若狭狂乱(後編)
「ば、馬鹿な! 何故、いきなり戦になる! 此方は重臣たちを捕らえているのだぞ。まずは解放を促すために人を送り、交渉を持つところから始めるべきだろうが!」
越後、越中国に一〇万もの軍勢が集結しているという話が若狭に入ってきたのは、羽柴秀吉との会談を終え、又二郎が出陣した後であった。まずは越中国で陣割を行い、一気に加賀を制圧し、そのまま越前を通って若狭を蹂躙するという。目先の利く者たちは、一斉に若狭から逃げ出し始めていた。
「大事な重臣なのであろう。義父なのであろう。戦になれば、此方は首を刎ねざるを得ぬ。新田はそのことを理解しておらぬのか? 何たる不孝者、何たる冷酷非情か!」
六角義治はそう喚いたが、そこに換言する者などいない。これが町人、百姓の立場であれば、義治の考える通りであろう。一人の家庭人として、家族を守るという視点である。
だが、国を束ねる大名の視点は違う。ここで六角に弱い姿勢を見せれば、新田には人質を取ることが有効だと、天下に示すことになってしまう。天下統一を目指す新田にとっては到底、容認できない。
「重臣よりも、義理の父親よりも、天下統一こそが最優先。そう考えているのであろう。新田は、話し合いなどするつもりは、毛頭無いのだ。蠣崎弾正殿、浪岡左近殿とて、肚を括っていよう。まして此度は、幕敵赦免という重大な場であったのだ。死をも覚悟していよう。人質など、最初から意味が無いのだ」
義治にとって唯一の救いは、二条晴良がいたことである。本人にとっては、甚だ迷惑極まりないだろうが、今や義治を諭し、説得できるのは二条晴良だけであった。
(公家の麿ですら理解しているというのに…… まるで童だ。仕出かしたことの影響を考えず、自分に不利になるとただ喚くだけ。これまでは、こうして喚けば周囲が援けてくれたのであろう。何も乗り越えず、何も成し遂げず、ただ生まれだけで当主となってしまったのだ。この男もまた、憐れな男よ)
「如何する? 一月後には、一〇万の兵が押し寄せて来よう。どう動けば良いのか分からぬならば、左京太夫(※六角承禎)殿を頼られてはどうだ? 新田に頭を下げられずとも、父親にならば下げられよう?」
義治は歯ぎしりしながらも、小さく頷いた。
「身共に出陣せよと?」
「御意にございます。大樹の御出陣は、幕府の権威を示すとともに、今後の西征に大きな弾みとなりまする」
命懸けで新田から譲歩を勝ち取ってきた羽柴秀吉は、白装束で信長に報告した。信長は股肱の臣の覚悟を察し、二つ返事で幕府への働きかけを承知し、併せて観音寺城に兵を集結させた。
「形式上ではありますが、新田討伐令は未だ、取り下げられてはおりませぬ。此度の件を新田に片付けさせれば、大樹の権威に傷がつきまする。逆に、大樹が御自ら陣頭に立ち六角を誅すれば、天下を乱す者は許さずという姿勢を示すことになり、信長殿が西へと進む上での大義となりする」
細川藤孝の進言に対して、足利義昭は沈思した。義昭は齢六歳で、近衛家の猶子として僧門に入り、二〇年以上を僧侶として生きてきた。武家としての教育は殆ど受けていない。そんな自分が、武家の棟梁である征夷大将軍となった。だが誰も、自分を武士としては認めていないだろう。織田信長でさえも……
「兵部大輔の言にも一理あるか。新田のことは気に入らぬが、六角のしたことは、それ以上に赦せぬものであろう。身共が手によって討つことで、幕府の威を示すべし」
足利義昭という人物は、どのような人物であったか。詳しい考察は別の機会に譲るが、筆者としては現代の大河ドラマや歴史小説で描かれる姿に、多少の違和感を覚える。
幼い頃から寺に入り、僧侶として生きてきた人間が、いきなり寺から連れ出され、周囲から「将軍になれ」と言われた。槍や刀など、殆ど握ったこともないであろう男が、武家の棟梁に据えられたのである。本人からすれば、誰を信じて良いのかさえ、分からない状態であっただろう。
好悪激しい人物と言われているが、本人からすれば、流浪時代に自分を支えてくれた者たちだけが信じられる、という気持ちだったのではないか。
その頃、新田又二郎はまさに破竹の勢いで加賀を進んでいた。越中と能登から挟むように進んだ新田軍は、河北津幡にて合流し、加賀一向門徒の本拠地である御山御坊(※尾山となるのは江戸時代)へと進んだ。一〇万もの兵力で攻められれば、本願寺坊官であった下間頼総、杉浦玄任ら武将たちでも、手も足も出ない。
「どないもならんわ。はよ逃げたほうがええな」
下間頼総は口先で一向門徒を煽りつつ、自分はさっさと御山御坊から抜け出してしまった。これを知った杉浦玄任は顔を赤くして怒ったが、逃げ出す機は逸してしまっていた。御山御坊は完全に新田軍に取り囲まれてしまっていたのである。
「無理攻めする必要はない。遠距離から炮烙玉によって、御山御坊を瓦礫にしてしまえ。逃げ出す者には手を出すな。抵抗する者のみ、確実に仕留めろ」
一〇万人が取り囲み、弓、鉄砲、炮烙玉を遠距離から放つ。圧倒的物量を前にして、御山御坊は半日もせずに地上から姿を消した。中に籠っていた数千人の一向門徒たちも、半数は逃げ、半数はそこで死んだ。
「死者は丁重に弔ってやれ。それと、この地は北陸道の要衝だ。瓦礫を撤去し、改めて城を築く。城の名は……金沢城、とでもするか」
金沢という名は、天文日記の中に出てくる。本来は江戸時代に普及する名前だが、永禄年間で名付けても問題ない。だが、春だというのに、御山御坊の周囲には一本の桜もない。天下を平定した後は、この地に兼六園を造成しようと思った。
「軍を二分し、白山神社方面と小松原方面を同時に征しましょう。それぞれ三万ずつで十分でしょう」
「急ぐ必要はありませぬ。越前までの道には、東尋坊と呼ばれる名所もあると聞きまする。越前三国湊まで、ゆるゆると進みましょう」
幕府と織田が動き始めているという報せは、九十九衆から届いていた。若狭には手練れの忍びを複数入れてある。幕府軍が動けば、隙をついて救出することも可能だろう。
「それにしても、今回は織田にしてやられましたな」
「というよりは、羽柴殿に、ですな。本人はどこまで計算していたかは不明ですが、結果として此方の策は瓦解しました。大樹自らが討伐すると言われれば、此方としても引き下がるしかありません。あの状況でこれを判断したとなれば、羽柴藤吉郎秀吉という人物、注視する必要があります」
南条広継と八柏道為が描いた作戦は、一気呵成に若狭に向けて軍を進めると同時に、小浜城に囚われた蠣崎弾正以下重臣たちを九十九衆の手によって救出、船で逃がすというものである。その上で、一〇万の軍で苛烈に攻め、六角を滅ぼした後はそのまま鯖街道を通って上洛する、というものである。一〇万もの軍勢がいきなり上洛するのだ。新田の力を朝廷、幕府、織田、そして西の諸国にまで見せつけることになる。
だが秀吉の発した「幕府による討伐」という言葉一つで、盤面は大きく変わってしまった。最大限の利益を得るのは、新田ではなく幕府と織田になってしまったのである。こうなってしまっては、加賀一国で満足するしかない。
「上洛計画が瓦解した今、若狭など不要ですな。あとは、段蔵殿たちに任せましょう」
「しばらく、戦は無くなりますな。西の大名たちには、せいぜい頑張ってもらいましょう」
五日を掛けて、御山御坊の始末を終えた新田軍は、小松平を通ってそのまま南西へと軍を進めた。北陸最古の名湯と呼ばれる「法師乃湯」に入るなど、物見遊山に近い気楽さで進む。
やがて、越前方面へと進軍する上での要衝である「牛ノ谷峠」へと入る。その報せは、まさにその時に齎された。
「申し上げます。加藤段蔵殿が目通りを願っております」
牛ノ谷峠で休息していた又二郎は、すぐに段蔵を通した。良い報告だろうと期待していた又二郎は、意外な情報を耳にするのであった。
「六角承禎、義治の父子、両名ともお亡くなりになりました」
「は?」
それは若狭狂乱の、意外な形での決着であった。