ゆうれい未満
放課後、ホームセンターでちょっとした買い物をして帰宅した。
今日まで、わりといろんなことがあったと思う。そのいろんなことのせいで、わたしは、ものすごく疲れていて、一刻も早く眠ってしまいたかった。
冬は寒い。暗くなると、よりいっそう寒い。
手袋をしていないので、ビニール袋を持つ手の指はしわしわで、しびしびとかじかんでいる。短いスカートからのぞく膝小僧がじんじんと冷たくて、どうしようもなく悲しい。
こういう小さなことの積みかさねが、わたしから気力を奪う。だから、冬はきらい。夜はきらい。
涙が滲みそうになるのをこらえ、ため息を吐くと、そのまま白く染まって溶けるように消えた。
ふと気配を感じて、うつむいていた顔を上げる。こちらに向いた瞳と目が合った。
「こんばんは」
玄関の扉の前に、男のひとが立っている。眼鏡をかけた若いひとだ。臙脂色のチェック柄のシャツと、ダウンジャケットの明るい緑色が、ぼんやりと目に映った。
「こんばんは」
挨拶を返し、
「うちに何かご用ですか?」
尋ねると、
「お月様がきれいですね」
男のひとは言った。
空を見上げてみる。いつもよりも低く見える位置、まんまるなお月様が真っ赤な顔をして浮かんでいた。確かに、きれいだ。みかんみたい。
「本当ですね」
わたしは言い、もう一度、
「何かご用ですか?」
と尋ねた。
「きみに、会いにきました」
彼は言った。
「はあ」
なんだか、わけがわからない。
うーん、と唸って身体を少しかたむけると、持っていたホームセンターのビニール袋が、がさがさと鳴った。
彼の風貌、雰囲気は、大学生っぽい。でも、普通の大学生は、このひとみたいに透けてなんかいないと思う、たぶん。彼を通り越して向こう側、わたしの家の玄関の扉が見えるのだ。
彼の姿は、まるでため息を集めてつくったみたいに心許なかった。
「あの。失礼ですが、もしかして、ゆうれいの方ですか?」
「ああ、いえ、違います」
彼は自分の身体を見下ろし、それから納得したように微笑んで首を振った。
「うそ。そんなに透けてるのに? そんなこと言って、本当はゆうれいなんでしょう?」
「ゆうれいではないんです、本当に」
長くなりそうなので、わたしは一歩前へ進んだ。彼が道を開けてくれる。玄関の鍵を開け、
「中に入りますか、とりあえず」
そう言うと、
「いいんですか、こんな得体の知れないやつを家に入れちゃって」
彼は慌てたように両手を振った。得体が知れないという自覚はあるようだ。
「気にしないでください。家には誰もいませんので」
「そういう問題じゃなくて」
彼は戸惑ったように口ごもる。
不用心だと言いたいのだろうか。話しかけてきたのは、そちらのくせに。わたしは肩の力を抜いて、笑った。
「人間なら絶対に入れません。だけど、あなたはゆうれいなので、大丈夫です」
「いえ。ですから、僕はゆうれいではないんです」
「でも、透け透けですよ」
いままで、ゆうれいに会ったことなんてないけれど、実際に会ってみると、なんてことはない。ちょっと透けているだけで、全然こわいことなんてない。こんなことを言うと、ゆうれいに失礼かもしれないけれど、ゆうれいよりも、生身の人間のほうがよっぽどおそろしいし、悲しいと思う。
わたしは、制服の短いスカートの裾をつかみ、下にぐいぐいと引っ張った。ほら、ここにも裾の足りない悲しみがある。
「どうぞ、上がってください」
言い捨てて、さっさと靴を脱ぎ家へ上がる。居間の電気をつけ、ビニール袋をそのへんに放った。
しばらくして、
「お邪魔しまーす」
という心細げな声が聞こえ、彼がおずおずと居間に姿を現した。
「すみません」
彼は、困ったように頭を下げた。
「靴を脱ごうと思ったのですが、脱げなくて」
彼は、その足に、コンバースのオールスターをしっかりと履いていた。その色は、黒なのか灰色なのか、透けているために判別がつかない。
「ああ。でも、大丈夫です。透けてるし。大丈夫です」
わたしは彼の顔とコンバースの星マークを交互に見ながら、わけのわからないことを呟いてしまった。
「そうですかね。大丈夫ですかね」
言いながら、彼はおろおろとその場で足踏みをする。
わたしは、こたつのスイッチを入れ、彼に座るように促した。
「さっきの話ですが」
腰を下ろした彼は、さっそく口を開いた。
「ゆうれい未満といったところでしょうか」
その表現が気に入ったのか、彼は自分の言葉に自分でうなずいている。
「僕の肉体は、まだ生きています」
「はあ」
「かろうじて、ですけど」
まだ、ゆうれいにはなっていない状態ということか。
「だから、『ゆうれい未満』ですか」
「はい」
うなずいて、彼は話し始めた。
「今日、ホームセンターへ行ったんです。ロープとか、切れ味のいいナイフとか、殺鼠剤とか農薬とか、まあ、なんでもよかったんですけど。そういった『道具』を買おうと思って。ストレートに言うと、僕は、死のうと思っていました」
その言葉を聞いて、自分の肩が微かに揺れたのに気づく。わたしは黙って彼の話を聞く。
「大学を出たものの就職先がなく、バイトをしながら就職活動を続けていましたが、それも、そろそろ限界でした。金銭的にも、精神的にも。もう少し、あと少しだけがんばって、春までがんばって、それで内定がもらえなかったら、実家に帰ろうと思っていました。卒業してすぐに帰っていればよかったのに、何を意地になっていたのか、僕はもうずっと何年もこの街にとどまっていました。もたもたしていたら、先月、両親が亡くなりました。事故でした。地元のホームセンターにトレーラーが突っ込んで、それで。帰る場所もなくなりました。面接官の、こちらを見下したような横暴な対応とか、諦めたような冷めた口調とか、面接官の全員が全員、そういうひとではありませんでしたけど、でも、時々あるそういうことがすごくつらかった。自分が、少しずつ擦り減っていくような気がしていました。だけど、そういうことに耐えられたのは、無条件で迎えてくれる場所があったからなのに」
目を伏せて、彼は洟をすすった。
ゆうれい未満でも、鼻水は出るんだな。
わたしは彼を見つめ、ぼんやりとそんなことを思う。
「今日、僕が行ったホームセンターの扉、自動ドアじゃないんです。自分で押して開けるタイプのガラス扉だったんです。先に入った制服姿の女の子が、扉をおさえて、僕が通るのを待ってくれていました。『すみません』と言うと、その子はほんの少しだけ口角を持ち上げて、首を振りました。それが、きみでした」
彼がわたしの視線に自分の視線を合わせる。わたしは、どんな表情をしてその視線を受けとめていいのかわからず、真顔で彼を見つめ返した。
「それだけなんですけど、でも、それだけで、もう少し生きてみようかなと思えたんです。それだけで、この世界もわるくないかもしれないと思えたんです。よくはないかもしれないけど、まあ、きみみたいなひとがいるなら、わるくはないんだろうなって」
彼は、にっこりと笑う。
ふと、疑問が浮かんだ。
「それなら、どうしてあなたは、いま、ゆうれい未満なんですか?」
浮かんだ疑問を投げかけると、
「事故です」
彼は、あっさりと言った。
「きみが、ホームセンターを出て、少ししてからです。裏手のほう、あ、店内で言うと手袋とか防寒具が置いてあるあたりです。そこに、トレーラーが突っ込みました」
「えっ」
信じられなくて、思わず声を上げる。
「ちょうどそこにいた僕は、ダイレクトに巻き込まれました。きみも、出るのがもう少し遅かったら、巻き込まれていたかもしれない。きみが無事で、本当によかった」
そう言って彼が邪気なく微笑むのを、わたしは複雑な思いで見つめた。
「冗談みたいな話でしょう? 生きようって決めた途端に、両親と同じような事故に遭うなんて」
彼は自嘲気味に笑ったけれど、わたしは笑えなかった。
「僕は現在、意識不明の重体だそうです。どうも、大変危険な状態にあるみたいだ」
彼は、まるで他人事のように淡々と告げる。
「そういうことって、自分でわかるものなんですか?」
わたしの問いに、彼はゆるゆるとうなずく。
「目の前にトレーラーが迫った、その瞬間です。声が聞こえました。高くもなく低くもない、女性なのか男性なのかもわからない、なんとも言い表せない不思議な声でした。声は、こんなことを言いました」
お世話になってまーす。この世界のシステムを管理している者でーす。本日火曜日は、意識不明者サービスデーでーす。
よし。時間がねーから手早くやるぞ。
あんたの肉体は、いまの事故で意識不明の重体だ。ハイパー危険な状態だぞ。こりゃもう、どっちに転ぶかわかんねー。生き残るんならノープロブレムだが、死んじゃっちゃあおしまいだからな。会いたいやつがいるんなら、いまのうちに会って来い。
十秒以内で条件を言え。居場所、検索してやっからよ。サービスデーだからな、特別なんだぞ。心して時間を使えよ。
はい、いーち、にーい、さーん……。
「僕は、不思議も疑問も、すっ飛ばして、とっさに答えていました。『さっき扉をおさえて待っててくれた女の子。髪はベリーショートで、たぶん柴山高校の制服を着てた……』と。そうしたら、その声が言ったんです」
一件ヒット!
その子は現在帰宅中だ。たぶん、寄り道せずに帰るだろうから、自宅に先回りして待ってろ。
「そうして、気づいたら、あなたのご自宅の前にいました」
わたしは、ぽかんと彼を見た。
「火曜日は、サービスデーだそうです」
彼は、ほがらかに言う。
「もし、僕が事故に遭ったのが他の曜日だったら、もし僕が即死だったら、このような機会はなかったんでしょうね。そういう意味では、僕はとても運がよかった」
事故に遭った時点で、運がいいとは言い難いと思うのだけど、彼はそんなゴキゲンなことを言う。
しかし、それよりも気になることがあった。
「この世界のシステムを管理しているひとが、いるんですか?」
「そうみたいですね。僕も、さっき話したこと以上のことはわかりませんが」
わたしはうなずいて、次に気になっていたことを尋ねた。
「あの。こんなことを聞くのは失礼かもしれないんですが」
「なんですか」
「死ぬかもしれないのって、こわいですか?」
彼は、少しの間うつむき、すぐに顔を上げてわたしの目を真っ直ぐに見た。
「こわいです」
彼は言った。そして、小さく首を振り、言い直す。
「いや、少しちがうな。こわい、というよりも、焦ります。これで終わるのか、もっとなにかやれることがあったんじゃないか、そんな感じです。やり残したことがある、ということがこわいです。未練です。できれば、もう少し生きていたい」
「そうですか」
わたしはうなずき、彼もうなずいた。
それから、もうひとつ。
「どうして、そんな大事な機会をわたしに使ってくれたんですか?」
「後悔していたんです。あの時、『すみません』じゃなく、『ありがとう』と言えばよかった」
そう言って、彼は、
「ありがとう」
と笑った。
「まだ、死ぬかどうかはわからないけど、あなたに会えてよかったです」
「そういうのは、わからないんですか? 助かるとか助からないとかっていうのは」
「わからないみたいですね。システム管理者の口ぶりだと」
「わかることとわからないことの基準はなんなんでしょう」
「たぶん……。かなり、たぶんなんですけど、すでに起こってしまったことはわかること。これから起こるかもしれないことはわからないこと。だと思います」
「はあ。そういうシステムなんですね」
妙に納得して、わたしはうなずいた。
「今日は、ありがとう」
彼がもう一度言う。
「ありがとう、会いにきてくれて」
わたしも言い、なんだかこの生温かい空気感に酔ってしまい、くすぐったくなってしまった。
「そうだ。お茶をいれます」
照れ隠しに言って、わたしはこたつから出て、台所に立った。
「おかまいなく」
背後に彼の声を受けながら、お茶の用意をする。
「あ」
ふと気づく。
「ゆうれい未満のひとって、お茶とか飲めるんですか?」
しばらく待ったけど、返事がない。振り返ってみると、彼は消えていた。
「どっちだろ」
思わず呟いた。
彼の命は、生と死、どちらに転がったのだろう。
わたしは、こたつに入り、いれたばかりのお茶をゆっくり飲んだ。消えてしまった彼のぶんも、時間をかけてゆっくりゆっくり飲んだ。
だんだん身体があたたまってくる。力を抜いて、ふっ、と軽く息を吐き出す。そして、手を伸ばして、放ったままだったホームセンターのビニール袋をつかみ、中身を確かめた。
ロープ。できるだけ丈夫そうなものを選んだつもりだ。
わたしは今日、ゆうれいになろうとしていた。そういう意味では、わたしもゆうれい未満だったのかもしれない。
こじ開けられたロッカーの鍵。ハサミを入れられて、短くするしかなかった制服のスカートや髪の毛。泥水の染み込んだ体操服。いつのまにかなくなっている手袋や上履き。ページをごっそり破られてしまった教科書やノート。
そんな毎日だから、明日が来るのがこわかった。
昨日を捨てて、今日を捨てて、明日を捨てて、わたしを捨てて、この世界を捨てて、わたしを悲しい気持ちにさせるすべてを捨てて、ゆうれいになってしまいたかった。
下唇を噛む。
どうしようか、と少しだけ考え、その丈夫そうなロープを、ビニール袋ごと押し入れの奥に突っ込んだ。
これは、保険だ。ゆうれいになりたくなったら、ロープはいつでもここにある。使いたい時に使えばいい。
でも、いまはまだ。もう少しだけ、生きてみよう。彼が、そう決心したように。
もう少ししたら、母が帰って来る。わたしを無条件で受け入れてくれる、大事なひと。
話そう、と思った。聞いてくれるひとが、わたしにはいるのだから。
母に、なにをどう伝えようか、考えをまとめるためにメモ帳とボールペンを探していたら、うっすらとまとまりかけていた思考が、逆に霧散してしまった。
まあ、いいか。おかえりを言ってからでも、きっと遅くはないだろう。まとまりがなくても、考えながらでも、話せば母はきっと聞いてくれる。
テレビをつけると、ローカルニュースで、ホームセンターの事故のことが報道されていた。
「ああ、本当に。本当なんだ」
意識不明の重体が一名、軽傷者が三名。
亡くなったひとがいる、とは伝えられなかったので、彼はちゃんと生きているのだろう。
わたしは、こたつの上のみかんを手に取り、皮に親指を突き立てた。途端、果汁が飛んで目に入り、わたしは声にならない声を上げる。たまらず、じたばたと動くと、こたつの脚で足の小指を負傷した。
「なんだよ、もう!」
わたしは泣いた。泣きながら笑った。この世界には、泣きっ面に蜂的なシステムでもあるのだろうか。
でも、少しだけ思う。彼の言う通り、この世界も案外わるくないのかもしれない。確かに、よくもない気はするけれど。
「どっちだろ」
それは、きっと、最期まで生き抜いてみなくちゃわからない。最期の最後になっても、もしかしたらわからないままかもしれない。だけど、それだって、結局最期になってみないとわからないんだから。
こんがらがる思考の中、わたしは痛みを我慢して笑う。
了
ありがとうございました。