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第3話 重なる鼓動、演算不能の境界線

夕暮れデートは定番

それからの毎日は、ルーカスの静かな世界を塗り替える、眩しすぎる色彩の連続だった。

定刻になれば、結界の境界線が微かに震える。

見なくてもわかる。銀のブローチ(鍵)に魔力を通し、屈託のない笑顔で「聖域」へと踏み込んでくる、リーゼという名の光だ。


「ルーカス! 今日はね、街で珍しい果物を手に入れたの。一緒に食べよう!」


「……昨日の採取作業の遅れを取り戻すのが先です。あなたは僕の『助手』として契約しているはずだ」

そう言いながら、ルーカスの手はすでに、二人分の茶を淹れる準備を始めていた。

温度は完璧。抽出時間は、彼女の好みに合わせた最短の秒数。

無機質な工房の机に、甘い香りが満ちていく。

リーゼは、ルーカスの隣に当然のように腰を下ろし、騎士の夢を語り始めた。


「私ね、やっぱりいつか、本当の騎士になりたい。お父様は『女は守られるものだ』って言うけれど、私は誰かを守れる強さが欲しいの」

彼女が伏せた睫毛まつげに、ルーカスは胸の奥をチリリと焼かれるような感覚を覚えた。

計算上、彼女の筋力や骨格は、前線の重装騎士には向かない。だが、その瞳に宿る「受理」しがたいほどの純粋な志を、彼は否定することができなかった。


「……既存の武具体系が、あなたの適性に合っていないだけです」

ルーカスは、手元の魔導回路から顔を上げずに言った。


「あなたが諦める必要はない。……僕が、あなたの体格と魔力波形に完全に同調する武具を作ります。世界中のどんな堅牢な鎧よりも軽く、どんな鋭い剣よりも鋭利な、あなただけの『力』を」


「えっ……ルーカスが、私のために?」


「……勘違いしないでください。不完全な助手あなたが戦場で壊れるのは、僕の管理責任に関わる。……ただの、リスクマネジメントです」


耳たぶが熱い。

根源的で、もっと「生きたい」と願ってしまうような、制御不能な熱。


「あはは、本当に素直じゃないんだから!」

リーゼが笑い、ルーカスの袖をぎゅっと掴んだ。

その小さな手の温もりが、ルーカスの全神経を 1 字ずつ、 1 字ずつ「幸福」という名の未知の領域へと繋ぎ止めていく。


(……非効率だ。僕の演算リソースが、彼女の笑顔の解析だけに 80% も割かれている)


幸せだった。



ある週末、リーゼの強引な誘いを断りきれず、息子の初恋に嬉々として後押しする父の圧力もあり、ルーカスは王都へと足を運んだ。


空間転移を駆使し、本来は三日かかる距離を一瞬に短縮する。

「すごい! 本当に一瞬なのね、ルーカス!」

目の前に広がるのは、森の静寂ではなく、黄金に輝く王都の威容。

リーゼが弾んだ声で、ルーカスの胸元に顔を寄せる。


「暴れないでください。座標がずれます」

冷淡な言葉とは裏腹に、ルーカスはリーゼを抱きしめる腕に、かつてないほどの力を込めていた。

(……演算エラー。心拍数が想定域を逸脱している。原因は、接触個体の体温、および軟組織(肉体)の弾性エネルギーによる外部刺激……)


理屈で塗り潰そうとしても、腕の中に収まるリーゼの体の柔らかさと、自分よりも少し高い体温が、魔導理論を 1 字ずつ、「情動」へと書き換えていく。

彼女を包む銀の鎧を脱いだ、薄い衣の下にある「生」の脈動。

それがルーカスの肺を圧迫し、彼からの冷静さを無惨にに奪い去っていく。


「……到着しました。離してください」


「もうちょっとだけ、こうしてていい? ……ルーカスの胸、なんだか安心するの」


「…………」


返すべき言葉を必死に演算しても、受理できる回答は一つもなかった。

ルーカスは、王都の喧騒を遠くに聞きながら、リーゼの髪から香る野花のような匂いに、自らの意識を全損(没入)させそうになる自分を、辛うじて繋ぎ止めていた。


この時、彼は確信していた。


三日の距離をゼロにする自分の力があれば、この愛おしい「熱」も、永遠に維持し続けられるのだと。

自分が構築した「聖域」のブローチを持たせた彼女は、誰にも、どんな運命にも、 1 字たりとも奪わせはしないのだと。


「……行きますよ。あなたの行きたかった場所へ、 1 mmの狂いもなく案内します」

ルーカスは、まだ赤く染まった耳を隠すように、リーゼの手を引いて歩き出した。



「ほら、ルーカス! あっちの噴水広場、大道芸が来てるわよ!」


「……歩行速度が速すぎます、リーゼ。群衆の密度を計算すれば、最短ルートはあちらの裏路地を――」

言いかけた言葉は、リーゼに強引に手を引かれたことで霧散した。


絡められた指先から伝わる、リーゼの脈動。それはルーカスの精密な魔導回路を、どんなハッキングよりも容易く、そして甘美に狂わせていく。

王都の活気、香辛料の匂い、行き交う人々の喧騒。

それらすべてが、工房の静寂の中にいたルーカスにとっては、あまりにも眩しすぎる「生」の肯定だった。


人混みに流されそうになるたび、リーゼの白銀の髪が彼の視界の中で踊り、そのたびにルーカスは「この場所から一歩も動きたくない」という、合理性の欠片もない願望を受理してしまう。



王都の喧騒の最中、二人はリーゼの留学先である騎士団の訓練場を訪れた。

そこは白銀の鎧と鉄の匂いが支配する、リーゼが憧れ、そしてルーカスが「非効率」と切り捨てるはずの場所。

だが、そこで待っていたのは、ルーカスの演算回路を激しく空転させるノイズだった。


「やあ、リーゼ! 久しぶりじゃないか。元気にしてた?」

光り輝く意匠の鎧を纏った、いかにも王都の貴族らしい優男の騎士が、リーゼに馴れ馴れしく声をかける。

リーゼが屈託のない笑顔でそれに応じ、談笑を始めた瞬間、ルーカスの胸の奥に、鋭利な杭を打ち込まれたような強い違和感が走った。


(……不快だ。彼の声の周波数は、僕の精神安定指数を秒単位で悪化させている。これは……嫉妬? いいや、単なる周辺環境の汚染だ)

そう自分を納得させようとした時、優男の視線がルーカスに向けられ、薄ら笑いが浮かんだ。


「なんだ、リーゼ。そんな、今にも折れそうな優男が趣味なのかよ? 田舎の魔導士か何か知らないが、君にはもっと相応しい――」

その瞬間、ルーカスの中で、 理性という名の防壁が粉々に砕け散った(全損)。


「……その程度の腕で、騎士団なんですか? 貴族の慰みものでなければ良いですが」

自分でも驚くほど、冷たく、刺すような声が漏れた。

訓練場の空気が一変する。優男の顔が怒りで赤黒く染まり、周囲の騎士たちがざわめき立つ。


「なんだと……? 貴様、今の言葉、取り消させてやる! 表に出ろ、体験試合だ!」


「……受理します。ただし、あなたの言う『試合』が、 1 字の狂いもなく『公開処刑』になることを、あらかじめ計算に入れておいてください」


決闘は、瞬き一つの間に終わった。


木剣を手にした優男が吠えながら突っ込んできた瞬間、ルーカスは一歩も動かず、ただ最小限の魔力波形を指先に収束させた。

視認不能な速度での回避。


そして、優男が自分の状況を理解するよりも早く、ルーカスの木剣が彼の喉元に 0.1 ミリの隙もなく突きつけられていた。


「……重心が浮いている。剣筋に無駄がある。そして何より、僕の隣に立つ人間を値踏みしたその傲慢。……全損おわりです」

ルーカスが軽く木剣を払うと、優男はまるで糸の切れた人形のように地面に叩きつけられ、二度と立ち上がることはなかった。


圧倒的な、蹂躙にも等しい圧勝。

静まり返る訓練場で、ルーカスは驚きに目を見開くリーゼの元へ、何事もなかったかのように歩み寄った。

だが、その瞳の奥には、自分でも制御しきれない「昏い悦び」が渦巻いていた。


「ルーカス、すごい! 本当に凄いわ、あなたってなんて強いの!」

リーゼが弾かれたように駆け寄り、ルーカスの細い身体を力一杯抱きしめてきた。


周囲の騎士たちの畏怖の視線など意に介さず、ただ純粋な歓喜と憧憬を瞳に宿して。

その瞬間、ルーカスの鼻腔をリーゼの髪の香りが突き、腕の中に柔らかな熱が流れ込んできた。

演算回路が、かつてないほどの火花を散らす。

だが今度の「空転」は、困惑によるものではなかった。


一つの、あまりにも鮮烈で残酷な【結論】が、ルーカスの脳内に 1 字の狂いもなく降りてきたのだ。


(……この感情は、独占欲だ)

これまで「非効率」と切り捨ててきた、父ギルベルトが母アリサに向ける、あの執拗なまでの眼差し。


『この笑顔と幸福は、私だけのものだ』

という、一切の論理を寄せ付けない狂信的な執着。


それが、愛という非効率な感情の真の姿であり、自分という個体が求めていた「受理」の正体なのだと、ルーカスは理解した。


自分には力がある。

目の前の優男を指先一つで全損させる力。

三日の距離をゼロにする力。


そして、この温かいリーゼを、誰の手にも触れさせず、自分だけの聖域に永遠に閉じ込めておく力。


(父さんは、正しかった)

ルーカスは、抱きついてくるリーゼの背に、ゆっくりと、だが拒絶を許さない強さで腕を回した。

彼女の鼓動が、自分の胸板を通して 振動となって伝わってくる。

その振動のすべてが、自分の魔導回路の一部になったような全能感。


「……当然です。あなたの価値を理解できない個体に、あなたを語る資格はない」

ルーカスの声は、リーゼへの甘い囁きであると同時に、世界に対する宣戦布告でもあった。


「さあ、帰りましょう、リーゼ。……家には、母さんも待っています」

ルーカスは、リーゼの手をこれまで以上に強く握る。


「あ、待って!もう1箇所行きたいところがあるの」

リーゼは願う。



夕暮れ時、王都を一望できる高台のテラス。

オレンジ色の残照が、リーゼの横顔を神聖なまでの美しさで縁取っていた。


「ねえ、ルーカス。私ね、あなたに出会えて本当によかった」

リーゼが、胸元の銀のブローチを愛おしそうに撫でる。


「この『鍵』は、私を自由にしてくれた。……でも、それ以上に、あなたという『居場所』を教えてくれたの」


「……ただの座標指定デバイスです。それ以上の意味は持たせていない」

ルーカスは必死に声を平坦に保つ。だが、その瞳は沈みゆく太陽よりも赤く染まり、リーゼの輝きを 一瞬も漏らさず記憶へと刻んでいた。


「あはは、またそうやって可愛くないこと言うんだから」

リーゼが悪戯っぽく笑い、ルーカスの肩にそっと頭を乗せた。

その瞬間、ルーカスの演算回路は完全に停止(全損)した。

静寂。世界が、二人だけの熱量の中に沈んでいく。


(……ああ。これが、父さんの言っていた『楽しい』の正解なのか)

ルーカスは、震える手で彼女の細い肩を抱き寄せた。

この瞬間を、永遠という名の方程式に閉じ込めたい。

誰にも、この輝きに触れさせはしない。

彼は、自らの全能を疑わなかった。

自分の力が、この小さな幸せを維持し続けられると、信じて疑わなかった。


夜風が、冷たく首筋を撫でていた。

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