若狭狂乱(前編)
それは船で輸送する以上、避けられなかった事故なのかもしれない。永禄一三年(一五七〇年)如月(旧暦二月)、蝦夷地から能代、佐渡、輪島と経由した四隻の三〇〇〇石船が、越前敦賀湊を目指していた。乗っているのは蠣崎弾正大弼季広と、その次男の明石元広、新田家の外政を担う重臣、浪岡左衛門中将具運である。目的は朝廷と公家衆、さらに幕府と織田家に対する年賀の挨拶のためである。
東西和平は成立したが、室町幕府は未だ、新田に対する討伐令を取り下げていなかった。これは手続きの問題である。討伐令の取り下げというのは、書状で伝えれば良いというものではない。新田家を代表する者に対して、将軍が直々に取り下げを伝え、正式な書類を発行して初めて、成立するのである。
今回の挨拶は、その手続きが主な目的であった。無論、朝廷への挨拶や、市乃方の義父であり関白の二条晴良、形式的ではあるが新田と織田の盟を仲介した将軍足利義昭や又二郎にとって義兄となった織田三郎信長に対しても、しっかりと礼を尽くさねばならない。たとえその盟が、それぞれが打算で動いた結果であったとしても、それが大人というものである。
また、日ノ本を北に広げようと動いていることも、朝廷に報告しなければならない。蝦夷府を開き、樺太島や千島列島を日ノ本の領とする。そのために、新田家でも重臣中の重臣である蠣崎弾正と、和人として初めて樺太島や千島列島に足を踏み入れた明石元広が参内する。年賀の挨拶であっても、様々な、そして極めて重要な意味を持っていた。
そのため、運ぶ財貨も過去最大のものとなった。三〇〇〇石船には、新田又二郎が直々に選んだ品々が満載されている。富裕の新田家であっても、思い切ったと言っても良いほどであった。
輪島を出港してから暫くして、海が荒れ始めた。日本海に発生した低気圧に向けて、南から強い風が吹く、いわゆる「春一番」である。輪島湊から敦賀湊を目指して南下していた船団は、この春一番により想定以上に流されてしまった。敦賀を通り過ぎ、その隣の若狭小浜湊に接岸したのである。
若狭は、六角右衛門督義治が国替えによって昨年末から領している。戦からまだ半年も経っていないため、当然ながら治安はあまり良くない。越前から近江に入り、織田家の護衛を受けるはずであったが、図らずも治安に不安のある若狭に入ってしまったのである。
常識ある者が若狭の大名であったなら、これを好機と捉えるだろう。新田家の重臣たちを手厚く保護し、小浜から近江までしっかりと護衛を付ける。あるいは当主自らが都まで同行しても良い。そうなれば新田家に貸しができるし、幕府や織田家に対しても、六角此処に在りと示すことができる。
逆に、どれのほど財貨であろうとも、これは朝廷や幕府への年賀の贈物なのだ。奪うようなことをすれば、新田家は無論、朝廷、幕府、織田家は激怒する。つまり、ほぼ日本国中を敵に回すことになり、そんな非常識かつ無謀なことなど、普通であれば実行するはずがない。
だが、誰にとっての不幸かは知れないが、若狭の新たな大名である六角右衛門督義治は、非常識かつ無謀な男であった。有名無実化している「幕敵」という理由で、三〇〇〇石船を接収し、蠣崎弾正以下新田家の重臣たちを捕らえてしまったのである。
これが後に「若狭狂乱」と呼ばれる事件の始まりであった。
その日、又二郎は家族と水入らずの時間を過ごしていた。嫡男の吉松は物覚えが良いようで、すでに簡単な漢字や算術ができるようになっている。素直すぎる点はあるが、自分が天下を統一する以上、自分や織田信長のようなへそ曲がりである必要はないだろうと思っていた。
「殿、申し訳ございませぬ。加藤段蔵殿が、火急の報せがあるとのことです」
「段蔵は大袈裟な表現はしない。火急というからには余程のことであろう。すぐに行く。越中と大和も呼べ」
そして評定間に出た又二郎は、そこで蠣崎弾正大弼以下、重臣たちが六角義治に捕らえられたことを知った。又二郎はすぐに、領内に大動員を命じた。
「ありったけの三〇〇〇石船を揃えよ。兵は可能な限り動員する。朝倉にも使者を出せ。加賀と越前を一気に突き抜ける。陸と海の両攻めで、若狭を火の海にしてくれるわ!」
駆けつけてきた南条越中守広継と八柏大和守道為は、事の顛末を聞いて呆然とした。文字通り、六角義治に対して呆れているのである。ほんの僅かでも常識があれば、こんな無謀なことなどするはずがないのだ。
「幸いなことに、弾正以下全員が無事だそうだ。先鋒は宮内(※蠣崎政広)にしようと思う。それと道案内役に、斎藤下野守を付ける。下野守は越後から都に上ったことがある。加賀、越前を抜けるのに役立つだろう」
「殿、お待ちくだされ。段蔵殿には申し訳ないですが、真なのでしょうか? このような無謀を行う者がいるなど、某には信じられませぬ。百姓の童であっても、こんな阿呆なことは致しませぬ」
「いや、大和殿。加藤殿は慎重な御仁。真かどうかはとうに調べたでしょう。その上で報せている以上、六角義治殿とはそれほどまでの方、ということでしょう」
南条広継にそう言われ、八柏道為は腕を組んで沈思した。この事件の影響を考えているのだ。はっきり言えば、今の新田家には若狭など不要なのだ。獲ったところで飛び地にしかならず、しかも若狭武田家のころから荒れ果てていると聞く。飛び地となれば、開発するのも面倒となる。
越中、能登と若狭の間には、加賀と越前がある。一向門徒が支配する加賀はともかく、越前朝倉家は、領内の通行自由を認めるだろう。又二郎の大動員となれば、動員兵力は四、五万どころではない。八万以上は集まる。三〇〇〇石船も三〇〇隻は揃う。逆らったところで攻め滅ぼされるだけである。ならば貸しを作ったほうが良い。優柔不断と言われている朝倉義景であっても、その程度の判断力はあるだろう。
「手違いであった、と詫びてくる可能性も捨てきれぬが……」
「そんな常識があるのなら、最初からこのような馬鹿げたことなど仕出かさないでしょうな」
いずれにしても、最大の被害者は新田なのである。若狭を攻めたところで、誰も非難はしないだろう。そして戦をする以上、最大限の利益を得なければならない。理想としては、これを口実に西進を開始することだが、さすがにそこまで持っていくことは難しいだろう。
「そういえば、小浜から都へは、鯖街道という道があるそうですな」
八柏道為はそう口にし、チラリと同僚の謀臣に視線を向けた。全く同じことを考えていたのか、二人はフッと一瞬笑い、そして真顔になった。
観音寺城内の一室では、襖を破る音が響いていた。普段は滅多に見せない癇癪を起していたのは、この城の主である織田三郎信長であった。
「あの痴れ者を生かしておいたは、我が一生の不覚だわ! 有無を言わさず、首を刎ねるべきであった!」
近習たちがおびえる中、信長はそう叫んで肩で息をした。登城した明智十兵衛光秀と竹中半兵衛重治は、新田家の謀臣二人と同じ反応をした。すなわち呆れ果てて言葉も出ないという状態である。いずれにしても、主君の癇癪が治まるまで待たねばならない。織田信長は苛烈で癇癪持ちではあるが、理由なく家臣を手討ちにしたことなどない。黙って待てば、そのうち治まるのである。
予想通り、襖を四枚蹴破ったところで、信長はドカリと座り、盛大な溜め息を吐いた。
「十兵衛、半兵衛。存念を言え」
二人はズズッと信長に近寄り、一礼して意見を述べた。
「すぐにでも六角に使者を出し、新田家御家中の者たちの解放を促しましょう。蠣崎弾正殿は、新田家の中でも重臣中の重臣であり、陸奥守殿の義理の父でもあります。新田は恐らく、領内に大動員を発しているでしょう。一〇万に迫る大軍で、一気に加賀、越前、若狭を飲み込もうとするはず。この濁流、下手をしたら東西和平すらも壊しかねませぬ」
「十兵衛殿の申し上げる通りです。年賀の品は、所詮は物です。取り返しはつきます。されど人は違います。陸奥守殿は人を重んじると聞きます。人だけでも無事であれば、最悪の事態は避けられます」
「で、あるか。使者は誰が良いと思う?」
六角だけではなく、新田にも使者を出さなければならない。若狭は都に近い。もしここに一〇万の兵が出現すれば、都は大混乱になるだろう。そうなる前に、新田を止めなければならない。
「新田には、陸奥守様とも面識のある羽柴殿を。そして六角には二条関白殿下が良いかと……」
六角右衛門督義治は、名門としての意識が強い。日頃から、織田は尾張の田舎奉行、六角は管領代の家柄と口にしている。ならばこそ、逆立ちしても家柄では勝てない相手を出すべきだろう。
「朝倉にも使者を出せ。少しでも新田を足止めせねばならぬ」
ただ一人の存在によって、新田家も織田家も右往左往する事態となった。そうした意味で、六角義治という男は傑物であった。無論、悪い意味においてであるが……