手負いの小鳥
the worldの機能が回復して間も無くのことだった。
ふらついた呪術士が橋を渡り始め、その覚束ない足取りのまま斑鳩にぶつかった。
気持ち良く観賞していたところを邪魔されたからか、斑鳩は眉間に皺を寄せて相手を睨み付けた。
「ご、ごめんなさい」
呪術士は俯いたまま謝ると、また歩き出す。生気が無く、軽く押せば簡単に転びそうだ。
その様子に、斑鳩の怒りは失せてしまった。しかもその呪術士は、前にも会っていた。
「おいお前、黒い錬装士と一緒にいた呪術士だろ」
自分でも、何故声を掛けたのか不思議だった。呪術士はゆっくりと向き直り、斑鳩を見、そして思い出したように顔の前で手を合わせた。
「ぁ、あの時の…」
「…お前、手見せろ」
呪術士の言葉を遮り、斑鳩は自ら呪術士の腕を掴んだ。手の甲に皹が入り、白いグラフィックが剥がれ落ちている。呪術士は突然のことに声も出ず、その場に硬直する。
「…名前、何ていうんだ」
斑鳩は皹を見つめながら、呪術士に問うた。
「ぇ、あ、アトリです」
アトリと名乗った呪術士の頬は、赤く染まっていた。リアルの性別は不明だが、男子PCに腕を掴まれ名前まで聞かれたのだ。
「アトリ…やっぱあいつじゃないのか」
斑鳩は手を放し、小さく、また溜め息混じりに呟いた。
やや間があり、再度斑鳩が口を開く。
「アトリってPCネームだろ。リアルの名前、真じゃないか?」
「いえ…違い、ます」
アトリが申し訳なさそうに答えると、斑鳩は一歩身を引いた。自分が思った以上に、アトリに迫っていたらしい。
「…悪かったな。お詫びじゃないが、その手治せるかもしれない場所があるんだ。連れてってやる」
この積極性がどこから来るのか、斑鳩自身が不思議でならない。アトリというPCの外見からか、その内面からか。兎に角、助けたいと思う。
「でも私、人に呼ばれてて行かないと…」
「すぐに済むから、着いて来い」
そう言うと、斑鳩は剥がれるグラフィックを守る様にアトリの手を握ってドームに向かって走り出す。
「ぁ、あのっ;;」
アトリは僅かに声を上げるが、斑鳩の手を振り払うことも出来ず半ば引き摺られるように連れていかれた。
ドームに入ると、ゲート前で斑鳩は一息置いて目を閉じた。その間も手は繋げられたままで、流石のアトリも周囲の視線が気になる。
(…あの場所に、ワードは確か)
斑鳩は微かな過去の記憶を引っ張り出し、意識をシステムに集中する。
(よし、繋がった)
「転送、始まるぞ」
「…え?」
アトリが顔を上げたと同時に、転送のエフェクトが2人を覆った。
転送された先は、フィールドタイプ。
夜の浜辺だった。蒼白い月が浮かび、海面がそれを映す。そして時折入るノイズが、月を不自然に歪ませる。
「合ってたみたいだな、ワード…」
斑鳩は自分を安心させるように呟くと、辺りを見回す。相変わらず手は握られたままで、アトリはただ立っていることしか出来ない。タウンから離れ他人の視線からは逃れられたが、2人きりになったことで別の緊張感が襲う。
と、斑鳩が何かを見つけ歩を進めだす。アトリも進行方向に目をやると、淡い光が見えた。
「あれは…?」
「あそこに小さな池がある。そこの水で治すんだ」
5分は歩いただろうか。光は強くなり、池の水面が見え始めた。
斑鳩はやっと手を離すと、池の淵に膝を着いてしゃがみ覗き込む。池は浅く、底がはっきりと確認出来る。その底に、光の発信源はあった。眩しくて正確な形は分からないが、分厚い本のようだ。
「ほら、こっち」
斑鳩が腕を伸ばし、アトリを池の側に来させる。
「手入れてみな、ゆっくりな」
「ぁ、はい…」
アトリは恐る恐る手を水面に近付け、まず指先を水に浸けてみる。そしてゆっくりと、手首辺りまで入れていく。
特に変わった様子はなく、痛みが増すこともない。
「…ヒビが」
アトリが気付いた時には、剥がれた部分の殆んどが修復されていた。皹も残り僅かとなり、やがて完全に塞がった。
それを見た斑鳩は、何故かアトリよりも安堵した表情だった。アトリは手を池から出し、確かめるように甲に触れる。グラフィックが剥がれることはなく、痺れも消えていた。
「良かったな」
斑鳩に声を掛けられ、アトリはほぼ反射的にお辞儀をする。
「ありがとうございましたっ。こんな場所が、あったんですね」
と、感謝した矢先。
再び鈍い痺れがアトリを襲い、ピシッと乾いた音を立てて亀裂が走った。
「…何でだよ、あいつの時はちゃんと治ってたのに」
斑鳩はまたアトリの手を掴み、甲に走る皹を凝視する。するとキッとアトリを見、少し戸惑いながら聞いた。
「お前、その…碑文使い、だよな?」
「斑鳩さん、ご存知なんですか?」
「質問で返すな、そうなのか?」
アトリは一瞬口をつぐみ、改めて答えた。
「まだ、覚醒していないって言われました。それに碑文を奪われてしまって…」
アトリは“誰に”奪われたかまでは話さなかった。この状況でも、ギルド・レイヴンに属さないPCに明かすべきではないと判断出来た。
(奪われた…。ってことは皹の原因が違うのか)
手を離した斑鳩は暫し考え込んだが、頭を軽く振って無意味な憶測を払った。
「…時間取らせた上に治せなくて、済まなかった。ここにはカオスゲートが無いから、タウンまで送る」
そう言うと、夜空を見上げて“会話”しアトリを伴ってタウンへと戻った。
ドームに転送されると、アトリは一礼して当初の待ち合わせの場所に向かった。
斑鳩は見送るとドームを出、橋に戻る。夕日は、いつもと変わらぬ姿をそこに見せている。
(…アトリ、真。
…?マコトって誰だ…)