二〇〇年ぶりの邂逅
「なにぃ? 伊勢攻めを止めよと? キンカン、これはどういうことか!」
岐阜城において、首座から立ち上がった信長は、険しい表情で怒鳴った。信長からキンカンと呼ばれる明智十兵衛光秀は、悔しそうに信長に報告した。
「誠に申し訳ございませぬ。新田より大樹への奏上がありました。浪岡北畠家と伊勢北畠家は、元は同じ公家の家柄。二つの家を一つに戻し、天下泰平に向けて働かせることこそが、日ノ本の為であると……」
「戯けたことを! それは新田による天下泰平の為であろうが! 儂の西国攻めを遅らせるための嫌がらせに決まっておる! で、義昭はなんと受けたのだ」
「新田は、若狭の件を不問に付しました。大樹はそれを借りと思っておられたようです。いつまでも、というわけではない。ただ一度、伊勢に機会を与えてやってはどうか。そう仰せでございます」
信長は舌打ちしてドカリと座った。明智光秀を責めたところで、問題が解決するわけではない。それに光秀に責任があるわけでもない。自分が思っている以上に幕府は織田を警戒していたこと。そして新田にこうした絵を描ける謀臣がいるということだ。織田に倍する大大名なのだ。家臣の数も多いであろうし、幕府や朝廷も無視はできないだろう。
「半兵衛、どう思う?」
「伊賀、甲賀を動かしてはどうでしょう」
「新田の忍びと暗闘させる、ということか……」
信長は考える表情になった。本来なら、南伊勢を落とした後は伊賀と甲賀を攻めたいと思っていた。そもそも信長は、武家の支配を受けず、金で掌を返す忍びたちの土地など、認めないつもりであった。伊賀と甲賀を領すれば伊勢、近江、大和を繋ぐことができるし、金で裏切るような輩を駆逐することで、枕を高くして寝られる。
「新田の狙いは、幕府による伊勢の本領安堵でしょう。これは、御屋形様と大樹との亀裂を狙う謀です。ですが新田が攻め込んでこない限り、此方としても動くわけにはいきません。伊賀衆、甲賀衆は武士ではありませぬが、里への執着は国人にも劣りません。新田が来れば、里を取り上げられる。この危機感は持っている筈です。死に物狂いで、新田を狙うでしょう」
「よし。委細は任せる。だが、解っているな?」
十兵衛光秀と半兵衛重治は、黙ってうなずいた。新田の影を潰し、あわよくば新田又二郎を暗殺する。だが決して、織田の名が漏れてはならない。信長への報告も不要である。闇から闇へと事を進め、結果だけが出れば良い。その夜、両兵衛は遅くまで二人きりで密談した。
「いやはや…… かつて分かれた北畠の家が、遥か北の地にあるということは、伝え聞いてはいた。だがまさか、こうして直にお目に掛る日が来るとは思ってもおらなんだ」
元亀元年(西暦一五七〇年)神無月(旧暦一〇月)、駿河を発した三隻の三〇〇〇石船が、伊勢安濃津に入港した。室町幕府から本領安堵を与えられた伊勢北畠家の当主である権中納言北畠具教は、二〇〇年前に分かれたもう一つの北畠家である津軽浪岡家の当主、浪岡式部大輔具運を歓迎した。
実際、伊勢北畠家は追い詰められていた。永禄九年(西暦一五六六年)、織田信長は六角と手を組み、足利義昭上洛の為に北伊勢へと攻め込んだ。(※第二四〇話「織田の躍進」)
霧山城を本拠とする北畠具教は、長野家に養子に出した長野具藤と共に、徹底抗戦に乗り出した。史実では、養子であった長野具藤と対立した細野藤敦と内紛が発生し、長野具藤は多気城(※多芸城)に逃げることになる。その後、上洛を果たした信長は本格的に伊勢攻めに乗り出し、大河内城の戦いにおいて、信長の次男である茶筅丸を養子に迎えることで和睦となった。
だがこの世界においては、史実とは少し違っていた。六角と手を組んだことで、岐阜から都への道が開けていたため、そこまで深く、伊勢を攻める必要が無かったのである。結果、長野具藤が徹底抗戦の姿勢を見せると、そこで伊勢攻めを止め、上洛を優先させた。その後は北近江を攻め、新田との東西和平を成立させ、そして若狭攻めへと続く。その間、伊勢はずっと放置されていた。
この史実との違いは、志摩において大きな影響があった。史実では永禄一二年(西暦一五六九年)に信長に臣従した九鬼嘉隆が、志摩十三地頭を攻略し、志摩の統一を果たした。
しかしこの世界の織田信長は、上洛を優先させたため、南伊勢方面まで攻めなかった。その結果、九鬼嘉隆は臣従の機会が無かった。現在の志摩国は、地頭たちが幾つかの派閥を作り、互いに争っている状況である。
「新田家では海運を重視しています。しかしながら、志摩は混乱の中にあり、安心して伊勢まで船を出せない状況です。そこで相談ですが、新田家が志摩を治めることを御了承いただけないでしょうか」
「治める、ということは志摩を新田領にするということですかな?」
「左様でございます。志摩は小さな土地ではありますが、その場所は極めて重要です。志摩を整備すれば、相模や駿河を経由して蝦夷からも船が来るでしょう。新田が志摩にいるとなれば、織田も伊勢を攻めるのには躊躇するはず。如何でしょうか」
「されど新田殿にとって、どのような利益があるのか? 先ほど式部大輔殿が言われた通り、志摩そのものはそれほど大きくはなく、米もあまり採れぬ土地。故に我らも、無理をして攻めることはしなかったのだが……」
「先ほど申し上げた通り、海運の為です。志摩を経由して四国、さらには九州にまで船を出せるようになるでしょう。そのためにも、船に慣れた志摩十三頭をぜひとも臣従させたいのです」
浪岡具運の言葉は、嘘ではないが総てでもない。石高という視点では志摩はそれほど魅力はないが、産業振興に熱心な新田家からすれば、志摩は何としても手に入れたい土地であった。志摩英虞湾で、真珠の養殖を行うためである。
「承知した。新田家の支援により、伊勢も落ち着きを取り戻している。その新田家が志摩に入ってくれれば、我らとしても心強い。陸奥守殿に、宜しくお伝えくだされ」
案の定、北畠具教は二つ返事で了承した。
時間は少し遡る。元亀元年(西暦一五七〇年)水無月(旧暦六月)、蠣崎季広らを都に送り出した又二郎は、待ちに待った日を迎えていた。
ドーンッ
大きな音が空気を震わせる。やがて遥か前方の砂地が弾け飛んだ。二人の男が歩きだす。歩数を数えているのだ。又二郎は顎を撫でながら、その音の原因を眺めていた。
「前装式のカルバリン砲か。砲身が真鍮で出来ているが、これは鉄に替えられるな。重くなるが、船に乗せるから問題あるまい。フロイスよ、よく連れてきてくれた。約束通り、黄金を用意している。あとで確認してくれ」
「アリガト、ゴゼマス」
直江津の近くにある砂浜で、又二郎は輸入したカルバリン砲の実験を行っていた。イエズス会を通じて、ゴアから船大工や鍛冶師などを招聘したのである。すでにイスパニアの言葉を操る者は数十名いるため、すぐにでも増産に取り掛かれるだろう。
「まずは製法を細かく、正確に聞き出して、それを紙に落とせ。宇曽利の鉄砲鍛冶に造らせる。それと船だ。三〇〇〇石船であれば、片舷にそれぞれ五門ずつは載せられるだろう。反動を制御するための機構も考えねばなるまい」
春日山城下の屋敷に戻ると、その他に輸入した農作物類を確認する。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、カボチャ、唐辛子の種子を輸入することに成功した。ジャガイモはすぐに栽培を開始する。秋ジャガイモの収穫に間に合うだろう。トマトや他の種子は冷暗所で保管し、来年に栽培を開始する。数年掛けて種子、種芋を増やし、いずれは領内全土に広げる予定だ。
「まだまだ足りぬ。結球種のキャベツやブロッコリーは、酢での存在するはずだ。鳥獣類においては、ロバやヤギは無論、マスカリン諸島のドードーは必ず手に入れねばならん。あとは馬だ。蝦夷でペルシュロン種を育てさせよう」
毛利や大友と交易し、織田の西進を遅らせる。だがそれ以前に、領内をさらに充実させ、戦う前に膝を屈しさせるほどの国力を付ける。数年もあればガレオン船の建造も可能になるだろう。
「天下統一後と考えていたが、東西和平を利用して、そろそろ研究を開始させるか。この世界では、産業革命は日本から始まるのだ」
怖い笑みを浮かべ、背中から覇気を昇らせる。慣れているとはいえ、側仕えの者たちは息を呑んで、怪物の背中を見つめた。