第4話:全損する楽園、凍りついた銀のブローチ
別れは突然に
その「宣告」は、王都の華やかな残照を、一瞬にして無機質な灰へと書き換えた。
「……ルーカス。私ね、帰らなきゃいけないの。もうすぐ、留学期間が終わるわ」
テラスを撫でる夜風が、急に鋭利な刃物に変わったかのようにルーカスの頬を打つ。
リーゼの声は震えていた。
その瞳に宿る光は、先ほどまでの歓喜ではなく、抗いようのない規律(運命)に押し潰された絶望の色だった。
「留学期間の終了? ……計算が合いません。あなたの習得速度を考慮すれば、あと三ヶ月は更新手続きが可能(受理)なはずです。僕が、学園側に申請を――」
「違うの、ルーカス! 期間の問題じゃないの!」
リーゼが、ルーカスの言葉を遮るように叫んだ。
その悲鳴に近い声が、ルーカスの精密な魔導回路を 1 字ずつ、無残に引き裂いていく。
「お父様から手紙が来たの。……戻ったら、王都の侯爵家との結婚式が待っているって。私の家を、属国の地位を守るために、私は『資源』として差し出されるの」
(……資源?)
ルーカスの思考が、初めて「演算不能」という真っ白な壁に突き当たった。
目の前のリーゼという「光」が、自分以外の誰かの利益のために、事務的に分類され、移動される。
その行政的な暴力が、ルーカスが構築した「幸福」という名のシステムを一瞬で全損させた。
「……受理できません。そんな不合理な命令、あなたが従う必要はない。僕が、その侯爵家とやらを、存在ごと――」
「やめて、ルーカス!」
リーゼが、ルーカスの胸元にすがりつくように抱きついてきた。
その震える体温が、彼女の絶望を 1 字の狂いもなく伝えてくる。
ルーカスの腕の中に収まっているこの柔らかな「生」が、あと数日後には、見知らぬ男の所有物として再定義される。
その事実が、ルーカスの脳内で「殺意」という名の最大出力を叩き出した。
「私は……、あなたに救われた。この銀のブローチ(鍵)を持って、あなたの『聖域』で過ごした時間は、私の人生で唯一の自由だった。……でも、だからこそ、私は行かなきゃいけないの。私が逃げれば、私の家族が、領民が、王国の規律に焼き払われてしまう」
リーゼが顔を上げた。
涙に濡れたその瞳が、月に照らされて残酷なまでに美しく輝いている。
「最後のわがまま、聞いてくれる?」
返事をする間もなかった。
柔らかな、そして微かに震える熱が、ルーカスの唇を塞いだ。
それは「愛」という名の甘美な毒であり、同時に「永遠の別離」を宣告する、無慈悲なシステムログだった。
(……エラー。心拍数、想定限界を突破。呼吸、停止。全感覚が、この一点に収束――)
リーゼの髪から香る野花の匂い。
唇から伝わる、痛いほどの熱。
そして、彼女が自分を抱きしめる腕の、今にも壊れそうなほどの弱さ。
すべてが、ルーカスの魔導理論を 1 mmの狂いもなくハッキングし、彼の中に眠っていた「純粋な蹂躙」の種を芽吹かせた。
唇が離れる。
「さよなら、ルーカス。……私の、一番大切な人」
リーゼは、ルーカスの胸元から銀のブローチ(鍵)を外し、彼の掌に押し付けた。
鍵を返されたということは、彼女が自ら「聖域」への立ち入り権限を破棄したという意思表示。
彼女の背中が、王都の夜闇に溶けていく。
ルーカスは、一歩も動けなかった。
掌に残ったブローチの冷たさが、先ほどまでの彼女の熱を 1 字ずつ、残酷に奪い取っていく。
(……なぜ?)
問いを演算しても、返ってくるのは虚無という名のバグだけ。
(……僕には、力があるはずだ。三日の距離をゼロにし、不敬な騎士を指先一つで全損させる力が)
だが、その全能の力を持ってしても、去りゆく彼女の背中を止める「正解」が見つからない。
父ギルベルトが言っていた『楽しい』の向こう側にある、底なしの暗闇。
ルーカスは、一人立ち尽くすテラスで、手の中の銀のブローチを、指の骨が軋むほどの力で握りしめた。
その瞬間、彼の魔導回路が、これまでの「構築」から「支配」へと、完全に再定義された。
「……いいえ、リーゼ。エラーです。あなたの演算は、根本的に間違っている」
ルーカスの声は、もう震えていなかった。
低く、冷たく、そして狂気を含んだ熱を帯びて、夜の静寂にデプロイされる。
「あなたが僕の『聖域』を捨てたのではない。……僕が、この世界すべてを、あなたを閉じ込めるための『聖域』に書き換えればいいだけの話だ」
彼の中で、かつて父が母のための『聖域』を作成した理屈が、世界の法則を処理した論理が、一字の狂いもなく噛み合った。
「婚約.....地位……王国………。そんな脆弱な規律が、僕の所有物を奪おうというのですか? ……あはは、馬鹿にしていますね」
ルーカスの瞳に、かつての無機質な光はなかった。
そこにあるのは、獲物を一字の狂いもなく捕捉し、解体し、自分だけのアーカイブとして永続させることを決意した、捕食者の情念。
「逃がしませんよ、リーゼ。……あなたは、僕の腕の中で、僕の演算だけを受理していればいい。たとえ、この世界そのものを全損させることになっても」
夜風が止んだ。
王都の黄金の輝きが、ルーカスの冷徹な眼差しの前で、静かに凍りついていった。
あの日から、ルーカスの世界から、すべての「ノイズ」が消えた。
食事の塩分が 0.01% ずれようが、結界の端で低級魔獣がどれほど無意味な悲鳴を上げようが、今の彼には 1bit の価値もなかった。
彼の精密な演算リソースは今、ただ一つの巨大な「欠落」……すなわち、リーゼの体温が消えた右手の掌の空白を埋めるためだけに、 100% 稼働されていた。
(……演算不能。修正不可能。リーゼの不在という変数は、僕の全システムを物理的に破壊し続けている)
数日後。
ルーカスは、地下工房で結界の安定化作業を終えた父ギルベルトの背中に、静かな、だが決定的な声を投げかけた。
「父さん。話があります」
ギルベルトが振り返る。その瞳には、かつて自分も通った「あの道」の入り口に立つ息子への、不吉な予感とわずかな愉悦が混ざり合っていた。
「なんだ、ルーカス。結界の術式にバグ(欠陥)でも見つけたか?」
「いいえ。……僕に、欲しいものができました」
ルーカスの声は、これまでのどんな理論解説よりも平坦で、それゆえに狂気に満ちていた。
彼は、家族の安定や帝国の繁栄といった、これまで自分を縛っていた「行政的な大義名分」を、ゴミのように足元へ捨て去った。
「リーゼ・フォン・シュトラウス。……彼女を、僕の『聖域』へ、永続的に再受理する必要があります」
ギルベルトの眉が微かに動く。
「……彼女は隣国に嫁入りした属国王女の子だ。王位継承順位は低いが、政治的な人質の需要は高い。既に王都の侯爵家との婚約が決まり、行政的な手続きは完了している。それを覆すのは、この結界の外にある『世界のルール』を、力ずくで書き換えるということだぞ。……わかっているのか?」
「『世界のルール』? ……あはは、馬鹿にしていますね」
ルーカスが、ふっと薄ら笑いを浮かべた。
その瞳の奥には、ギルベルトさえも一瞬気圧されるほどの、純粋な「暴力」としての知性が渦巻いている。
「そんな脆弱な規律に、僕の所有物を委ねるつもりはありません。父さん、あなたが母さんをこの『聖域』に閉じ込め、その吐息さえも独占したように……僕も、彼女を僕だけの座標に繋ぎ止めたい。いえ、繋ぎ止めるのが僕の『義務』だと受理しました」
ルーカスは一歩、父へと歩み寄った。
「彼女は、僕のために泣き、僕のために唇を重ねた。……その『熱』を、他者にハッキングさせるわけにはいかない。侯爵家が彼女を望むなら、その家系ごと全損させればいい。王国が彼女を資源とするなら、王国そのものを僕の演算下に置けばいい」
「……本気か、ルーカス」
「本気、という曖昧な言葉は嫌いです。……ただ、彼女を失うというエラーを放置したまま、僕が明日も『正常』に動作することは不可能です。これは、僕というシステムの根幹を守るための、最も合理的で、最も『楽しい』リスクマネジメントですよ」
ルーカスの細い指が、そばに置いてある魔導回路の起動スイッチを 1 字ずつ、確信を持って愛撫するように撫でた。
工房に並ぶ、この世界の基準を遥かに凌駕した魔道具たち。
負ける理由は、見つからない。
「父さん。あなたが愛を『蹂躙』と呼んだ理由が、今、ようやく 1 字の狂いもなく理解できました。……愛とは、相手の自由を奪うことではなく、相手の自由が『自分の中』にしかな存在しないように、世界を再構築することなんですね」
ギルベルトは、しばらく沈黙した後、低く笑い声を漏らした。
それは、自分と同じ、あるいは自分を超える「怪物」の誕生を祝う、残酷な祝福。
「……いいだろう、ルーカス。お前が、その『欠乏』を埋めるために世界を焼き切るというのなら、俺のアーカイブも好きに使うがいい。……ただし、一度受理した情念は、死ぬまでキャンセルできないぞ」
「望むところです」
ルーカスは、地下工房の出口へと背を向けた。
その瞳は、すでにここにはないリーゼの笑顔を、一秒後には現実へと書き換えるための「略奪」の座標を、 1 mmの狂いもなく見据えていた。
「さあ、始めましょう。……リーゼ、あなたの流した涙を、僕の腕の中で最高の『SUCCESS』へと変換してあげますから」
ルーカスが踏み出した一歩は、これまで彼が守ってきた「結界」の外側……すなわち、世界そのものを敵とするための、最初の 1 ページとなった。
帝国公安委員会 聖遺物保全局監査官:「職業斡旋はあっちだ。最近は属国からの輸入品を加工する職人が足りなくてな。特技はあるか?魔法?それなら魔法省で魔術認定を受けるといい」




