第九話 つかの間の日常
第九話 つかの間の日常
第三機体部隊の久しぶりの休日。
街区はいつもより静かで、整備ハンガーのような喧騒もない。
仲間たちは思い思いに休暇を楽しんでいた。
だがその中で——トレーニングルームには、ひときわ一定のリズムで衝撃音が響いていた。
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ガッ、ガッ、ガッ……!
薄く曇った鏡の前で、火野アキラは黙々とシャドーを続けていた。
呼吸は荒いが、動きは一切途切れない。
汗が床に落ちても、拳が赤くなっても、彼の目には迷いがなかった。
(……まだ足りねぇ。
あの時みたいに……誰かを失うのは、もう二度とごめんだ)
軍曹との死闘、桜井ユヅキが吹き飛ばされた瞬間、胸に走った焦りと怒り。
そして、背中のペットボトルロケットを限界以上に使った決死の突撃。
それらが脳裏に過り、火野はさらに拳に力を込める。
トレーニングを終え、シャワールームへ。
鏡には、汗を流してもなお熱気を纏う肉体が映る。
湯気が渦巻く中、火野は無言で水滴を拭い、タオルを肩にかけて出ていく——
その瞬間。
廊下の角から、肩までの黒髪を揺らしながら誰かが歩いてきた。
桜井ユヅキだった。
ユヅキ「──あっ」
火野「あ」
二人の声が重なる。
そして一拍置いて、ユヅキの視線は火野の上裸に吸い寄せられた。
一瞬で真っ赤になる。
ユヅキ「な、な、なっ……!?
こ、こういうのは……事前に言っておきなさいよバカァッ!!」
火野「いや、今シャワー上がりだから……」
ユヅキ「見ればわかるわよっ! ば、ばか……!」
言葉はツンツンしているが、視線は完全に泳いでいる。
火野は苦笑しながら頭をかき、歩み寄る。
火野「……この前は、助かったな。
ユヅキのおかげでチャンスが作れた。
あれがなかったら……俺も、お前も……どうなってたかわからない」
ユヅキは唇を噛むようにして俯き、指先をそわそわといじる。
ユヅキ「……っ、そ、それは……私だって……。
別に助けたわけじゃ……戦闘だから当然っていうか……」
火野は静かに、真剣な眼差しで続けた。
火野「ユヅキ。
俺は……もう大切な人を失いたくないんだ。
だから、あの瞬間……迷わなかった。
お前を守るって決めた」
ユヅキの肩がピクリと震えた。
耳まで真っ赤にしながら、彼女は火野を上目遣いで見つめる。
ユヅキ「っ……ば、バカ……。
そ、そういうの……簡単に言わないでよ……。こっちは……そ、そういうのに弱いんだから……」
火野「?」
ユヅキ「な、なんでもないっ!!
と、とにかく……あの時は……助かったわよ。
……ありがと。
ほんっとに……ありがと……アキラ」
最後だけは、照れ隠しもできずにしっかりと感謝を伝えた。
その声は震えていて、それでも真っ直ぐだった。
火野は少し照れたように笑い返す。
火野「……ああ。
これからも、頼りにしてる」
ユヅキ「……こっちのセリフよ。バカ」
ユヅキはぷいっと視線をそらしたが、耳だけはずっと真っ赤なままだった。
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薄曇りの朝。
第三居住区の片隅にある、石を立てただけの簡素な墓標の前に霧島レンは立っていた。
足元には風に揺れる布切れと、あの日戦った戦場の砂埃がまだ残っている。
「――ナギ。火野と桜井が、お前の仇を取った。ずっと追っていた“あの怪物”は、もうこの世にはいない。」
語りかける霧島の声は穏やかだが、その奥には深い敬意があった。
そのとき、背後から足音が近づく。
霧島の低い報告は、まるで妹へ捧げる祈りそのものだった。
そのとき背後から、落ち着いた足音が近づく。
「……霧島。」
呼びかけは穏やかだった。
霧島は振り返り、軽く頭を下げる。
「ツナミ副隊長……。」
月影ツナミは霧島の横に歩み寄り、墓標に立てられた鉤爪を静かに見つめた。
以前のような刺々しさはなく、妹を想う兄としての柔らかな雰囲気があった。
「…………いつも、来ているのか?」
霧島は小さく微笑む。
「休みの日は来てますよ。ナギには、色々とお世話になりましたから。」
ツナミは短く息を吐き、それから、ふと霧島の横顔へ目を向ける。
「霧島。あの作戦……本当に、読んでいたんだな。
軍曹が別の壁から出てくる可能性。俺には、あそこまでは見えなかった。」
霧島は恐縮するように少し姿勢を正した。
「いえ。まだ運の部分が大きかっただけです。」
ツナミはゆっくり首を振る。
「……いや。今回は素直に認めるよ。
見事だった、霧島。ナギを失ってまだ整理がつかない俺より……ずっと冷静だった。」
霧島の表情がわずかに揺れる。
「………………」
ツナミは墓標に手を置き、妹の名をなぞるように指先を滑らせた。
ツナミは墓標に手を置き、妹の名をなぞるように指先を滑らせた。
「ナギ。……お前の仇は、ちゃんと討たれたよ……」
ツナミの目がほんのわずかに潤むが、涙は落ちない。
強い兄であろうとする意地がそこにあった。
「……霧島。
お前がナギを認めてくれてたこと、あいつにも伝わってたと思う。
あいつ……お前のこと、尊敬してたから。」
霧島は驚いたように目を見開き、そして深く頭を下げた。
二人は並んで膝をつき、手を合わせた。
穏やかな風が吹き、墓標に結わえた小布がゆるやかに揺れる。
夕陽が落ちかけ、影が伸びる。
それは、ナギの静かな眠りを包み込むようだった。
やがてツナミが小さく息を吐き、呟く。
「……ナギ。
俺は、まだ前に進む。
だから心配はいらない。ゆっくり休んでてくれ。」
霧島も目を閉じ、深く祈った。
その場には、静かな哀悼と、二人のまっすぐな想いだけが残されていた。
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夜の酒場は、戦場とは無縁のように穏やかな灯りに包まれていた。
低く流れるジャズのような音楽、木製カウンターに並ぶ古びたボトル、そして客の笑い声。
そんな喧騒から少し離れた端の席で、二つの影が静かにグラスを傾けている。
ひとりは、いつもの柔らかな笑みを浮かべる男。
第一機体部隊隊長――早乙女一心。
もうひとりは、無表情のまま背筋を伸ばし、グラスをゆっくり回す男。
第二機体部隊隊長――椿原虎徹。
普段、椿原は必要最低限しか喋らない。
だが今夜は珍しく、自分から口を開いた。
「……ツナミの奴。無理をしていないか。」
その視線は琥珀色の液体を見つめたまま、どこか遠い。
早乙女は少しずつ酒を口に運びながら、いつもの笑みを深める。
「ふふ。心配性ですね、椿原隊長は。
ツナミ君なら大丈夫ですよ。妹さんのことがあったとはいえ……あの子は折れません。」
椿原は短く息を漏らした。
「……あいつは強いが、強いからこそ折れる時もある。」
「まあまあ、そう固くならずに。」
そう言いながら早乙女は椿原のグラスへ酒を足し、自分もひと口。
顔はやわらかな笑みなのに、どこか得体の知れない影が揺れる。
「それより……火野君ですよ。いやぁ、驚きましたねぇ。
あそこまでやってくれるとは思いませんでした。」
椿原は眉をわずかに動かした。
口数の少ない彼にしては、大きな反応だ。
「……お前がそこまで言うのは珍しい。」
「ええ、珍しいでしょう? 自分でも思いますよ。」
早乙女は笑いながらも、その目だけは暗く深く、何か底が知れない光を宿している。
「本当に、興味が尽きなくて。
あの子、いいですよ。自分の殻を破っていくタイプです。レッドバロンに乗れば……どこまで伸びるのやら。」
椿原は口元を少しだけ緩めた。
普段の彼を知る者なら、これが“笑った”と気づくほど微細な変化だった。
「……珍しいな、早乙女。早乙女がそこまで熱を入れるとは。」
「え? そうですか?」
「普段は気味が悪いほど飄々としてるくせに……今日はずいぶん楽しそうだ。」
早乙女は目を細め、無邪気な子供のように笑う。
ただ、その底には黒い渦がひっそりと沈んでいる。
「だって、ねぇ? 面白いじゃないですか、火野アキラ君。
ああいう“未知数”は大好きなんです。
レッドバロンと一緒なら……あの子はもっと面白い場所へ行きますよ。」
椿原は驚いたように早乙女の横顔を見つめる。
「……本当に楽しみにしているんだな。」
「ええ。とても。」
グラスを軽く合わせる音が響く。
「火野君と、レッドバロンのこれから……楽しみですねぇ。」
笑う早乙女。
無表情で頷く椿原。
二人の影が、揺れる店内の灯りに静かに溶けていった。




