ずっと、そんなことを恐れていた。

でも、楓は僕の話を聞いても、僕を「零ちゃん」と呼び続けてくれた。

僕も、楓の病気を知ったあとも、彼女のことを楓さんと呼んでいる。

病気が彼女のすべてではない。

僕の悩みも、僕のすべてではない。

「……ありがとう、楓さん」

僕が言うと、楓は少し不思議そうにした。

「どうして?」

「いろいろ教えてくれたから」

楓はしばらく考えたあと、微笑んだ。

「じゃあ、これからも教えてあげる」

「うん。楽しみにしてる」

「ただし、私が忘れてなかったらね」

「それは困るな」

二人で笑った。

その笑い声は、以前より小さかった。

けれど、僕には大切なものだった。


春になっても、楓が病室から出られるようになることはなかった。

むしろ、病状は少しずつ進んでいた。

話すことが難しい日もあり、体を起こしているのもつらそうな日があった。

僕が病室に行くと、楓は目だけで僕を探すことがあった。

「来たよ、楓さん」

そう言うと、彼女はわずかに表情を和らげる。

その反応が、僕にはうれしかった。

以前のように、二人で長い話をすることはできなくなった。

僕が話し、楓がうなずく。

ときには、僕が何かを尋ねても、返事があるまでずいぶん時間がかかった。

それでも、僕たちの間には、言葉だけではない何かが生まれていた。

僕が椅子に座ると、楓は安心したように目を閉じる。

帰る時間が近づくと、彼女は僕のほうを見る。

それだけで、何を伝えたいのか、少しわかるようになっていた。

もちろん、何もかもわかるわけではない。

楓が何を考えているのか、何を怖がっているのか、僕にはわからないことのほうが多かった。

だから、わかったつもりにならないようにした。

聞けるときには聞く。

答えられないときには、待つ。

それが、僕にできることだった。

ある日の帰り際、僕はいつものように言った。

「また来るね」

楓は、ゆっくりと僕を見た。

そして、かすかに笑った。

「……また、今度ね」

その声は小さく、聞き逃してしまいそうだった。

僕はうなずいた。

「うん。また今度」

病室を出ると、廊下の窓から春の光が差し込んでいた。

外では、桜が咲き始めているらしい。

楓に見せてあげたいと思った。

けれど、窓の外から見える景色だけでも、きっと春は伝わる。

そう自分に言い聞かせながら、僕は次のお見舞いの日を考えていた。

そのころの僕は、まだ知らなかった。

「また今度ね」という言葉を、これほど何度も思い返す日が来ることを。


それから、楓の容体は目に見えて変わっていった。

医師や看護師が病室を訪れる回数が増え、家族がそばにいる時間も長くなった。

僕は病院へ行く前に、母から「今日は短い時間にしておきなさい」と言われることがあった。

楓が疲れやすくなっていることは、僕にもわかっていた。

病室に入ると、以前より静かだった。

窓際の棚にあった猫の置物は、ベッドから見える場所に移されていた。

僕はそれを見て、楓に声をかけた。

「猫、ここに移したんだね」

楓はゆっくりと目を動かした。

「……うん」

「よく見えるね」

「……かわいいでしょ」

「うん。かわいい」

短い会話だった。

それでも、楓は少し満足そうに目を細めた。

僕は椅子に座り、学校であったことを話した。

授業のこと。友達のこと。昼休みに食べたパンが思ったよりおいしかったこと。

そんな話を、ひとつずつ。

楓が眠ってしまったら、そこでやめればいい。

返事がなくても、無理に話しかけ続ける必要はない。

そう思っていた。

けれど、その日は、楓が僕の声を聞きながら、何度か小さくうなずいてくれた。

最後に、僕は尋ねた。

「……また来てもいい?」

楓は、すぐに答えられなかった。

僕は待った。

しばらくして、彼女の唇がわずかに動いた。

「……もちろん」

その声を聞いて、僕は笑った。

「じゃあ、また来るね」

楓は目を閉じた。

それが、その日の最後の会話だった。


数日後、病院から連絡があった。

楓の容体が悪化していると、家族から伝えられたのだ。

僕は、すぐに病院へ向かった。

病室の前で、しばらく足が動かなかった。

何を言えばいいのか、わからなかった。

頑張って、という言葉は違う気がした。

大丈夫、という言葉も、簡単には口にできなかった。

僕はただ、会いたかった。

会って、声を聞きたかった。

楓が何かを話せるなら、その言葉を聞きたかった。

病室に入ると、楓はベッドに横になっていた。

家族がそばにいて、看護師が静かに様子を確認していた。

僕が近づくと、楓の目がゆっくりとこちらを向いた。

「……零ちゃん」

かすかな声だった。

「うん。僕だよ。来たよ、楓さん」

僕は椅子に座った。

何か話さなければと思ったのに、言葉が出てこなかった。

楓の手に触れることはせず、ただ、すぐそばに座っていた。

やがて、楓が少しだけ目を動かした。

「……泣いてるの?」

僕は慌てて顔をぬぐった。

「泣いてないよ」

楓は、ほんの少し笑ったように見えた。

「……うそ」

僕は、うつむいた。

「……ごめん」

「……謝らないで」

その声を聞いて、僕は顔を上げた。

楓は、ゆっくりと息を整えながら、言葉を続けようとしていた。

僕は急かさず、待った。

「……零ちゃん」

「うん」

「……来てくれて、ありがとう」

胸が痛かった。

僕は何度もうなずいた。

「うん。来るよ。これからも、来るから」

口にした言葉が約束になるのか、それとも願いにすぎないのか、僕にはわからなかった。

それでも、今はそう言いたかった。

楓は、少しだけ目を閉じた。

僕は、そばに座り続けた。

どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。

ただ、病室の時計の針が進む音だけが、いつもより大きく聞こえた。


その後、楓は目を覚ましている時間がさらに短くなった。

僕が病室を訪れても、ほとんど話せない日が続いた。

それでも、僕は会いに行った。

話せなくてもいい。

返事がなくてもいい。

僕が来たことを、彼女がわかってくれたら、それでよかった。

ある日、病室の窓から、淡い色の花が見えた。

僕は椅子に座り、その景色を楓に伝えた。

「楓さん、外に花が咲いてるよ」

彼女の目が、ゆっくりと動いた。

「桜かな。まだ少ししか咲いてないけど」

楓は、小さくまばたきをした。

「……きれい?」

「うん。きれいだよ」

「……よかった」

それだけで、僕はしばらく何も言えなくなった。

楓は、外へ出ることができない。

自分で窓を開けて、春の空気を感じることもできない。

でも、僕が見たものを話せば、少しだけ一緒に見られる。

そんなふうに思ってもいいのだろうか。

僕は、窓の外のことを話し続けた。

花の色。

風で揺れる枝。

道を歩く人たち。

そして、空がゆっくりと夕方の色に変わっていくこと。

楓は、静かに聞いていた。

話し終えると、僕はいつもの言葉を口にした。

「明日のことは明日考えよう。今日は、今日のことだけでいいよね」

楓の目が、わずかに細くなった。

笑ったのだと、僕にはわかった。

僕も笑った。

「……せっかくなら、楽しいことをしようよ」

楓がよく口にしていた言葉を、今度は僕が言った。

「今日は、楓さんに会えた。だから、いい日だよ」

彼女は、ゆっくりとまばたきをした。

それから、小さく唇を動かした。

声にはならなかった。

僕は、彼女のほうへ少し身を寄せた。

「……うん。聞いてるよ」

何を伝えようとしたのか、わからなかった。

それでも、僕はそう答えた。

その日、帰る時間になっても、僕はなかなか立ち上がれなかった。

楓の顔を見ていると、離れたくないと思った。

でも、ずっとここにいることはできない。

僕は椅子から立ち上がり、もう一度、楓を見た。

「また来るね」

楓の目が、ゆっくりとこちらを向いた。

僕は、できるだけいつもと同じ声で言った。

「また今度ね」

それが、僕たちの間で何度も交わしてきた約束だった。


次に病院を訪れたとき、楓は、ほとんど目を開けなかった。

家族がそばにいて、看護師たちが静かに出入りしていた。

僕は、ベッドの近くに座った。

「楓さん。僕だよ」

返事はなかった。

「今日も来たよ」

僕は、学校であったことを話した。

授業のこと。窓から見えた空のこと。前に二人で読んだ本のこと。

覚えているかどうかはわからない。

それでも、話したかった。

「そういえば、あの本の続き、まだ読んでないね」

声が少し震えた。

「……また今度、読もうね」

返事はなかった。

僕は、しばらく黙っていた。

そして、ずっと言いたかったことを口にした。

「楓さんと会えて、よかった」

涙がこぼれそうになり、僕は顔を伏せた。

「僕、自分のことを話すのが怖かったんだ。誰かに知られたら、今までみたいに接してもらえなくなるんじゃないかって。でも、楓さんは、僕の話を聞いてくれた」

一度、息を吸った。

「僕も、楓さんの話を聞けてよかった。病気のことだけじゃない。好きなものとか、苦手なものとか、くだらない話とか……そういう、いろんなことを知れてよかった」

楓の表情は変わらなかった。

それでも、僕は続けた。

「だから、ありがとう。僕と話してくれて、ありがとう」

窓の外では、春の風が吹いていた。

僕は、楓のそばに座り続けた。

最後に何か伝えたいことがあるなら、聞き逃したくなかった。

けれど、僕から何かを求めることはできなかった。

しばらくして、楓の唇がかすかに動いた。

僕は、そっと顔を近づけた。

「……楓さん?」

彼女の声は、とても小さかった。

それでも、僕には、最後まで聞こうとすることしかできなかった。

楓は、僕を見ていた。

何かを伝えようとしている。

僕は、ただ待った。

そして、楓の唇から、最後の言葉がこぼれた。

『     』

僕は、うなずいた。

涙で、彼女の顔がぼやけていた。

それでも、最後まで目をそらさなかった。

「……うん」

それだけ答えた。

それが、僕にできる精いっぱいだった。


楓が亡くなったと聞いたのは、その日の夜だった。

病院からの連絡を受けたあと、僕はしばらく何もできなかった。

頭の中には、彼女の声が残っていた。

「また今度ね」

「明日のことは明日考えよう」

「せっかくなら、楽しいことをしようよ」

どれも、特別な言葉ではなかった。

誰だって口にするような、何気ない言葉だった。

でも、僕にとっては違った。

楓が笑っていたこと。

僕の話を聞いてくれたこと。

怖いときに、怖いと言ってくれたこと。

そして、僕が僕であることを、当たり前のように受け止めてくれたこと。

その一つひとつが、僕の中に残っていた。

数日後、僕はもう一度、病院を訪れた。

楓の病室には、もう彼女はいなかった。

ベッドは整えられ、窓際の棚も片づけられていた。

猫の置物も、本も、日記も、そこにはなかった。

誰も座っていない椅子を見て、僕はようやく、楓がもうここに戻ってこないのだと実感した。

窓の外には、桜が咲いていた。

あの日、僕が話した花よりも、ずっとたくさんの花が枝を覆っていた。

僕は窓際に立ち、静かに息を吸った。

楓がいなくなっても、季節は進んでいく。

明日も、明後日も。

僕が何を思っていても、世界は変わらずに動いていく。

それが、ひどく残酷に感じられた。

でも、楓は言っていた。

明日のことは明日考えよう、と。

だから、僕は今日のことを考えることにした。

楓と出会えたこと。

楓と話せたこと。

楓のことを、少しずつ知っていけたこと。

そして、最後に交わした言葉。

僕は、まだ、その言葉に名前をつけられずにいた。

恋だったのか。

友情だったのか。

それとも、そのどちらとも違う、僕たちだけの何かだったのか。

今も、答えは出ない。

それでも、ひとつだけ、確かなことがある。

楓と出会わなければ、僕は自分のことを、こんなふうに誰かに話せなかったかもしれない。

自分の気持ちを、わからないままでも大切にしていいのだと、知らなかったかもしれない。

楓は、僕に何かを教えようとしていたわけではないのだと思う。

ただ、自分の言葉で話して、笑って、時々泣いて、僕と一緒に時間を過ごしてくれた。

その時間が、僕を少しだけ変えた。

窓の外で、桜の花びらが一枚、風に流されていった。

僕は、その行方を目で追った。

「……また今度ね」

小さくつぶやいた。

返事はなかった。

それでも、僕はしばらく、その場所を離れなかった。


楓がいなくなってから、数日が過ぎた。

病院に通う理由は、もうなかった。あの窓際に行っても、病室を訪ねても、楓が僕を見つけて笑ってくれることはない。

それなのに、僕は何度も病院の前まで来てしまった。

何かを忘れている気がした。けれど、忘れたのではない。もう二度とできないことが、あまりにも多くなってしまったのだ。

楓に会いに行くこと。

今日あったことを話すこと。

くだらない話をして、彼女が笑うのを見ること。

そして、帰り際にまた会う約束をすること。

どれも、あの頃は当たり前にできた。

「……零」

背後から声がして振り返ると、母が立っていた。

「こんなところにいたの。家に帰っても姿が見えないから、心配したのよ」

「ごめん」

母は僕の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。ただ、隣に並んで歩き始めた。

家に帰ると、母は温かいお茶を淹れてくれた。僕はそれを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。

何から話せばいいのか、わからなかった。

楓のことを話したい。けれど、話し始めたら、彼女がもういないということまで、言葉にしてしまいそうだった。

「その子とは、どんな話をしていたの?」

母が静かに尋ねた。

「……いろいろ」

「うん」

「学校のこととか、好きな本のこととか。病院にある猫の置物が、どれだけ変な顔をしてるかとか」

母が少しだけ笑った。

「変な顔?」

「そう。楓ちゃんが見つけたんだ。僕が初めて病室に行ったとき、あれを見せてくれてさ。確かに変な顔だった」

思い出すと、自然に口元が緩んだ。

あの置物を見て、二人で笑った。たいしたことのない話だった。今思えば、どうしてあんなに笑えたのか不思議なくらいだ。

「それから、僕が持っていった本を読んだりした。途中で感想を言い合ったり、結末を予想したり。僕の予想が外れると、楓ちゃんはすごく得意そうな顔をするんだ」

「仲がよかったのね」

「うん。……仲がよかった」

その言葉を口にした途端、胸の奥が少し痛んだ。

楽しかったことなら、いくらでも思い出せる。

初めて名前を教え合った日。楓が僕のことを「零ちゃん」と呼ぶようになった日。僕が自分のことを話せずにいたとき、急かさずに待ってくれたこと。

僕の話を聞くとき、楓はいつも、僕が言葉を探している時間まで大切にしてくれた。

「でも、つらいこともあったんだ」

僕は湯気の消えかけたお茶を見つめた。

「楓ちゃんは、だんだんできないことが増えていった。前は自分で持てていた本も、だんだん難しくなって。話すのも疲れるようになって……。僕が病室に行っても、ほとんど話せない日もあった」

母は何も言わずに聞いていた。

「何かしてあげたいと思ったんだ。少しでも楽になってほしかった。でも、僕にできることなんて、ほとんどなかった。そばにいることくらいしか」

言葉にすると、自分の無力さがはっきりするようだった。

もっと話を聞けばよかったのだろうか。もっと何かを持っていけばよかったのだろうか。あの日、あのとき、違う言葉をかけていたら。

考えても、答えは出なかった。

「それでも、楓ちゃんに会いに行くのは嫌じゃなかった。むしろ、会いたかったんだ。会って、今日はこんなことがあったって話して。楓ちゃんが少しでも笑ってくれたら、それだけでうれしかった」

そこで、僕は言葉を止めた。

母は急かさなかった。僕が続きを話せるようになるまで、静かに待っていた。

「……お母さん」

「なあに?」

「僕は、楓ちゃんにとって、どんな存在だったんだろう」

母は少し考えてから答えた。

「それは、お母さんにはわからないわ。楓ちゃんにしかわからないこともあると思う」

「そっか」

「でもね、零。ひとつ聞いてもいい?」

僕は頷いた。

「楓ちゃんに会えなくなって、寂しい?」

「……うん」

「楓ちゃんが笑っていたら、うれしかった?」

「うん」

「苦しそうにしていたら、代わってあげたいと思った?」

「……思った」

「会える日を楽しみにしていた?」

僕はすぐには答えられなかった。

楽しみにしていた。病院へ向かう途中、今日は何を話そうかと考えていた。新しい本を見つけたときには、楓が気に入ってくれるだろうかと思った。何か面白いことがあれば、真っ先に話したくなった。

楓がいない日常の中で、僕は初めて、それらがどれほど自分の生活に入り込んでいたのかを知った。

「……してた」

「そう」

母は穏やかに頷いた。

「それなら、零が楓ちゃんに抱いていた気持ちは、恋だったのかもしれないね」

恋。

その言葉は、思っていたよりも静かに僕の中へ落ちた。

「恋……?」

「うん。でも、お母さんがそう決めることじゃないわ。零が自分で考えて、そうだと思うなら、それでいいの」

僕はカップを見つめた。

恋。

その言葉を自分に当てはめようとすると、どこか落ち着かない気持ちになった。僕は誰かを好きになるということを、ちゃんと知っているつもりでいたのだろうか。

楓に初めて声をかけたとき、きれいな人だと思った。もっと話してみたいと思った。それが恋なのか、ただ仲よくなりたかっただけなのか、僕にはわからなかった。

だから、答えを出さずにいた。

けれど、会うたびに、僕の中には少しずつ楓のための場所ができていった。

うれしいことがあれば聞いてほしかった。つらいことがあれば、彼女に話したかった。楓が笑っていると安心して、苦しんでいると何もできない自分が悔しかった。

楓の明日が続いてほしいと願った。

彼女が、彼女の好きなものを、これからも好きでいられたらいいと思った。

その願いの中に、自分が一緒にいたいという気持ちもあったのだろう。

「……僕は、楓ちゃんのことが好きだったのかな」

母は答えを急がなかった。

「零は、どう思う?」

僕は目を閉じた。

浮かんできたのは、特別な場面ではなかった。

窓の外の葉っぱを眺めていた横顔。僕の話を聞いて、少しだけ口元を緩めた顔。うまく言葉にできないとき、何も言わずに待ってくれたこと。

何気ない時間ばかりだった。

けれど、もう二度と同じ形では戻ってこない。

僕は、そのひとつひとつを失ってから、ようやく気づいたのだ。

「……好きだったんだと思う」

声に出してみると、胸の奥にあったものが、少しだけ形を持った。

「そっか」

母はそれだけ言って、僕の隣に座っていた。

慰めの言葉も、無理に前を向かせる言葉もなかった。それがありがたかった。

僕はしばらくしてから、もう一度口を開いた。

「でも、今になってわかっても、もう伝えられないね」

「そうね」

母は僕の手にそっと触れた。

「それでも、零が気づいたことまで、なくなるわけじゃないよ」

僕は返事をしなかった。

窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。

楓と過ごした時間に、僕はようやく名前をつけようとしていた。

それが恋だったのなら、僕はずっと、恋をしていたのだ。

そして、その気持ちを伝える機会は、もう残されていなかった。


楓の葬式の日、空はよく晴れていた。

晴れていることが、少し不思議だった。

こんな日にも空は青くて、風は吹いて、雲はゆっくりと流れていく。世界は、楓がいなくなったことを知らないみたいだった。

集まった人たちの声が聞こえた。誰かが泣いていて、誰かが楓との思い出を話していた。

僕は、そのどれにもすぐには加われなかった。

楓の顔を見たとき、何か言わなければと思った。

けれど、頭の中には言葉がいくつも浮かんで、どれも口に出せなかった。

ありがとう。

会えてよかった。

もっと話したかった。

まだ聞いてほしいことがあった。

どれも本当だった。けれど、どれも、僕が伝えたいことのすべてではなかった。

僕は、楓のそばに立った。

病室で会っていた頃よりも、ずっと遠いところにいるように感じた。

「……楓ちゃん」

呼んでも、返事はなかった。

わかっていたはずなのに、胸の奥がひどく痛んだ。

「私ね、ずっと考えてたんだ」

声が震えた。

「楓ちゃんと会って、話して、一緒に笑って……。それが、私にとってどんな意味があったのか」

僕は一度、息を吸った。

「最初は、きれいな人だなって思ったんだ。もっと話してみたいって。それが何なのか、ずっとわからなかった」

視界がぼやけた。

それでも、僕は続けた。

「でも、会える日が楽しみだった。楓ちゃんが笑ってくれるとうれしかった。つらそうなときは、何もできない自分が嫌だった。もっと一緒にいたかった。もっと、いろんな話をしたかった」

声が途切れた。

頬を伝うものがあった。

それが涙だと気づくまで、少し時間がかかった。

楓がいなくなってから、何度も悲しいと思った。何度も寂しいと思った。けれど、泣くことはなかった。

泣いたら、本当にいなくなってしまう気がしたのかもしれない。

それとも、まだ何かを理解できずにいたのかもしれない。

今、目の前にいる楓に、もう言葉が届かないのだと知ったとき、ずっと押し込めていたものが、ようやく溢れ出した。

「……好きだった」

涙で声がうまく出なかった。

それでも、もう一度言った。

「楓ちゃんが好きだった。私、楓ちゃんのことが好きだったんだ」

伝えるのが遅すぎた。

楓が笑ってくれることも、驚いてくれることも、照れくさそうに何かを返してくれることもない。

それでも、言わずにはいられなかった。

「会えてよかった。私に会ってくれて、ありがとう」

僕はしばらく、その場を離れられなかった。

言いたかったことは、まだたくさんあった。けれど、今はもう、これ以上の言葉を探す必要はないと思った。

涙を拭って、最後にもう一度、楓の顔を見た。

「……またね、楓ちゃん」

返事はなかった。

それでも、僕はゆっくりと頭を下げた。


それから、季節はいくつも過ぎていった。

学校を卒業し、進学し、少しずつ生活が変わった。新しい人と出会い、知らなかった場所を知り、これまでとは違う日々を送るようになった。

楓がいない時間は、最初の頃よりも自然に流れるようになっていた。

笑うこともあった。楽しいと思える日もあった。

そんな自分に、後ろめたさを感じることも、いつしか少なくなった。

楓と過ごした時間は、僕の毎日のすべてではない。

けれど、今の僕を形作った大切な一部だった。

毎年、楓の命日が近づくと、僕は花を買った。

墓前に花を供え、手を合わせる。

初めの頃は、何を話せばいいのかわからなかった。謝りたいことも、伝えたいことも、数えきれないほどあった。

今は、少し違う。

「楓ちゃん、今年も来たよ」

僕は墓石の前にしゃがみ、持ってきた花を整えた。

「最近、仕事でちょっと失敗したんだ。自分でもびっくりするくらい、どうでもいいところで間違えてさ。たぶん、楓ちゃんが聞いたら笑うと思う」

風が吹き、木々の葉が揺れた。

僕は小さく笑った。

「それから、この前、昔好きだった本を読み返したんだ。結末を知ってるのに、やっぱり面白かった。あの頃、楓ちゃんと話したことを思い出したよ」

話しているうちに、あの日の病室が浮かんでくる。

本を読んでいた楓。

少し疲れた顔をしながらも、僕の話を聞いてくれた楓。

帰る時間になると、名残惜しそうにしながら、それでも笑って送り出してくれた楓。

もう、あの声を聞くことはできない。

それでも、思い出すたびに、楓と過ごした時間が遠ざかってしまうわけではなかった。

「……僕は、元気にやってるよ」

そう報告してから、少しだけ黙った。

本当は、伝えたいことがまだある。

君がいなくなったあとも、僕は君のことを考えている。

うれしいことがあったとき、悲しいことがあったとき、ふとした瞬間に、君なら何と言うだろうと考える。

それは、君が僕の中に残したものなのだと思う。

「また来るね」

僕は立ち上がり、墓前に向かって小さく手を振った。

帰り道、空を見上げた。

あの日と同じ空ではない。季節も、風の匂いも、僕自身も変わった。

それでも、君と出会ったことは変わらない。

君が僕にくれた時間も、僕が君に伝えられなかった言葉も、すべてが過去になったわけではなかった。

僕は、君のことが好きだった。

その気持ちに名前をつけるまで、ずいぶん時間がかかった。

名前をつけたからといって、失ったものが戻ってくるわけではない。

けれど、名前のないまま抱えていた頃よりも、少しだけ、君と過ごした時間をまっすぐに見つめられるようになった気がする。

来年も、ここに来よう。

その次の年も。

僕が君のことを覚えているかぎり、君と過ごした日々は、僕の中で続いていく。

そして、墓地を離れていく僕の背中を、誰かがそっと見守っているような気がした。

振り返っても、そこには誰もいない。

ただ、風に揺れる木々と、柔らかな日差しがあるだけだった。

それでも僕は、ほんの少しだけ歩く速度を緩めた。

君が隣にいてくれたら、何を話しただろう。

そんなことを考えながら、僕はまた前を向いた。

君に名前をつけるなら。

あの気持ちに名前をつけるなら。

僕は今でも、迷わず答えることができる。

――恋だ。

そして、その恋を教えてくれた君に、僕は何度でも、ありがとうと言いたい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。