いずれ、また
微妙な緊張感はあったが、岩村城にて行われた織田家と新田家の婚儀は、一応の祝福をもって行われた。とは言っても、家臣同士での交流など殆ど行われていない。織田家は織田家で、筆頭家老の柴田権六郎勝家をはじめとした重臣たちの中に、ここまで譲歩しなければならないのかという不満があった。
一方の新田家にも、快進撃を止められたという危機感があった。新田は二〇年で急速に躍進した。その過程で様々な家と土地を飲み込んだ。内政に力を入れているため民衆の中に不満はないだろうが、武家同士には歴史的な因縁というものがある。明確な敵がいて拡大し続けている間は表面化はしないが、それが止まればどうなるか。不安が無いとは言えなかった。
「一先ずは目出度い…… と言えるのではないですかな。義兄上」
室町幕府将軍である足利義昭の名代として参加していた、細川兵部大輔藤孝は、義兄であり新田家謀臣の一人である沼田上野介祐光にそう問いかけた。
「立場による……」
そう呟いて、沼田祐光は盃を呷り、そして置いた。あえて口にしないが、新田家中で出回る酒と比べて、糠の匂いが鼻につき、あまり旨い酒ではなかったのだ。
「朝廷、そして幕府としては目出度いです。これで東が安定しました。残すは畿内以西のみ。三好を降せば四国も落ち着くでしょう。山陽、山陰は大内家に従属していた毛利が勢力を伸ばしています。こちらは、簡単にはいかないでしょう」
毛利はいま、尼子氏と争っている。毛利だけであれば、四国が落ち着けば戦を止めるかもしれない。だがそこに毛利を支援する勢力が現れれば別である。毛利家は「下関」という良港を持っているのだ。そして新田家には巨大な輸送船が数十隻以上ある。
(毛利には石見銀山がある。利に敏い新田が、毛利を放っておくはずがない)
「……それで、九州はどうか?」
「大友が、九州の半分を押さえておりまする。このままいけば、大友により九州は落ち着きましょう」
「なるほど」
新田家でも交易を通じて情報は集めているが、各地の勢力や戦の結果程度であり、より細かい情報までは入ってこない。今まではそれで良かったが、織田と和睦となると、新田の影響力を日ノ本全土に及ぼすことも可能となる。織田は躍進するであろうが、躍進しすぎても困るのだ。程よく疲弊したところを喰らうのが、理想的である。
「それで、新田での暮らしは如何ですか?」
細川藤孝はそれとなく探りを入れた。織田は、新田領内にも間者を放っているが、街道整備や治水工事などの普請が盛んであることや、民は飢えずに豊かに暮らしていることなど、表面的な報告しか入ってこない。新田家は、伊賀や甲賀を上回る程の巨大な忍び衆を召し抱えているらしいが、その正体すら朧気である。辛うじて「九十九」という言葉のみ、甲賀の忍びが持ち帰っていた。
「極めて贅沢な暮らしをしている…… とだけ、言っておこうか」
それを聞いた細川藤孝は、改めて義兄の姿を眺めた。沼田氏は元々、幕府奉公衆であり、先代の光兼も一廉の教養人であった。だが幕府の混乱の中で、若狭守護である武田家に仕えることになる。そして若狭武田家が乱れると、武田家の家老である松宮氏の被官となる。新田家とは対照的に、家格が徐々に落ちていたのである。
そんな時に、遥か北で急拡大していた新田家から誘いがあった。家臣同士で争い、先の見えない若狭武田家よりも、若く気鋭の当主を頂く新田家の方が、魅力的に見えたのも仕方がないだろう。
「確かに…… その生地は都でも見かけませぬな」
沼田祐光が着ている肩衣袴は綿だが、その上に身に着けている胴服は正絹が使われている。極めて贅沢な服装であった。思い返してみると、当主である新田陸奥守以下、新田家の者たちは小者に至るまで、しっかりとした衣装であった。
「新田ではこれが当たり前だ。民までもな」
そう返され、細川藤孝は言葉に窮した。これほど豊かな国が「隣国」になるのだ。たとえ西を統一したとしても、東の豊かさに押しつぶされるのではないか。東西の交流が盛んになれば、武家も民も東西の比較を始める。そうなれば不満が溜まり始める。やがてそれは大きなうねりとなり、東西和平を破壊するのではないか。
「これまでは遠慮していたが、此度の件でようやく、妹に息災を伝えられる。宇曽利で作られている今焼の茶器でも送ろう」
いざとなれば細川家だけでも生き残れ。正室である麝香を通じて自分に報せろ。悪いようにはしないという意味である。細川藤孝は均衡感覚に優れた男であった。東と西の様子を見ながら、細川家を繁栄させ、後世に残す。それが藤孝の願いであった。
「嫡男の熊千代(※細川忠興)は、六歳になりました。いずれは義兄上にも顔を見て頂きとうございます」
裏に本音を包ませながら、藤孝は細川家の未来のために一石を打った。
岩村城での婚儀が終わったとしても、すぐに春日山城に向かうわけではない。城下の屋敷に市乃方が入り、改めて祝宴が開かれる。いわゆる「輿入れ」である。本来なら、春日山城まで織田軍が御供衆として市姫と共に来るのだが、さすがに距離が遠すぎる。城下の屋敷に入るということで、輿入れの形式とした。
「兄者! 岐阜城から味噌が届いたぞ!」
「すぐに厨に入れろ! 陸奥守様が待ってるだぎゃ!」
新田家接待役を任されていた羽柴藤吉郎秀吉は、弟の小一郎と共に目まぐるしく働いていた。あまりに忙しいため、つい尾張言葉が出てしまう。
藤吉郎にとっては未だに信じられないのだが、今回の祝宴では大新田家の当主である新田陸奥守自身が包丁を持ち、厨に立っている。好きでやっているのだと言われれば、接待役としては止めるわけにもいかない。
「藤吉ぃ! 大根が足りにゃーぞ! あたしの籠から一本持ってこりゃ」
侍大将になったばかりの秀吉は、当然ながら家臣が足りない。仕方なく母親の「なか」が手伝いに入っている。本人は恐縮していたが、厨で野菜を洗ったり包丁を研いだりと、細かな手伝いをしている。
「おっ母! 俺は忙しいんじゃ!」
文句を言いながら大根を数本運ぶと、なんと母親が新田又二郎自身に、その大根を自慢しはじめた。
「食べてみぃ? あたしが田圃で育てた大根だで、美味ぁぞ」
「ほぉ、これは立派だな。どれ……」
大大名が、手慣れた手つきで包丁で薄切りにして一枚を口にする。そして、うんと頷き母親に笑顔を向ける。
「これは美味い。羽柴殿が羨ましい。母御が近くにいるということは、それだけで幸福なことだ。親はいつまでもいるわけではない。精一杯、孝行されよ」
「へ? へへぇ! そりゃ、もちろん…… って、お母ぁ、この御方は……」
止めようとした秀吉に、又二郎は首を振った。愉しんでいるのだ。大名などという肩書を外し、一人の人間として皆と働くこの時間が、愉しくて仕方が無いのである。
「よし。欲しかったのはこの味噌だ。せっかく大根もあることだし、味噌田楽にするか」
見事な手つきで大根の皮を剥き、二寸ほどの厚さに切って、さらに面取りを行う。米の研ぎ汁に入れて煮る。赤味噌、味醂、昆布出汁、紅飴を合わせて火にかけ、濃度が付くまで煮詰める。
その無駄のない洗練された動きは、熟練の厨番のものであり、とても大名とは思えなかった。
「あんれまぁ、慣れたもんだで」
新田家の者たちは見慣れているが、織田側とすれば信じられない光景であった。周りが呆れるのを無視し、又二郎は手を動かしながら、春日山城に戻ったら宇曽利で暮らす母親を呼ぼうかと考えていた。
三日間の婚礼の儀が終わり、いよいよ出立の日を迎える。織田信長は自ら、岩村城の城下まで新田又二郎を見送りに出た。それほど多くの言葉を交わしたわけではない。だが二人がそれぞれに描く天下に、大きな隔たりがあることは理解できた。互いが天下人を目指す以上、いずれ必ず、激突する日が来る。
「陸奥守殿、我が妹を頼む」
「無論。この先何があろうと、市乃方を不幸にはしない。それは御約束する」
数瞬、視線を交わし合う。それだけで一種の緊張感が生まれる。
「では、これで失礼をする。織田殿、いずれ、また……」
「で、あるな。いずれ……」
こうして、日ノ本の東西を代表する大大名同士の邂逅は終わった。互いに理解していた。恐らく次に会うときは、何方かが首の状態になっているであろうと。