夢と現
翌日。昨日の一件が嘘のように、斑鳩が樹海ダンジョンで悠々と狩りをしていた。その動きは俊敏かつしなやかで、ノイズの後遺症などは見受けられない。
斑鳩が、不意に空を見上げた。しかし広がった木々の枝が、空を遮っている。斑鳩は小さく溜め息を吐くと、また何かと「会話」し樹海の回廊から姿を消した。
マク・アヌ。
斑鳩が橋の定位置に着いて間もなく、嵩煌がやってきた。
「あれから、変わったことはない?」
「別に。あぁ…一つあるな」
斑鳩は嵩煌を見ると、思い出したように言った。
「な、何っ?」
嵩煌が斑鳩を覗き込みながら催促すると、斑鳩はやれやれといった様子で返した。
「お前が、以前に増してお節介になった」
「心配してんの(`ヘ´)」
「猫に心配される程、落ちぶれてねぇよ」
斑鳩は怒ると言うより、拗ねたような口調だった。
暫くの沈黙の後、嵩煌が口を開いた。
「あんたには、ちょっと耳が痛いこと聞いていい?」
「何だよ、改まっ…」
「嫌だったら答えなくて良いから」
いきなり真剣になった嵩煌に、斑鳩はただ首を縦に振るしか出来なかった。
「ログアウトした後、
つまり…リアルの記憶。the world以外 の記憶が、あんたにはある?」
「…………ない」
斑鳩は声を、言葉を絞り出すように答えた。
「やっぱり俺、変なのか」
「そんなことは…ない」
何とか斑鳩の不安を拭おうとするが、はっきりと言ってやることが出来ない。
「…謝らなきゃならない、私たちCC社が」
「お前、運営の人間だったのか?」
「まぁ、似たようなものだよ」
やはりハセヲとのやり取りは、斑鳩には認識しきれていなかったようだ。あの時『元社員』だと明かした筈だった。
「まだ分からないことの方が多くて、斑鳩を助ける手段も探ってる最中なんだ」
嵩煌は申し訳なさそうに俯き、斑鳩を見ることが出来ないでいる。
すると、斑鳩の方から口を開いた。
「何時からかは分からねぇけど、リアルとthe worldの区別が曖昧になった」
斑鳩から積極的に話すことは滅多にない。余程の決心が背後にあると感じ取った嵩煌は、視線を上げる。
「その時はまだ、ログアウトも出来て、ちゃんとリアルがあったと思う」
斑鳩は遠い思い出を手繰り寄せるかのように、目を伏せ思考を巡らせる。
「…でも、段々リアルがあやふやになって。それからはthe worldにずっと居る」
「リアルのことは、何も覚えてないの?」
「…今の俺にとってのリアルは、the worldだからな」
斑鳩は右手を軽く開いて、それを見つめる。
初めはおかしいと思った。
仮想空間、ネットの中なのに痛みを感じる。風が吹くと髪が靡く感覚や、水に触れて冷たいとさえ感じるようになった。
五感、神経そのものがデータ化された。そう説明するのは簡単だが、どうやって?
「…は」
「ん?」
「俺は、斑鳩だ。それ以外の何者でもない。the worldがリアルなのか仮想なのか、もう分からないんだ」
斑鳩は手を握り締め、半ば諦めたように言った。
「時々思うんだ、これは夢で、リアルの俺はずっと眠ってるんじゃないかって」
視線を夕日に向け、自嘲してしまう。目を覚まさない自分と、何も出来ない自分が居る。そう考えただけで、惨めに思えてくる。
「…ごめんなさい」
「お前が気にすることじゃねえよ。謝られても…調子狂うだけだ」
しかし、嵩煌の頭は下げられたまま。斑鳩は溜め息を吐きつつ、嵩煌を抱き上げて自分の顔の前に持って来た。突然のことで、嵩煌は身動ぎ一つ出来ぬまま硬直する。
「お前が落ち込んだら、俺はどうすれば良い。俺に他人を慰められる余裕なんかねぇからな…」
斑鳩は真っ直ぐ嵩煌の目を見、はっきりと言った。そして一息置いて、続ける。
「だから、お前に落ち込む権利は無い。…覚えとけよ」
言葉自体は命令形だったが、口調は驚く程穏やかだった。
嵩煌は深く頷き、笑ってみせた。
長い時間一緒に居るが、斑鳩と嵩煌は違う時間軸に立っている。どんなに言葉を交わしても、斑鳩の孤独感は消えない。これが、ここが夢か現かは分からない。だがこの気持ちだけは、確かに在る。