元亀元年の始まり
永禄一三年が始まる。史実ではこの年の四月に改元が行われた。室町幕府と織田家の関係を考えると、もう少し早くなる可能性が高い。足利義昭は、幕府の威信を高めることを狙いとして改元を希望しており、織田家としても西国攻めの大義名分として幕府を使うために、改元に賛成している。
そうした中、新田家では年初の大評定が開かれた。春日山城の城下に巨大な屋敷が建てられ、そこに重臣たちが集まる。従属している北条家と武田家からは、それぞれ当主の名代として筆頭家老が参加する。従属したとはいえ、彼らも独立した大名なのだ。毎年正月に来させるというのは、家臣たちにとっても屈辱であろう。その点を配慮し、家老一人の参加で良しとした。
「永禄一三年が始まった。皆、明けましておめでとう」
「「「おめでとうございます!」」」
いつも通り、大評定は内政面の報告から始まる。関東や越後の検地や街道整備が進んでおり、このままいけば数年後には新田は一七〇〇万石を越えると見込まれた。喜ばしいことではあるが、懸念もある。
「検地の結果から、この一七〇〇万石が限界と思われます。無論、それ以外にも多くの農作物、各種畜産業、漁業が行われており、様々な産業も振興しておりますが、人口面から考えても飛躍的な成長は見込めないかと」
西進が止まった以上、新田家は内政による領内充実を図らなければならない。だが稲作はほぼ限界に達しつつある。事実、地租改正直前の明治五年での日本全体の石高は、三二三七万石であった。塩水選などが開発される前の記録なので、新田が天下を統一すれば、四五〇〇万石程度にはなるだろう。それが石高で考えた場合の、日ノ本の成長限界点である。
「美濃以西の石高は、あくまでも推定ですが一五〇〇万石程度と思われます。ですが人の数は、東を大きく超えます。領内でも多産を推奨しており、人も増えてきておりますが、西に追いつくには時間が掛かります」
「米はそれで良い。新田は米本主義から脱し、貨幣経済に移行している。米など食い物の一つに過ぎん。農畜産業などを一次産業とすると、鍛冶や鋳物、鉱山開発などは二次産業、食い物屋や花街などは三次産業といったところか。天下統一を見据え、統計の分け方、まとめ方を工夫する。これは俺が直々に指示を出す」
統計は国家政策を考える上で、根幹となる情報である。又二郎は宇曽利の頃から、統計のまとめ方には苦心してきた。最初は簡単な人口調査と検地および石高の産出から始まった。次に黒備衆という専門の土木建築集団が誕生し、そして測量が始まる。現在でも、各街道や領内の海岸線を測量し続け、徐々にではあるが正確な日本地図ができつつあった。
そしていま、次の段階として「貨幣流通量」「国内純総生産」「貿易収支」「失業率」「出生率」など、近代国家として必要となる基本統計の整備に取り掛かろうとしていた。
内政の報告が終わり、休憩後には外政および軍事の話となる。そして昨年同様、外政の報告として明石元広が一年間の北方調査の報告を行った。
「蝦夷地の東に島が点在しております。小さなものもあれば、かなり大きな島もあります。蝦夷の民は、エトゥオロプ、ハプオマイと呼んでいます。そして、まるで線で連なるように、北東に向けて島々があり、その先には大きな陸地がありました。そこにも民が住んでいるのですが、蝦夷や樺太の民とは言葉も違うようで、蝦夷の民は彼らをチュプカウンクル(東の人)と呼んでいました」
明石元広が辿ったのは、千島列島とカムチャッカ半島である。又二郎が構想する日本国土の最北端が、カムチャッカ半島の付け根であるパラポリスキー地峡であった。樺太島、千島列島、カムチャッカ半島の三つを領すれば、オホーツク海の内海化が完成する。日本海とオホーツク海を内海化すれば、五〇〇年後の未来においても、北日本から日本海側の経済発展も進むだろう。
「今年の夏、島々を渡りその陸地に上陸するつもりです。某の予想ですが、樺太島よりもさらに大きく、ひょっとしたら日ノ本に匹敵する大きさやも知れませぬ」
又二郎の思考をよそに、元広が今後の冒険計画を語る。饒舌だが、又二郎は止めなかった。この大評定で語らせることに意味があるのだ。家臣たちは知識としては明や南蛮があることは知っている。だが実感が無い。世界が途方もなく広いという実感がないため、どうしても日ノ本の民は内と外に分けて考える。外国という言葉が、その端的な例だろう。
「今年は無理かもしれぬが、来年には南蛮の技術を取り入れた大型船を複数、建造するつもりだ。世界の果てまで行くことができる船だ。元広にその船を与える。船団を率い、世界を回れ」
「すぐにでも船出したくて、堪りませぬ。恐れながら大殿、天下統一後には大陸に視察団をお送りされるが宜しかろうと考えます。地平の彼方まで続く大草原。年中雪が解けることのない白銀の大地。富士よりも高い山々など…… これを視ずして死ぬは、女子の柔肌を知らずに死ぬこと以上の勿体なさでしょう」
「クックックッ…… そうよな。まだ見ぬ土地へ行き、新たな景色を観て、新たな食い物、新たな酒に舌鼓を打つ。世界を広げたいと考えるのは、人が持つ原始的な欲求であろう。俺は別に、明や朝鮮を攻めようなどとは思わぬ。だが日ノ本そのものは広げたい。日ノ本の、北には大きな可能性がある。天下統一後には、大々的な調査団を派遣し、北の地を日ノ本に組み込むつもりだ」
「殿。某はてっきり、天下統一後は朝鮮を攻められると思っておりましたが……」
長門藤六広益が武人を代表して口を開いた。天下統一後は、武士が不要になる。多くの武士が失業する。それを防ぐには新たな戦をするしかない。そのために朝鮮出兵があるのではないか。酒が入った席で、冗談交じりに武将たちが口にしていたことであった。
「ハッ…… 藤六には悪いが、俺は朝鮮などいらぬ。考えてもみよ。蝦夷の民を治めるために、蠣崎弾正がどれだけ苦労した? 国としてまとまっていない、ただの集落を治めるだけでも苦心するのだ。まして明や朝鮮は国として長い歴史があり、我らとは異なる言葉を話し、文化、風習、宗教もまるで違う。日ノ本の民の数が、今の五倍くらいになれば、あるいは可能やも知れぬが、今時点で朝鮮を獲るなど不可能だ。ならば最初から人がいない場所、誰も統治していない土地を得たほうが良い」
それでも小競り合いはあるだろう。そうした土地を獲るために、まずは先遣隊を放ち、次に開拓団を送り、そして軍隊を乗り込ませる。南蛮の各国がやっていることである。日ノ本がやって悪いわけがない。
(俺が生きている間に、世界に冠たる大日本を築く。世界大戦など起こさせぬ。ヨーロッパが近代化する頃には、日本が先んじて、世界のリーダーとなっているだろう。二度目の人生だ。それくらい成し遂げねば、面白くない)
しばらく出ていなかった「怪物」の貌が出てくる。長門藤六以下、武将たちが両手を畳について一礼した。
新田家で大評定が開かれた同日、越前朝倉家でも年始の祝賀会が行われていた
朝倉氏の歴史は古く、但馬国で武士団を形成していた日下部氏の一族である日下部宗高が、但馬国養父郡朝倉を本貫としたところから、朝倉氏は始まる。南北朝時代、朝倉庄の代官であった朝倉広景が斯波氏に仕え、斯波高経と共に越前に入った。つまり広景は、越前朝倉氏の初代ということになる。
やがて朝倉氏は甲斐氏、織田氏と共に武衛斯波氏の守護代の家となる。だがやがて、斯波氏と朝倉氏は争うことになる。これは実効支配権の問題からであった。守護職の役目とは、他国や幕府との繋がりを持ち、領民に対して「国主」という権威を示す象徴的存在である。実際に軍権を預かり、領地開発や税制などを考えるのは守護代の仕事であり、この区分けを巡っての争いであった。
簡単に言えば、朝倉氏は「越前守護として立てるところは立てるから、現場の指示命令まで口を出さないでくれ」と言いたかったのである。
その後、朝倉氏は守護職であった斯波氏を客将化していく。戦国時代にはすでに、越前国は朝倉氏が大名となり、安定的に支配されていた。
越前国の年賀は、良くも悪くも「雅」である。都の混乱を逃れた公家や文化人が越前に集まり、一大文化圏を形成していたからである。朝倉義景の居城である一乗谷の城下では、商人たちが集まって年始の茶会が開かれていた。
「新田様と織田様の盟により、戦国の世も終わりが見えてきました。そうなればいよいよ、私ども商人の世となりますな。新田様も織田様も、商いに力を入れておられます。今年は、良い年となりそうですなぁ」
越前の商人である渡辺五郎左衛門は、微笑みながら宇賀焼の茶碗を差し出した。茶請けは餅である。茶道における名物と言えば、唐物と呼ばれる大陸産の茶器類だが、それを越えるほどの茶器が日ノ本の北端である宇曽利で焼かれている。蝦夷地から陶石を運び、それを高温で焼いた「白磁」は、宇曽利以外では焼かれていない。乳白色の肌が、磁器特有の光沢を帯びている。
「聞くところによると、新田様は大陸にまで人を出し、明とも取引があるとか。一方の織田様は、これから西国攻めとなり、戦続きでしょう。越前は新田と織田を繋ぐ要衝の地。この地で商いをする我らとしては、商いの好機というわけですな」
新田家と織田家では、その統治に違いがありすぎる。そのため、東西和平がいつまでも続くはずがない。それは彼ら商人でさえ、自明のことであった。だが少なくとも、この数年は平和が続くだろう。新田は海運に力を入れており、蝦夷から敦賀まで、三〇〇〇石船が行き来している。東西和平により、敦賀から堺までの道が保障されることになった。新田式と呼ばれる、飛距離と貫通力に優れた鉄砲が商品に加われば、巨額の商いになるかもしれない。
「餅屋殿(※渡辺五郎左衛門のこと、後に川端道喜と改名)は、米の取引で新田様と繋がりがあるとか。今後、敦賀での商いはさらに重要になるでしょう。私どももお手伝いさせていただきとうございますな」
「新田様の米は、ただ安いだけではなく、石など一切混じっていない上質なものでございます。新田様との商いにおいて、何よりも大切なことは誠実であること。商人の仕事は、人を喜ばせること。その結果として、利を得る。利を目的とし、そのために他者を不幸にするような商人は、野盗山賊と同じである。新田様はそう断じ、御領内にいた悪しき商人を誅したそうです」
「なるほど、それで……」
茶室内の商人たちが顔を見合わせる。彼らは決して、越前において大店というわけではない。だが商いに対しては、比較的真面目な者たちであった。新田の商品を扱える者たちとして、選ばれたのである。
「火縄は分かりませんが、玉薬をはじめ新田領内の産品が、徐々に下ろされてくるでしょう。売値は自由ですが、よくよく誠実な商いをお願い申し上げます」
東西和平は武家のみならず公家や商人、さらには一般の民衆にも大きな影響を与えた。彼らは一様に、当面の戦が避けられたことを喜び、そして同時にこれが恒久的なものではないことを肌で感じていた。彼らは皆、今年は戦は無いと、半ば希望的な予測をしていた。だがそれはすぐに裏切られることになった。六角義治が暴発したのである。