南条広継の危機
慶長三年(西暦一五九八年)の記録では、志摩国の石高は一万八〇〇〇石であった。織田信長に仕えた九鬼嘉隆によって、二〇年近く統治された状態で、この石高である。志摩十三衆と呼ばれた国人たちが割拠していた頃となれば、米など殆ど収穫できなかったであろう。九鬼衆をはじめ、志摩十三衆が海賊となり、尾張湾で通行料を搾取したのは、彼らの生存戦略上、必要なことであった。
「見ヶ〆料を取るのならば、それに相応しい働きをしろ。灯台も設置せず、海難救助もしない。ただ銭だけせしめる。そんな無法など、新田が目指す天下では決して許されぬ。九鬼衆を除いた残り十二衆は、すべて取り潰しとなる。上陸次第、すべての砦を破壊して構わぬ」
新田海軍の先鋒は、石川田子九郎信直である。将来の為にも、海戦の経験を積んでおくべきだろうという判断から、今回の先鋒を志願した。とはいっても、新田家の戦の仕方は陸も海も変わらない。徹底して敵を調べた上で、数と質の両面で圧倒する。上陸部隊を乗せた三〇〇〇石船の周囲には、関船が無数に取り囲んでいる。当然、志摩の海賊たちも反撃をしてくるが、クロスボウの原理を応用して炮烙玉を射出し、迫る敵を次々と沈めていく。小早で近づいた敵は鉄砲で迎撃する。
徹底した遠距離戦を展開し、一人の死者も出すことなく完勝することが目標であった。既に地頭十三衆のうち、浦衆と甲賀衆の居城を攻め始めている。いずれも海辺の城であるため、船上から炮烙玉での攻撃が可能であった。やがて三〇〇〇石船から小早か出される。二万もの兵が、一気に志摩国を席巻しようとしていた。
だが、志摩国にいるのは新田だけではなかった。
「新田又二郎はこの戦には来ていない。狙いは新田の重臣たち。特に、謀臣として知られている南条広継と八柏道為の価値は大きい」
「首があれば即金で五〇〇〇貫。持ち帰らずとも、確認されれば三〇〇〇貫だからな。で、どうやって殺る?」
順調に志摩国を制圧し続ける新田軍の陰で、蠢く存在がいた。伊賀、甲賀の忍びたちである。虎狼の輩と呼ばれる彼らは、身内であろうとも信用しない。三〇〇〇貫の報酬のために手を組んだとしても、いざ事が成されたら独り占めを狙って殺し合う。それが虎狼の輩である。
「新田も乱波を使う。かなりの数が志摩に入っていると聞く。しかも謀臣となれば護りも固かろう。陣の外から狙うのは無理だ。忍び入るしかない」
「となれば、使い番が狙い目だな。本陣にも入れるし、戦の最中であれば狙いやすい」
「志摩制圧の直前が良いだろう。勝ち戦の後となれば、周りも浮かれておろう。直前で紛れ込み、その夜一夜で狙う。できれば首を持ち帰りたいが、確実に殺すことが肝要だ」
六人が頷き、闇へと消えた。
小さな志摩国を制圧するのに一月も必要とはしない。半月もせずに志摩国内の砦はすべて制圧された。だが戦はそれで終わりではない。小国人たちの仕置きの他に、伊勢北畠家と国境の確認もする必要がある。新田軍の主だった者たちは、志摩答志郡にある橘氏の砦(※九鬼氏の鳥羽城は一五九四年築城)に集まった。鳥羽と呼ばれる湊に築かれた砦で、尾張湾を一望できる海運の要衝でもある。
「勝ち戦の後だ。兵たちも浮ついている。乱暴狼藉は許さぬが、多少は羽目を外すことは認める。肉と酒を出してやれ」
当然、砦の中に二万もの人が入れるわけもなく、侍大将と供回りだけが入砦し、周囲を取り囲むように陣が張られる。当然、侍大将の供回りとなれば顔見知り同士である。だが入砦するにあたって、飲食物を運んだり馬の世話をしたりする小者までは、さすがに見知らぬ者となる。
「此度の戦は完勝であった。殿も大いに喜ばれよう。だが死んだ者がいなかったわけではない。味方にも、そして当然、敵にも。まずは、逝った者たちの冥福を祈ろう」
黙祷の後で、盃が酌み交わされ、そして食事が始まる。新田軍では、調理もそれを運ぶ者たちも、家中から厳選された者たちで構成される。他者など紛れ込みようがない。
食事が終わり、各々が休息のために寝所へと向かう。たとえ圧倒的な勝利であろうとも、戦は疲れるものである。灯りの無い寝所に入った南条越中守広継は、深く息を吐いた。その時、一瞬で身を屈めて脇差を抜いた。
キンッ
金属音が響き、板床に針のようなものが落ちた。
「曲者ぞ!」
広継は叫ぶと闇へと踏み込み、脇差を振った。ザリッという手応えを感じた。恐らくは鎖帷子であろう。広継は止まることなく左右へと動いた。宿直が息を切らして駆けつけてくる。
「一人か…… いや、そんな筈はあるまい。生かしたまま捕らえよ。裏を聞く必要がある」
浮き上がった黒装束の男を宿直たちが取り囲む。広継は先ほどまでの眠気を忘れ、頭を回転させていた。新田軍の情報管理は相当に厳しい。戦場においては幾度か点呼が行われ、必ず顔見知りかどうかを複数で確認し合い、そして集団で行動する。だからこれまで、忍びの侵入を許してこなかったのだ。
「……酒を飲んでいなかったのか?」
低く響く声であった。だが広継は頷きすらしない。新田軍においては、兵と共に過ごす足軽大将は別として、侍大将以上は戦場で酒を飲むことを原則禁じている。先ほど酌み交わされた盃の中身は、煮沸した水であった。
「さすがは新田よ。幾度も阻まれ、此処に辿り着いたは儂一人だ。だが一人で十分よ!」
それは信じ難い動きであった。前転するように一瞬で天井まで跳躍し、天井を蹴って一気に広継を狙ったのだ。あまりの速さに、広継は動くことができなかった。死、迫る。それを救ったのはもう一人の黒装束であった。音もなく駆け寄り、跳躍して乱波を蹴り飛ばしたのだ。
だが相手も尋常ではない。完全に死角であったはずなのに、気配を察したのか両腕で防いだのだ。襖をぶち破って隣室に転がると、そのまま逃走し始めた。
「越中守様、御怪我は?」
「儂は無事だ。九十九衆だな? 相手は何人だ?」
「上忍六人。されど陽動で動いていた者まで合わせると一〇〇近く」
「灯りに群がる蛾のように、この志摩に群がってきたか。それで他の将たちは?」
「皆様、御無事です。五人は討ちましたが、あの者のみ侵入されました。相当な手練れです」
「で、あろうな」
九十九衆の忍びとしての腕は相当な水準であるが、どちらかと言えば諜報活動の方を得手としている。対人戦が弱いわけではないが、個人で見れば、九十九衆をも超える強さを持つ忍びもいるのだろう。
「危うかった。酒が入っていたら死んでいた」
南条広継はようやく安堵の息を吐いた。それと共に、疲労が全身に広がっていくのを感じた。泥のように眠りたい。そう思った。
「で、何人残った?」
「戻ってきたのはお前だけだ。一〇〇人動いたが、半数が討たれた」
「だろうな。儂らとは数も鍛え方も違う。厄介な相手だ」
「……天下に並ぶ者無し。絶人と呼ばれたお前が、そこまで言うか」
「あぁ…… もっとも、儂が甘く見ていたこともあるがな。次は抜き身でいく」
黒装束をめくり上げ、重厚な鎖帷子を外す。両腕、両足に嵌めている鉄製の具足も外した。すべて合わせると二〇斤(一二キロ)を越えるだろう。
「……最初から本気を出せば良いものを。相変わらずの遊び人よな、無楽」
「日ノ本一の大名と忍び衆を相手にするのだ。遊び相手として最高であろうが。どうせなら、次は新田陸奥守を狙いたいの。死んだときはそれまでよ」
無楽と呼ばれた男は低く笑うと、何処へともなく姿を消した。