頑固爺と犬
飼い犬を心配した頑固爺の悲しみを書きました
廃屋の庭に放置された犬がいると相談があった。今日は車の運転ができない戸田さんではなく、入船さんと小池さんの40歳台コンビと犬用の大型ゲージを用意して現地に向かっている。贅肉がない入船さんは、気温が40度近い暑い日でも長袖を着込んでいる。反対に小池さんがふっくらした体形で体にぴたりと張り付いたシャツに汗が染みだしている。
到着した目的地は老人が亡くなって以来、人が住んでいない朽ち果てた家で、連絡をしてきた近所の人の話によると近々取り壊すという業者が挨拶にきたことで発覚した、これまでこっそり面倒を見てきた犬が心配になったとの事だ。粗末な家の外壁は傷み軋んでいる。犬は裏口に繋がれていると話で伝えられていて、開きっぱなしの錆びて束ねられたアコーディオンの仕切りを潜る。猫の額ほどの硬い地面の突き当りに小さなひさしが付いたドアがある。糞尿の腐った匂いが熱波に乗って鼻孔を突く。
私は捕獲機を下げて後ろに続く。先を歩くふたりが背中を丸めたおじいさんを通り越した。私は避けて通り過ぎようとしたが、死者は唐突に目覚めた。沈んでいた魂がはっと覚醒し話しかけてくる。
-- 誰だ? --
-- ここのワンちゃんを保護にきました --
-- いらん!息子に頼んである!いらないことをするな --
おじいさんが私をはっきり認識しているので返事してみたら会話ができた。これまで試したことはなく成功に感嘆した。死者との交流は不可能と決めつけてきたが、交流してもきっと利点はない。文句をぶつぶつ言い続けているおじいさんは影絵のように薄くなっている。死後大分時間が経過していそうだ。その割に生々しい感覚を保っている。小言が非常にうるさい。
「いい子ね。こっちにおいで。」
「ひどい。先に水を飲んで。」
僅かな日陰の地面を掘って日差しから逃げていた犬を引き出そうとしている。汚れて匂いがひどい。長く出した舌からひゅーひゅーという呼吸音と涎が垂れる。時折近所の人が与えていたドッグフートに蠅がたかっている。
犬がじっと杖の上で両手を組んで体重を掛けて立っているおじいさんを見ていることに気が付いた。
-- おじいさんの犬ですか? --
-- そうだ --
-- いいワンちゃんですね。おじいさん言葉を待っています。今日はとても暑くて具合が悪そうなので、病院に連れて行きたいのですが --
-- 息子がやる。いらないことをするな --
-- 今、お医者さんに行かないと苦しそうです。後で、今の飼い主、おじいさんの身内の方連絡しますから --
胸元まで家屋の下に潜らせている犬を引き出すことに苦労している。おじいさんは改めて自分の犬の状態が’ミエタ’ようだ。
-- リッキー、こっちにおいで --
死んだ人と生きている世界の隔たりは大きい。リッキーは存在を感じていても声は届いていない。おじいさんも私を例外とすれば犬がたまに見える程度らしい。私は捕獲機を置いて二人と一緒にしゃがんだ。手に水を掛けて鼻先に差し出す。厚い舌で手に付いた水を舐めてくれる。
「リッキー、こっちにおいで。」
おじいさんの余韻を言葉に含んで発した。リッキーは左右を見た後、のそりと穴から這い出す。中年のふたりは甲高い声を口々に出して、えらいえらいをべったりとした茶色の毛皮を撫でた。忙しない呼吸をは治まらなかったが歩いて車に乗り込むことができた。後部座席で犬に付き添うと小池さんが言うので、私が助手席に座る。
道路に背を向けいなくなったリッキー方角を見たまま、根が生えたように立ち尽くす老人の小さな後ろ姿に呼びかけた。
-- おじいさん。リッキーはもう車に乗ったよ。病院に行くけれど動ける?私の方に来ることできる? --
「ごめんなさい。忘れ物しました。」
エンジンをかけて、もう出発するという時に車から飛び出した。外に置かれている洗濯機の横に散歩用のリードが畳んで引っかけられている。
-- これでわかる? --
頭にぼんやりと入り込んできた映像の通りの場で見つけた散歩綱を手に取って車に戻る。杖をついたままの格好のおじいさんが揺れて車に付いてくる。
すぐに病院に向かうと決めたらしく、犬ゲージを運ぶ手伝い要員だった私は寮の最寄りでリードを手に車を降りた。
リードを媒体に移動しているためおじいさんも当然私と一緒に下車する。魂付きで部屋に戻ってから、移動の負荷が原因なのか、しばらくは意識が切断して静かだった。意識が戻ると独りでずっと小言を言い続けている。なんかうるさいなと思い、リードを残して買い物にでることにした。リッキーとおじいさんを引き離しては可愛そうかと同情し引っ張ったことを少し後悔した。
翌日、うまいことおじいさんは静まったままだった。口をへの字に結んで気難しそうな深い縦皺を刻んだ顔にのまま固まっている。「帰りにリッキーの様子を聞いてくるから待っていてね。」聞こえていないだろうが一応声を掛け出勤し、帰りがけに戸田さんの家へと足を運ぶ。
保護シェルター室の中央に長細いキャンプ用の椅子があり、4か所切り目を入れて手足をぶらりと下げたリッキーが相適温に設定された室内でも変わらずに忙しく呼吸をしている。
「リッキー、どうしたんですか?」
「唯ちゃん、昨日はありがとう。この子リッキーって名前になったの?あら尻尾を振っているわ。あのね、フィラリアの末期状態らしいの。呼吸が苦しそうでしょ?」
「フィラリアの末期って…。」
虫が心臓に寄生する病気で薬を与えていれば防げるはずだ。戸田さんは近所の人に保護した報告を兼ねて、リッキーのこれまでの扱いを聞き出した内容を教えてくれる。偏屈な老人が気まぐれで野良犬を引き取って、可愛がっていたそうだ。その老人は病気で死んでしまうと外に出されて放置されているらしいと重い口調で教えてくれる。
「こういう体制にしていないと呼吸が辛いみたい。病院んで椅子を貸してくれたから助かるわ。肺に水が溜まってきているのではというから、みんなで交代に付き添いをしようって決めたの。」
「リッキー、ひとりで留守番をしていたのにひどいね。」
薄茶色の頭を撫でるとさらりとしている。目を細めた愛嬌のある顔は苦し気な表情に見えてしまう。
「全身、油ぽかったからシートで拭いたの。匂いまでとれないけれど、少しはさっぱりしたと思う。ただ、猫たちは皆遠巻きよ。」
「明日も会社あるから、ずっとはできないですけれど、着かえてきたら私も少しここにいてもいいですか?}
「いいわよ。9時に小池さんと変わるけれどいい?」
日が暮れた住宅街を蚊が飛ぶ羽音を耳元で聞きながら、しかめっ面の頑固爺の魂を連れながらリッキーの元に戻った。気配が伝わるのか尻尾が揺れる。邪魔にならないように少し離れた場所に座り、おじいさんに呼びかける。ゆらゆら定まらなかったが時間が経つと昨日の調子を取り戻してくる。
ーー リッキー病院に行ったよ --
-- じゃ、オレの家に戻してくれればいい --
-- もう、取り壊しになるから戻せないよ --
-- 迎えに来る息子が困るからな --
-- その息子はあの家を売って連絡が取れないらしいよ --
-- 面倒見ると約束したからには迎えにくるはずだ --
-- リッキーは3年も雨ざらしな冬も、耐え難い暑さも、湿った地面の上で、屋根もないあのおじいさんの裏口で短い鎖に繋がれて待っていたけれど、迎えはなかったって。おじいさんが死んで1年は何日かに一度やってきて散歩とご飯を与てくれていたけれど、とうとう来なくなって、残り2年は近所の方がせめて雨が当たらないようにビニーの屋根を張ったり、ご飯や水を定期的にあげていてくれたから、リッキーは生きることができたんだよ。そうして取り壊しされることを知って、ここにいる愛護活動の人が保護した。その近所の人も引き取ろうと考えていたけれど、黙って犬を連れだしたら泥棒扱いされることを心配して、愛護活動を介して譲渡して貰えないかって相談されたんだって --
近所の家とはどこかと仕切りに尋ねて名字を聞き出すと悪態をつく -- あの婆さんは本当に厚かましい。図々しく家まで入り込んでまったく --
-- 息子さんよりずっとリッキーに親切だったでしょ。病院で健康状態を見て貰って受け渡しをしようとしたけれど、リッキーは病気でもう長くいきられない。フィラリアだって。だからここで看取ろうとしているの --
-- あれ?アンタ1年と2年…3年リッキーは外で3年って言ったか? --
-- 死者はこの生きている世界と違う時間の流れだから感覚が異なるから仕方がないけれど、3年経っているみたい。息子さんの事情も色々あったのでしょう。好きで放置したかったわけではないと思うよ --
-- リッキーはオレと家で過ごした犬なんだぞ。眠るのも同じ布団で。オレは年を取っているから、リッキーより先にくたばるだろうって、リッキーを頼むときの貯金をしていた。6万しかない年金の内からリッキーにかかる金を貯めた。癌だってわかった時、死ぬことよりもリッキーの引き取り先の方で頭が一杯だった。オレにゃ頼めそうな奴に心当たりがない。息子にオレと同じようにリッキーを可愛がって欲しい、頼めるか?と聞いたら、任せろって言っていたんだ!だから預金も渡して、病院に入ったのに。どうして、どうして注射しない、薬も飲ませていないんだ! --
激しい怒りだった。頑固爺の顔がぐにゃりと歪んで悪相に変わって行く。それまでわからず屋というだけだったが、怒りと憎しみと信頼を裏切られた絶望が一気に魂を汚してゆく。悪いモノに転嫁する瞬間に始めて立ちあう。私はリッキーを庇うように背中から抱きしめた。過去、目の前で猫の命を曳く現場に立ち会ったこともあり、そのようなことは2度とごめんだと思ったからだ。おじいさんの感情が噴出して混ざり合って、ねっとりした渦を作り出していた。
「リッキー、リッキー。」
何事か分からない戸田さんが、何事かと一緒にリッキーを覗き込む。怯えて荒い息の下でぴーっと鼻を鳴らしている。
-ー できないのに何故引き受けた!なぜリッキーにひどいことを…、もう少しよく考えれば、…息子は来てくれるのでは?…3年…フィラリア……苦しむ窒息死。苦しむ!息子の性格をよく考えておけば…、がんばった気でいた…辛い思いを…! --
-- おじいさんの汚れをこの子に近づけないで! --
-- すまなかったなぁ、いざという時に頼める当てがない癖にリッキーを飼ってしまって…。オレには一番かわいい犬だったがよ、他の奴らは不細工って馬鹿にしたろ?息子ならきっと言い残すことを守ってくれると信じようとしてしまった --
おじいさんの淀んだ感情の濃度が濃くなり、他の猫も総毛立ってしまっている。リッキーの尻尾もすっかり下がってしまい怯えている。頼んで安心して成仏せずに犬の傍に留まったのは、誤魔化しきれない不安を予見する部分があったからだ。押し殺してきた感情は膨れ上がり渦となって私の感覚を直接刺激して車酔いの時のような吐き気をもたらす。
-- ほらっ、リッキー!早く来い! --
ーー ワン --
呼ばれた反射で嬉しそうに返事をした。魂が。尻の下にひいてあるシーツの上に漏れた小便がしたたる。ふーと大きな呼吸の後、細く頼りなく変わる。
飛び出したリッキーの喜びに光輝く魂が、ヘドロのように急速に汚れた頑固爺の魂に飛びつき、-- 爆ぜた。
リッキーの肉体の呼吸は完全に止まった。
-- わんわん、わふっ、きゅんっきゅん --
-- リッキー、来たか。いい子だ。オレと一緒が一番だ。なぁ。息子を許してくれよ。それと、あの婆さんに礼が言えたら良かったが…色々揉めたこともあったがなぁ。ほら、そんなに…急ぐ…な --
奇跡だった。リッキーのおじいさんを慕う無邪気が、悪い汚れを吹き飛ばした。全身で喜びを表し飼い主の周りを飛び回っている。気難しいけれど穏やかな頑固爺の顔をくしゃくしゃにして笑う。やがて、走り始めた道行に杖はなく、散歩のリードに引かれて進むべき道に導かれる後ろ姿を見送った。
息が止まったリッキーを戸田さんが優しくなでて労わっている。満足そうな顔をしていることが無性に悲しかった。
「リッキーは凄かったよ。」
「ずっと、お家を守って偉かったね。苦しむことなく最後を迎えられて良かったね。」
「戸田さん、このリード大好きな散歩の時に使っていたものらしいんです。リッキーの傍に置いてあげてください。」
魂は先におじいさんと行ってしまっているが、大切なものは後からでも送った方が良いのだ。おじいさんの汚れはリッキーの命を一気に奪い、苦しみなく他界ができた。それでも、曳く光景を目の当たりするのは本当に勘弁願いたいと気分が塞いだ。
犬って奇跡を起こす生き物です