茨姫のティーサークル
好みの女と好みの女と好みの男を書きました。
「聖女と出会ったきっかけが知りたい?」
王宮の中、騎士は告げられた言葉に目を瞬いた。
この世界には聖女と呼ばれる存在がいる。本来ならばあり得ない人を癒す能力を持ち、慈愛に満ちたうら若き少女の総称。世代に一人しか現れず、先代が力を失うとじきに次代が現れると言われている御伽噺のような存在だ。
国を問わず求める者が多いため、唯一政治に関わることを認められない人物。どの国にいたとしても国王の詔すら聞く必要がない者。
そんな聖女は現在、この騎士の婚約者である。
「きっかけといっても……」
騎士は考え込むように腕を組んだ。なにせ、あの聖女と出会ったのは他国での話。幼いころの物語。今にして思えば懐かしく、そしてほんの少しの躊躇いを覚える。なんたって自分はあのとき、言いつけを破った結果聖女に出会ったのだから。
とはいえ、尋ねてきた人物との関係性を思えばまあ、別にいいかと。
騎士は微笑み剣を置いた。鍛錬の時間は終了だ。
「長い話になる」
「構わないわ」
「それなら話そうか」
腰かけたソファの向かい側に、質問者も座り。騎士はゆっくりと足を組んだ。
十年前。まだ騎士が七歳の頃の出来事を。三人の思い出を、追憶しながら。
【茨姫のティーサークル】
セレスティーナが辺鄙な港街を訪れたきっかけは、父の仕事に着いてきたからだ。まだ子供で好奇心旺盛な彼女は、公爵家当主として仕事へ向かう父に頼み込み、見知らぬ街へとやって来ていた。
父曰く〝貸し〟を与えてやっているらしいこの街の領主は手を揉みながらわざとらしい笑みを掲げてセレスティーナを迎え入れた。素晴らしい街をぜひ見回ってくれと言われたけれど、彼女が普段住んでいる王都に比べればちっぽけな街にしか見えなくて。けれど父の小難しい話のほうがもっとつまらなそうだったので、愛想笑いを浮かべながら頷いた。
護衛はさっさと撒くに限る。街に慣れていないのはお互いさま、セレスティーナはさっさと一人になることにした。さて、まずはどこに行こうかと考えて、ひとまず領主の家から見えた森に向かってみることにする。市場や公園も気になるけれど、人の多いところは今頃自分を探しているだろう護衛に見つかるかもしれないし、何よりお出かけには「冒険」が付きものなので。
手入れがされていない、薄暗い森がある。「冒険」にはぴったりの。普段護衛や家臣が傍に入れば絶対に引き留められる場所だ。だからこそ、セレスティーナは進んでみることにした。
何事もなければ拍子抜けするだけ。なにかあれば……もしかしたら、一緒にこの街に来た父も、少しはセレスティーナを心配してくれるかもしれないから。
そんなことを考えていたから、罰が当たったのだろう。セレスティーナは神の存在を未だ半信半疑程度に思っていたから、教会での活動もあまり足を運んでいないし、きっとそのツケがきた。
辺鄙な街の森の奥には、何がいたっておかしくはない。野獣だって、魔物だって。セレスティーナの好物であるシチューに入った一つ目ウサギの肉だって、誰かが狩ったものなのに。セレスティーナ一人では、ウサギすら倒せないのに。
それは巨大なヘビだった。大男が三人は入りそうなほどの大口を開けて、小さな子供を丸飲みしようとこちらを睨みつけている。自分のような子供、食べたって骨ばかりで美味しくはないと思ったけれど、口にするには震えが止まらなくて。怖いのに、目が離せない。
少しでも目を離したらきっとその瞬間食われるとわかっているからこそ、真正面から向き合うしかない。だから恐怖そのものの存在を視覚に入れるしかなくて、歯をガチガチ打ち鳴らした。
ああ、たぶん、わたしはここで死ぬ。
せめてお父さまは、泣いてくれるかな。
「────うわっ、ヘビじゃん。でかっ」
声は唐突に響き渡った。間抜けな感想が、セレスティーナの耳を通り過ぎる。思わず声の方向を向いてから、「しまった」と思った。にらみ合いをやめたことで、ヘビは好機とばかりに俊敏に襲い掛かる。
一方間の抜けた感想を漏らした者も、ヘビの傍に少女がいることに気が付いて目を丸くした。けれど彼は上空、崖の上からヘビを見つけていて、下に蹲っているセレスティーナのもとへは早々辿り着けない。
だから、咄嗟に持っていた小剣を放り投げた。落下の速度でそれは巨大なヘビの目に突き刺さり、セレスティーナを丸飲みにしようとしていたヘビは照準が逸らされ少女の足に噛みついた。目が弱点なのだろうか。牙の力は思いのほか弱くて、ギリギリ噛み千切られてはいない。
けれど、お転婆ではあるものの家臣らに見守られて大切に育てられてきた少女には、今まで感じたことのないほどの痛みと熱を感じて。
「う、あ、あ、あああああああ……ッ」
大声を出す気力すら湧かなくなるほどの痛み、熱さ。ずきずきとずくずくと足が揺れる。片目を潰されたヘビの、もう片方の目がセレスティーナを射抜き、憤怒に塗れた表情のまま牙を振り回し少女を地面に叩きつけようとする。突き刺された足をそのまま引っ張られ、彼女は苦悶の顔を見せた。あと少しでも痛みが増えればきっと意識を失う。既に朦朧とした世界の中で、聞こえてきたのは子供の声。
「その剣、使って!」
公爵家の娘が、カトラリー以上の大きさの刃物なんて持ったこともない。握ることすら考えられない。だけど、福音のような声に従う以外の方法はない。足が牙にささっているから、刺し込まれた剣もすぐ手の届く距離にある。ぐっと手を伸ばして目に突き刺さった刃物の柄を握れば、ヘビも痛みを感じたのか声を荒げて頭を振り回す。
ヘビは片目、セレスティーナは片足。お互いがお互いを傷つけあっている以上、あとは相手を倒せたものの勝ち。痛みは未だにあるのにどこか遠くの出来事のような気がして、セレスティーナは一種の高揚感を抱きながら小剣を引き抜いた。更なる叫び声が響く。
風圧すら感じる中で、少女はもう片方の目に剣を突き刺した。
「お、やるじゃん」
相変わらず気の抜ける感想が、今度は先ほどよりも随分と近くから聞こえた。ヘビの目が弱点であることはこれだけ悲鳴を聞いていればすぐに分かる。なのでもう片方を狙った。これで両目が使えない。
だからこそヘビは怒り狂い、口元にいる獲物──小さな敵をさっさと殺そうと、身体を伸ばして少女を牙から振り落とした。
目を潰すのに全力を使ったため、身体を動かすこともままならない。そもそも受け身の取り方すら知らないから、地面に叩きつけられたら終わってしまうちっぽけな存在。今度こそここまでかと、セレスティーナは近づく地面を前にそっと目を閉じた。
せめて剣を貸してくれた誰かに、一言お礼が言いたかったな、なんて。
そんなことを考えていれば、先ほどまでとはまた違う声が響いた。
「ぴぎゃあ! えっ、ちょっ、危ない!!」
透き通るような子供の声は、やかましいが優しく耳に届いて。セレスティーナが感じたのは地面にあたった衝撃ではなく、ふんわりとした柔らかな衝撃。足が傷つき血も減っているため、立つこともままならなくて。ゆるりと目を開けば見えたのは水色の髪。
「だ、大丈夫ですか!?」
「どう見ても大丈夫ではないと思う」
「そ、そ、そうですけどぉ! どういう状況ですか。この森は立ち入り禁止で、なんで子供が二人も……!」
「君も子供じゃんって突っ込むべき? そんな悠長に話してたらその子死んじゃうよって言うべき?」
「し、死なせません~!」
わりと瀕死なのに両側から聞こえてくる声がうるさくて意識も飛んでいかない。叫びとともに抱え込まれる力が強くなったので、きっと自分を抱きとめてくれたのは女の子のほうだろう。というより男のほうは先ほどまで崖の上にいたはずなのに、どうやってこんな短時間で降りてきたのか。
「この子を助けます! けど、その前にヘビさんから逃げないと!」
「うーん、まあ、その勇敢な子が両目潰してくれたし、そんな脅威でもないでしょ。君、手当てできる? もしくはその子抱えて病院まで走る体力ある?」
「どっちも大丈夫です!」
「うそでしょ意外と力あるな……じゃあ、任せた!」
言うや否や、少年は思いっきりヘビに向かって走り出した。「正気ですか!?」と少女の叫び声が聞こえて、思わずセレスティーナも身じろぎをひとつ。見れば黒髪の子供が、ヘビへと直線に走っていて。
馬鹿かあいつはとセレスティーナも頬を引きつらせながら立ち上がろうとすれば、それより前に少年は地を蹴り飛び上がった。
目を失い姿が見えていないヘビに未だ突き刺さった剣を掴み。そのまま一閃、続いてもう一回。丁寧に首元同じ場所を切り付ければ、絶叫が響く。
「な、何者ですかぁ……」
少女の言葉に、セレスティーナも内心同意するしかなかった。
「って、見とれている場合じゃないですね! あなたの足、治します」
「なお、すって、無理にきまって」
千切れてこそいないが、太い牙が小さな足の真ん中を貫通したのだ。ふくらはぎに大きな穴が開いて、二度と歩くこともままならないだろう。命があるだけマシと思うしかない。
息も絶え絶えの中、せめて失血死だけはしないといいなと思っていれば、水色髪の少女が見せたのは不敵な笑み。
「大丈夫です。信じて、祈って、願ってください。あなたは生かされた。なら、きっとこれからも生きていける!」
少女は祈るようにセレスティーナの前に跪き、青空のような目をそっと伏せて両の手で血の滴る足に触れた。長い髪がはらりと顔を隠し、隙間から覗くのは真剣な瞳で。
やわらかな声がうたったのは、祝詞の如き言葉の羅列。それらは確かな力を持ち、セレスティーナの足に暖かな熱が灯る。
セレスティーナは、それが何であるかを知っていた。
否、この国に住まうものであれば、皆が知っている。神への祈りが形を成して、人々に奇跡を与えるもの。それができるのは世界にただ一人。
それを誰もがこう呼んだ。そう、聖じょ────────。
「めがみさま……」
セレスティーナの漏らした言葉に、少女は目を瞬いた。
「えっ」
「私を、癒しにきて、くださったのですか、めがみさま」
「ち、ち、違いますよ!? 普通ここは私の正体が聖女だって気付いて優しく口止めするような場面じゃないですかぁ! なんで女神さま!?」
「え、なに君聖女なの? この国じゃ信仰の対象じゃなかったっけ」
「ぴえ」
少女がギギギと振り向けば、後ろには興味深そうに一切傷のなくなったセレスティーナを眺める少年が立っていて。少し離れたところには倒れ伏した巨大ヘビの姿もある。なんだか頭と胴体が真っ二つに分かれている気もするけれど、何も見なかったことにした。考えだしたら怖いので。
「で、聖女なの? わ、足治ってるじゃん」
「い、いやいやそんな滅相もない!! それっぽい力があるだけのもどきです! 聖女もどき!」
すごいこと言うなこの子、と少年は思った。
そして嘘が下手だなぁとも。
「おれも詳しくは知らないけど、この国って聖女信仰強いから、聖女を騙るとかなり重い処罰が降るんじゃなかったっけ? 聖女もどきちゃん」
「ひえ。ち、ち、違うんですぅ……」
少女はしゃがみ込んだ。処罰を恐れるというよりは、嘘がバレたことにショックを受けたような態度で、それがよりセレスティーナの思考を後押しする。少年に至ってはもうとっくに察しがついていた。
彼女は、どう考えても聖女である。
そういえば先代は少し前に力を失ったと聞いたことがある。だから各国は必死になって新たな聖女の居場所を探しているとも。
力を持つがゆえに、聖女は人を好まぬ者も多い。時には一生力を隠して雲隠れする者もいるため、国が保護──もとい、扱える聖女は早々いない。
けれど目の前にいるのはまだ幼い、腹芸がものすごく下手そうな少女だ。貴族が求める聖女の存在を父に伝えたのならきっと感激するだろうとセレスティーナは考えて…………ゆるりと首を振った。
「命の恩人に、迷惑がかかる真似はしない。私は何も見なかった、それでいいだろう? 女神さま」
「女神ではないです」
「お前も、どこか他国から勝手に居座っているみたいだな。本来ならお父様に伝えるところだが、まあ、いいか……」
「居座ってるんじゃなくてお忍びで遊びに来てるだけだよ。関所も抜けてない。ていうかお姫様みたいな見た目に反してカッコいい喋り方だね、君」
セレスティーナは肩を竦めた。
艶やかな金髪と人を惹きつける紫の瞳を持つ少女は、人形と言われても納得のできる美貌だ。そんな彼女から古風で堅苦しい喋り口が漏れることに驚く者は多いし、実際家臣にはいい顔をされていない。セレスティーナからすれば敬愛する父を真似ているだけなのだが。
それをかっこいいと言われたことは、ほんの少しだけ嬉しかった。ほんのりと口角を上げた彼女をよそに、水色髪の少女は少年の言葉を聞いて首を傾げる。
「え? でも、この近辺の街から来るには全て関所を通るんじゃ」
セレスティーナもまた、家庭教師に教わった街の地形を思い出して、目を瞬く。
少年の言葉を仮に嘘ではないと仮定するなら、当てはまるのはひとつだけ。海を挟んだ〝あの国〟を思い返し、二人は頬を引き攣らせた。
「…………ノエルシフレ神皇国?」
「ノーコメント」
「そのコメントがすでに答えだろう!」
セレスティーナが遊びに来たここは海に面している港町。そんな街から海を渡った遠く向こうにあるという、この国とは技術力も軍事力も経済力もまるで敵わない大国──情報が外へ流れることを決して許さない秘密主義の国家を、ノエルシフレ神皇国という。
そんな国に住まう疑惑のある少年は、にっこり笑って手を振った。
「そういう二人だって、見るからに貴族階級の子と聖女、あー、もどきちゃんでしょ? 身分とかここにいる理由とか、話して困るのはお互い様じゃない?」
少女二人は口を噤む。確かに聖女の存在を隠していたことが知られたらセレスティーナとて無事では済まない。一方で高位の貴族階級者が怪我をしたともなれば、その近くにいたただの少年少女に不当な罰が降ることも考えられる。この国における貴族とは、そういう存在だ。
それから何より、ノエルシフレの国民なんて聖女と同様に各国から狙われる存在。滅多に外部との交流を行わない半分伝説のようなあの国との関わりを持てるのであれば、誰だって悪魔になる。
だからセレスティーナは深く息を吐いて。
「お互いの素性は聞かないことにしよう。それが一番だろう」
「は、はい!」
「すでにほぼバレかけてるのがいるんだけど」
「知らないふりをしておけということだ」
「うう、よろしくお願いします……」
少女は恥じ入るように頭を下げて、それからふんわり微笑んだ。
「で、でも、立場はともかく名前くらいは教えられますよね?」
「あー」
調べたら立場だって判明するだろう公爵令嬢は答えに窮した。
けれど女神の言葉に反するつもりはない。すぐに笑顔を作って、口を開く。
「セレス、だ。よろしく」
「セレスさんですね! わたしはスフィーです、よろしくお願いします」
「セレス嬢にスフィーちゃん。可愛らしい名前だね」
知らないふりをしているとはいえ、聖女をちゃん付けする胆力には呆れるしかない。セレスティーナを同じように呼ばないのは反骨されることを察したからだろうが、空気の読めるやつである。
「お前の名前は?」
「ヨミだよ」
「ヨミか」
「ヨミさん!」
あまり聞きなれない響きの名前は、確実にこの国の人間ではないことを示していて。だから彼もまた言うのを躊躇ったのだろうなと思ったものの、スフィーは愛らしい笑みのまま相槌を打つ。そんな少女の姿にヨミはおかしそうに唇を震わせた。
「ここで会ったのも何かの縁。おれはもうしばらくこの街にいるつもりだけど、二人は?」
「わたしはそもそも、この街に住んでいますから。セレスさんは?」
「私は父の仕事についてきただけだが、そうだな。もう少しこの街にいるとしようか」
それじゃあ、と。ヨミはにんまり瞳を曲げる。
「また明日、今度はもうちょっと森の入り口のほうで!」
「明日も会うのか」
「明日も会ってくれるんですか⁉」
「そうだな女神さ……スフィーが望むならまた明日だ」
面白いなぁとヨミは思った。
わざわざこの国にお忍びで来た甲斐があったな、とも。
◆
「────という感じの、出会いだった」
「んふ、とんだお転婆じゃないの。こっそり抜け出して森に行って、巨大ヘビに出会うなんて。まるで物語のようね」
彼女の仰る通りである。騎士は苦笑を漏らした。語ったのは己だが、それにしたってとんでもない出来事で。十年も昔の話なのに、記憶が褪せることはない。
ところで、と。質問者たる女は面白がるように口を開く。
「あなたが騎士を目指したきっかけは、それ?」
聡明、それでいて察しの良い女だ。この国でも有数の地位と頭脳と力を持つ以上当然なのだろうが。
「ノーコメント」
「あら残念。でもそれが既に答えじゃない……貴族階級のないこの国では、騎士という立場は相応に強く重いもの。そんな立場になろうとしたのなら──物語みたいなきっかけがないとつまらないわ」
「つまらないって」
「まあいいわ。それで? 幼い頃、田舎町で三人仲良くなったあなた方はどうやって再会に至ったのかしら?」
分かり切った問いかけをしてくる女だ。彼女はもう、全てを知っているだろうに。なにせ騎士の立場を任命するのは彼女のような立場……ノエルシフレ神皇国における、皇族でなければならないのだから。
皇女は笑う。
「さあ、お聞かせになって? 騎士様」
騎士は妹の言葉にため息を吐いて、再び口を開いた。
「あれは一年前。──あちらの国の、学園の中でのこと」
まるで物語の続きを語るような口調で、恭しく。
◆
幼い頃の出来事は、時間にしてみればわずかな間でしかなく。セレスティーナがあの街にいたのは結局、ほんの一週間程度の話でしかない。
けれどその一週間で、世界の全てがひっくり返るような心地だった。そもそも公爵令嬢たる彼女と対等に話せる者などいなくて、仮にいたとしても幼くして聡明と評された少女と同じ目線で言葉が交わせる存在はいないだろう。
だからこそ揃って身分を隠したこの関わりは、時が経っても忘れられないまま。
おかげで気付けたのだ。
今はもう子供とは呼べぬ男は、机に頬杖をついてからから笑う。
「まさかあの時の三人が同じ学園に通うことになるなんて、奇跡か運命じゃない? 神さまの悪戯とか?」
「神さまは悪戯をしません。訂正してください、ヨミさん」
「いや……私はともかくお前らがおかしいだけだろう。本来貴族しか通えない学園で、何故二人が」
ティーカップを傾けて半目で告げれば、ヨミとスフィーは顔を見合わせた。
確かに王都に在るこの学園は貴族階級の少年少女が知識を身に着け他者と交流するための場とされていて、本来一般人が入学することは叶わない。まあ、誰もが繋がりを求めるノエルシフレ神皇国の人間や、世界でただ一人しかいない聖女であれば問題なく入れるだろうが。
けれど〝凡人〟二人は首を傾げて。
「おばあちゃんが亡くなってから、行く宛もなかったですし……出稼ぎに王都へ来たら、試験的に能力のある平民も特待生として入学できるって聞いたので! この学園、お昼の学食無料で生徒寮があるの最高だと思います!」
「たまたま持ってた故郷の道具がいくつか高値で売れちゃって。他国の授業風景とか見てみたかったし、換金できないわけでもないけどこの国で稼いだお金はここに還元しようかなって、男爵位買っちゃった」
「驚きましたよ~。ヨミさんが男爵だって自己紹介していたとき! 口から心臓飛び出すかと思いました」
「おれも、スフィーちゃんが庶民だ平民だってそこらの貴族に馬鹿にされていたときは驚いたよ。なにやってるんだろうこの子って」
セレスティーナは内心頭を抱えた。以前も聞いた経緯だが、何度聞いたって頭おかしいだろう。
スフィーは「わたし一応、ただの平民ですし!」なんてふざけたことを言い放っているし、ヨミに至っては「国に頼んで話通してるから大丈夫ー」などと抜かす始末。ノエルシフレは貴族階級が存在しない上、「一回貴族になってみたかったんだよね。将来のために」とか言っていた以上かの国の貴族というわけはないのだろうが、それにしたって底知れない男だこと。
一応お互いの身分を追及しないことをしきたりとする我々だけれど、スフィーは初めからバレバレだしヨミは未だよくわからない。
そしてセレスティーナは。
「ああでも、一番驚いたのはセレス嬢かな」
「わ、わたしもです! だってだって、公爵令嬢があんな森にいるだなんて思いませんよ! わたしったらなんて態度を……」
「気にするなと言ったのは私だ。それに、お前も立場でいえば相当だろう」
「ダメだよセレス嬢。知らないふり、でしょ」
「私のことは全て知ったのにか?」
セレス、改めセレスティーナ。どんなに素性を隠したくても、学園に来てしまった以上は必ず目にすることがあるだろう。
現在の第一王子の婚約者にして次期王妃最有力候補。この学園において、王子の次に地位の高い存在。人を寄せ付けぬ不遜な態度と口調で敬遠される美しく棘のある花のことを。
「全てを知ったわけじゃないけど? おれたちの前以外では猫を被っている理由とか、よく知らないし」
「すごいですよねぇ、あっちのセレスさん。なんというか、お姫様! って感じで」
「姫より女王じゃない? ああでも間違ってはいないか。この国の貴族たちの通称だもんね、『茨姫』」
「あらスフィー、こちらのわたくしのほうがお好みですの? あなたが望むのでしたら今後はこちらで喋ることもやぶさかではありませんが」
「や、やぶさかであってください!」
ずいっと顔を寄せ付けた美女に、少女は顔を赤らめじりじりと下がる。
初めて会ったとき、顔に見合わず硬派な喋り口の彼女に「驚いた」などと告げたものだが、再び会った時にはお嬢様らしい……若干恐怖を抱く高慢な口調に変化していて。そのあと三人で話したときには元の口調に戻っていたものだから、ホッと安堵を漏らしたものである。猫かぶりでよかった。
「少なくともおれは普段のセレス嬢のほうがいいかな。そっちは色々と鳥肌が立つ」
「ふん、とんだ言い草だな。その意見には同意するが」
「わ、わたしもいつものセレスさんのほうが好きです」
「ありがとうスフィー。私もお前が大好きだよ」
「そこまでは言ってないし言われてないよ」
「うるさいぞヨミ」
ヨミの正論は一蹴された。
でも、と首を傾げるのはスフィー。彼女は目の前の令嬢が猫を被るときがどんな時かを知っている。
「どうしてセレスさんは、王子さまたちがいるときだけああいう態度を取るんですか?」
「単純に嫌いだからだが」
「こ、婚約者ですよね?」
次期王の婚約者、すなわち未来の王妃という立場はとても重い。だからこそこの学園では誰もが彼女に擦り寄り同調して、彼女はいつもの分厚い猫を被っているわけで。
そもそも本来セレスティーナにとっての猫──お嬢様然とした口調は、歳を取るにつれ身に着けたマナーのようなもの。かつて父に憧れた結果の言葉は、マナー教育の一環で消え去った。
はずなのに、二人と話すと幼い頃の思い出が蘇ってつい口から零れ出てしまう。親の決めた婚約者なんかより、ずっとずっと安心できる二人の前だと。
「殿下については、国と親が決めただけに過ぎないからな。私よりもっと素晴らしい女性が現れたのなら殿下の相手はそちらになるだろうし、反対に我が家にもっと有意義な繋がりができるのなら、私の相手もそいつになる」
「セレス嬢より素晴らしい女性ねぇ。スフィーちゃん女王に興味ある?」
「かけらもないです!」
「ふは、清々しいな。スフィーにくれてやるには不釣り合いだよ、あんな立場」
ヨミの頬は引き攣った。我々しかいないとはいえ、とんでもない言い草だ。下手に話が漏れようものなら国家反逆と取られてもおかしくはない。変なところで思い切りがあるというか、我らのことを信頼しきっている彼女に内心ため息を吐く。
まあ、かつて命を救ったという前提があることは分かっているし、別に嫌なわけでもないのだが。
「それにしてもすごい言葉。この国嫌いなの? セレス嬢」
「べつに、どうも。ただ未来があるとは思わないな。そうだろう? ノエルシフレの」
「おれにそれ聞いちゃう?」
純朴な少女は目をぱちりと瞬いた。
「そういえば、ヨミさんのいるノエルシフレってどういう国なんですか? 授業でも我が国はすごい! ばかりであまり詳しく話してくれませんし……」
「おれがいるって断言しないでほしいんだけど。いやいるけどさぁ」
「そういうところがこの国のダメなところなんだがな。まあ、ノエルシフレに関しては授業で説明されることなどないだろうが」
「ええと……?」
「他国と外交しない国。技術の発展が目ざましい、我が国の総力を挙げたって敵わないだろう大国だ」
スフィーは目を丸くする。(自称)田舎の町娘スフィーからしてみれば、王都の風景ですらも目を回すくらいなのに。
言葉を失った少女を見て、引き継ぐように男は声を上げた。
「国土でいうならこの国の半分……いいや、三分の一にも満たないだろうけどね。資源豊かな国ではあるかな。わりと自国の生産でなんでも賄っているから、他国と貿易しないんだよ。おれはそれじゃあつまらないって思ってるんだけど」
「政治に面白さは不要だろう」
「でも人生には必要でしょ? それもあっておれは国を出てるわけ。あ、ちゃんと国に許可取ってるからね。物持ち出すのも売るのも」
ヨミは学園でこそ成金男爵などと揶揄されているけれど、実情を知っているセレスティーナからすれば呆れるしかない。
だってこの男個人の総資産はセレスティーナの実家の資産をゆうに超えるだろう。ノエルシフレの品物とはそれだけ魅力的で、そして国に認められた──現状唯一貿易の許可が降りている商人ということになるのだから。
実際手持ちの道具をひとつかふたつ売る程度で貴族位が買えたのだ。いや、まあ、それはこの国にも問題があるかもしれないけど。
「すごいんですね……ノエルシフレ神皇国って」
「そうだな。いまスフィーが持っているティーポットとかもそうだ」
「えっ、これノエルシフレのものなんですか?」
「そうだよー。我が国謹製のどれほど時間が経とうとほとんど温度変化が生じない優れもの」
「ど、どおりでいつも温かいお湯が出てくると」
知った上でいつも通りカップに紅茶を注ぐあたり、変なところで度胸があるよなぁとヨミは思った。そんな彼女だから共にいて楽しいのだが。
セレスティーナもまた、そんな少女の姿に目を細めて。
「そういう意味では、ここに誘って正解だった。ヨミも、スフィーも」
「それには同意かな。貴族社会を見てみたくて学園に入ったとはいえ、大して面白みもなかったし……興味が尽きない二人といられるのは素直に嬉しいよ」
「わたしも! セレスさんが誘ってくれたこの〝ティーサークル〟がなかったらもっと寂しい学園生活を送ることになってましたから。普段はあまり話せない分、こうして昔みたいにお喋りできるの、嬉しいです」
セレスティーナは目頭を押さえ天を見上げた。天才的に愛らしく素晴らしい天女と見間違わんばかりの少女を抱きしめたくて仕方がなかった。ティーカップを置いていてよかったとも思った。持ったままなら絶対落としていたので。
そんな限界少女を見守る男は呆れた顔をしていたが、身も心も聖女な彼女の言葉には頷くしかない。表向き、公爵令嬢と成金男爵と貧乏庶民の我々が共にいられるはずもなくて。それを可能としたのが、セレスティーナが築いた制度『サークル』である。
「身分問わず、好きに設営ができてそれぞれの裁量の限りで動けるサークル活動。君ほどの地位なら書類を渡された教師だって、どんなに不可思議な組み合わせだろうと他者に漏らすことなく容認してくれるし、それなりに使える空き部屋を渡されるわけだ」
「おかげでわたしたち以外が入らないこのサークルルームの中では好きにお話ができますけど……どうしてティーサークルなんですか? セレスさん、そんなにお茶が好きでしたっけ?」
「いや? スフィーの淹れた茶と作ってもらった菓子を食べるのにちょうどいいかと」
「あっ、わたしのため」
「結果としてヨミの用意したノエルシフレのティーセットや家具なども置かれたわけだし、我ながら良い作戦だったとは思っている。それに、サークル活動中は殿下方と会わなくて済むからな」
ふ、と笑みを浮かべた少女に、ヨミとスフィーは視線を交わす。
彼女が婚約者たるこの国の王子を好いていない……もっと言えば興味がないことなんてとてもよく知っているけれど、それでも婚約者である以上やらねばならないことがあるとも知っている。
スフィーは珍しく、疲れを全面に出したため息をひとつ。
「セレスさんにはどう申し開きをしたらいいものか」
「なにを言うスフィー。お前に悪いところなんてひとつもないだろう。仮にお前に罪があるのならばそう決めた者が間違っている」
「ヨミさんなんて返せばいいですかこれ」
「害はないんだから喜んでおけば? 実際セレス嬢の言う通り、スフィーちゃんが気を揉む義理もないんだし」
「ああ。全て問題なのはあの女……婚約者のいる殿下に近付いて娼婦のような立ち振る舞いをしている、スフィーと同じというのも憚られるような言動をする、特待生のせいなのだから」
「ついでに言うと殿下にも問題があると思うけど? セレス嬢っていう婚約者がいるわりに、あの特待生にでれっでれじゃない。積極的な女性に慣れてないチェリーなの?」
「王族がそういう相手に手慣れているのも問題だとは思うが、チェリーであることは否定しようがないな。エスコートで腕を組むことすら嫌がる潔癖ぶりだ。私が嫌いだとかならともかく、どの令嬢にも同じ態度を取っているあたり相当女に夢を見ている」
「うわぁ、他国の姫と関わる機会とかあったら大変だな。下手したら手玉に取られて終わるじゃん」
「それもあって父に言われて一度手を握ったことがあったんだが、売女と罵られた」
「えっ、どこでそんな言葉覚えたのチェリーくん」
「それは私も気になった」
「こ、こんな会話絶対外じゃできない……っていうか王子さまのこと正面から見えなくなりそうです……」
スフィーは顔を引きつらせ呟いた。地位の高い二人が交わす明け透けな会話は、政治が関わる場であれば罰が下るだろう物言いで。けれど引き留めるほど王子に対する情もなかったので、スフィーは聞かなかったことにした。少なくとも今後、そこらの女生徒からきゃあきゃあ言われているあの男への見る目は変わりそうである。
そしてそんな潔癖チェリー王子だからこそ、スフィーと同様試験的に入学を許された庶民の少女のことが物珍しく映ったわけで。
「十中八九玉の輿狙いだと思うんだけど」
「むしろ地位以外に惚れるところあるか?」
「顔?」
「……安心しろヨミ、お前のほうが私は好みだ」
「おれが負けてるとは言ってないよね!?」
「なんの話してるんですかお二人とも」
「ん? そうだな。殿下に近付く女に苦情を入れることは、正当な婚約者としての義務だが……仮にそれで〝同じ特待生だから〟とかいう理由でスフィーにまで迷惑がいくようなら──正当な理由がなくとも、どうにかしないとな、と」
「さっすがスフィーちゃん過激派。なにかあったらおれも手伝うね」
「ああ、頼むヨミ」
「絶対やめてください二人とも。お二人の地位権力なんですから、自分のことのために使ってくださいよ!」
叫ぶ少女に、令嬢と男爵は内心息を吐く。そういうことを告げるからこそ、我らは彼女のためになりたいと思うのに。
潔白で純朴で、だけど現実をよく知っている。物語に出てくるような聖女よりも、よほどよほど心地が良い彼女のためだから。
◆
公爵令嬢セレスティーナ、成金男爵ヨミ、特待生スフィー。幼い頃からの知り合いにして現在共に『ティーサークル』に入っている三人のことを知る者は誰もいない。実際の素性も性格も本性も関係性も、誰一人として。
だから学園内ですれ違っても言葉を交わすどころか目を合わせることもしないし、それぞれ一緒に過ごす相手は別にいる。セレスティーナは婚約者たちや取り巻きの少女たちと。ヨミは同じく男爵家や子爵家、騎士爵の次男三男などと。スフィーは心優しい彼女と仲良くなった一部の令嬢や令息、それから少女を気にかける教師などと。
生活圏はまるで別。夢の中ですら「まさか彼らが実のところ学園で最も気の置けない仲である」だなんて見抜けない。
そんな少年少女らだからこそ────此度の噂の真実を知っているわけで。
セレスティーナは、激情を抑えようともせずティーカップを床に叩きつけた。ノエルシフレが誇る品物は壊れにくい上、彼女は案外優しいので割れることなくラグが衝撃を包み込むのみ。けれど珍しく物に当たったこともあって、ヨミはいつもより輪をかけて穏やかな声を放つ。
「セレス嬢。スフィーちゃんが新しい紅茶を淹れてくれてるよ」
「……ああ、すまないスフィー。すぐにカップを洗ってこよう」
「それくらいならわたしが…………行っちゃった」
ポットを持ったまま、どうしようと少女は視線を彷徨わせた。どうせしばらく放置したところで紅茶の暖かさは変わらないので、ヨミは苦笑しながら椅子を引く。
昔は「男爵貴族さんがやることじゃないですよぉ!」なんて言っていた彼女もさすがに最近は慣れてきたのか、エスコートに従って案外すんなり椅子に座った。
「セレスさん、怒ってましたね」
「怒ってたねぇ」
「原因ってやっぱり、あの噂ですよね?」
「それ以外にあると思う? そもそもおれ、セレス嬢がよほど感情を揺らすのってスフィーちゃんに関わること以外にないと思うんだけど」
スフィーは「ヨミさんに何かがあっても動揺しそうですけど」なんて思ったが、飄々とした態度のこの男に告げたところで信じてもらえるとは思わなかったので何も言わないことにした。いつか身をもって信じさせることにする。
そして彼の言葉を否定しきれない自分もいた。謙遜抜きにセレスティーナから大事に思われている自覚はある。
だからこそ、彼女が激怒している理由もよく分かって。
「スフィーちゃんじゃないほうの特待生。まさか自分のことを『聖女』だなんて名乗るとは」
「聖女を騙っているだなんてバレたら、すさまじい罰が下りますけど、大丈夫なんですかね……」
「なんで君の立場を脅かしている相手の心配なんてしてるのさ」
「なんのことやら、です!」
「スフィーちゃん最近肝座ってきたよね」
もうとっくにバレているのに未だ立場を誤魔化そうとしているあたり特に。それに乗ってやっている自分たちのせいでもあるだろうけど。
素性を明かす気のない彼女に合わせて知らないふりをしていたが、スフィーが聖女であることはヨミもセレスティーナもとっくの昔に知っていた事実だ。聖女にしか起こせない奇跡を間近で見てしまった以上疑う気も起きない。されどこの学園の大多数はそうではなくて。
身分を偽ること。それも貴族より更に位の高い聖女を騙るだなんて罰当たりを行う者はまずおらず。だからまさか正々堂々告げた女に対して嘘だなんて断言できるはずもない。万が一真実であったのなら、罰を受けるのはこちらなのだから。
とはいえ聖女にしか起こせぬ奇跡がある以上、真実を見抜くことは容易なはずなのだが。
「どうしてだか、殿下やその周囲は信じ込んでいるご様子だな。聖女が一世に二人以上現れたことはない。絶対にカラクリがある」
「お帰りなさい、セレスさん」
「すまないスフィー、カップを洗ってきたから紅茶を貰えるか?」
「もちろんです。それにしてもお二人は、わたしを疑ったりしないんですね」
ポットを掴んで立ち上がりながら、スフィーはふと浮かんだ問いかけを口にした。一応まだ隠している側から告げる言葉かと呆れはするものの、返す言葉なんて決まっている。
セレスティーナとヨミは、揃って。
「友を信じなくてどうする」
「これだけ仲良くしてるんだから、スフィーちゃんのことなんてよく分かってるよ」
「友達……」
「ふ、不敬だったか?」
「なんでですか。それを言うならこちらのほうが……いいえ。すごくすごーく、嬉しいです! セレスさん」
「そうか。なら、よかった」
彼女は穏やかに微笑んだ。
そんな姿を見て残りの友人二人は、「これを外で見せれば『茨姫』なんて呼ぶ人はいなくなるだろうにな」と思った。同時に、それはそれで惜しいなとも。
基本我らはお互いに親愛を抱いている。幼い頃に築かれた関わりは熱も色も変えず傍にある。だからこそ、此度の件に怒りを覚えているわけで。
「スフィーの立場を盗み取ったあの女は絶対に許さない。学のない子供がしていることだからと大目に見てやっていればこれだ……なんとしても地獄に堕とす」
「お、落ち着いてくださいねセレスさん。地獄とか言っちゃだめですよ」
「逆に聞くがスフィー、どうしてお前はそんなに落ち着いてるんだ? 悔しくはないのか」
望んで立場を隠しているとはいえ、その名をどうでもいいとは思っていないはずなのに。不可解で、不思議で。思わず問いを投げかければ、返されたのはきょとんとした丸い瞳。
心底わけがわからないとでも言いたげな目を向けていた少女は、やがて「ああ」と手を叩いた。
「悔しく思う必要はありませんよ、セレスさん。あなたが気に病む必要も。だって、問題はありませんから」
「問題が、ない?」
「はい。——神さまは、いつでも見守ってくださる。あの方の虚偽も、わたしの行いも全て。だから問題なんて、あるはずがないんです」
そこには、光があった。いいや、光と見間違うものがあった。
彼女の背後から真っ白な光が、包み込むように照らしていた。両の手を重ね握り、目を瞑る少女が纏うのは清廉な雰囲気で。
セレスは彼女に女神を幻視した。
いいや。幻なら最初から見ている。出会ったときからずっと、己にとっての女神とは。
ああ、ならば、大丈夫だ。女神様が言うのなら、絶対に。
「——そうか。なら、いい」
「はい!」
遅くなっては周りの令嬢や侍従に口を挟まれるから、といつも一番に帰る彼女を見送って。ティーセットを片づけながら、スフィーはふと呟いた。
「セレスさんってなんか、わたしのこと誤解してません?」
今更な話である。ヨミは苦笑を零しつつ、カップを拭いて棚にしまう。
「誤解っていうか、神聖視はしているかな。出会いが出会いだからわからなくもないけれど」
「で、でもヨミさんには普通に接していますし、ヨミさんもわたしとは普通に接してくれるじゃないですか!」
「おれはセレス嬢の命を直接救ったわけでもないし、あと聖女もどきとかのたまったやつを今さら敬えって言われても」
「それはそうですけどぉ」
嫌なわけではない。けれどやっぱり恐れ多くて。
ちょっと力があるだけでスフィー本人はそこらの一般人となんら変わりはなく、敬われると背筋がむずむずしてしまう。それを分かっているからセレスだって普通に接するし「友」とまで呼んでくれているが、やっぱりたまに「なんかおかしいな?」となるのである。
その辺、ヨミは接し方が上手いなぁと思う。商人としてこの国にいるだけあって、相手にどう思われているか察する能力が高いのだ。
と、正直者スフィーが真正面から告げれば、男は苦く笑った。
「スフィーちゃんがそういう性格だから、セレス嬢が敬っちゃうんだろうね」
「どういう意味ですか?」
「ヒミツ。あと、おれが空気読めることは否定しないけど、別に商人だからって理由でもないよ」
「え?」
「この国でやってるのはあくまで商人の真似事。ライバル企業がいないから好き勝手相手の足元を見て商売ができるだけで、実際本職に比べたらまだまだだろうし」
「そう、ですか? ヨミさん、マナーも良いしセレスさんについていけるほど勉強もできるから、すごい人なのかと」
「おれがすごいかどうかはともかく、セレス嬢とのあれはどちらかというと……商談っていうより、政治かな」
「政治……」
スフィーは困惑した。
そもそも我々三人の中で一番正体が不明なのはこの男だ。他国の人間というのは確かだろうけれど、住まう国と同じくらい秘密主義。ノエルシフレのことすら詳しくないスフィーからすれば、ヨミのことはもっとわからない。
けれど、それでも。彼が自分たちを「友人」と呼んでくれるのは真実で。己が彼を友人と思っているのもまた真実。
汝隣人を愛せよ。神の言葉に逆らう気はない。スフィーにとって、ヨミはすぐ近くにいる隣人だ。
「でも、悪だくみはほどほどにしてくださいね」
「セレス嬢みたいに正面突破するほうが心配だけど。スフィーちゃんの言葉がなければ絶対近日中に乗り込んでたよ? あれ」
「うう……王子さまはあちらの特待生さんを好いていて、セレスさんと離れてもいいと思っているわけですし。事を荒立てず穏便に別れて、セレスさんが自由に生きられればいいのに」
「自由に、ねぇ。そもそもセレスちゃん、将来なにがしたいんだろう」
ヨミの言葉に眉を寄せる。
そうだ。そういえば我らは、彼女の夢すら知らない。
「将来の夢? スフィーを囲い込んで一生こうしてお茶を……違う? そうじゃない? ええ……そうだな。なりたい自分というのなら、一つある。癪だが」
「どういう意味っていうかなんで今おれのこと見ていったのそれ」
次の日尋ねた言葉に、セレスティーナは驚きながらも素直な言葉を放つ。明らかなにかを含んだ様子の彼女にヨミはつい突っ込んだが、答える気はないようで。
「ヨミさんに難しいのなら、わたしには教えてもらえますか?」
「そもそもスフィーの言葉を聞かない選択肢はないな。耳を貸してくれ」
「スフィーちゃん裏切った!」
「────ああ……確かに、ヨミさんに伝えるには少し、あれですね」
「そうなんだ、あれなんだ」
「あれってどういう意味!」
声は黙殺された。ヨミはじとりとした目を向けつつも、楽しそうに笑う少女たちの姿にため息を吐く。まあ、二人が楽しそうならいいかと思い直し少しの疎外感から首を振って意識を切り替える。
「それでセレス嬢。チェリーくんとの件はどうなってるの? 君と彼の婚約を成立させたのって家のほうだよね」
「そうだな。お前の殿下に対する呼び方は置いておくとして、婚約は我が公爵家と王家が執り行ったもの。私の意思も殿下の意思も反映されていないから、殿下はまあ不服だっただろうな」
「そこで他人事みたいに言ってるセレス嬢はどうなのさ」
「どうでもいいな。貴族としてそれなりに不自由なく過ごさせてもらった以上、義理を果たすだけだ」
「あれ、でもセレスさん。お父さんのこと一番尊敬しているから、だから役に立ちたいって言ってたような」
セレスティーナはうっそりと微笑んだ。十年弱も昔の言葉をよく覚えているなと思いながら、それでも少女の言葉に訂正を挟む。
「違うぞスフィー。私が一番尊敬しているのはお前だ」
「あっはい」
「それと────あの女が本物の聖女かもしれないから、くれぐれも機嫌をそぐわぬようにしろ。などと言ってきた父に、どう役立てと?」
スフィーもヨミも頭を抱える。よりにもよって特大の地雷に突っ込みやがった。
偽聖女だと知っている上、王子への情はないにせよ婚約者としての責務から苦言を呈しては無碍にされて疎まれてきた彼女は、とっくの昔にかの人物の機嫌を損ねている。
聖女ではない証拠を挙げられない以上父親の言葉に逆らえる理由もないけれど、愛する友人の立場を汚すかの者に媚びへつらうなど真っ平御免。聖女と王家に逆らった罪に問われるほうがマシなレベル。今更、父に失望されたところで痛む傷もない。
だから女は、意気揚々と口を開いた。
「ところで二人とも。週末にパーティーがあることは知っているか?」
「初耳です」
「他国の重鎮がこの国の視察に来ている関係で歓迎パーティー的なの開くんだっけ。国王代理が学園に来るとか」
「国王代理?」
「スフィーちゃん知らなかった? いまこの国の王様は病で伏せっていて、王弟殿下が代理やっているんだよ。病を治すために聖女を探したり医学が発展している他国の人を招いたりしてるんだって」
「病を治すため、聖女を……」
スフィーは目を見開き、拳をぎゅっと握り締めた。心優しい彼女が考えていることなんてすぐに分かる。だからこそ、セレスティーナは今まで語らなかったのに。
「おいヨミ」
「ごめんごめん。まあ、すぐ命に関わるものではないらしいし、もしかしたら今回この国にやって来た人間が治せるかもしれないんだからさ。可能性はある」
「もしかして、この度やって来た他国の者とは」
「うん、ノエルシフレの皇族だよ。おれのところにも情報が来た」
ほぼ唯一と言っていいほど、この国に住んでいるノエルシフレの国民なのだ。公爵令嬢であるセレスティーナより早く情報がいくのも当然で、彼女は納得した様子で頷いた。同じくヨミの励ましに力なく首を振る少女を見つめて、セレスティーナは口を開く。
週末行われるパーティー。学園内でも式典などの度に行われるけれど、国王代理が来るということもあり今回は相当大きなものになる。そこで、セレスティーナは本来受けるはずの話を与えられていない。
当然婚約者が行うはずの、エスコートの招待状。王子により与えられたのは聖女(と自称している)平民の特待生で、セレスティーナには一切話がきていない。
つまりそこで、全てが決まる。
「あの男のことだ。王弟殿下に直談判して私との婚約を解消してもらい、あの女を正式な婚約者にするつもりだろう」
「ゆ、許されるんですかそんなこと……!?」
「相手が本当に聖女であるのなら、王家は喜んで引き受けるだろうな。そしてそんな聖女の気分を害した──もっと言えば聖女を虐めていた公爵令嬢は断罪される。なんたって、聖女はこの世界で最も尊き方なのだから」
「いじめ、ねぇ。正当な言葉しか言ってなかったと思うけど?」
「私はな。だが庶民が王子に取り入った以上、他の令嬢は快く思っていなかった。そんな奴らの行動が全て私の咎となるだけだ」
「そんな、酷い」
「むしろ見抜けなかったこちらの落ち度だな。どれほど殿下が熱を上げたところで身分の壁というものは存在する。妾にする程度で終わるかと思っていたが……聖女と名乗り、それが疑われないというのに驚いた。判断が甘かった」
実際どうして聖女として通じているのかは分からない。この国が聖女と関わったのは、セレスティーナの隣にいる少女を除けば五十年は昔のこととされていて、我々からしてみれば聖女の奇跡など縁遠きもの。だから騙そうと思えば騙せるのだろうが、どうやって〝傷を癒す〟奇跡を再現できるというのやら。
なんにせよ起こったことは変えられない。奇跡があったとしても、過去は動かない。
だからセレスティーナはにっこりといつも通り、『茨姫』の名に相応しい笑みを浮かべた。己の最期が迫ろうと、彼女は決して変わらない。
昔に一度、価値も世界も己の結末だって塗り替えられたのだから。今更、何があったって。
「一応言っておくがスフィー。お前の優しさは知っているが、だからと言って私を庇おうなんて思うなよ。聖女は政治に関わらず誰より偉い治外法権……とはいえ、後ろ盾のない小娘であることは事実。正体が知られれば、未来は明るくない」
「で、でも、それじゃあセレスさんが!」
「私のことは別にいい。そもそもあのとき失っていたかもしれない命な上……最近お前たちと接していたら、思うことがあってな」
「思うこと?」
心の読めない表情でヨミが尋ねれば、セレスティーナは楽しそうに首肯した。
「過去言いつけを破り森に行き、父の言葉に逆らい一週間も小さな街で過ごし、猫を被って婚約者を欺き、本来勉学に励むべき学園でお前たちと散々お茶を飲んだ。相当な悪者だとは思わないか?」
「それ後半、おれたちも同罪じゃん」
「はは、そうだな。だから──そんな悪者として生きた以上、最期まで悪だったと思われようと悔いはない。腐っても公爵令嬢、生涯幽閉程度で死ぬことはないだろうしな。あ、修道院に入ればスフィーとはまた会えるかも」
「えー、男子禁制の修道院じゃおれと会えないよ」
「確かに。では今の内に言いたいことを言っておかなければな」
少女は企むように笑みを浮かべて、友人へと向き直る。セレスティーナとヨミの二人は悪友といえるような関係性で、お互い軽口は叩けど本音を語ることはそうなかった。
それでも、信頼はあった。当然だ。だってセレスティーナはこの男にもまた、命を救われたのだから。
世界で一番本心を話せる異性に対して、彼女は世界で一番大好きな人の名前を口にする。
「スフィーを頼む。ヨミ」
「わ、わたし……ですか? どうして」
「私がいなくなれば、この学園でスフィーを守れるのはお前しかいないだろう」
「成金男爵に頼むこと? それ」
「この国では、の話だろう。それは。ノエルシフレではまた違うはずだ」
「……ノエルシフレに貴族階級はないって知らなかった?」
「知っている。だが、騎士という階級はある」
ヨミは黙り込んだ。ひとり目を瞬かせ動揺を見せるスフィーに、セレスティーナは笑みを浮かべながら説明をする。
ノエルシフレ神皇国に貴族制度は存在しない。いるのは皇族のみ。しかし、皇族を守る騎士団の者たちは実質的に貴族と同じ地位権力を得る。よく知っているなぁとため息を吐けば、「調べたんだ」と彼女は告げた。
「かつて見た、巨大ヘビを倒す実力があって、ただの商人だなんて信じられるものか。絶対に剣術の教育を受けている者の動きだと思ってノエルシフレの階級制度を調べたらそこに行きついた。まあ、お前の身分まではわからなかったが」
「わかったら怖いって……そもそも、おれたちはお互い正体を語らない関係性なはずなんだけどね」
「わかっている。だから私も、公爵令嬢ではなく友人として頼むんだ。──なにかあったときは、スフィーを頼む。ヨミ」
「……わたしの意思は聞いてくれないくせに、勝手ですね。セレスさん」
「勝手で結構。貴族とはそういう存在だ。振り回されるのは嫌だろう? だからあまり関わるなよ、スフィー」
「案外、そうでもないんですよ。お二人に振り回される分には」
「いいよ、了解。というか友達を守るのは当然のことだから、言われなくたってそうするよ」
「そうか、よかった。──これで、憂いはない」
ああいや、一つだけあった。
セレスティーナは考え込むように口元に手を寄せ、真っ直ぐ男の赤い目を見つめて。
「ヨミ、商人としてのお前に用がある。せっかくのパーティーだ、有終の美を飾るのに相応しい戦装束を用意してはくれないか?」
「ドレスを戦装束って言うところ、嫌いじゃないよセレス嬢。もちろん、喜んで」
◆
「セレスティーナ! お前の暴挙にはほとほと愛想が尽きた。何より聖女を傷つけた者を許しておくことはできない! ここに、俺たちの婚約の破棄を宣言させてもらう!!」
「あらあらまあまあ。暴挙、だなんて酷い物言いですわね、殿下」
「惚けるな! お前の取り巻きたちやこの学園の生徒から証言は上がっている!」
とんだ茶番だ。貼り付けた笑みを浮かべるセレスティーナの瞳の奥は冷めきって。味方なんて一人もいない会場内でピンと背筋を伸ばしたまま、いつもより丁寧にセットした髪を揺らす。
ああ、いや、味方はいる。我らが主役とばかりにホールの真ん中に堂々と立つ男女の視界に入らない位置。潜むように会場の壁際に立つ、目の前の二人とは似ても似つかぬ男女が。心配を隠しもしないハラハラとした表情を向けている少女と、娯楽か何かだと思っているのか若干ワクワクした顔の少年が、セレスティーナの視界にのみ入る場所から見守っていた。
それが嬉しくて表情が綻びそうになり、慌てて口元を扇で隠す。この場には不釣り合いな表情だ。口を挟まれる隙は減らしておきたい。
しかしまあ、一切の隙を見せずとも己に酔った様子の女は恥もなく隣の男へともたれかかり。
「で、殿下ぁ。私、怖いですぅ」
「大丈夫だ。あんな女にもう怯えなくていい。俺がお前を守ろう」
「殿下……」
派手な桃色髪の少女はわざとらしく頬を染めた。セレスティーナの目は更に色を失った。
なにがむかつくってあの女、口調や態度がほんの少しだけスフィーと似ているのだ。もちろんあの子のほうが優しく麗しく素晴らしい存在なのだけれど、むかつくものはむかつく。完璧に私情。
そんな女が、ふるりと唇を揺らして目の奥を潤ませた。
「わ、私は聖女の立場を使って、セレスティーナさんをどうにかしたいとは思いません! ただ、謝ってほしいんです。身分や立場で人を動かすなんて、いけないことだと思うから……!」
本当に、中身はスフィーと似ても似つかない。
彼女ならそうは言わない。貴族には責務があり、義務があり、だからこそ使える力があると彼女は知っている。聖女の立場が重いものだと知っている。だから彼女は、どんなに手遅れであろうと自分から名乗ろうとはしなかった。それはセレスティーナやヨミのような国の政治に関わるような立場の者を、下に置きたくなかったから。対等に接するために、我らは身分を告げないことを約束した。
なのにこの女は。何も知らない、ふざけた女は、矛盾だらけの戯言を口にする。さもそれが正義なのだと言いたげな顔をして。
セレスティーナは笑みを消した。
もう、いい。我慢ならない。我慢する必要も思い浮かばない。このまま悪役として退場してやろうと思っていたけれど、せめて一言……いいや、心の内全てをぶつけないと満足いかない。
笑みを消して、口元を覆っていた扇子を閉じた。パチンと大きな音が響いて、辺りの声が一瞬止まる。
女は無表情で告げた。
「──うるさい」
「は?」
それは彼女が一度も口にすることがなかった紛れもない暴言であり、王子は理解が及ばない様子で口から音を漏らす。
「いま、なんて」
挙句耳を疑い口を開けば、返されたのは我慢することを止めた少女による心からの言葉。
「うるさいと言ったんだこの童貞男!!!!」
「ぶはっ」
離れた場所で聞いていたヨミは噴き出した。隣に立つスフィーは呆れた眼差しを向けるものの、彼ら二人を気にする者はいない。
会場内の誰もが、日頃冷たい笑みを絶やさず遠回しに皮肉を告げる彼女の直接的な……それも品のない言葉に目を丸くしていた。
どうせ悪として、聖女を傷つけた愚かな公爵令嬢として罰が下るというのなら。
何もかも知ったことかと吹っ切れて、セレスティーナはずっと思っていた本音を口に出す。
「そんな娼婦じみた女に媚びを売られて喜んでいた貴様のことなどどうでもいい。その頭の悪そうな女はもっとどうでもいい! 貴様らが将来番おうが破滅しようが好きにしろ!! 私も貴族として生を受けた身、国が沈もうが共になる覚悟くらいはとっくの昔からしている!」
「そ、それはそれでどうなんですかぁ!?」
「だが、私にも譲れないことくらいある。貴様のような馬鹿女、そこらで殿下と乳繰り合う分には好きにすればいいと思っていたが────我が女神を侮辱し、汚したな」
「女神……? あなた、何を言って」
「いいか馬鹿女。頭の弱い貴様に教えてやろう。……聖女とは、ただ地位の高い女のことではない。都合が良いからと騙っていい存在ではない。それは希望で、信仰で、敬愛の果てにおられる者。お前なんかがなれるはずもない、うつくしい人のことだ」
神の存在すら疑っていたセレスティーナにとって、どんなものよりと尊き存在。それが聖女。名を汚すなど許し難く、そこらの教会の司教よりもよっぽど怒りを抱えているのだ。
セレスティーナにとっての世界は、あの少女の色で構成されているのだから。
そんな女の激情を知る由もない男は、愛する人への暴言が許せず目の端を吊り上げ声を荒げた。
「本性を現したな女狐! 彼女が聖女ではないと、そう愚弄したか!?」
「愚弄? 事実を言うことのなにが悪い? どうか私に教えてくれ殿下。そいつが聖女だと言うのなら、どんな奇跡が起こせるというんだ」
「私の怪我を治した! 王家に仕える医者よりも、早い間に!」
「太ももに突き刺された太い牙による風穴を、その場で即座に塞いだか?」
「はぁ?」
「私の知っている〝奇跡〟はそれだ。救われた命は、此処だ」
ちゃちな手品なんかでは決して見せることのできない現実を思い返して、彼女は目を伏せる。生々しく過激な言葉に王子は臆した様子で一歩下がった。過ごした年月だけは長い婚約者の声に、一切の嘘がないような気がして。これまで過ごしてきた中で一番本心をさらけ出しているような気がして。
そんな男の様子に戸惑ったのは隣にいた女である。彼女は内心顔を歪ませて、豊満な体躯を揺らし考え込む王子の意識をもぎ取って、鋭く声を放つ。
「わ、私が聖女ではないと言うなら、本当の聖女が別にいると言うのなら。ここに連れて来るべきです!」
「それは……」
「できないって言うなら、そんなの嘘に決まってる!!」
そうだ、と王子は目の色を変えた。だって聖女の正体を隠し通す必要なんてない。むしろ聖女を発見したともなれば王家に感謝されるのだ。公爵令嬢たる彼女なら喜んで当然。
なのにセレスティーナはここに一人で立っている。婚約破棄を断るための材料になるだろう聖女なんて、どこにもいない。ならばそんなの、ただの戯言でしかない。
勝ち誇った様子で唇を歪ませた桃色髪の女に、セレスティーナは目を伏せた。悪知恵だけは回る女だ。なんにせよ、彼女はこれ以上言及ができない。万が一、ほんの少しでも怪しまれてスフィーの存在にまで行き着かれるわけにはいかないのだから。
黙りこくった少女を見て、女は勝ち誇った笑みを形作る。彼女の本性には驚いたが、足掻けるのもここまでだろう。なんたって取り巻きにすら見放された彼女は一人っきりで、助けられる者もいないのだ。
と、心の内で令嬢を見下す女の耳に、ふと不可解な声が届いた。
「────いいんじゃない? セレス嬢。君が愛するあの子を、自慢してしまえば」
「だ、誰!?」
「ヨミ!?」
「お前は……見覚えはあるが、どこか辺境の貴族か? 勝手に話に入らないでもらいたい」
「チェリーくんちょっと黙って」
「チェ……?」
言葉の意味は分からずとも馬鹿にされていることは理解できた。言葉を失った王子をよそに、セレスティーナは突如割り込んできた友人へと慌てて駆け寄った。
他人のふりをするには手遅れだし、少なくとも何か企んだ表情に嫌な予感しかしない。
「おいヨミ、勝手なことをするな! お前まで咎が」
「セレス嬢、知らなかった?」
「なにを」
男はいっそ誇らしげに、それから「仕方ないなぁ」とでも言いたげな顔で微笑んだ。
「おれたちの知っている〝あの子〟はさ。少なくとも、友人が困っているときに一人隠れておくなんて、そんな器用なことできない子だよ。普通で普遍的な、自称庶民らしいからね」
「そうですよ、セレスさん。友人を守ることもせず、この立場を貫きたいとは思いません!」
ドレスでも何でもない、特待生であることを示す小さな赤いリボンのついた制服を着たまま胸を張り、優しげな面影の少女はこつんとローファーの踵を鳴らした。
普段相手にする令嬢とは違って、立つだけで圧を感じさせるわけでも覇気を纏っているわけでも、空気を塗り替えるような存在感があるわけでもないのに。なのに何故だか泣きたくなるほど安心する。
心の底からほっとするような不思議な雰囲気の少女は、水色髪の先、三つ編みをゆらりと揺らして口を開いた。
「ごめんなさい、突然話に割り込んで。ですが……これ以上セレスさんを侮辱するのなら、わたしも容赦はできません」
「あ、あなたたち、一体何者ですかぁ……!?」
突如割って入った部外者たちに、自称聖女は声を荒げる。当然だ。味方なんていないはずの罪深き令嬢を守るように、二人も踊り出てきたのだから。
王子が知らない顔。しかも片方は平民の証を身に着けている。どう考えても身分の低い彼らは何故か、聖女を除きこの国で一番の地位を持つだろう令嬢に、親しげに話しかけていて。
そんな公爵家の令嬢も混乱を隠しきれず、ほんの少し抱いてしまった喜びを隠すように声を絞り上げた。
「どうして、出て来てしまったんだ! ヨミ……スフィー……!」
嬉しい、なんて。口が裂けても言えるはずがない。
特に誰よりなにより守りたかった少女が表舞台に現れてしまったのだ。今からどう誤魔化せばいいだろう。優秀な脳味噌であっても答えは出ない。出すより先に、スフィーはセレスティーナの手を握った。
冷たい手。当然だ。こんな舞台に一人悪役として登って、怖くないはずがない。
初めて出会ったときから知っていた。彼女は案外臆病だって。
スフィーは親愛なる友人の手を両手で包み込みながら、とつりとつりと言葉を零し始めた。
「わたしね、セレスさん。生まれて初めてのお友達が、あなたとヨミさんなんです」
先代聖女たる祖母より、王族貴族と関わるのはろくなことにならないと言われていて。正体を隠して、誰とも仲良くなるなと言われて。
そんなときに出会ったのが、よりにもよって貴族ときた。──正体は隠していたけれど、こんなに美しいひとが、普通の人ではないことなんてすぐに分かって。彼女は己を女神と呼ぶけれど、あの日血に濡れた少女を己こそ神か天使だと思ったのに。まあついでに巨大ヘビの首を狩った男は魔王かなにかだと思ったが。
なんにせよ、本来警戒するべき貴族たる少女は、決して自分を裏切らなかった。本当に誰にも、家族にも素性を話さず隠し通してくれた。
だから、また会いにきたのだ。
警戒するべき権力者ばかりの学園に。自分は、彼ら二人に会うためだけにやって来た。数年前の七日間が、どんな日々より魅力的だったから。
そんな大事な大事な友人が語ってくれた〝将来の夢〟を、捨てさせたくない。
すうっと大きく、息を吸って。
「騎士に、なりたいって言った!」
セレスティーナは目を見開いた。
それは別れを告げる前の話。もう将来なんて無いだろう己の未来を自覚しながら、それでも友人たちに対して嘘は告げたくなくて答えた本心。
「憧れたんでしょう、あの日! あなたを救ったわたしを女神なんて呼んだみたいに。あなたを助けたあの人に……ヨミさんの姿に、憧れたんでしょう!? なのになんで、捨てようとするんですかぁ!」
「ス、スフィー、それ秘密だって」
「知りません!」
顔を赤くするセレスティーナの姿に、ヨミは数回瞬いた。
いやだって初耳だ。案外豪胆な彼女の夢が騎士になることだというのは……正直似合うなぁと思ったけれど。そのきっかけがあの日の自分だなんて。
むしろ怖がられたっておかしくはないと考えていたし、そうでなくても令嬢が剣を握って巨大ヘビに一太刀浴びせるだなんてトラウマになってもおかしくはないのに。
彼女は豪胆で、それでいて強い。ヨミはおかしくなって笑い声を上げた。
「あはははっ! あれで騎士を目指すって、とんでもないねセレス嬢!」
「ああほらやっぱり笑った! だから言いたくなかったんだ!!」
「別に馬鹿にしてるわけじゃないよ。うん。本当に、素敵な夢だと思って」
「そうですよ。素敵だからこそ、こんなところで終わらせるには惜しいと思った。自由になってほしいと思いました」
だから、と。少女は王子とその隣に立つ存在へと向き直り。
「神さまの詔より先に、わたしが宣言しようと思います。大事な大事なセレスさんを傷つけた者を、わたしは信徒と認めない」
「勝手しちゃっていいの? セレスちゃん」
「神さまの御心を計ろうとするなんて不敬かもですけど、少なくともわたしが信じ敬う主上であるなら、友達を見捨てるほうが怒られてしまうはずです」
「お前と、セレスティーナが友人だと……!?」
「友人、です。少なくとも、わたしにとっては」
公爵令嬢とただの平民。関わることなど本来なく、あったところで身分の差による溝があるだけ。それも完璧無慈悲な『茨姫』を前にして、そのような口を叩ける者などいるはずもない。
どういうことかと目を白黒させる周囲を置き去りに、ヨミはにやにやと楽しそうに口を開いた。
「言うねぇ。で、どうなのセレス嬢。ここまで格好をつけられちゃったわけだけど」
問いかけられたセレスティーナは深く目を瞑り、胸元に手を当てていた。
握られた少女の手の暖かさを覚え込むようにして、ほうと暖かな吐息を漏らす。これほどまでの熱を抱いたのは遠い昔、初めて彼女を姿を目に映したのと、同じだった。
「────この心を、なんと表せば良いのだろうな。百万の言葉でも足りない、百億の行動でも足りない。熱にのぼせてどうにかなってしまいそうだ」
「うーん。愛かな!」
「愛……そんなありふれた言葉でいいと?」
「でも一番近しいと思うけど」
「そうか。ではスフィー、愛してる」
「ちょっと!? なに言ってるんですかセレスさんもヨミさんも!」
しっかりしてください! とスフィーは叫んだ。もっともである。
一方で、王子は一瞬気圧された少女へと、呟く。
「お前に、なんの権利があって」
「権利なら、あります」
「スフィー」
引き留めようとするセレスティーナに、少女はゆっくり首を振った。もういいのだ。だって何があったってここには二人味方がいる。なら、例えなにがあったって大丈夫。
みんな一緒なら、それだけで十分だから。
「わたしは……わたしこそが、神さまの代行者。聖女たる存在です」
空気が、固まった。
聖女を騙ることは、最も重い罰が下る。だから誰しも真実の露見を恐れ口にはしない。聖女を見分ける方法は簡単だ、『奇跡』を起こした者が正しい。
そんな聖女が、この場には二人いるという。過去同じ世代に聖女の力を持つ者が複数現れたことはない。前例がないだけで必ずしもそうだという保証はないが、それを信じるにはあまりにも都合が良すぎた。
聖女が二人。しかも揃って特待生。水色髪と桃色髪。王子と公爵令嬢。相反する存在に、誰しもが目を回す。
そんな混乱の隙を突くように、スフィーはポケットに入れていた小さな袋を取り出した。いつも持ち歩いている花柄の袋は祖母が作ってくれたもの。
「あ、あなたが聖女なんて、そんなの」
「おばあちゃ……先代の聖女さまより受け継いだお守りが、ここにあります。先代の聖女さまは、力を失うまでこの国の王家に仕えていました。その証です」
聖女は血族が受け継ぐわけではないけれど、聖女であった者が持つお守りは確かな証拠となる。渡された薄い金属に刻まれた紋を見て、王子は絞り出すような声で告げる。
「たし、かに、我が国の紋が入っている……それに、王家の名も」
「王族の名を、そしてなにより聖女の名を騙るはずがありません」
「で、そこのやつはどうなの? あれだけ散々聖女だなんだ言ってたんだから、スフィーちゃんのお守りより信憑性あるもの出せるんだよね」
「煽らないでくださいヨミさん……」
ここぞとばかりに挑発を重ねる男に、スフィーはげんなりと呟いた。
とはいえ、反論のしようもない。ここにいる生徒のほとんどは聖女の『奇跡』を目に捉えたことがないのだから、信じられるのは今出された証拠品のみ。偽造なんて許されない王家の家紋入りのアミュレットであると王子が宣言してしまったのだ。そもそも彼女の背後には、国で最も地位の高い貴族の娘、セレスティーナが控えている。
安易に「嘘だ」と断じることなんてできない。けれど真実と認めてしまえば、セレスティーナを糾弾していたこの状況こそが間違いであったと証明されてしまう。
にっちもさっちもいかなくなった一同と、青い顔を浮かべる自称聖女。それから未だ理解が及んでいない王子をよそに、楽しそうに会話を重ねる異色の三人。
パーティーらしさなどもうカケラもないホールの中にて。
突如全員の耳に響いたのは、強くヒールが打ち鳴らされる音である。かつんかつんと床を叩く音は、騒がしい空気を一掃するようによく聞こえた。ホール内の舞台上。誰もが見上げる場所に現れたのは、長い黒髪を靡かせた少女だ。
この場にいる生徒たちとほとんど変わらないだろう年頃の彼女は、黙り込んだ周囲を見回してクスクスとわざとらしい笑い声を上げる。
「面白い余興をありがとう。歓迎の意図は伝わったわ。ええ、それはもう十分なほどに。王子自らが参加なさるなんて、ずいぶん自由な国なのね」
「……なんだか、猫を被っているときのセレスさんみたいな方ですね」
思わず、とでもいった様子でひそりとスフィーが耳を打つ。聞こえたのは隣の二人だけだが、セレスティーナは曖昧に頷いた。肯定していいものか一瞬悩んだので。
「私が言うのもなんだが、そうかもしれないな」
「うん……本当にね……」
「どうしたヨミ? 頭を抱えて」
先ほどまでの嬉々とした表情から一変、ヨミは現実を直視したくないとでも言いたげな姿で俯いていた。そんな三人組を気に留めることなく、舞台上の女はルージュの乗った唇を歪め、視線だけで後ろを向く。
「聞いてはいたけれど中々に愉快な学園ね? 王弟殿下」
「ミヤノシス殿……」
「あら、顔色が悪いわよ? 私が虐めているみたいじゃない。悲しいわ」
同じく、彼女と同じように舞台上へ現れたのは銀の髪が映える青年。女の正体は知らずとも、この国の貴族であるならば全員知っている顔が現れたことに騒めきが広がって。
そうだ、乱痴気騒ぎで気が逸れていたけれど、そもそもこのパーティーの開催理由は彼らを迎え入れるためなのだ。
王子は目を丸くして、慌てた仕草で頭を下げた。
「お、叔父様……王弟殿下! もういらしていたのですか!」
現在王が意識不明の状態につき、実質国のナンバーワン。そんな男が来るまでに片をつけようと思っていたのに、間に合わなかった。しまった、とでも言いたげな表情の子供に青年は深く深く息を吐き。
そして舞台から飛び降りて少年の頭をわし掴んだ。めきめきと、嫌な音が聞こえてきて。
「もうもなにも俺とこの方が主役だこの馬鹿甥が! 面倒事を増やしやがって、だから教育はしっかりさせろって兄貴に言ったってのに……!」
「い、痛い! 痛いです叔父様!!」
「痛くしてんだよ! あと他の貴族がいるときは関係性じゃなく身分で呼べって何度言わせる気だテメェ!!」
ガラが悪いなぁと皆が思った。こういう性格だから王になれなかった……あるいはならなかったんだろうなぁとも。決してマナーが分からないとか粗暴だとかそういうわけでもなさそうだし。
あの性格では、この国では苦労しそうだなと思わず同情したヨミをよそに、青年にとっての更なる苦労の種は、舞台上に佇む少女を見つめて口を開く。
「その女の子は……」
「女の子って、私のことかしら。気軽に呼ぶのね、自己紹介する権利もない小娘が」
「小娘!?」
同い年、あるいは年下らしき少女から漏れ出た言葉とは思えず、桃色髪の女は声を失った。
一歩で立ち振る舞いとそれから王弟と共に現れたことで薄々察していたセレスティーナは、この場で一番詳しいだろう隣の男へ口を寄せて。
「王弟殿下と共にいるということは、まさかヨミ」
「あー、うん……彼女は」
告げようとして、口を閉ざす。
ヨミを介さずとも、黒髪の少女は妖艶に微笑み言葉を紡いだ。
「ノエルシフレ神皇国の皇女、ミヤノシス・A・ノエルシフレよ。まあ今回は皇女ではなく外務大臣として来ているのだけど」
「ノエルシフレの、皇女……! いや、外務大臣だと?」
「ノエルシフレは身分に囚われず実力と能力によって好きに働けるのが魅力なの。私もプリンセスのように守られるより、政治を行ったほうが性にあっているもの。それに、名乗り上げたときの皆様のお顔が大変魅力的で」
前半は自慢げに、後半は恍惚と告げる彼女の姿に全員がひっそりと後ずさる。
それは彼らも例外ではない。スフィーは隣の男の制服の裾を引っ張りながら、引きつった顔のまま訴えた。
「ヨミさんあの人やばいです」
「うんスフィーちゃん少し黙ってようね。目をつけられるとロクなことにならないから」
「聞こえてるわよそこ」
「うげ」
とんでもない地獄耳。顔を顰めた少年は、けれど畏まることなく「ごめんごめん」とでも言うように軽く手を振っていて。隣の少女らはギョッとした顔を向けたものの、皇女はため息を一つ吐くのみ。
自己紹介だけで苛烈であることが分かる彼女の仕草に、思わず王弟は問いかけた。
「ミヤノシス殿。そちらの者は」
「ああ、事前に話は通していたでしょう? 我が国の者を一人、この国の学園に留学させる許可をと」
「まあ。それでどのような者が来られてもいいように、特待生制度を始めたので」
「あなたの政策だったのね、王弟殿下。良い案だったとは思うわよ……とはいっても成れの果てがこれでは皮肉に聞こえるでしょうけど」
「皮肉じゃなかったんだ」
ヨミは呟いた。信じられない、と周囲は目を剥いた。全員同じことを思っていたけれど、それでも口には出さなかったのに!
唖然とする彼ら彼女らの考えを明確に感じ取ったミヤノシスは、ほんの少しだけ苛立った様子で目を吊り上げた。
「うるさいわね。さすがの私だって、まさか本物の前で聖女を騙る馬鹿が特待生としてやってくるなんて想像だにしないわよ」
「せ、聖女を騙るって!」
「黙りなさい小娘。あなたに口を開く権利を与えた覚えはないわ」
ノエルシフレの皇女が、聖女を偽りであると認めた。
そんな事実に騒めく生徒たちとは別に、王弟はゆっくりと息を吐く。こんな都合よく現れた聖女の時点で疑わしかったし、大して期待もしていなかったため偽者であったところでどうとも思わない。いや、まあ、彼女が聖女であるかもしれないと信じていた甥含む一部の貴族は大混乱だろうが、それは一旦忘れるとして。
彼女は告げた、「本物の前で」と。
そもそもこのパーティーの主役たる二人は影からひっそり此度の騒動を聞いていた。だから、知っているのだ。この場にはもう一人、聖女であることを認めた少女がいることを。
聖女は──スフィーは戸惑いながらも、それでも一歩踏み出して。
「あ、あの……どうして、信じてくださるんですか」
「むしろこの場で名乗りを挙げるのが、偽物の聖女であるほうが馬鹿らしいと思うけれど。何より……彼が認めたのでしょう。なら私が否定する理由も権利もないわね」
「彼って、ヨミさん? ヨミさんとお知り合いなんですか?」
「知り合い……ええ、まあ。そもそも彼をこの学園に編入させたり、ノエルシフレに関わる物への売買許可を出したのは私よ」
ヨミがノエルシフレの関係者だとほとんどの者は今知ったわけだけれど、最初から知っていた二人は別の意味で驚いた。
皇女が直々に手続きをしていたなんて。本当にこの男、とんでもないなと。
「直々、というか……責任を押し付けたかっただけのような気もするけれど。好き勝手されるよりはよかったと思うわ。結果として、国に利益があるなら私はなんでも構わないのだから」
「そう言うと思って」
「それはそれとして、自由に動きすぎよ。いえ、でも耐えたほうかしら? こんな愉快なパーティー会場を壊さない時点で」
「他国に関わりすぎてもロクなことにはならないだろうし、友達二人の支援程度に留めるつもりだったけど……そんな二人を怒らせたわけだし。好きにしていいかなって」
「だからといって、故郷のパーティー会場よりも先にこんな舞台に上がるのもどうなのかしらね」
気心知れた立ち振る舞いで言葉を交わす黒髪二人。国柄が現れたような似た色彩をした二人のうち、ふと少女は目を瞬いた。
そういえば、と告げたのは。
「あの聖女〝もどき〟が見せた『奇跡』がどんなものだったか、ご存知?」
「せ、聖女もどき……」
「ああ、そういえば俺も聞いてないな。奇跡を起こしたって話自体はそこの甥とか報告書とかで耳に挟んだが」
「あら、誰も知らないのね。教えてあげたらどうかしら? 王子様」
王弟すら知らないことをどうして他国の人間たる皇女が知っているのか。考えだしたら怖いので気にしないことにするけれど。
企んだ表情のミヤノシスに、王子はガバリと顔を上げた。
そうだ、そうなのだ。愛しいこの子を彼らは偽者と馬鹿にしていたけれど、自分は確かに『奇跡』を見た。この身で実感した。
その出来事を思い出し、ふつふつ浮かび上がった周囲への怒りに従い怒鳴るように口を開く。
────何故だか焦った様子の、隣の女には気づかぬままに。
「お前たちが散々愚弄するこの子は、たしかに私のことを癒してくれた!」
「お、王子、待って」
「あの日薔薇の棘に刺された私の指先を優しく包みこみ、見たこともない魔法のような布を当てれば──次の日には傷跡すらわからぬほど綺麗さっぱり癒えていたのだ! これを、奇跡と呼ばずなんと呼ぶ!?」
もっとも聖女に縁深い三人は、さすがに困惑して顔を見合わせた。
「つ、次の日?」
「棘なんて、なにもせずとも半日くらいで治らないか……?」
「人によりけりだとは思うけど。というか布? 聖女がわざわざ?」
出会って初っ端、足に空いた風穴を一瞬にして綺麗さっぱり癒して消した誠の『奇跡』を思い返せば、比べるのも申し訳ないようなちっぽけな成果に戸惑うばかりで。
そもそも何もないところから『奇跡』を見せるからこそ聖女と呼ばれるのに、布とはどういうことなのか。
おろおろ視線を交わし合う三人を面白そうに見守っていたミヤノシスは、やがて懐から小さなナニカを取り出した。
「──魔法のような布とは、まさかこれかしら?」
「そ、それだ! どうしてそれを!?」
「どうして、もなにも」
さて、どう告げたものか。掲げたそれを皆は不思議そうに見ているけれど、一体どういうものなのか理解が及んでいる者は二人いて。ひとりはもちろん、これを使用した自称聖女。
そしてもう一人──ヨミは目を丸くして、信じがたい真実を直視してしまったような表情を浮かべていた。
皇女は掲げた肌色のそれを眺め、唇を震わせる。
「だってこれ、我が国で販売している医療道具だもの」
「は?」
「国で、販売……?」
「この国の医学よりは先を行っている自覚はあるわよ。このテープ……王子様曰く魔法の布? を巻くだけであら不思議。何もしないより菌の繁殖を防ぎ傷が早く癒えるようになる優れもの。ちなみに絆創膏って名前」
「ばん、そうこう」
「え、じゃ、じゃあ聖女の奇跡って」
「そうねぇ。これを使えるものを聖女と言うのなら、ノエルシフレの国民はみんな聖女なわけだけれど。一千万人も生まれてしまうわ。未来は安泰ね?」
ノエルシフレの国民全てに行き渡っているだろう〝魔法の布〟を見ながら告げれば、王子の唖然とした表情はやがて、とんでもないネタバラシを喰らったような、拍子抜けの結末を見届けたような、呆れと疲れが入り混じった顔へと変わっていく。
セレスティーナは思わず噴き出した。
「ふ、くく……聖女だらけの国か、神話のようで素敵だな」
「セ、セレスさんまで乗らないでください! そりゃあわたしも、とんだ間抜けな話だとは思いましたけどっ!」
「あなたの言い草も相当だと思うわよ、今代の聖女さん」
「えええ!?」
自覚がない分余計失礼な話だが、ほとんど聖女であることを公に認められた彼女にそんなことが言えるはずもなく。
普段は、こういう時に空気を読まず軽口が叩ける男がいるはずなのだが。セレスティーナはそちらへ声をかけようとして……少し悩んで、やっぱり止める。だってまだひとつの謎が残っている。
どうして女が、滅多に流通しないノエルシフレの物を入手できたのか。そんなもの、答えは一つしかない。セレスティーナは若干の同情心を抱きつつ、友人から目を逸らした。
一方少女は楽しげに笑いながら。
「まさかこんな日常品ですら、この国にとっては過ぎたる物だったなんて思わないわよねぇ?」
「……ヨミさん?」
スフィーはようやく気が付いた。本来なら爆笑しながら王子たちを馬鹿にするだろう男が、『奇跡』の真実が判明してから一度も口を開いていないことに。
ヨミの顔は、見えない。俯き前髪で隠された赤い瞳だけが爛々と、光を放っていて。
「──────ねえ、つまりさ」
おどろおどろしい声は、長らく共にお茶をしていた二人が一度も聞いたことのないようなもの。一声耳に届いただけで、限りない怒りを感じることができる。
先ほどの王子の声なんて癇癪のようにしか思えない。地獄の窯の蓋でも開いたかのような、魔王が現れたようなプレッシャー。
ああ、そういえば。この男は初めて出会ったときにも魔王と勘違いするような行動をしていたっけか。
「つまりその馬鹿はよりにもよって──……よりにもよって、ノエルシフレの物を……おれが関わったものを政治の道具として利用して、セレス嬢とスフィーちゃんを苦しめたってことだよね」
「そういうことになるわね」
皇女はあっさりと頷いた。それに慌てたのは名を挙げられた二人のほう。
「い、いや、ヨミのせいではないだろう。物は扱う者に罪がある。販売が認められている以上、売る側に罪はないはずだ」
「そうですよ! だってヨミさんはノエルシフレの王族に許可されたんでしょう? 罪はありません!」
「聖女さん。ノエルシフレに王族はいないわ。いるのは皇族」
「そ、そうでした。皇族っていうと、あなたのことですよね? ミヤノシス……様?」
正論に毒気を抜かれた少女が尋ねれば、彼女はふわりと笑って首肯する。先ほどまでの意地の悪い表情とは違い、穏やかな年齢に見合った姿に目を丸くしていれば、スフィーの心の内が手に取るようにわかったらしい彼女はくすくす笑みを漏らしながら優しい声音で。
「ミヤでいいわよ、様付けも不要。なんと言ってもあなたは聖女で──我が国の頂点に認められた御方ですもの」
「……はえ?」
「そうでしょう? ヨミリアスお兄様。あなたが告げるのならカラスだって白になる。あなたの敵と言うのなら、それは私にとっても敵となる」
誰もが言葉を失う中で。唯一楽しそうな少女に向かって、俯いていた男はゆっくりと顔を上げながら、ポツリと。
「──────ミヤ」
「なぁに? お兄様」
「おまえ相当楽しんでるでしょ」
「ええもちろん。私、お兄様が怒れば怒るほどテンション上がるタイプなの」
「知ってたけど本当に性格悪いねお前」
「あら、お嫌い?」
「はいはい妹を嫌う兄はいません。とりあえず貿易のやり方を考えなおしたいから、適当に草案立てといて。あと医学に関してはもうちょっと外部と連携させたほうがいい。こんなに格差があるとは予想外だった」
「そうね。それで、彼女の処遇は?」
「被害者に決めさせたら? おれはすっごくどうでもいいし……どうしたい? セレス嬢? スフィーちゃん」
まるで紅茶に入れる角砂糖の数を聞くかのような口ぶりで、我らが頭を悩ませていた女の処遇について平然と尋ねてくる。
思考が追い付かない。のに、ヨミはまるでたった今告げたとんでもない事実がなかったかのような態度で。
思わずセレスティーナは口にした。
「そうだな、説明を求めたい」
ヨミは首を傾げた。
「え? 玉の輿狙い以外の理由出てくるかな」
「そっちじゃない! お前についてだ、ヨミ!!」
「ええと、ええと、ヨミさんって、ミヤノシス様……ミヤさんのお兄さんで。つまりそれって、皇子?」
「違う、スフィー。秘密主義国家だろうと、さすがに国を取り仕切る者の名前くらいは伝わる。現在の、ノエルシフレ神皇国の皇帝の名は────」
ヨミは。
ヨミと名乗っていた男は、にっこりと笑顔を浮かべ手を振った。
「ヨミリアス・A・ノエルシフレ。おれのことだよ」
「…………皇帝陛下ぁ⁉」
スフィーは叫んだ。公爵令嬢としての意地でなんとか声を抑えたセレスティーナも、正直叫びたかった。
ノエルシフレの騎士だろうなんて言ったのは誰だ。自分だ。実際のところ比べ物にならない立場の者であった。そりゃあ身分でいえば治外法権聖女たるスフィーが一番高い位を持つけれど、ノエルシフレの皇族、というか一国を治める皇帝ともなれば本来同じ机を囲んで紅茶を飲むことなんて許されない存在だ。
そんな男が今まで普通に茶菓子などを用意していた事実にめまいを感じていれば、ヨミは──ヨミリアスは「むしろ」と首を傾げて。
「おれとしては、なんで今まで突っ込まれなかったんだろうなって。セレスって名乗ってたセレス嬢の本名がセレスティーナだった時点で、おれのことも疑わない?」
「う、疑いませんよ!」
「あくまで情報としてしか頭に入れていなかったからな……言われてみればどうして気付かなかったのかわからないレベルだが。でも、私たちの関係性で気付くはずもないだろう」
「関係性?」
尋ねたのはミヤノシス。兄から話は聞いていたとはいえ、実際彼らがどのようにして出会ったのか、そしてどんな付き合いなのかは知らなくて。それもあって疑問をそのまま口にすれば、スフィーはドンと胸を張った。
大事な大事な友達二人を、自慢するように。
「お互い、どんな立場であれ、何者であれ。決して探らず口にも出さない。そんな約束があったからこそ、対等に仲良くなれたんです!」
「まあバレバレだったのも一人いたけど」
「ヨミさんこそもう少しわかりやすくしてくださいよぉ!」
「無茶言う」
バレバレ聖女の言葉に皇帝陛下は肩を竦めた。
一方、頭痛を抑えるように頭に手を当てた男がひとり、今しがた起こった情報量の洪水に耐えるように唇を震わせていた。
「留学生がノエルシフレの者とは聞いていたが、皇帝? 初耳なんだが??」
「おかしなことを言うわね王弟殿下。皇帝だってノエルシフレの者じゃない」
「むしろ誰よりもノエルシフレの者だよね」
「ああ全く妹がこれなら兄だって厄介だな!」
自分の半分程度しか生きていないと信じたくない程度に関わりたくない皇族たち。本音を盛大に叫んだ王弟の姿にミヤノシスはおかしそうに目を細めた。
「あら、そんな口を叩いてよろしいのかしら?」
「どうせここは公的な場所じゃないんだ。泣き言くらい垂れさせろこっちは最終決定権もない代理だぞ」
「中間管理職は大変ね? 政務も、あなたのほうができるでしょうに、力のある貴族ほど面倒なものはないわ」
「貴族制度の無い国の者に言われるとより染み入るもんだな!」
「あー、国王が伏せっている今、貴族たちに口を挟まれながらどうにか国を動かしてるんだっけ? 王弟殿下くん」
「そうですねぇノエルシフレの皇帝陛下サマ! だから早いうちに膿を取り除いて後進育成をしろって言ったってのにあの馬鹿兄貴は!! そんなだから息子は胸がデカいだけの女に騙されるし大国から舐められるんだよ!」
「む、胸がデカいだけ!?」
公の場でないからといってその発言は王族としてどうなんだ、とセレスティーナは思ったけれど、言葉の向く先が敵である以上まあいいかと放っておくことにして。
むしろ王弟の言葉に全力で笑っているこれまた皇族としてどうなんだと思わなくもない男は、笑い声混じりに口を開く。
「大国ってノエルシフレのこと? 大きさで言うならこの国のほうが大きいよ」
「中身は比べ物にならねぇだろうが」
「否定はしないけど。でも別に、舐めてはいないかな。ねえミヤ」
「ええ。実権をほとんど握らせてもらえないのに、それでも他国からの介入を許していないその手腕。見事だと思うわ」
「他国から介入してきた二人が言うか? それ」
ごもっともである。勝手に他国の貴族になって学生を満喫していた規格外の皇帝陛下は、王弟の言葉に企みを込めた表情を浮かべた。
嫌な予感しかしない。そもそもこれまで散々妹のほうに振り回されていた以上、兄たる男に勝てる未来も浮かばないわけで。
ヨミリアスはわざとらしく、それでいて整った美貌を全面的に押し出すような笑顔を見せた。
「おれたちだからこそ、だよ。そこで王弟殿下くん、ものは相談なんだけど」
「……なんだ」
「今まさにちょうどよく婚約破棄されたご令嬢、おれにちょうだい? 代わりにうちの名前貸してあげるから」
「はぁ!?」
「ヨミ!? お前なにを」
王弟、それからセレスティーナ。二人は同時に叫んだ。
そもそもまだ正式に婚約破棄は成立していないとか、物扱いするなとか、名前を貸すってどういうことだとか、色々色々言いたいことはあるけれど。
それよりもまずふと気になったことを口に出す。
「ちょうだいって、そう簡単に他の国へ行けるものなんですか?」
「いや? 簡単ではないけど……でもおあつらえ向きに婚約破棄されたところだし」
「まさか、お前」
「うん。ねえセレス嬢、君の願いを叶えてあげるから、おれの妻になってよ」
とんでもないプロポーズだった。恋愛作家なら数回ぶん殴っても許されるほどに情緒のない物言いで。そもそも本名すら今知ったばかりだというのに。
セレスティーナの顔は引き攣ったが、反対にスフィーは目をキラキラと輝かせていて。
「ヨ、ヨミさんとセレスさんが、結婚……!?」
「ヨミ、お前私に惚れてたのか?」
「惚れてるっていうか惚れ込んでるけど。だってセレス嬢がこの状況から自由に動けるようになるには、これが一番かなって」
「これって、結婚が?」
「うん」
軽々しく頷いた男は、今しがたプロポーズをしたとは思えないほど熱がない。
だからこそ、セレスティーナにも察しがついた。
「なるほどな。……つまり、私をノエルシフレに入国するために一番早い手段が、結婚だと」
「えっ」
「大正解! おれがこの国にいたら絶対セレス嬢みたいな才女手放したくないし、どうやらこの国の代理くんは知恵が働くみたいだから。圧かけるより正攻法で引き受けたほうがいいかなって」
「そこまでして私がほしいのか?」
「そりゃあもう」
揶揄うように尋ねた言葉に大真面目に返されて口籠ったのはセレスティーナのほうである。ヨミリアスは晴れやかに笑いながら、少女の両手を握りしめた。
「スフィーちゃんが言ってたけどさ。おれにとっても、二人が初めての友達なんだよ。若くして皇帝にさせられたおれと、対等に接してくれたひと」
「ヨミさん……」
「だからセレス嬢が罪に問われるかもってなったとき絶対連れて行こうって決めた」
「私の許可を取ってから決めろ」
正論。
「でもセレス嬢は絶対に来るよ」
「どうしてそう言い切れる?」
「だってうちの国、身分も立場も性別だって関係ないから。君の夢も、叶うはず」
セレスティーナは目を見開いた。
この男にだけは隠そうと思っていて、結局バレた将来の夢。スフィーにだけは話した、心の底からの思い。
「騎士、に。なりたい」
「なれるよ、セレス嬢なら」
思わず零れた本音に、男はふわりと微笑んだ。
「というわけで手っ取り早いのは結婚して国籍を変えること! ってことで王弟殿下くん」
「あーあーあー言わなくても分かるっての。ったく、未来の国母として期待していたんだがな、公爵家の茨姫には」
「その呼び方、王弟殿下まで知っていたんですか」
「あ? まあ、オシャレだよな」
どう考えても皮肉と揶揄いを込めた名前だが。真顔で言われると反論のしようもなく口を閉ざす。そもそもセレスティーナだって、その名が嫌いなわけではないのだし。
「はあ……まあ、ノエルシフレの名を使えるってことは、他国との外交で有利に立てるってことだ。政略結婚としては悪くない。それどころかうちの馬鹿甥なんかよりよほどこの国の役に立つ政策だろうよ」
「お、許可出たよセレス嬢」
「いやまず父になんて言えばいいんだ……」
「それくらい俺から話しておくっての。お前には散々手間と迷惑をかけたようだしな。俺は悪くねぇが」
「正直者ね。同意するけれど」
「こんなに軽くていいんですかぁ……?」
いいはずがない。セレスティーナはそう答えたかったが、この場で己を囲っている全員が自分より身分が高いのだ。何も言うことはできない。
儚い笑みを浮かべた彼女の言わんとすることを薄々察して、スフィーは苦笑した。
「あ、スフィーちゃん」
「はい!?」
「君も来るでしょ? ノエルシフレ。おれたちに振り回されるくらいが丁度いいって言ってたもんね」
「へ!?」
何を当たり前のように言ってるんだこの男。晴天の霹靂である。
「い、いやさすがに聖女をそう簡単に他国に渡してやるってのは問題なんだが? 貴族連中に怒られるだろ、俺が」
「そういう問題なのかしら?」
「でも聖女は治外法権、政治に関与されない存在。だからスフィーちゃんが願えば、できないことなんて何もないんだよ」
「わたしが、願えば……」
セレスティーナがヨミの治めるノエルシフレ神皇国へ行くのはほぼ確定事項。そもそもどんな理由があったにせよ、一度王子から婚約を破棄された時点で国に居辛くなってしまう。ならば他国に、それも友人のいる国に行くほうがよほどのびのび暮らせるだろう。だからノエルシフレに行けば……もう、学園に戻ることはない。
三人でお茶を飲む日々も、なんてことのない話をする時間も、二度となくなってしまう。
そんな現実に直面して、スフィーは泣きたくなりながら首を振った。
だからヨミリアスは手を差し出したのだ。お互いしか友達のいない自分たちが、今更この関係性を手放せるはずがない。
「行きます!」
瞳を潤ませて、口元は笑みを形作って。
スフィーは元気いっぱいに、友達二人の手を取った。
「ヨミさんとセレスさん。二人とずっと一緒にいたいから。なにがあったって、着いて行きます!」
「そうこなくっちゃ」
「私も、今更スフィーのいない人生なんて送れる気がしないな」
「最近一周回ってセレスさんのこれに安心する気がしますわたし」
「それはちょっとやめたほうがいいと思う」
色も、熱も。清廉なほど感じさせない三人だ。
大人からすれば眩しくって仕方がない。王弟は目を細めながら、深く深くため息を吐いた。
「もう収集つかねぇなこれ……せめて茨姫みたく結婚ってテイなら貴族連中も黙っただろうに」
「あら? ならそうしてあげるわ。いいでしょうお兄様」
「え、なに? スフィーちゃんと結婚しろって? おれは別にいいけど」
軽く答えた兄妹の言葉に、優しく手を繋いでいたセレスティーナとスフィーは表情を消した。
「プロポーズ直後にもう浮気か? 見上げた根性だ。二度とスフィーに近寄るなよお前」
「ヨミさん、さすがにそれはちょっと……セレスさんに失礼ですよ」
「え?」
男は「どうしてそんなことを言うんだろう」と言わんばかりの表情で、隣に立つ妹と視線を交わす。少し黙って考えたのち、ああと手を打ち鳴らした。
「そういえばこの国の者は、ノエルシフレに詳しくないのよね」
「そうだった、あのねセレス嬢。スフィーちゃん」
「なんだ」
「なんですか」
「ノエルシフレ神皇国は隠し立てしなければ重婚オッケーで、ついでにこの国と違って同性婚も推奨してるんだよね。だから……おれだけじゃなくて二人とも、法の下に一生一緒にいられるよ。──愛してるんでしょ?」
二人は、目を見開いた。
間髪入れず膝をついたのはセレスティーナ。彼女はヨミリアスが用意した綺麗なドレスを……見方によっては礼服のようにも見えるそれをふわりとはためかせ、真っ直ぐ少女を見つめながらゆっくりと手を取った。
「スフィー。私の女神さま。あの日救ってもらったそのときから、ずっとお前を愛している」
「い、え、あ、あの!? ちょっとセレスさん!? っていうかヨミさん!」
「そりゃあだって、法律って壁がなくなったらセレス嬢が躊躇うはずないじゃん」
「な、何となく察してましたけど!」
それにしたって、政策とはいえ本格的に夫婦になる皇帝陛下よりもよっぽどまともな〝プロポーズ〟である。少女の顔が赤いことの理由は決して混乱と戸惑いだけではないはずなので、ヨミリアスは「頑張れ」の意を込めて手を振った。
己が二人に向ける感情なんて、親愛友愛以外に存在しないけれど。
そんな二人が仲良くしてくれていることが、更に喜びを抱かせて。
やがて控えめにこくりと頷いた水色髪の少女と、耐え切れず抱き着いた金髪の少女を見届けて。ヨミリアスは優秀な妹に語りかける。
「ねえミヤ。あの二人が末永く幸せにいてほしいって思うのって、どういう愛?」
「そう、ねぇ。敬愛、あるいは」
「あるいは?」
「…………推し活?」
◆
時は進み。
かつての出来事を語った騎士は、伏せていた目を開き質問者へと告げる。
「あとは、ご存知の通り」
「そうね。おかげさまで我がノエルシフレ神皇国はあなたという素晴らしき才女と聖女、二つの宝を手に入れたわ」
騎士は……今はセレスと名乗る女は、かつて『茨姫』と呼ばれていた美貌にぴったりの笑みを向けた。義理の妹にしてこの国でも有数の地位と権力、実力を持つ彼女にこうも褒められ悪い気はしない。
騎士の選出は皇族が行う。実の兄にすらわりと容赦のないミヤノシスが、この立場をセレスに与えたというだけで、十分なほどに信頼を感じていて。
だからこそ騎士の名に相応しいだけの研鑽と──それから頭脳を磨いて、セレスはずっと前から気になっていたことを口にした。
質問者は入れ替わる。
「聞くところによると、ヨミがあの港街へ向かったのはお前の提案だったそうだな? ミヤノシス皇女」
「あら、お兄様からお聞きになったのかしら。ええ、元より他国を見てみたいと仰っていたから、我が国から近いあの街ならいいんじゃないかと思って。まあ言いつけを破って勝手に他国に出た時点でわりと怒られたけれど」
「子供二人でそんな企みをしていたら、そうだろうな……で、そのタイミングで私があの街にいたのは偶然か?」
「なにを言いたいのかさっぱりね。当時わたくしは六歳、他国の情勢を知ることは不可能ではなくて?」
「……そう、だな。だが、偶然にしてはあまりにも」
偶然なんて一言で片づけられるほど、軽い出会いではない。ボタンひとつ掛け違えたらきっと結末はまるっきり変わっていて、だからこそ不可解だった。
悩み始めたセレスの姿を見てか、彼女は表情を変えず口を開く。
「言っていたじゃない」
「え?」
ミヤノシスは目を伏せて、赤いルージュの乗った唇を揺らした。
地位も立場も国すら違った三人が、共にお茶会をするようになったきっかけ。始まりの一幕。そこに誰かの介入だなんて面白みのないものを邪推するのは勿体ない。
だから彼女は子供のように微笑んで、片目を瞑り指を立てる。
「奇跡か、運命か。それに準ずるナニカか。あなたがたの出会いはきっと、そういうものであったのよ」
「それはまた、夢物語じみた現実だな」
「いいじゃない、夢物語。綺麗事は好きよ、なんて言ったって綺麗だもの」
セレスは笑い声を上げた。
傾国の姫君のように毒々しいのに、穢れなきプリンセスのように愛らしい、二律背反思考が読めない〝妹〟だこと。まるで全く別の世界から来たと言われても信じてしまうほどにわけがわからない、けれども決して嫌ではない人物。
ほんの少し恐怖を感じるが、それは彼女の兄も同じこと。むしろ武力がある分あちらのほうが厄介かもしれない。
噂をすれば。とんとんと、扉が叩かれて。
「失礼しまーす……って、ミヤもいたんだ。セレス嬢、スフィーちゃんが探してたよ」
「スフィーが? 分かった、すぐに向かおう。ミヤノシス皇女」
「行ってらっしゃい。奥さんによろしくね?」
「私と別れるたびにそれ言うの、やめてくれないか……」
セレスは呆れた眼差しを向けつつも、敬意を払ったお辞儀を一度行って、ヨミリアスに目配せをして部屋を出る。
残った兄妹は、静かに顔を見合わせて。
「なんの話してたの?」
「お兄様たちが出会ったきっかけと、あちらの学園での出来事について」
「懐かしい話」
「あのパーティーからは三年も経っていないじゃない」
「それはそうだけど……あ、ねえミヤ」
ふと。あの日の出来事を思い出して口を開いたヨミリアスに、ミヤノシスは首を傾げる。
「なにかしら」
「あのパーティーの後さ。おまえ、聖女もどきちゃんと何か話してなかった?」
「……ああ。あったわね、そんなことも」
「なに話してたの?」
「なにって」
思い出す。あの日の終わりを、彼女の終わりを。
聖女を騙った者の罪は重い。あの女が生きているのかどうかすら、我々はもう知らない。
……そう。例え、「本当に自分が聖女だと信じていた」のだとしても、聖女を騙った以上、赦されることはないのだ。
── あなた、転生者でしょう! なんで私の邪魔をするのよっ! 私は、本当に聖女で、あの悪役令嬢を倒して、王子と結ばれる存在で……!
赤と青が混ざったような顔色で言い募る女の姿はひたすらに哀れで。だってそうだろう。彼女が聖女であるはずがない。いいや、そんな未来もあったかもしれないが。
「物語の始まり、チュートリアル。港町の森で瀕死の令嬢を癒した者。水色髪か桃色髪かはランダムだけれど、その者が聖女になる。だから残り物に意味なんてないのに……本当に哀れね」
「急になんの話? 物語かなにか?」
「いいえ、遊戯の話よお兄様。それと、話した内容だけれど」
ミヤノシスはにっこり笑って、兄の腕へと抱き着いた。
この世界で一番信頼する人が、唯一の家族が幸せであること。彼女はそれ以上を望まない。
「聖女も令嬢も、皇帝陛下が幸せにするから安心してちょうだいって、ただ喧嘩を売っただけ!」
「売るんじゃないよ喧嘩を」
ヨミリアスは仕方なさそうに微笑んだ。妹はそれを見て、心底幸せそうに笑った。
めでたしめでたし。
聖女も悪役令嬢も、新たな国で皇帝陛下と共に、未来永劫幸せに暮らしましたとさ。
それはとある転生者の思惑の内にて。
終
●セレス(セレスティーナ)
公爵令嬢。聖女過激派。ヨミとは悪友のような関係性。いつかヨミに剣術を教えてもらいたいと思っている。
●スフィー
聖女。ティーサークルの良心。ほか二人がぶっ飛んでるせいでわかりにくいが実際二人が死んだら迷わず躊躇わず後を追う。こいつもぶっ飛んでる。
●ヨミ(ヨミリアス)
皇帝陛下。推しカプはセレスとスフィー。二人が仲良くしてると嬉しいので百合には挟まらないタイプの男。サークルの中では実は一番常識人。
●ミヤノシス
皇女&外務大臣。兄を推しながら政治関係で他国にぶいぶい言わせてる。
実は転生者。元はOLのため、恋愛対象は最低でも二十代後半。
●王弟
苦労人にして常識人。国をよりよくしたい気持ちはあるし能力もあるがいかんせん貴族連中が鬱陶しい。だいたい二十代後半から三十代前半くらい。