叡山焼討
元亀二年(西暦一五七一年)二月、志摩国は新田家によって完全に占領された。彼我の戦力差から考えても占領できて当然であり、又二郎としては既定のことであった。だが一点だけ、その報告に気になることがあった。九十九衆の警戒網を破って忍びが一人、侵入したということである。主だった部将たちに被害は無かったが、犠牲になった兵もいるという。
報告を受けた夜、又二郎は九十九衆頭領の加藤段蔵と、寝所で密談を交わした。
「段蔵、今後のためにも忍び対策を練らねばなるまい。実際のところ、絶対に忍びが入れない守りというのは可能なのか?」
「正直に申し上げれば、不可能です。御領内の主だった城や砦、館に関しましては、忍び破りの仕掛けを施しており、潜入の難度は極めて高いものとなっております。されど絶対に、という御約束は難しゅうございます。まして御領外の建物や戦場での陣中となれば、隙も大きくなります」
「そうだろうな。せいぜい、見張りを厳しくするくらいしかできないだろう。それに余りに厳しくしては、兵たちも疲弊する。主導権は攻め手にあるのだからな。関所の警戒を厳にしたところで、忍び相手には意味があるまい」
「根を断つしかありませぬ。伊賀衆、甲賀衆は虎狼の輩です。つまり己が欲でのみ動きます。報酬を出す者がいなくなれば、散り散りとなるでしょう。無頼者や野盗になるしかありませぬ」
「それしかない、か…… だが伊賀攻めとなれば、地の利はあちら側にある。それに現時点では、織田と隣接する地は増やしたくない。とりあえず、志摩の守りを固めよ。新田領内であれば、連中も簡単には手を出せまい」
だが又二郎の言葉に、段蔵は微かに首を振った。
「集としてはそうでしょう。されど此度の報告では、格段の腕を持つ者がいるとのこと。火付けや流言は無理でも、一人を殺すことはできます。どうか御警戒を……」
本来の忍び働きである諜報活動には、衆としての力が必要となる。だが暗殺だけは、個としての力量が成否を決める。新田式の鉄砲も織田や西国に流れている。従来の鉄砲より遥かに遠い射程から狙われれば、防ぐことは難しい。
嫁らと共に気軽に温泉に行くこともできなくなる。苛ついたためか、又二郎は一瞬、左眼をピクリと歪めた。
テロリズムとは、暴力という恐怖を用いて、特定の政治的目的を達成しようという行為である。では、伊賀や甲賀の忍び衆、すなわち「虎狼の輩」はテロリストであろうか。答えは否である。彼らには政治的目的は存在しない。あるのは「依頼料」という金銭目的だけである。現代社会でいうならば、暴力団やマフィアに近い存在だろう。だからこそ織田信長は、徹底的に殺戮したのである。
そしてもう一つ、虎狼の輩に近い存在があった。その集団はまさに今、阿鼻叫喚の中にあった。
「叡山は寺社ではない。あれは野盗山賊が棲む城である。あの城に坊主は居らぬ。山賊どもを一人たりとも生かしてはならぬ!」
元亀二年三月、織田信長は畿内および西国統一のための第一手を打った。それが比叡山延暦寺の焼討である。織田信長、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉ら重臣たちが、総勢四万の兵をもって比叡山を包囲し、一気に攻め立てたのである。
史実では、元亀元年において、比叡山は浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反織田の旗を鮮明にしていた。その一方で、比叡山は日吉大社を通じて、出挙と呼ばれる「高利貸」を行い、暴利を貪っていた。都周辺の農民たちに「神仏の加護がある種籾」と称して高利で貸し付け、返せなくなると田畑を没収していたのである。これらは「守護使不入」の名の下で行われ、幕府ですら口出しができずにいた。
こうして集めた膨大な資金は、軍備増強のほか寺領内での市の開催などに「投資」され、そこで地子銭を稼いでまた儲けるという「営利活動」を行っていた。特権に胡坐し、経すら忘れて酒色に耽っていたのである。奈良興福寺の「多聞院日記」には、当時の比叡山について
『中世より、叡岳の僧徒、兵杖を帯し、動もすれば朝家を劫かし奉る。代々の帝王、将、相畏れて彼れが申す旨に任せられしかば、其の残害、頗る仏氏の所為に非ず。然るに信長、其の破戒、無律を怒りて、終に其の山を焼き亡ぼしぬ』
要約すれば「特権に胡坐し、時には朝廷すらも脅して好き勝手をしており、その様相はとても仏門の者とは呼べないほどに酷いものであった。だから信長はその破戒ぶりに激怒し、焼き滅ぼしたのだ」ということである。
史実では、この比叡山焼討により武田信玄が腰を上げることとなり、信長包囲網へと繋がっていく。だがこの世界では、東日本を統一した新田家という存在があり、既得権益に対する苛烈ぶりは信長以上であった。東日本にある比叡山の寺領など、とうの昔に(勝手に)没収していたため、比叡山焼討は新田家にとっては、むしろ朗報でしかなかった。
「あっそ」
比叡山焼討の報せを聞いた又二郎は、特に興味を示すことなく、ただ一言返しただけであった。
「此度の比叡山の件、畿内の様子はどうか?」
「朝廷、幕府、本願寺のいずれも、目立った動きはありませぬ。覚恕座主は都に居られ、叡山攻めを止めるよう、主上に相談されていました。されど主上は取り合わず、御諦めになられたようです。調べでは、叡山復興の依頼を毛利に出されたとか。毛利の動きについては、まだ報せが来ておりませぬ」
「ふん。さすがに、新田に持ち掛けるほど阿呆ではないか。儂と陸奥守では、目指す天下は異なれど、同じ点が一つある。私利私欲をもって天下を乱す輩を、決して許さぬということよ。新田に持ち掛けていたら、使者ごと叩き斬られておったであろう。それはそれで、面白いがな」
クツクツと嗤う主君を見ながら、報告した明智十兵衛光秀は、一つの危惧を抱いていた。それは、今回の一件によって、織田と朝廷、正確には今上陛下(※正親町天皇のこと)との間に亀裂が入らないかということである。天台宗座主の覚恕は、親王宣下こそ受けていないものの、今上陛下の異母弟である。
だからこそ、都に逃れている機を狙っての焼討であったのだが、織田が畿内にいるうちは比叡山の再興など不可能である。今上陛下がそれをどう考えるか。その意思までは図ることはできない。
「もう一つ、片付けておきたいことがある。禅譲の件だ」
「殿、その件は扱いに注意が必要でございます。時を掛けるべきかと……」
カシャンッと音が鳴り、光秀の額に雫が飛んだ。信長が盃を投げつけたのだ。さすがに当てるようなことはしないが、光秀は姿勢を正して恐懼した。
「キンカン、解っておろう。主上は五五になられる。誠仁親王殿下は二〇になられたばかりだが、それだけに新田の色に染まっておらぬ。織田と新田との間を飛び交う蝙蝠など不要だ」
畏れ多くも二〇〇〇年にわたって、この国を統治してきた「天子」に対する言葉とは思えないほどに、信長の言葉は乱暴であった。信長にとって皇統は「権威として使える存在」だから重んじているだけである。使えない天子などさっさと排除して、使える天子を据える。事もなげにそう言い切る。
(天下泰平の為にも、誰かが日ノ本を統一せねばならない。だが同時に、日ノ本の根を絶ってはならない。それだけは、決して許されぬ。もし、殿がその大罪を犯そうとされるならば……)
たとえ謀反を起こしてでも、止めねばならないだろう。自分は織田家に仕える武士である前に、日ノ本に生きる民なのだから。
明智光秀の中に、微かに暗い不安が芽生えた瞬間であった。