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それで、このヒロインのどこが好きなの?

作者: ロン毛丸
掲載日:2026/10/16

「このヒロイン、モデルいるでしょ」


 原稿を読み終えた莉愛が、俺のベッドの上で足を組み直した。


 窓から差し込む夕日が、明るく染めた髪をいつもより淡く見せている。長い爪には小さな飾りがつき、学校指定のリボンは緩く結ばれていた。鞄には、何に使うのか分からないチャームがいくつもぶら下がっている。


 誰が見てもギャルだ。


 そんな莉愛が、放課後の俺の部屋で恋愛小説を読んでいる。


 似合わない光景ではあるが、珍しくはなかった。


「感想の一言目がそれかよ」


「面白かったよ。だから気になったの」


「もっとほかにあるだろ。文章が読みやすいとか、展開が面白いとか」


「自分で言うんだ」


「例を出しただけだ」


「文章は普通。展開も普通」


「帰れ」


「でもヒロインは気になった」


 莉愛は悪びれもせず、膝の上で原稿を揃えた。


 俺が小説投稿サイトに作品を載せていることを、莉愛は昔から知っている。


 小学生の頃、書きかけのノートを見つけられた。中学生になってからは、投稿前の原稿を読ませるようになった。文章に詳しいわけではないが、面白くなければ途中でスマホを見るし、意味が分からなければ遠慮なく聞いてくる。


 気を使って変に褒めないところが、試し読みに向いていた。


 ただし、恋愛小説を見せるのは今回が初めてだ。


「それで、モデルは?」


「どうしていると思うんだ」


「はい、その返し怪しい」


「何が」


「いないなら、いないって言えばいいじゃん」


 莉愛が目を細める。


 俺は答えず、机の上のグラスへ手を伸ばした。氷が溶け、麦茶の味はすっかり薄くなっている。


「このヒロイン、黒髪でしょ」


 莉愛が原稿を最初からめくり直す。


「図書委員で、休み時間は一人で本読んでる。人と話すの苦手で、学校だと全然目立たない」


「読めば分かることを並べるなよ」


「外見とか設定は作ったんだろうなって思うよ。でも、細かいところだけ妙に本物っぽい」


「たとえば?」


「考えごとしてるとき、ペンを指の間で回すとか。仲いい相手に機嫌悪いのを隠さないとか。人の好きなものを馬鹿にされると、自分のことより怒るとか」


「それくらいなら想像で書ける」


「じゃあ、これは?」


 莉愛は途中の一枚を抜き出し、一節を指した。


『彼女は壊したシャープペンを、新品に替えず、不器用な手つきで直して返した。』


「妙に具体的じゃない?」


「シャープペンを壊すくらい、誰でも思いつくだろ」


「わざわざ直して返すところまで?」


「そういう性格を表す場面なんだよ」


「ふうん」


 莉愛はそれ以上追及せず、抜いた一枚を元の場所へ戻した。


 反応が薄くて、かえって落ち着かない。


 だが、作中のヒロインは莉愛とは似ても似つかなかった。


 黒髪で、図書委員。友人は少なく、人前で話すのが苦手。放課後だけ主人公の家へやって来て、借りた本を読む。


 莉愛は明るい髪で、図書室にはめったに近寄らない。友人が多く、休み時間になれば別のクラスからも人が会いに来る。教師へ注意されても平然と言い返すし、文化祭ではクラス全員の前に立って進行役をしていた。


 俺は外見も学校での立場も、正反対になるように書いている。


 共通点がいくつかあったところで、モデルを特定できるはずはない。


「ねえ、飲み物ほしい」


「下に麦茶がある」


「取ってきて」


「自分で行けよ」


「今、読み返してるから」


「感想を言い終えてからにしろ」


「飲み物ないと集中できない」


 莉愛は当然のように空の紙パックを振った。


 それくらい自分で取ってこいと言い返そうとしたが、こいつは俺が動くまで同じことを言い続ける。


 仕方なく部屋を出た。


 台所でグラスを二つ用意し、片方だけ氷を入れずに麦茶を注ぐ。莉愛は冬でも冷たいものを好むくせに、氷で薄くなるのは嫌がる。


 何度か文句を言われたせいで、今では確かめるまでもなく覚えていた。


 部屋へ戻ると、莉愛が机の引き出しを開けている。


「人の部屋を勝手にあさるな」


「充電器。あたしのケーブル、ここでしょ」


「それは勝手に置いていったんだろ」


「置いといていいって言ったじゃん」


「毎回忘れるからな」


「だから置いてるの」


 何の反論にもなっていない。


 莉愛は白いケーブルを引っ張り出し、自分のスマホへつないだ。


「はい」


「ありがと。氷なし?」


「見れば分かるだろ」


「確認しただけ」


 莉愛はグラスを受け取ると、原稿から離れた机の隅へ置いた。


 派手な爪をしているわりに、借りた物や人の物を雑には扱わない。俺の原稿の上に飲み物を置いたこともなかった。


「それで、誰なの?」


「何が」


「モデル」


「いるとは言ってない」


「いないとも言ってないね」


 莉愛は麦茶を一口飲み、こちらの反応をうかがう。


「同じクラスの佳乃?」


「違う」


「じゃあ図書委員の先輩」


「違う」


「七海は黒髪だけど、本読まないか」


「片っ端から名前を出す気かよ」


「答えてくれないからでしょ」


 莉愛は楽しんでいるようにしか見えない。


 面白いおもちゃを見つけて、俺が困る様子を眺めている。昔から、こいつはこういうところがある。


「じゃあ質問変える」


「まだ続けるのか」


「この主人公、ヒロインのこと好きだよね?」


「最後まで読めば分かる」


「最後、書いてないじゃん」


 莉愛が最終ページをこちらへ向ける。


 物語は主人公が帰ろうとするヒロインを追いかけ、その名前を呼んだところで途切れていた。


 振り返ったヒロインへ何を言わせるのか決まらず、最後の半ページは空白のままだ。


「書いてる途中なんだよ」


「三日前にも同じこと言ってなかった?」


「考えるのに時間がかかることもある」


「告白させればいいじゃん」


「簡単に言うな」


「小説なのに?」


「小説だからだよ」


 思ったより強い声が出た。


 莉愛がわずかに目を見開く。


 俺は誤魔化すように自分のグラスへ口をつけた。


 小説だから、何を書いてもいい。


 現実で言えないことも、架空の人物になら言わせられる。そう思って書き始めた。


 実際、途中までは書けた。


 主人公はヒロインが相手だから家の鍵を開け、飲み物を用意し、興味のない話にも付き合う。彼女が来なければ階段の音を気にして、返信が遅ければ何度もスマホを見る。


 そこまで書いたのに、最後の一言だけが出てこない。


 好きだと書けば、この物語が誰のためのものなのか、自分で認めることになる。


「このヒロインの、どこがいいの?」


 莉愛が原稿へ視線を落としたまま聞く。


「主人公に聞け」


「作者に聞いてるの」


「自分で読んで考えろよ」


「考えたから答え合わせしたいんだけど」


 原稿の端を、飾りのついた爪が軽く叩く。


「性格は結構面倒だよね。機嫌悪くても理由を言わないし、勝手に主人公の家へ来るし」


「そういうやつだから仕方ない」


「主人公も面倒だと思ってる?」


「思ってるだろうな」


「それでも好きなの?」


「好きとは書いてない」


「書いてないだけでしょ」


 莉愛は原稿の一節を読み上げる。


「『来るなと言ったのに、彼女が来なかった日は、階段の音がするたび顔を上げてしまった』」


「声に出すな」


「これで何とも思ってないは無理じゃない?」


 原稿を取り返そうと手を伸ばしたが、莉愛は胸元へ引き寄せた。


「まだ話してる」


「読み終わったなら返せ」


「質問に答えたら」


「面倒なところも含めて、放っておけないんだろ」


 口にすると、思った以上に照れくさかった。


 莉愛はいつものように笑わなかった。


「ほかは?」


「まだ聞くのかよ」


「気になるし」


「人の好きなものを馬鹿にしないところ」


 それはすぐに出てきた。


「興味がなければ、ないって言う。でも、それを好きなやつまで馬鹿にはしない。勧められたら一度は試す」


「ほかは?」


「困ってるやつを放っておけない。要領が悪いくせに、一度引き受けたら途中で投げない」


 俺が答えるほど、莉愛の口数が減っていく。


 さっきまで俺をからかっていたのに、今は原稿ばかり見ていた。髪を耳へかけ、またすぐ元へ戻す。


「作者、モデルのことめちゃくちゃ見てるね」


「小説に必要だったからな」


「それだけ?」


 莉愛が顔を上げた。


 軽い調子の問いだった。


 けれど、そこですぐに答えたら何かが終わるような気がして、俺は口を閉じた。


 短い沈黙のあと、莉愛は最終ページを持ち上げる。


「それで、なんで最後まで書けないの?」


「何を言わせるか決まらない」


「じゃあ、あたしが書こうか」


「やめろ」


 莉愛は鞄から赤いボールペンを取り出した。


「一行だけ」


「俺の小説だぞ」


「一案として見ればいいじゃん」


「書く前に言え」


「もう書いた」


 俺が立ち上がると、莉愛は原稿を抱えてベッドの奥へ逃げた。


「おい、返せ」


「ちょっと待って」


「勝手に結末を変えるな」


「結末がないから足してるの」


 理屈になっていない。


 取り返そうとベッドへ身を乗り出す。


 莉愛が原稿を背中へ隠したせいで、自然と距離が縮まった。


 明るい髪が頬に触れそうになる。莉愛の目が一瞬だけ俺の手を追い、それから顔へ戻る。


 近い。


 今さらそう思った途端、心臓が一度だけ強く鳴った。


 昔から何度もこの部屋で二人きりになっている。ゲーム機を取り合ったことも、同じ画面をのぞき込んだこともある。


 それなのに今日は、どこへ手を伸ばせばいいのか分からない。


 結局、先に離れたのは俺だった。


 莉愛は何も言わず、クッションを抱えて座り直す。さっきまで余裕そうだったくせに、原稿を差し出す指には妙に力が入っていた。


「はい」


「最初から返せよ」


 受け取った原稿を確かめる。


 主人公に名前を呼ばれ、作中のヒロインが振り返る。


 その先に、丸みを帯びた赤い字が一行だけ増えていた。


『彼女は、自分がモデルだと最初から知っていた。』


「……これ、小説の続きじゃないだろ」


「そうだね」


 莉愛はあっさり認めた。


 作中のヒロインは、自分をモデルにした小説など読んでいない。


 つまり、この一文が指しているのは物語の中ではない。


 そこまで考えたところで、頭の中が止まった。


「え」


 もう一度、赤い文字を見る。


 読み間違いではない。


 顔を上げると、莉愛はベッドの上で膝を抱えていた。


「最初から?」


「うん」


「最初って、いつから」


「最初は最初だけど」


「いや、待て」


 原稿を持つ手に、遅れて力が入る。


「じゃあ、お前、最初からモデルが誰か分かってて、ずっと聞いてたのか?」


「そうなるね」


「佳乃とか先輩とか言ってたのも?」


「反応が分かりやすかったから」


「嘘だろ」


 今までの会話が、一気に別の意味へ変わっていく。


 モデルがいるのか。


 主人公はヒロインを好きなのか。


 どこがいいのか。


 莉愛は知らなかったのではない。


 分かった上で、俺に答えさせていた。


「いつ気づいたんだよ」


「ここ」


 莉愛は原稿の途中を指した。


 シャープペンのくだりだった。


「これ読んだところで」


「なんで。それだけで分かるわけないだろ」


「中一のとき、あたしがあんたのシャーペン壊したじゃん」


 記憶が一気に浮かび上がる。


 莉愛が床へ落とした拍子に、軸が割れて芯が出なくなった。


 安物だから同じ物を買えばいいと言ったのに、莉愛は壊れたシャープペンを持ち帰った。三日後に戻ってきたそれは、接着剤で歪につなぎ合わされていた。


 押すたびに少し引っかかる。壊れる前よりも使いづらい。


 それでも捨てられず、今も机のペン立てに入っている。


「あれ、あたしとあんたしか知らないでしょ」


「だからって」


「ほかにもあったし。おばさんに挨拶してから家に上がるとか、借りた物だけは丁寧に扱うとか」


「でも、こいつは黒髪で、図書委員で」


「そこまで変えたら分かんないと思った?」


 莉愛が呆れたように笑う。


 俺は何も言い返せなかった。


 外見を変えれば隠せると思っていた。共通する癖も、いくつかに分散させれば偶然に見えると思っていた。


 本人に読ませておきながら。


「だったら、なんでモデルが誰か聞いたんだよ」


「誰がモデルかは聞いてないよ」


「聞いただろ」


「聞いてない」


 会話を思い返す。


 莉愛が聞いたのは、モデルがいるのか。


 主人公はヒロインを好きなのか。


 ヒロインのどこがいいのか。


 誰がモデルなのか、一度も名前を求められていない。


「……性格悪いな、お前」


「小説ほどじゃないけどね」


「最初から全部分かってたのかよ」


「全部じゃないよ」


 莉愛の指先で、赤いペンが一回転する。


 余裕は戻ったように見えたが、こちらを見ようとはしなかった。


「モデルがあたしなのは分かった。でも、それだけじゃ分かんないじゃん」


「何が」


「あたしのことが好きで書いたのか、近くにいて書きやすかっただけなのか」


 赤いペンが止まる。


「だから、聞いてみただけ」


 莉愛は何でもないことのように言った。


 けれど、膝の上に置かれた手は、スカートの布をつかんでいた。


 俺も同じだった。


 直接言えないから、小説にした。


 架空の主人公とヒロインに押しつけて、本人へ読ませた。


 それでも自分の気持ちを知られるのが怖くて、外見だけを正反対に変えた。


 俺の方がよほど遠回りをしている。


「書きやすかったんじゃない」


 莉愛の肩がわずかに動いた。


「お前のことなら、いくらでも書けた」


「それ、どういう意味?」


「分かってるだろ」


「ちゃんと言って」


 莉愛がようやく顔を上げる。


 いつもなら、こんな言葉を向けられただけで逃げていた。


 三日間、画面に書いては消した言葉だ。どんな台詞にしても格好がつかず、結局一行も残せなかった。


 けれど今は、小説の主人公に言わせる必要がない。


「好きだよ」


 口にすれば、それだけだった。


 声が少しかすれた。


 もっとましな言い方があったはずなのに、続きが出てこない。


 莉愛は俺を見たまま動かなかった。


 数秒遅れて視線を逸らし、髪を耳へかける。隠しきれなかった耳が、夕日のせいとは思えないほど赤かった。


「あんた、急に言うじゃん」


「言えって言ったのはお前だろ」


「そうだけど」


 莉愛は片手で口元を隠す。


 長い爪が邪魔なのか、うまく顔を覆えていない。


 そのまま黙ったあと、赤いペンを持ち直した。


「まだ見るの禁止」


「何を書く気だよ」


「ヒロインの返事」


 原稿を膝の上へ隠し、数文字だけ書き足す。


 やがて差し出された最終ページには、赤い一文がもう一つ増えていた。


『知ってる。あたしも同じだから』


 作中のヒロインは、自分を「あたし」とは呼ばない。


 顔を上げると、莉愛はベッドへ倒れ込み、クッションで顔を隠していた。


「口で言えよ」


「今は無理」


「俺には言わせたのに?」


「それとこれとは別」


「ずるくないか」


「最初から気づいてなかった人に言われたくない」


 それを出されると何も返せない。


 俺は原稿へ目を戻した。


 三日間止まっていた物語が、たった二行で終わっている。


「あと、このヒロイン」


 クッションの向こうから莉愛が言う。


「何だよ」


「次に書くなら、もうちょっと派手にして」


「次はない」


 莉愛がクッションから目元だけを出した。


「なんで?」


「本人がいるなら、小説に書く必要ないだろ」


 莉愛はしばらく俺を見ていた。


 やがて目が細くなり、またクッションへ顔を埋める。


「それ、格好つけすぎ」


「うるさい」


「さっきまで一行も書けなかったくせに」


「うるさいって」


「でも、まあ」


 クッションの向こうで、声だけが笑った。


「そういうことなら、採用」


 俺は書きかけだった原稿を揃え、もう一度だけ最後の二行を読んだ。


 少し右上がりで、整っているとは言い難い赤い文字。


 投稿するときは、俺の文章に書き直すことになる。


 けれど今だけは、このままでいいと思った。


 直すところは、どこにもなかった。

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