それで、このヒロインのどこが好きなの?
「このヒロイン、モデルいるでしょ」
原稿を読み終えた莉愛が、俺のベッドの上で足を組み直した。
窓から差し込む夕日が、明るく染めた髪をいつもより淡く見せている。長い爪には小さな飾りがつき、学校指定のリボンは緩く結ばれていた。鞄には、何に使うのか分からないチャームがいくつもぶら下がっている。
誰が見てもギャルだ。
そんな莉愛が、放課後の俺の部屋で恋愛小説を読んでいる。
似合わない光景ではあるが、珍しくはなかった。
「感想の一言目がそれかよ」
「面白かったよ。だから気になったの」
「もっとほかにあるだろ。文章が読みやすいとか、展開が面白いとか」
「自分で言うんだ」
「例を出しただけだ」
「文章は普通。展開も普通」
「帰れ」
「でもヒロインは気になった」
莉愛は悪びれもせず、膝の上で原稿を揃えた。
俺が小説投稿サイトに作品を載せていることを、莉愛は昔から知っている。
小学生の頃、書きかけのノートを見つけられた。中学生になってからは、投稿前の原稿を読ませるようになった。文章に詳しいわけではないが、面白くなければ途中でスマホを見るし、意味が分からなければ遠慮なく聞いてくる。
気を使って変に褒めないところが、試し読みに向いていた。
ただし、恋愛小説を見せるのは今回が初めてだ。
「それで、モデルは?」
「どうしていると思うんだ」
「はい、その返し怪しい」
「何が」
「いないなら、いないって言えばいいじゃん」
莉愛が目を細める。
俺は答えず、机の上のグラスへ手を伸ばした。氷が溶け、麦茶の味はすっかり薄くなっている。
「このヒロイン、黒髪でしょ」
莉愛が原稿を最初からめくり直す。
「図書委員で、休み時間は一人で本読んでる。人と話すの苦手で、学校だと全然目立たない」
「読めば分かることを並べるなよ」
「外見とか設定は作ったんだろうなって思うよ。でも、細かいところだけ妙に本物っぽい」
「たとえば?」
「考えごとしてるとき、ペンを指の間で回すとか。仲いい相手に機嫌悪いのを隠さないとか。人の好きなものを馬鹿にされると、自分のことより怒るとか」
「それくらいなら想像で書ける」
「じゃあ、これは?」
莉愛は途中の一枚を抜き出し、一節を指した。
『彼女は壊したシャープペンを、新品に替えず、不器用な手つきで直して返した。』
「妙に具体的じゃない?」
「シャープペンを壊すくらい、誰でも思いつくだろ」
「わざわざ直して返すところまで?」
「そういう性格を表す場面なんだよ」
「ふうん」
莉愛はそれ以上追及せず、抜いた一枚を元の場所へ戻した。
反応が薄くて、かえって落ち着かない。
だが、作中のヒロインは莉愛とは似ても似つかなかった。
黒髪で、図書委員。友人は少なく、人前で話すのが苦手。放課後だけ主人公の家へやって来て、借りた本を読む。
莉愛は明るい髪で、図書室にはめったに近寄らない。友人が多く、休み時間になれば別のクラスからも人が会いに来る。教師へ注意されても平然と言い返すし、文化祭ではクラス全員の前に立って進行役をしていた。
俺は外見も学校での立場も、正反対になるように書いている。
共通点がいくつかあったところで、モデルを特定できるはずはない。
「ねえ、飲み物ほしい」
「下に麦茶がある」
「取ってきて」
「自分で行けよ」
「今、読み返してるから」
「感想を言い終えてからにしろ」
「飲み物ないと集中できない」
莉愛は当然のように空の紙パックを振った。
それくらい自分で取ってこいと言い返そうとしたが、こいつは俺が動くまで同じことを言い続ける。
仕方なく部屋を出た。
台所でグラスを二つ用意し、片方だけ氷を入れずに麦茶を注ぐ。莉愛は冬でも冷たいものを好むくせに、氷で薄くなるのは嫌がる。
何度か文句を言われたせいで、今では確かめるまでもなく覚えていた。
部屋へ戻ると、莉愛が机の引き出しを開けている。
「人の部屋を勝手にあさるな」
「充電器。あたしのケーブル、ここでしょ」
「それは勝手に置いていったんだろ」
「置いといていいって言ったじゃん」
「毎回忘れるからな」
「だから置いてるの」
何の反論にもなっていない。
莉愛は白いケーブルを引っ張り出し、自分のスマホへつないだ。
「はい」
「ありがと。氷なし?」
「見れば分かるだろ」
「確認しただけ」
莉愛はグラスを受け取ると、原稿から離れた机の隅へ置いた。
派手な爪をしているわりに、借りた物や人の物を雑には扱わない。俺の原稿の上に飲み物を置いたこともなかった。
「それで、誰なの?」
「何が」
「モデル」
「いるとは言ってない」
「いないとも言ってないね」
莉愛は麦茶を一口飲み、こちらの反応をうかがう。
「同じクラスの佳乃?」
「違う」
「じゃあ図書委員の先輩」
「違う」
「七海は黒髪だけど、本読まないか」
「片っ端から名前を出す気かよ」
「答えてくれないからでしょ」
莉愛は楽しんでいるようにしか見えない。
面白いおもちゃを見つけて、俺が困る様子を眺めている。昔から、こいつはこういうところがある。
「じゃあ質問変える」
「まだ続けるのか」
「この主人公、ヒロインのこと好きだよね?」
「最後まで読めば分かる」
「最後、書いてないじゃん」
莉愛が最終ページをこちらへ向ける。
物語は主人公が帰ろうとするヒロインを追いかけ、その名前を呼んだところで途切れていた。
振り返ったヒロインへ何を言わせるのか決まらず、最後の半ページは空白のままだ。
「書いてる途中なんだよ」
「三日前にも同じこと言ってなかった?」
「考えるのに時間がかかることもある」
「告白させればいいじゃん」
「簡単に言うな」
「小説なのに?」
「小説だからだよ」
思ったより強い声が出た。
莉愛がわずかに目を見開く。
俺は誤魔化すように自分のグラスへ口をつけた。
小説だから、何を書いてもいい。
現実で言えないことも、架空の人物になら言わせられる。そう思って書き始めた。
実際、途中までは書けた。
主人公はヒロインが相手だから家の鍵を開け、飲み物を用意し、興味のない話にも付き合う。彼女が来なければ階段の音を気にして、返信が遅ければ何度もスマホを見る。
そこまで書いたのに、最後の一言だけが出てこない。
好きだと書けば、この物語が誰のためのものなのか、自分で認めることになる。
「このヒロインの、どこがいいの?」
莉愛が原稿へ視線を落としたまま聞く。
「主人公に聞け」
「作者に聞いてるの」
「自分で読んで考えろよ」
「考えたから答え合わせしたいんだけど」
原稿の端を、飾りのついた爪が軽く叩く。
「性格は結構面倒だよね。機嫌悪くても理由を言わないし、勝手に主人公の家へ来るし」
「そういうやつだから仕方ない」
「主人公も面倒だと思ってる?」
「思ってるだろうな」
「それでも好きなの?」
「好きとは書いてない」
「書いてないだけでしょ」
莉愛は原稿の一節を読み上げる。
「『来るなと言ったのに、彼女が来なかった日は、階段の音がするたび顔を上げてしまった』」
「声に出すな」
「これで何とも思ってないは無理じゃない?」
原稿を取り返そうと手を伸ばしたが、莉愛は胸元へ引き寄せた。
「まだ話してる」
「読み終わったなら返せ」
「質問に答えたら」
「面倒なところも含めて、放っておけないんだろ」
口にすると、思った以上に照れくさかった。
莉愛はいつものように笑わなかった。
「ほかは?」
「まだ聞くのかよ」
「気になるし」
「人の好きなものを馬鹿にしないところ」
それはすぐに出てきた。
「興味がなければ、ないって言う。でも、それを好きなやつまで馬鹿にはしない。勧められたら一度は試す」
「ほかは?」
「困ってるやつを放っておけない。要領が悪いくせに、一度引き受けたら途中で投げない」
俺が答えるほど、莉愛の口数が減っていく。
さっきまで俺をからかっていたのに、今は原稿ばかり見ていた。髪を耳へかけ、またすぐ元へ戻す。
「作者、モデルのことめちゃくちゃ見てるね」
「小説に必要だったからな」
「それだけ?」
莉愛が顔を上げた。
軽い調子の問いだった。
けれど、そこですぐに答えたら何かが終わるような気がして、俺は口を閉じた。
短い沈黙のあと、莉愛は最終ページを持ち上げる。
「それで、なんで最後まで書けないの?」
「何を言わせるか決まらない」
「じゃあ、あたしが書こうか」
「やめろ」
莉愛は鞄から赤いボールペンを取り出した。
「一行だけ」
「俺の小説だぞ」
「一案として見ればいいじゃん」
「書く前に言え」
「もう書いた」
俺が立ち上がると、莉愛は原稿を抱えてベッドの奥へ逃げた。
「おい、返せ」
「ちょっと待って」
「勝手に結末を変えるな」
「結末がないから足してるの」
理屈になっていない。
取り返そうとベッドへ身を乗り出す。
莉愛が原稿を背中へ隠したせいで、自然と距離が縮まった。
明るい髪が頬に触れそうになる。莉愛の目が一瞬だけ俺の手を追い、それから顔へ戻る。
近い。
今さらそう思った途端、心臓が一度だけ強く鳴った。
昔から何度もこの部屋で二人きりになっている。ゲーム機を取り合ったことも、同じ画面をのぞき込んだこともある。
それなのに今日は、どこへ手を伸ばせばいいのか分からない。
結局、先に離れたのは俺だった。
莉愛は何も言わず、クッションを抱えて座り直す。さっきまで余裕そうだったくせに、原稿を差し出す指には妙に力が入っていた。
「はい」
「最初から返せよ」
受け取った原稿を確かめる。
主人公に名前を呼ばれ、作中のヒロインが振り返る。
その先に、丸みを帯びた赤い字が一行だけ増えていた。
『彼女は、自分がモデルだと最初から知っていた。』
「……これ、小説の続きじゃないだろ」
「そうだね」
莉愛はあっさり認めた。
作中のヒロインは、自分をモデルにした小説など読んでいない。
つまり、この一文が指しているのは物語の中ではない。
そこまで考えたところで、頭の中が止まった。
「え」
もう一度、赤い文字を見る。
読み間違いではない。
顔を上げると、莉愛はベッドの上で膝を抱えていた。
「最初から?」
「うん」
「最初って、いつから」
「最初は最初だけど」
「いや、待て」
原稿を持つ手に、遅れて力が入る。
「じゃあ、お前、最初からモデルが誰か分かってて、ずっと聞いてたのか?」
「そうなるね」
「佳乃とか先輩とか言ってたのも?」
「反応が分かりやすかったから」
「嘘だろ」
今までの会話が、一気に別の意味へ変わっていく。
モデルがいるのか。
主人公はヒロインを好きなのか。
どこがいいのか。
莉愛は知らなかったのではない。
分かった上で、俺に答えさせていた。
「いつ気づいたんだよ」
「ここ」
莉愛は原稿の途中を指した。
シャープペンのくだりだった。
「これ読んだところで」
「なんで。それだけで分かるわけないだろ」
「中一のとき、あたしがあんたのシャーペン壊したじゃん」
記憶が一気に浮かび上がる。
莉愛が床へ落とした拍子に、軸が割れて芯が出なくなった。
安物だから同じ物を買えばいいと言ったのに、莉愛は壊れたシャープペンを持ち帰った。三日後に戻ってきたそれは、接着剤で歪につなぎ合わされていた。
押すたびに少し引っかかる。壊れる前よりも使いづらい。
それでも捨てられず、今も机のペン立てに入っている。
「あれ、あたしとあんたしか知らないでしょ」
「だからって」
「ほかにもあったし。おばさんに挨拶してから家に上がるとか、借りた物だけは丁寧に扱うとか」
「でも、こいつは黒髪で、図書委員で」
「そこまで変えたら分かんないと思った?」
莉愛が呆れたように笑う。
俺は何も言い返せなかった。
外見を変えれば隠せると思っていた。共通する癖も、いくつかに分散させれば偶然に見えると思っていた。
本人に読ませておきながら。
「だったら、なんでモデルが誰か聞いたんだよ」
「誰がモデルかは聞いてないよ」
「聞いただろ」
「聞いてない」
会話を思い返す。
莉愛が聞いたのは、モデルがいるのか。
主人公はヒロインを好きなのか。
ヒロインのどこがいいのか。
誰がモデルなのか、一度も名前を求められていない。
「……性格悪いな、お前」
「小説ほどじゃないけどね」
「最初から全部分かってたのかよ」
「全部じゃないよ」
莉愛の指先で、赤いペンが一回転する。
余裕は戻ったように見えたが、こちらを見ようとはしなかった。
「モデルがあたしなのは分かった。でも、それだけじゃ分かんないじゃん」
「何が」
「あたしのことが好きで書いたのか、近くにいて書きやすかっただけなのか」
赤いペンが止まる。
「だから、聞いてみただけ」
莉愛は何でもないことのように言った。
けれど、膝の上に置かれた手は、スカートの布をつかんでいた。
俺も同じだった。
直接言えないから、小説にした。
架空の主人公とヒロインに押しつけて、本人へ読ませた。
それでも自分の気持ちを知られるのが怖くて、外見だけを正反対に変えた。
俺の方がよほど遠回りをしている。
「書きやすかったんじゃない」
莉愛の肩がわずかに動いた。
「お前のことなら、いくらでも書けた」
「それ、どういう意味?」
「分かってるだろ」
「ちゃんと言って」
莉愛がようやく顔を上げる。
いつもなら、こんな言葉を向けられただけで逃げていた。
三日間、画面に書いては消した言葉だ。どんな台詞にしても格好がつかず、結局一行も残せなかった。
けれど今は、小説の主人公に言わせる必要がない。
「好きだよ」
口にすれば、それだけだった。
声が少しかすれた。
もっとましな言い方があったはずなのに、続きが出てこない。
莉愛は俺を見たまま動かなかった。
数秒遅れて視線を逸らし、髪を耳へかける。隠しきれなかった耳が、夕日のせいとは思えないほど赤かった。
「あんた、急に言うじゃん」
「言えって言ったのはお前だろ」
「そうだけど」
莉愛は片手で口元を隠す。
長い爪が邪魔なのか、うまく顔を覆えていない。
そのまま黙ったあと、赤いペンを持ち直した。
「まだ見るの禁止」
「何を書く気だよ」
「ヒロインの返事」
原稿を膝の上へ隠し、数文字だけ書き足す。
やがて差し出された最終ページには、赤い一文がもう一つ増えていた。
『知ってる。あたしも同じだから』
作中のヒロインは、自分を「あたし」とは呼ばない。
顔を上げると、莉愛はベッドへ倒れ込み、クッションで顔を隠していた。
「口で言えよ」
「今は無理」
「俺には言わせたのに?」
「それとこれとは別」
「ずるくないか」
「最初から気づいてなかった人に言われたくない」
それを出されると何も返せない。
俺は原稿へ目を戻した。
三日間止まっていた物語が、たった二行で終わっている。
「あと、このヒロイン」
クッションの向こうから莉愛が言う。
「何だよ」
「次に書くなら、もうちょっと派手にして」
「次はない」
莉愛がクッションから目元だけを出した。
「なんで?」
「本人がいるなら、小説に書く必要ないだろ」
莉愛はしばらく俺を見ていた。
やがて目が細くなり、またクッションへ顔を埋める。
「それ、格好つけすぎ」
「うるさい」
「さっきまで一行も書けなかったくせに」
「うるさいって」
「でも、まあ」
クッションの向こうで、声だけが笑った。
「そういうことなら、採用」
俺は書きかけだった原稿を揃え、もう一度だけ最後の二行を読んだ。
少し右上がりで、整っているとは言い難い赤い文字。
投稿するときは、俺の文章に書き直すことになる。
けれど今だけは、このままでいいと思った。
直すところは、どこにもなかった。




