虎狼の族
他者を思い遣る。約束を守る。規範に則る。こうした社会的道徳と呼ばれるものは、現代社会においては当たり前なことであり、これを無視すれば社会で生きていくことは難しい。しかし、人間は生まれながらに、こうした社会的道徳を持っているかと問われれば、答えは「否」である。これらは教育によって、後天的に養われるものである。
五常八徳、すなわち「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」は論語、すなわち儒教において定義され、東アジアの民族的思想に大きな影響を与えた。だが東アジアの国々に共通しているわけではない。それぞれの国で文化的、歴史的な背景から、五常八徳を前提としているにも関わらず、表出する民族性は大きく変わる。
例えば、仁や礼の前提となる考え方「易地而処(※易地思之とも)」は、儒教の経典「四書」に出てくる言葉である。その意味は「相手の立場になって考える」というものである。
そう聞くと、日本人の場合は「相手が嫌がることは止めよう」という、己を戒める意味で捉える人が多いが、とある東アジアの国においては「私の立場になって考えろ」と、相手に要求するために使われる。近年においても、その国の大統領が外交交渉の場において、この言葉を盛んに使っていたのは、厳然たる事実である。
このように、倫理や道徳は後天的に「教育」されるものであり、それらは時代変化や環境によって簡単に変化する。現代社会においても、昔は許容されていたことが今では許容されない、といったことがある。
倫理や道徳がいかに一時的かつ流動的で、変質しやすいものかの証左であろう。
戦国時代の日本においてはどうであったか。無論、五常八徳の概念は存在していた。だが社会的通念であったわけではない。武家や公家、寺社において「人の在り方」として教育されていたが、全体で見れば少数勢力であった。
それどころか、欲望のために他者を害することを「善」とし、五常八徳をむしろ「悪」とする地域さえ存在していた。そうした土地で育った者たちは、ただひたすらに、己が利益のみを追求し、親兄弟すら利益にならなければ平然と捨てたという。約束を守るのは、それが利益になるから。礼儀正しくするのも、そのほうが得だから。すべては自己の欲望のみを判断基準としていた。
当然ながら武家や公家などは、そうした者たちを忌み嫌い「虎狼の族」と呼んだ。
伊賀国の歴史は、南北朝時代にまで遡る。当時、力を持っていた奈良東大寺は、その寺領を伊賀にまで伸ばした。黒田荘と呼ばれた伊賀の荘園を管理したのは、地元の豪族であった大江氏である。
大江氏は、やがて北伊賀の幕府御家人であった服部氏や、山伏修行をしていた者たちなどを集め、武士団を結成して東大寺からの独立を図る。当時、権力に阿らず、反抗する者たちを「悪党」と呼んだ。大江氏らは「黒田の悪党」と呼ばれ、これがやがて、伊賀忍びへと発展していく。
「年の瀬だというのに、我ら十二衆が集められるとは、これ如何に?」
伊賀十二評定衆の一人である音羽半六宗重は、怪訝な表情を浮かべていた。
伊賀国は氏族の代表でもある、一二名の者たちの合議によって治められている。「伊賀惣国一揆掟書」と呼ばれる氏族間の掟を法とし、それぞれが氏族の意見をまとめ、合議の場に持ち寄り、多数決で決められる。古代ギリシアのような「都市国家連邦型共和体制」に近い統治であった。
「仁木の家にな。面白い依頼が来た。依頼元は不明だが、恐らく幕府の、それも相当に上の方からであろう。惣国全体を巻き込むことになる故、皆に集まってもらった」
そう言って、評定衆のまとめ役である長田荘地頭の百田籐兵衛が、議題を提示した。それは、伊賀惣国二〇〇年の歴史において、まさに最大の依頼であった。
「日ノ本の東を治める新田家。この当主および重臣たちの命を狙う。家老級の重臣は一人当たり一万貫、当主の新田又二郎の頸には一〇万貫。また新田家中の情報については、その大小を判断して支払うとのことだ。新田式と呼ばれる鉄砲の製法については、二万貫を払うと言っている」
「ほぉ……」
誰かが感嘆の声を漏らした。だがその先は続かない。確かに巨額の依頼である。だがその難度も嘗てないものであった。
「知っての通り、新田を探るという依頼は過去にもあった。だが殆どが失敗している。九十九と呼ばれる、新田御抱えの忍び衆がいる。その程度しか分かっておらぬ。百地の上忍が、九十九の忍びと思われる者と戦ったところ、振り切るのが精いっぱいだったと聞く。このことから、相当な力を持っていると思われる」
「面白いではないか」
柏原荘地頭滝野十郎吉政が低い声で呟き、笑った。
「新田は土地持ちを認めぬと聞く。公家、国人、寺社など関係なく、すべての土地を取り上げるそうだ。つまり新田を放置すれば、我らの荘も召し上げられるということであろう。織田が辛うじて食い止めているが、新田はすでに日ノ本の東を領し、天下に指を掛けている。新田に天下を獲らせてはならぬ。そのためには、新田又二郎政盛を討つしかない」
全員が頷いた。畿内が大きく変化する中でも、伊賀は十二評定衆によって、安定していた。だが、伊賀における平穏というのは、他の地域とは意味が違う。伊賀は他国と争う場合は、一致団結することが掟として定められているが、内部では日常的に殺し合いがされている。伊賀国の広さは、せいぜい四里(一六キロ)四方である。その小さな土地に六〇〇以上の砦があり、砦間でまるで遊びのように、殺し合いが行われていた。
「新田は日ノ本最大の大名。その当主を討ったとなれば、我ら伊賀衆の名は天下に知れ渡る。さすればどうなる?」
「日ノ本の東は混沌し、戦国はさらに深まる。我らの力を示せば、これから多くの依頼が来るであろう。さすれば?」
「「「我らは大いに儲かる!」」」
十二名の貌が欲望に歪んだ。
九十九衆の棟梁である加藤段蔵は、宇曽利恐山山系において九十九衆を結成するにあたり、新田お抱えとなる以上、これまでの忍び衆とは、一線を画さねばと考えていた。忍びは、乱破、素破と呼ばれ唾棄されていた。その理由は、まるで信用できない存在だからである。
事実、播磨地誌『峯相記』において、忍びの実態が描かれている。その内容は現代人が読んでも、眉間を険しくするに十分なものだ。
『異類異形の様相にて、乱暴、海賊、寄取、強盗、山賊、追落を為し、柿色の着衣に女物の六方笠をつけ、人に顔を合わせず目立たず、城籠り、他者を攻め、背信し、約束は守らず、賭博を好み、忍び小盗を生業とする』
無頼者どころではない。完全な犯罪集団、まさに「虎狼の族」であった。天下統一を目指す織田信長が、己が天下に不要と忌み嫌ったのも、納得であろう。
加藤段蔵が目指したのは、こうした「虎狼の族」からの脱却であった。そのためには、教育が必要であった。だが、ただ五常八徳を教えれば良いというものではない。「虎狼の族」と戦うためには、それを理解し、越えねばならない。
「御頭、上忍二四名、揃いました」
九十九衆の最前線拠点は、信濃戸隠にある。捨て子や売られていた幼子は、恐山の本拠にて一二まで育てる。その間に五行八徳などの人としての在り方を教える。忍び仕事に向かない者は、一二で篩に掛けられ、各地の宿場や遊郭での仕事に回される。そして一三から二〇までは下忍として下働きをさせられる。上忍や中忍から、忍び仕事における現実を叩き込まれる。この期間で命を落とす者も多い。
そして齢二〇で、中忍に取り上げられる。これまでの働きは無論、同僚からの評価や人としての在り様まで評価され、三人の上忍からの推挙によって、中忍に登用される。
ちなみに上忍への登用は、加藤段蔵および二四名の上忍全員の賛同が必要となる。上忍になれば中忍や下忍を受け持つだけでなく、担当地域の宿場や遊郭からの上がりを得られるようになる。無論、新田家から毎年落とされる莫大な報酬も、働きに応じて得られる。その分配権も上忍が持つ。
「皆も知っての通り、東西和平が成立した。表向きは暫く、戦は無いだろう。だがこれは、裏の戦が増えることを意味する」
段蔵はまるで独り言のように語った。二四名全員が気配を消しているためだ。頷きもしないどころか、呼吸の音すら聞こえない。彼らにとって、それが普通のことであった。
「殿はいま、志摩を攻めようとされている。志摩は伊賀、甲賀に近い。当然、奴らとの闘争が見込まれる。だがそれ以上に、殿の身を護らねばならぬ。織田は無論、公家や寺社にとって殿は脅威の存在となっている。それを排そうと動くはずだ。茜よ。直江津の様子はどうだ?」
「増えてるさね。アチキのところにも、忍びらしい者から、取次ぎの依頼があったさ。臭いで虎狼の連中と判ったから消したけど、いずれもっと凄腕が来るだろうね」
直江津の遊郭「奥田屋」を運営する奥田屋茜は、忍び仕事の斡旋を裏稼業としている。本人も凄腕の上忍であり、九十九衆結成にも力を貸した。(※第四七話「九十九衆」)
九十九衆が巨大になるにつれ、本人も上忍として加わり、主にくノ一の仕込みを担当している。
「新田家評定衆の各屋敷には、それぞれ中忍を入れてある。だが暗殺を完全に防ぐことは難しい。北陸道、東海道、中山道にある各宿場、遊郭の監視を強める。できるだけ領内に入る前に消すのだ。散れ」
奥田屋茜を残して、上忍全員が消えた。
「怪物様が色狂いじゃないのが、救いさね。殿方は、夜寝では無警戒になるからね。で、アチキに何か用かい?」
茜だけが発言を許されたのは、何か用があるからである。そう察して残ったのだ。
「都に遊郭を一つ持ちたい。できるか?」
「あいさね」
理由までは聞かない。指示を受ければ黙って従う。茜は気軽に頷いて、姿を消した。