女神の微笑
ハセヲのデータドレインは回避出来たものの、コルベニクが発動したプログラムから逃げる術は持ち合わせていなかった。
体が溶けていくような感覚は覚えている。そしてあの崩壊から守ってくれたのが、Auraだったということも―――
再誕の波に打ち流されていく斑鳩の下に、フワリとヴェールが舞い落ちてきた。それは全身を覆えるほど大きな物で、中心には無限大を表す“∞”のシルエットが見えた。
(…ア、ウラ?)
ヴェールは全ての衝撃を斑鳩から守り、波が収まるまで包み込んでいた。温かく、どこか懐かしい感じもあった。
知らぬ間に眠ってしまった斑鳩は、Auraと共に認知外迷宮に居た。普通のネットワーク上より、多少は再誕の影響を免れたらしい。まるでシェルターのようだった。
斑鳩は目を覚ますと、目だけでAuraの姿を探した。すぐ側で、緩いウェーブのかかった髪を揺らす少女が優しい笑みを浮かべていた。
斑鳩は立ち上がると、バツが悪そうに首の後ろに手を回した。Auraに迷惑は掛けまいと思っていたのだが、コルベニクの力を計り間違えた。
「結局、助けられたな…約束守れなかった」
(……―――)
Auraの返事は、声にならぬ声。それでも、確かに斑鳩の耳には届いていた。
「あれから、どうなったんだ?いくら碑文使いでも、アレに耐えられるとは思えない…」
斑鳩が周囲を見回しながら問うが、Auraは答えなかった。その代わりに、光る破片を斑鳩に差し出した。
――――…
「これは?」
――彼が残した、記録の一片。彼が最期に貴方に託した光。この先にあるものを手にするかは、貴方の自由。
「あの時のデータってことか…」
あの状況で情報を引き出して形にしたオーヴァンの精神力は、特筆に値するだろう。斑鳩は感謝の意を込めつつ、Auraからそれを受け取った。
Auraは斑鳩を見、小さく頷くと再びネットワークの海に戻っていった。斑鳩は早速受け取った記録を再生した。
真っ白な部屋に堆く積まれた本が見え、安楽椅子に揺られるアイナの姿があった。アイナの目は生き生きとしていて、オーヴァンを兄さんと呼び笑っていた。
仲が良い普通の兄妹の元に、黒い斑点が背後から迫っていた。斑鳩はその一点を凝視し、僅かな変化を見落とすまいとした。斑点は群がり大蛇の様にうねりながら、オーヴァン(こちら)に向かってくる。アイナを庇おうとして直撃を受けたオーヴァンは、AIDAの侵攻と戦うしかなかった。だが抵抗空しく、瞳が完全に黒に染まる。
「…welcome to the world」
オーヴァンの意識が途切れる瞬間、誰かが呟いた。アイナの声ではない。視界の隅に、その声の主がはっきりと映っていた。黒ずくめのPC、管理者の姿が。
(オーヴァン、あんたがくれた物は確かに受け取った…)
AIDAと管理者が繋がっていた決定的な証拠、しかも数年前から続くものだと分かった。斑鳩にしてみれば、もうCC社に遠慮する必要はないと言うことだ。だがまた闇雲に突っ込めば、★やG.U.のメンバーに迷惑を掛ける、勿論Auraにも。
まずは通常のエリアかタウンに戻って、今の状況を知る必要がある。斑鳩は取り敢えずマク・アヌの名を挙げて転送した、つもりだった。
「何だ、ここ…」
放り出されたのは、真っ暗で何もない場所だった。足は地面に着いておらず、妙な浮遊感がある。さらに暫く感じることが無かった“持っていかれる”感覚が、徐々に現れてきた。ふと眼下に目をやると、黒いせいか暗闇に同化しているハセヲが見えた。そのハセヲを対峙する形で、白い何かが立っている。
(…ハセヲが、二人?)
良く見ればハセヲのPCの色を反転させた、ハセヲそっくりの姿を有していた。
何か話をしているようだが、内容までは聞き取れない。ただ、穏やかではないのは確かだ。
二人の様子を見ていて、斑鳩は似たような経験を思い出した。スケィスがもう一人の自分としての自我を持ち、完全に分離していた時のことだ。あれはハセヲの中に居るスケィスではないか、斑鳩はそう考えた。しかし、答えを知る機会はすぐに失せた。
白のハセヲの先程まであった勢いが無くなり、白と黒が近付いていく。と同時に、斑鳩の身体が急に重力を感じた。否、ハセヲとスケィスの引力に引っ張られていたのだ。ハセヲがスケィスを完全に受容するということは、半身である斑鳩も統合することを意味する。
「…俺は…まだ、やらなきゃならないことがあんだよっ!全部終わったら…こんなデータくれてやる、絶対にだ。だから、あと少し……―――」
ハセヲのスケィスに引き摺り込まれそうになる度に、斑鳩は同じことを叫んでいた。だが、今回は今までとは比べ物にならなかった。
「…た!だいじょ…ぶ?斑鳩、斑鳩っ」
★に名前を呼ばれているのに気付き、斑鳩は目を開けた。どうやらまた気を失っていたようだ。視界は、粗大ゴミというかガラクタの山で埋め尽くされていた。そして体に残る鈍い痺れと、女神の光に包まれていたらしい僅かな感覚。あの状況で助けられる力を持っているのは、やはり彼女しかいなかったのだ。
意識がはっきりしてくると、斑鳩は上半身を起こした。
「…っ痛、ここはどこ…だ?」
一番麻痺が残る後頭部に手をやりつつ、★に視線をやる。だが★はそれに答えるより先に、斑鳩に向かって倒れ込むように抱き着いていた。
「ちょっ…どうしたんだよ急に」
「良かった、生きててくれて…あんなことになって、もう…会えない、かもって…」
「そんな大げさにならなく…」
斑鳩は★の肩が震えているのを見て、最後まで口にするのを止めた。代わりに「心配させてごめん」と、★の頭を自分の方に引き寄せた。
★が落ち着くまで待ってから、今まで起こったことを聞いた。コルベニクの再誕プログラムが、the worldだけでなく全てのネットワーク世界を初期化したこと。それに巻き込まれそうになったところを、欅に助けられたこと。この場所はネット界のスラム街「タルタルガ」であること。
「…欅って、確かでかいギルドのマスターだよな?何でそんな奴が」
「八咫さんと知り合いらしくて、G.U.に協力してくれていたんだって。それより、一番プログラムに近かったのにどうやって…」
「アウラに守ってもらったんだ。近かったと言えばハセヲだ、あいつはどうなった?」
斑鳩は立ち上がって辺りを見回すが、バグPCが徘徊しているだけだった。
「無事だよ、見たら多分びっくりするんじゃないかな?」
★が目を拭いながら嬉々として言うと、斑鳩は小首を傾げる。
「…ここに来る前に、ハセヲの意識の中に居たんだ。今までよりも強く引き込まれそうになった。本当に“無事”だったって訳じゃないだろ」
「ん、まぁそうだけど…」
★が何故か濁すような返事をすると、それを掻き消すような声がした。
「そうだな、お前よりヤバかった」
斑鳩が声のした方へ振り向くと、そこにはアトリとハセヲ…らしきPCが立っていた。声は確かにハセヲと同じなのだが、容姿が明らかに違う。
「ハセ、ヲ…なのか?なんだよその格好」
今まで真っ黒だったPCが、急に白になっていたのだ。しかもデザインが奇抜で、正直斑鳩は違和感を覚えた。
あの時の衝撃を直に受けたハセヲは、修復不可能に近い程データが破壊された。だが欅がある種のチート行為を行い、ハセヲと碑文を結合して復元したのだという。その時、斑鳩も一緒に引き摺り込まれそうになったのだろう。デザインは欅の趣味として、色はあのスケィスのものなのかもしれない。
「ハセヲさん、斑鳩には黙ってろって…」
★が恐る恐る訊くと、ハセヲは首を振った。
「俺の頭ん中で何があったか分かってるんなら、隠しても意味無いからな。それより、みんなに顔見せてやれよ」
ハセヲが吹っ切れたように話すと、斑鳩だけでなく★も驚いた。
「…そうだな、俺も“戦利品”があるし。★、どこに行けば良い?」
斑鳩はすぐに言及せず、まずは皆に記録を提示することにした。★はブリッジに続く道を指差して、斑鳩を先導する。
「お前、変わったな」
ハセヲとすれ違い様に、斑鳩は呟くように言った。
「自分じゃ良く分からねぇけどな。ただ余計な迷いは無くなった、そんな感じだ」
「…そっか」
斑鳩は短く相槌を打って、ハセヲとアトリから離れた。
いつか俺も、お前みたいになれるか?
と、聞きたい衝動を押し込んで。