石山本願寺の変化
大阪平野を南北に伸びる台地「上町台地」には、砂洲と呼ばれる微高地がある。西側にある難波砂堆、北側にある天満砂堆である。現在では面影も無いが、かつては大阪湾に突き出た高台であり、古代から西日本および中国、朝鮮との貿易港として重要な場所であった。神武天皇時代に、難波埼に生國魂神社が創建され、河内王朝の始祖である仁徳天皇は難波高津宮を皇居とした。
大化元年(西暦六四五年)に難波宮が創られる。これが日本国史上初の首都「難波京」となる。藤原京、平城京と幾度か遷都が行われるが、難波京は陪都として摂津国府が置かれるまで機能し続けた。
その難波京とほぼ同じ場所に位置するのが、中世日本における最大の宗教団体「浄土真宗」の総本山、石山本願寺(※当時は大坂本願寺と呼ばれていたが、混乱を防ぐため表記統一)である。
元亀二年(西暦一五七一年)は織田家にとって飛躍となる年となった。畿内を煩わしていた比叡山を焼き滅ぼした信長は、西国諸国に室町幕府への臣従を求める書状を送りつけた。これ以上の「私闘」を認めず、争いは幕府が調停するという、いわゆる「天下惣無事令」である。
無論、四国三好家をはじめとし、西国諸国は反発した。だが表立って織田家と対立することは避けた。織田家は背後を気にする必要が無い。越前朝倉氏、伊勢北畠氏とは明確な同盟関係には無いが、東日本を征した新田家とは縁戚となっており、全軍を西に向けることができる。
比叡山攻め後、織田信長は畿内の大掃除に乗り出した。旧六角家に仕えていた国人や大和、摂津地方の豪族などを攻め、大半を降していく。だが手を出さなかった勢力が二つだけあった。一つは伊賀国、甲賀国の小領主たち。そしてもう一つが、石山本願寺であった。
浄土真宗本願寺派第十一代宗主である本願寺顕如は、ただ一心に経を唱え続けていた。まだ二〇代であるが、その政治判断力と宗徒を束ねる統率力は、歴代の宗主の中でも随一であった。
「法主様、織田家より遣いの者が来ております」
「半刻、お待ちいただきなさい」
木魚を叩く手を止めて短く返すと、再び経を唱え始める。だが心中では別のことを考える。織田の目的は何か。それは本願寺があるこの「大坂」を手にすることである。大坂は陸運、海運共に結ばれ、堺にも近く、まさに畿内の要衝に位置している。織田は、この地が欲しいのだ。
得度してから十七年、本願寺は地理的優位性を背景に、軍事的経済的な力を付けてきた。門徒による一揆は、父である証如の代から管理、掌握に腐心してきた。一揆はただ起こせば良いというものではない。目的を達するための手段に過ぎない。
目的とは何か。求めているのは「現状の追認」である。別に寺領を広げようとも思っていない。まして天下人として政事を采配するなど考えたこともない。権力者に妨げられることなく、浄土真宗を広め、民を救う活動を認めてくれればいい。我々に構うな、というのが本音であった。
いつの間にか、読経が終わった。顕如は立ち上がり本尊に一礼すると、静かに本堂を出た。
「お待たせ致しました。勤行故、御容赦を」
「お気になさらず。お時間を頂き、有り難き幸せ」
客間で本願寺顕如を待っていたのは、織田家の重臣、明智光秀であった。これまで幾度か、本願寺と書状のやり取りを重ね、一定の合意に到りつつあった。史実と異なるのは、足利幕府と織田家との間に亀裂が入っていないことである。少なくとも表面上は、織田信長は足利義昭を立てる姿勢を見せていた。
無論、本心では足利幕府をとうに見捨てているのだが、西に対して健在的な敵対勢力を持ち、東にさらに強大な新田という潜在的な敵を持つ状態で、幕府まで敵に回すわけにはいかなかったのである。
「天下惣無事令の趣旨は、理解しております。天下の静謐がなれば、拙僧らも仏道に戻ることができます。しかしながら、本山の名において集めた者たちを、ただ放逐するわけには参りません。また、石山は堺に近く、瀬戸の海にでる要衝でもあります。武装解除後に攻め滅ぼされるのでは、という懸念の声、少なからずあります」
「当然、そうした声はあるでしょう。ですが当家としては、本願寺は幕府に従い、乱世の終焉を願っている、という姿勢を見せていただきたいのです。刀狩りが難しいのであれば、守護使不入の権を捨て、今後は幕府が定めし法に従うなど、何らかの譲歩をいただきたいのです。無論、当家としても長島願証寺をはじめ、寺領に対しては一定の配慮を行います」
織田家としては、畿内から西国に広がる一向衆の力は、西日本の早急な統一にとって見逃せないものであった。特に石山本願寺は中国、四国地方への進出に際し、背後を見せることになる。なんとか幕府に対して恭順させねばならなかった。
時間があれば、あるいは攻め滅ぼすという手も考えられたであろう。だが明智光秀の見立てでは、石山本願寺を攻め滅ぼすだけで一〇年近くを要する。その間に新田が動かないという保証は無い。ならば本願寺勢力を取り込み、新田の盾とすべきではないか。幸いなことに、宗主である本願寺顕如は、理性的で聞く耳を持つ人物と見えた。
「新田様は宗派に関わらず、信仰に厳しいお方のようです。加賀、越中国では寺領は悉く召し上げられ、僧兵はすべて放逐せざるを得なくなりました。無論、言わんとされていることには、一理あります。我らは本来、仏の道を修めんと僧となったのです。されど時の移ろいの中で、公卿や武家の三男、四男が、家の混乱を避けるために仏門に入る、ということが繰り返されてきました。その結果、僧としての覚悟もなく、眉を顰めざるを得ない所業をする僧も増えました」
「では、本願寺は新田の治世を認めると……」
此処こそが、肝要なところであった。日本最大の宗教団体である石山本願寺の宗主が、新田の有り様をどのように捉え、そしてどのような天下を望んでいるのか。もし本願寺が新田に味方するとなれば、織田家は胆を括る必要がある。
だが本願寺顕如は、涼しい顔のまま、首を横に振った。
「いいえ。新田様の理は理解できますが、その為さり様は、あまりにも急ぎすぎに見えます。僧の中にも、真面目に仏の道を歩む者もいるのです。仏門を浄化するという名目で、すべてを破壊する必要があるのでしょうか。時を掛けて、仏門の有り様を変える、というやり方では駄目なのでしょうか。拙僧は、新田様の急進さに、疑問を持っています」
「正直に申し上げましょう。我が主君、織田信長様も決して、甘い御方ではありませぬ。こうして某が参ったのも、本願寺と対立すれば虎狼に挟まれるから、という懸念からです。しかし同時に、こうも仰せでした。新田陸奥守が存命の間は良いだろう。だが死後はどうなる? 傑出した一人の人間が描いた理想で、たとえ世を統べることができたとしても、その理想が多くの者に理解共感されなければ、遠からずその治世は瓦解する。新田の理想は、日ノ本には合わぬ、と」
本願寺顕如は、瞑目して頷いた。この戦国乱世の中で、突如として東国に出現した桃源郷。民のことを考えれば、あるいは新田こそが正しいのかもしれない。そう迷ったことは幾度もある。だが同時に、その急進的な改革に、疑問があるのも事実だ。本願寺宗主であろうとも、思いのままに寺社内を改革することなどできない。畿内には、澱のように積み重ねられた柵が、鎖のようにあらゆる勢力を束縛している。
「不入の権につきましては、承りました。少々時をいただきますが、本山のみならず、長島願証寺、播磨本徳寺、河内顕証寺とも相談し、織田様を受け入れるよう説得致しましょう」
守護使不入の権という、寺社勢力において最も重要な特権を譲歩する。非常時だからこその決断であった。新田と織田の力は、未だに大きな差がある。もし新田が畿内まで攻め上ってきたら、本願寺は滅亡するかもしれない。こちらが変化の姿勢を見せれば、新田も一定の配慮をする。それは加賀、越中の寺社を見ればわかる。
「御決断、誠に忝く……」
明智光秀は深々と頭を下げた。
本願寺が守護使不入の権を放棄したという報せは、すぐに春日山城に居を構える新田又二郎政盛のもとに届いた。
「フンッ……」
又二郎は鼻で嗤って、その報せを捨てた。浄土真宗は、その教義からして問題があると又二郎は考えていた。「他力」とは、とどのつまり「何も考えずに阿弥陀仏を信仰せよ。さすれば死後は極楽浄土に行ける」という教えである。そこに本人の努力などは一切無い。非常に分かりやすく、蓮如によって爆発的に広まった。
又二郎からすれば、教養の無い弱者を洗脳し、社会騒乱を発生させ、一部の堕落した特権階級(僧侶)を懐を潤すだけの、ただの犯罪組織である。
(浄土真宗か。その教義を改めぬ限り、日ノ本から消し去ってくれる。別に武力を使う必要は無い。民を豊かにし、教育を施し、物事を理性的に考えられるようにする。そうすれば自然と、こんな馬鹿げた宗教団体は衰退するだろう。無論、国家権力による圧力も掛ける)
前世の日本では政教分離の名の下に、国家権力は宗教団体に対して一歩退いた姿勢を取っていた。布施に対して免税措置を執り、都内に巨大な敷地を持つ寺社すら、一円の納税もしていなかった。仏の道を治める、などという覚悟も無く、葬儀の際にロールスロイスで駆けつけ、経を唱え、有り難そうな話をするだけで金を得ていた。全員とは言わないが、比叡山の堕落した僧侶が可愛く見える程に堕落した坊主も多かった。
「さて…… 織田はいよいよ西進する。此方も動くとするか」
立ち上がった又二郎は、近習を呼んだ。僅かな供回りを連れて、直江津へと向かった。




