アトランティック・コンベアー
――これは一九八二年の話だ。私が「アトランティック・コンベアー(SS Atlantic Conveyor)」の船長になって五年。北大西洋の定期航路で潮の匂いを相棒に、港と港を糸のようにつないできた。
# 北大西洋の日常――“コンロ船”の矜持
アトランティック・コンベアーは Cunard所有で Atlantic Container Lineに供出された“コンロ(ConRo:コンテナ+RORO〈Roll-on/Roll-off=自走式積み下ろし〉の複合船)”型だ。リバプールを拠点に、アントワープ/ハンブルク/ヨーテボリなどの港と、ハリファックス、ニューヨーク、ハンプトン・ローズ(ポーツマス/ノーフォーク)、ボルチモア――時にモントリオール直行――を結ぶ往復。
朝のマージー河口に低く霧が敷かれると、タグの曳き波が灰色の水面を縞にし、パイロットがブリッジの温かいマグカップに指をあてたまま「うねりが北西、外へ出れば風が増す」と短く告げる。汽笛が一声、ボースンの笛が二声、綱は一つずつ解け、船体がゆっくりと陸の輪郭から離れていく。
積み荷は“混載”が常態。二十フィートコンテナで約720。うち冷凍コンテナが一定数を占め、岸壁では“リーファー・ポイント”にプラグを差し込むたび、コンプレッサーの唸りが列になって立ち上がる。ROROデッキには乗用車、トラック、トレーラー、建機や長尺のプラント機材が鼻先をこちらへ向けて並び、ラッシングチェーン(固縛鎖)を張るたびに鉄が低く歌う。油で濡れたラダーを降りると、車両甲板のロードウェイは文字どおり“ワンマイル”。黄色いラインが奥へ奥へと伸び、誘導員の赤いパドルが小さな弧を描く。新車のビニールの匂い、木枠梱包の甘い樹脂臭、冷凍箱から漏れる冷気とディーゼルの温い排気――匂いの層が時間を教える。
甲板上では、コンテナ固定金具が“カチリ”と噛み合う小気味よい音を刻む。フォークリフトのバックブザーが短く鳴り、クレーンがコンテナの四隅を吊り上げると、風に揺れた箱が一瞬だけ空の光を拾う。デッキログには、ロット番号と重量、スタックの高さ、重心移動が几帳面に打たれる。ブリッジではカーゴプランをにらみ、喫水線とGM(Metacentric Height:復原性の指標)を計算しながら、次の港のドラフト制限を口にする。港ごとに気配は違う。アントワープではスヘルデ川の泥が濃く、ハンブルクではエルベの潮差が急いで甲板員を働かせ、ヨーテボリでは外洋へ出る手前の群島水路に低い赤屋根が点々と続く。
大西洋に出れば、反復が始まる。当直は四時間ずつ。深夜の見張りは星の配置で雲量を読み、ラダーに置いた金属マグからコーヒーの熱が掌に移る。朝の四時、東の縁が薄く持ち上がり、北大西洋特有の鉛色が群青に変わる。冬の時化では、グリーンウォーター(砕けないまま甲板に乗り込む“緑の海水”)がバウの上を這い、船体全体が低く唸って撓る。春の凪では、海霧が冷凍箱の壁を濡らし、保守員がリーファー温度の記録紙に新しい円を描く。無線室からは北米天気図のファクシミリが吐き出され、等圧線の蛇行に応じて針路に少しだけ“癖”をつける。船は繰り返しを好み、人もまた繰り返しに馴染む。
寄港地の景色は、記憶の抽斗に順序よく収まっていく。ハリファックスでは朝靄に汽笛が重なり、材木ヤードのスプルースが濡れた甘い匂いを吐く。ニューヨークではマンハッタンの輪郭がコンテナの塗装に映り、パイロットが「着岸は潮目の変わる三十分後だ」と時計を叩く。ハンプトンローズの茶色い水は底力があり、タグの索が張るたびデッキのビットが鈍く唸る。ボルチモアのガントリーは黄色く、雨に濡れると巨大な昆虫みたいに足を鳴らす。モントリオール直行のときは、セントローレンス川の冷気が甲板の手すりを白くし、朝一番のブリッジで息が白い。どの港でも、荷は待っている。人が待っている。陸にとっては“ただの箱”でも、海にとっては“重さと高さと風圧”だ。だから私たちは、毎回同じ慎重さでそれを積み、同じ注意でそれを降ろす。
船内のリズムも決まっている。0730にデイリーブリーフ、整備は午前に重作業、午後は点検と清掃。ラッシングの緩みは午後三時の一斉確認、夕刻には風向とうねりの再評価。夜半、エンジンコントロールルームのスレートに油膜が薄く光り、主機の排温が等しく揃っているのを確かめると、ディーゼルの鼓動が胸の鼓動と同じテンポになる。ペンの先で航海日誌の行を埋めるたび、船の“ご機嫌”が一行ずつ整っていく。
そして、ROROランプが岸壁に口を開ける瞬間――これがコンロ船の快感だ。誘導灯が緑に変わり、最初のトラクターがゆっくり腹に入る。トレーラーの荷台が軋む音、ホイールチョーク(転動止め)を打つ木槌の乾いた音、シートロープを引く手の筋。ロードウェイの奥では、作業灯が等間隔に白を落とし、照り返しが床のペンキに細い道を作る。車輪が、鉄と塗装の上に新しい“日付”を刻み、船はその日付を体内に飲み込んで次の港へ向かう。
反復は退屈ではない。毎回、海も風も荷も違う。だが、積む順序と降ろす段取り、重さの置き場所と人の置き場所――その“型”だけは変えない。型があるから荒天に耐え、型があるから好天で急げる。私はその積み重ねの上に立ち、毎朝、同じ手で手すりを撫で、同じ目で海面の色を見比べ、同じ声で甲板へ指示を飛ばす。
――アトランティック・コンベアーは“運ぶ”ために生まれた。運ぶことの反復が、船を強くし、人を鍛える。私の仕事は、その反復を美しく保つことだ。
# フォークランド紛争の勃発(1982年4月)
四月二日、早朝のラジオが食堂のステンレスに反響した。
「フォークランド諸島で戦闘、アルゼンチン軍が上陸――」
スプーンがカップの壁を小さく叩いた音を、誰も拾わなかった。港の空気が、一枚のガラスをはさんだみたいに変わる。昼には港務所の掲示板が追加の紙を貼り出し、夕方には岸壁のクレーンが、いつもよりゆっくりと、慎重に動いていた。
ニュースは雪崩のようだった。政府の指示を受け軍は軽空母ハーミーズと軽空母インヴィンシブルを基幹として即応のタスクフォース編成を指示、艦隊の出航準備が始まる。私たちは民間の“運び屋”だ――そう思いながらも、艀の舷側に立つ仲間の横顔が硬い。北大西洋の往還は、突然、戦場の前口へ続く道に変わった。
# 徴用――“民間の手”のまま戦地へ
四月十四日、国防省から通達が来た。「アトランティック・コンベアーをハリアー戦闘攻撃機と大型輸送ヘリの輸送に充てる。」翌十五日にリバプールを発ち、十六日にデヴォンポート到着。“突貫十日改装”が始まる。前後甲板に鋼板を敷き、洋上補給装備を取り付け、艤装コンテナ、燃料・整備・仮設医療・消火設備を増設。二十四日に洋上補給装備試験と甲板工事完了、二十五日にはプリマス沖で海軍の大型輸送ヘリ・ウェセックスと空軍の大型輸送ヘリ・チヌークの着艦、ハリアーの発着をメディアに披露、その足で南大西洋へ。
――この十日間、私は“無い音”を聞き続けた。電子対抗手段の整備台が吐くファンの唸りも、チャフ(金属片の囮)投射機の点検サイクル音も、ミサイル警報器の自己診断音も、どれも鳴らない。
理由は積み上がっていた。改装時間が短すぎる。私たちは“高価値ユニット/重要艦艇”ではないから、限られた装備の優先順位は空母・駆逐艦・フリゲートへ回る。民間徴用船に武装・自衛装備を載せる法的懸念も強い。そして作戦コンセプト自体が“護衛依存”。――その全部が、“無音”として胸に貼り付いた。
「せめてチャフだけでも……」と海軍補助艦隊員の若い士官。私は何も言えない。据付・配線・試験・要員訓練――それぞれが“時間”を食う。私たちには時間が無かった。
# 赤道を越え、戦域へ
五月二日、シエラレオネのフリータウンで補給。五日、アセンション島で海軍のシーハリアー八機と空軍のハリアーGR.3六機を甲板へ受け入れ、固縛。七日夜、アセンション発。以後は遠距離から追尾・監視し続け、位置・針路・速力などの“連続した目標情報”を攻撃隊に渡す役目のアルゼンチン空軍機への対処でシーハリアー一機をデッキ・アラートで待機。
十九日、全面排他的行動圏入り。空母「ハーミーズ」と会合し、シーハリアー四機+GR.3四機を移送。二十~二十一日にかけて空母「インヴィンシブル」へさらにシーハリアー四機、ハーミーズへGR.3を二機(うち一機は二十一日)渡し、二十一日までに十四機すべて“お届け”完了。二十一~二十四日は空母群の“ヘリ支援艦”。ウェセックス三機、チヌーク一機で補給・人員移送、フリゲートから海軍のヘリコプター・リンクスを受け入れ(前線整備用の部品取り)や弾薬移送もこなした。
# 危機の年表が胃の底で鳴る
5月4日、艦隊回線が凍った。
駆逐艦「シェフィールド」、エグゾセ対艦ミサイル被弾。
“こちらには、何も鳴らない”。対空レーダーも電子対抗手段もチャフもない。船のブリッジでその事実は冷たい空白になって胸に貼り付いた。
5月21日、敵空軍は延べ四十五回の航空攻撃でフリゲート「アーデント」を撃沈。さらに三隻が損害。
夜の甲板で若い乗組が訊く。「見つかったら、どうなる?」
私は嘘をつけない。「護衛が守る。彼らは私たちに寄り添って動く。」――正しい答えだ。だが、この船には何も無い。その“隙間”が、風より冷たかった。
5月23日、フリゲート「アンテロープ」に五百キロ爆弾二発命中するも不発。
「不発なら、助かったのか」
誰かが言い、誰かが黙った。翌24日、信管除去作業中の爆発で沈没。
“不発”が“死”に転じる、その速さに、私は水成膜泡消火薬剤の残量を何度も見に行った。数字を触る以外に、恐怖の輪郭を確かめる術がなかった。
そして5月25日、午後。
駆逐艦「コヴェントリー」、爆弾三発命中、撃沈。
名と結果だけが届く。次の名が自分である可能性を、私は初めて“数十分”という単位で実感した。
# 5月25日――現地時間19:40頃、兆候と命令
二十五日の夕刻、空は低い。
命令が降りた。サン・カルロス湾へ突入し、ヘリと物資を揚陸せよ。午前中はひたすら準備。午後に入っても、フィックスの再確認、消火系統の加圧、区画の閉鎖、避難経路の指差呼称――民間船であろうと、やることは軍艦と変わらない。違うのは、こちらには軍用防御設備がないという事実だけだ。
外周警戒に立つ駆逐艦「エクセター」から報が入った。
「敵機レーダー電波“ハンドブレーキ”を一瞬捕捉。方位接近、断続――」
続いて直衛のフリゲート「アンブスケード」も低空機影を断続的に捕捉と報告。
「低空の接近機影、断続。トラック困難――」
低空。海面数メートルの世界。レーダー地平線の下を飛ぶ攻撃機が来る、見えない刃。私の背中を汗が伝った。
「全艦に通達。敵機襲来。低空、複数。」
至近距離で航行する旗艦・空母ハーミーズからの通達に、私は短く命じる。「針路保持、速力維持。消火剤加圧。甲板最終固定、急げ。」
ハーミーズの声が刺さる。「アトランティック・コンベアー、取り舵040度。退避せよ。」
「取り舵040、了解」――貨物船は急に曲がるために生まれていない。それでも舵角を入れるが、巨体の動きは緩慢だ。
“見た目の面積”がどう変わるかなど、考えても仕方がない。
空母「ハーミーズ」がチャフを大きく展開した。日を反射する海に銀の花が咲く。
# 直撃
空母「ハーミーズ」が展開したチャフが風に裂け、海と空の境目が一瞬ぼやけた。
私は操舵手の背後で木肌に指を食い込ませる。次の拍で、世界がこちら側へ折れた。
最初の衝撃は、胸郭の内側から蹴り上げられたように来た。鉄板が低く啼く音とともに内向きにえぐられ、通路の空気が逆流して扉の隙間を叩く。エグゾセ対艦ミサイルが生む圧が、空気そのものを刃に変える。半呼吸遅れた二発目の衝撃。隔壁のビード溶接がピンと切れ、船体の骨が一音下がった。
Cデッキ下の貨物区画で爆風が走り、積み付けたコンテナの角が紙みたいに丸まる。ROROデッキの“ワンマイルのロードウェイ”は、瞬時に一マイルの煙突になった。後部から前方へ、熱と煤が押し風に乗って突進する。
塗装が泡を含んで膨らみ、破裂した瞬間に細かな火が一直線に生まれる。燃料配管の片側でクイック・クローズが落ち切らず、戻りの逆止弁から喉を鳴らすように漏れた霧が、火に勢いを与える。
主配電盤が呻き、ブリッジの照明が一度だけ昼の明るさでフラッシュしたのち夜へ落ちる。非常灯が点り、通路の蓄光矢印だけが蛍のように残った。機関からは「一番発電機停止、二番へ負荷移行」の報――語尾が咳で途切れる。天井から黒煙層が降り、頭ひとつ分の高さに重い天井ができる。
左舷後部の隔壁は、熱と圧で打楽器になった。ドン、ドドン、ドン。継ぎ目の針の穴ほどの歪みから火がヘッと吹き、ケーブルトランクの被覆が溶ろけて滴り、その滴りが床で小さな燭台に化ける。
外からはフリゲートの散水が白い壁になって舷側を洗い、境界冷却の霧が薄めたミルクのように揺れるが、左舷後部の焔は笑って押し返す。破口の向こうで、飛び散った破片が弧を描いて海面をザザッと泡立てているのが見えた。
# 船長・手動の初期対応――“ないもの”は自分の手で埋める
「通風停止! 防火ダンパー、全落とし!」
私はブリッジから飛び出し、防火ダンパーの手動レバーを引き倒して回る。電気の自動閉鎖が信用できない場合のために、古い船には腕力で決める手が残されている。
「泡系統、左舷後部へ優先配分! メインからバイパスを開け!」
消火幹線の手動弁に体重を預け、ホイールを回す。指の腹に塗装のバリが食い込み、汗と煤でハンドルが滑る。
「SCBA(自給式呼吸器)なしは境界線に入るな! 境界冷却は一枚前へ寄せる!」
面体が汗で密着不良を起こした若い甲板員の顎を抱え、エラスティックを引いてシールを作り直す。
「燃料区画、クイック・クローズ再確認! 戻り側の逆止、座りが悪い。ブロック弁で落とせ!」
機関長に叫ぶ。返事は短いが、力強い。
「主機は生存。ただし吸気が煙を食う、回転落ち!」
「よし、速力維持。暴れるな。針路はこのまま。積荷が牙をむく。」
私は消火栓ロッカーからホースを引き、ノズルを振って境界線を押さえる隊の肩を叩く。「角度三〇度、下げろ」――炎の縁がたじろぐ。
水圧計の針が痙攣ののちじわりと落ちはじめた。フランジの紙一重のズレが、ポンプの息切れを呼ぶ。「ポンプ二番、起動!」――応答。だが吐出は想定以下。
「手持ち消火器を連ねろ。粉末は風下、泡は風上へ!」
私自身、ピンを抜いて粉末を短く噴く。炎の舌が一瞬迷い、すぐに戻ってくる。足りない。
ブリッジに戻る途中、左舷後部の梁が一列で落ちた。カン、カン、カン――鉄琴のような連打。落下片が白い沼(水成膜泡消火薬剤)を打って高く冠を上げると、炎が飛び込んで沼を食う。勝ち負けのない殴り合いが続く。
船体の音程を耳でなぞる。梁が低音で、甲板が中音で、コンテナが高音で鳴る。――まだ和音だが、不協和が混じり始めた。温度表示は閾値を越え、煙層は膝の高さまで降りる。水成膜泡消火薬剤の残量は致命線に近い。電源切替も限界。ここから先は、人を食う。
甲板上では、チヌークの腹が飴細工のように垂れ落ち、ローターの根元から滴る金属は黄から赤へ、赤から白へ。ウェセックスのローターブレードは熱で弓なりに撓み、アルミの縁が波打つガラスみたいに揺れる。リンクスの尾梁は黒く泡立ち、内部のハーネスが腸のように露出してプツプツと燃えた。整備用のオイル缶がポンッ、ポンッと弾け、飛び散った油膜が甲板に虹色の皮膜を広げ、その上に水成膜泡消火薬剤が覆いかぶさって白い沼を作る。沼は炎に押し返されじゅっと音を立て、再び前に出る。
唯一、被弾前に飛び立っていた一機のチヌーク――“ブラヴォー・ノーベンバー”だけが無事だった。
## 諦めの瞬間――“船”より“人”
フリゲート「アラクリティ」が接近、散水で境界冷却を試みる。フリゲート「ブリリアント」は救難・収容艇を降ろし、フリゲート「アンブスケード」も回頭して寄せてくる。
防火区画は食い破られ、泡は痩せ、居住区に熱が回りはじめている。ここでしがみつけば、皆を危険に晒す。
判断の重心が、腹の中で動いた。
私はマイクを握り、噛むように言う。
「全員に告ぐ。退船準備。負傷者優先。持ち出すのは命だけ。」
短い言葉が、全区画の脊髄に落ちる。「避難集合所へ! 点呼開始! 前後の脱出梯、一列進行!」
私は再び手動で防火扉を閉め、避難路の手すりを叩いて進ませる。水成膜泡消火薬剤の白い沼が靴底を吸い、立ち止まると沈む。
甲板の陰で、さっき面体を直した若い甲板員が足を引きずっていた。私は肩を入れて支え、風上へ押し出す。
「走れ。吸うな。顔を覆え。」
舷側から救命筏が海へ滑り落ち、ボンベから圧縮ガスが一気に供給されて投下索が張り、筏が膨らむ。私は最終点呼の欄に鉛筆を走らせ、潰れた字で名前を埋める。足りない名が、そこに穴を開ける。
上空でシーキングのローター音が低く伸び、ウィンチの鋼索が銀の線になって垂れる。筏の要救助者から順に吊り上げが始まる。私は最後尾に回り、通路をもう一度見返す。
――左舷後部の息が、ここまで熱を吐いている。終わりだ。
防火区画は食い破られ、泡は火勢に押され、居住区に熱が回り始めていた。
シーキングのウィンチに吊られて上がる間、私は左舷後部を見続けた。赤黒い花が咲いては潰れ、咲いては潰れる。舷側の破口は口になって呼吸し、吐く息は黒、吸う息は銀――ハーミーズのチャフがまだ落ちていた。
甲板に残った水成膜泡消火薬剤は薄くなり、ポンプの鼓動が間遠になる。船体の和音は、最後にひとつだけ綺麗な音を残して、無音へ落ちた。
――二発のエグゾセ対艦ミサイルは、ハーミーズのチャフでいったん逸れ、この船を再捕捉した。その選択が、ロードウェイを煙突に、配線を蝋燭に、梁を弓に変え、船の一日を丸ごと塗り替えた。
私は空で深く息を吐く。ないものは、最後までない。だからこそ、あるもの――手、足、声、そして判断――で、ここまで来た。
海の上で、諦めるとは投げ出すことではない。人を選ぶことだ。
私は人を選んだ。
その選択が、胸のど真ん中で熱を持っている。
アトランティック・コンベアーはゆっくり横たわりはじめていた。左舷後部から上がる黒煙が空を黒く塗りつぶし、白い船名が最後の瞬間まで読めた。
# 収容――空母「ハーミーズ」の甲板へ
夜の海に、シーキングのローター音が低く伸びた。救命筏から一人ずつ吊り上げられ、私は最後にウィンチで機内へ押し込まれた。油と海と焦げの匂いが混ざる。飛行士が親指を立て、機体は短く揺れて上昇する。
やがて、甲板灯に縁取られた巨大な四角――空母「ハーミーズ」の飛行甲板が闇に浮かんだ。着地の衝撃、機内のランプが緑へ跳ねる。ドアが開くと、甲板の熱と灯と怒号が一斉に流れ込んだ。
「こちらへ! 吸入は? 歩けますか!」
メディックが私のマスクを外し、懐中電灯で瞳孔を覗く。喉の奥が塩と煙でひりつく。毛布が肩に載せられ、アルミブランケットをもう一枚。
「名は? 所属? 負傷は?」
「アトランティック・コンベアー。船長のグレン・パーキンズ。軽い煙の吸入と擦過。」
もう一人のメディックの鉛筆が問診票を走る。甲板の端では別の負傷者がストレッチャーで運ばれ、濡れたブーツがデッキを叩く。
格納庫へ降りるエレベーターが唸り、ハッチが開く。金属音とともに、温かい空気の層が顔に触れた。
「こちらで脱塩水と除煙のシャワーです。服はこの袋へ。熱傷は?」
「ない。船員たちは?」
「到着順に収容中です。心配いりません、ここはハーミーズです。」
その言葉は、単なる事実なのに、祈りのように効いた。
格納庫内には仮設のトリアージが組まれ、番号札を首にかけられた男たちが順に処置を受けていた。
紙コップの紅茶に手が震える。湯気の向こうで、誰かが名簿を読み上げ、別の誰かが応える。私は自分の名を口にし、返事が届くのを待った。届いた――この瞬間だけは、海も戦も遠かった。
毛布の山の端で、私はようやく座った。震えは止まらない。だが、甲板の真下でハーミーズの心臓が規則正しく打ち続けているのを、金属を通して感じられた。
――収容された。生きている。次にすべきは、名簿を埋め、足りない名を覚え、報告を書くこと。私は自分の手を見下ろし、油と煤の線を拭い取った。
死者は12名。商船員6名、海軍補助艦隊員3名、海兵隊員3名。名簿の穴は、火より静かに胸を焼く。
# その後――曳航と喪失、そして教訓
三日後の二十八日未明、徴用タグボートに曳かれている最中、アトランティック・コンベアーは早朝の海に沈んだ。失った翼はチヌーク三、ウェセックス六、リンクス一。唯一、チヌークの“ブラヴォー・ノーベンバー”だけが空へ逃れ、紛争終結までフォークランドの空を飛び、さまざまな逸話を生み出した。
“なぜ防げなかったか”。あとで耳にした説明は、あの“無音”の輪郭と重なる。短すぎた改装、高価値ユニット/重要艦艇優先の装備配分、民間徴用船への自衛装備付与に関する法的懸念、そして民間徴用船の前提である“護衛依存”。外周の駆逐艦「エクセター」は敵のレーダー電波をESM(電子支援手段)で断続捕捉し、直衛のフリゲート「アンブスケード」も低空の機影を断続捕捉していたが、海面を数メートルで這う侵入と発射即離脱――こちらが“撃てる時間”は刹那だった。
理由は筋が通る。だが、理由は結果の重さを軽くはしない。左舷後部に刻まれた裂け目は、今も心に刻みつけられている。
# 空からの証言――アンドルー王子
シーキングの副操縦士を務めていたアンドルー王子が、被弾の瞬間を“上から”目撃していた。
「……破片が約四百メートル離れた海面に飛び散った。決して忘れられない……恐ろしい経験だった。」
短い報告と短い嘆息は、泡の筋より白く私の耳に残った。
# “ヘリ囮”の決意
やがて艦隊に、別の理解が広がった。**エグゾセ対艦ミサイルは、艦より小さな目標――ヘリコプターをも追尾し得る**。ならば、艦を守るために**ヘリが囮になる**ことができるのではないか、と。空襲警戒警報が鳴れば自発的に空へ上がり、もし第二、第三のミサイルが来れば“わが身を以て艦を守る”。アンドルー王子もその任務に参加した。
幸いにして、その後、ハーミーズを狙うミサイルの攻撃は来なかった。それでも“備える意志”は、銀の雲より重く、私たちを支えた。
# エピローグ――運ぶという職業
今も私は、北大西洋の朝を思い出す。リバプールの霜、アントワープの倉庫群、ハンブルクのクレーン、ヨーテボリの風。ハリファックスの材木の匂い、ニューヨークの箱に映る摩天楼、ハンプトンローズの茶色い水、ボルチモアの岸壁。ワンマイルのロードウェイを新車と重機が自走で渡る――コンロ船としての矜持は確かにあったし、今もある。
一九八二年、私たちは“運び屋”のまま戦地へ行き、**エグゾセ対艦ミサイル**に打たれた。空母「ハーミーズ」、駆逐艦「エクセター」、フリゲート「アンブスケード」、フリゲート「アラクリティ」、フリゲート「ブリリアント」――皆がそれぞれの持ち場を守り、“それ”は起き、三日後、船は沈み、十二の名が海に刻まれた。
海は何も言わない。だから、こちらが覚えていなければならない。どこを走り、何を積み、誰のために運んだか。いつ命令を受け、誰と並び、どの風を受け、どの瞬間に割れたか。
アトランティック・コンベアーは運び屋として生まれ、運ぶことで最後まで役目を果たした。




