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天下討論

 夕刻に岩村城下に入った又二郎は早速、城下に人を派遣させた。求めるのは名古屋料理に欠かせない食材、八丁味噌である。味噌には、赤、淡色、白の三種類があるが、これは塩分濃度による違いである。つまり米の赤味噌も当然存在し、津軽味噌や仙台味噌がそれに該当する。

 一方、原材料による分類もある。米味噌、麦味噌、豆味噌の三種だが、豆味噌は米味噌とは麹が違うため、戦国時代においても作られている地域は非常に限られていた。具体的には、岐阜、尾張、伊勢の三国のみであり、現在でも豆味噌といえば、名古屋味噌、八丁味噌、伊勢味噌の三種を指すことが多い。


「……八丁味噌は存在しない?」


「ハ…… 手に入れた味噌は、信濃で入手した味噌とほぼ、変わりません。ただ、殿が仰られていた褐色の味噌というものは、岐阜城下や尾張清洲などで見かけるとのことです」


「そうか。残念だ。どて煮を作ろうと思ったのだがな……」


 恐らく戦国大名の中で唯一、料理を趣味とする男は急に興味を無くし、厨番たちに後を任せてしまった。ちなみに八丁味噌という名の味噌は、永禄年間には存在しない。(※豆味噌は存在していた)

今川義元の家臣であった早川新六郎勝久が、桶狭間の合戦後、三河願照寺で味噌作りを学び、味噌製造業を始めたところから、八丁味噌の歴史は始まる。数代後、岡崎城から西に八丁(約八七〇メートル)離れた「八丁村」で、早川家が味噌製造を本格的に開始した。これが八丁味噌というブランドの誕生である。


「飯食って、少し酒を飲んで、寝るか……」


 明日に向けて、気の昂りは抑えられない。寝るために少しだけ酒を飲もうと思っていたところ、近習たちが慌ただしくなっていた。何事かと思っていたら、近習の大浦弥四郎為信が、驚いたような、呆れたような表情で報告してきた。


「申し上げます。ただいま、本屋敷に織田上総介様が、御越しになられたとのことです。沼田様が対応されていますが、先触れも頂いておらず、殿の御判断を仰ぎたいとのことです」


「ハッ…… そう来たか」


 又二郎は愉快そうに笑った。従来の形式に囚われず、必要と判断すれば即実行する。この非常識さと気軽さ、そして行動力はまさに織田信長に対して抱いていた印象そのものであった。


「会おう」


 そう言って、又二郎は立ち上がった。





 沼田祐光は客間に座った二人の男を見比べていた。織田上総介三郎信長、今年で齢三六になるはずである。武士としても大名としても、これからの飛躍が期待される「脂の乗った歳」と言えるだろう。だが祐光は、信長と最初に対面した時に、背筋に冷たい汗が流れた。


(この男…… 似ている。あの眼は、我が殿の眼差しと同じだ。天下を睥睨し、新たな国を打ち立てんと燃える天下人の眼光。まさか殿以外にこのような男がいたとは……)


 二人は軽い挨拶をした後は、黙ったまま牛蒡茶を飲んでいた。普段であれば大浦弥四郎が、近習として部屋の隅に控えているはずだが、それも遠ざけられている。自分が此処にいるのは、明日の打ち合わせがあるかもしれないから、という表向きの理由に過ぎない。この二人を見ればわかる。この場でそんな話などするはずがない。


「……天下、とは何だと思われるか?」


 織田信長が口を開き、呟いた。独り言なのか問い掛けなのかすら、判断が難しいほどに小さな声であった。だがそれを聞いた新田政盛は、牛蒡茶を一口啜って器を置いた。


「一般的な定義を聞きたいというわけではあるまい? 俺の考えはこうだ。天下があり、それを獲った者が天下人……なのではない。先に天下人がいる。その天下人が、天下の定義と範囲を定めるのだ。俺の天下の定義は、天照大御神の威光が届く範囲。つまり神社が置かれ、それを敬う者が住む土地は、すべて日ノ本であり、天下の範囲である」


「朝廷の威光が届く範囲を天下と定めるか。なるほど…… だが儂の意見は違う」


「ほぉ…… 聞こうか。織田殿の考える天下とは?」


「民がいる場所すべてを指すと思っている。人は皆、考える力を持っている。それぞれが懸命に生きている。助け合い、時に争い、そうやって秩序と混沌を織り交ぜながら、社会を形成してきた。最初は小さな村が天下であった。やがてそれが大きくなり、今では日ノ本の天下、明の天下、そして南蛮には南蛮の天下がある。だが遠い未来ではどうか。いつの日か、日ノ本も明も天竺も南蛮も関係なく、すべての人が、一つの天下で生きる日が来るであろう」


「で、あろうな。だがその頃には、我らは生きてはおるまい。すべての民が、一つの天下で生きる世。だがその世が形成される過程において、日ノ本の天下と明の天下が争うこともあろう。俺は遠い将来、日ノ本の天下が、すべての民の天下になれば良いと考えている。そのためには、この戦国の世を終わらせ、日ノ本を一つの国とし、明や南蛮の諸国に、日ノ本を認めさせねばならぬ。そのために俺は、日ノ本の天下を統一する」


「そこよな……」


 織田信長の眼光が鋭くなる。沼田祐光は息苦しさを覚えた。


「なぜ、日ノ本の天下をもってすべての民を治めようとする? 遠い未来に、すべての天下が一つになるのは確かであろう。だが、なぜその天下が日ノ本の天下でなければならんのだ? そこで生きられぬ民はどうする?」


「生きられる。人は適応する生き物だ」


「そうは思えぬな。既に多くの武士たちが、陸奥守が目指す天下を忌避し、逆らい、そして死んでいるではないか。武家の天下を終わらせ、民の天下を作る。そのために血が流れるのはやむを得ぬ。そう言うかもしれぬが、武家の天下で何が悪いのだ? 陸奥守よ。貴殿が考える天下とは、民のための天下ではない。己が野心のための天下ではないか?」


「ふん…… そうかもしれんな。だがそれは、貴殿も同じであろう? 武家の天下が、民の天下より優れているとなぜ言える? いや、優れていようはずがない。なぜなら武士とは本来、戦で働くことが仕事だからだ。天下泰平になれば、武士は働く場を失い、何もせずにただ年貢だけを浪費するようになるだろう。それを何というか解るか? 社会の寄生虫と呼ぶのだ」


「そうならぬように、仕組みを整えれば良い。逆に聞く。民の天下と言うが、天下のため、公の益のために動く者など少数だ。大半の者は、己が利益のために動く。それが人間というものだ。だからこそ、公益を考えられる者が、為政者として民を治めねばならぬ。断言しよう。民による統治など、その時々の利益でふらつくだけの、衆愚な統治となろう。陸奥守よ。貴殿は民に期待しすぎだ」


「民を信ぜずして、どうして統治ができる? 今は天下を考えられずとも、教育によって民の視野を広げることは可能だ。だがまぁ、貴殿の言いたいことは理解した。我らがそれぞれ、異なる天下を描いていることもな。東はこれより、民の世を目指して動き出す。西は武士の世のまま、古き考えに縛られ続けるが良い。どちらが優れているか。遠からず結論が出よう」


「で、あるか……」


 信長は茶碗を掴んで一気に飲み干し、そして立ち上がった。





 岩村城での婚儀はあっけなく終わった。市姫に対する又二郎の感想としては、美人だがそれだけの女性、というものであった。例えば、正室の桜乃方は「南部家再興」という想いを抱えている。その想いを又二郎の「天下統一の野望」と重ね合わせている。そうした「同志」の関係は無理だと思った。


「済まぬが、桜や深雪に引き合わせる前に、其方を抱くわけにはいかぬ。春日山城までは、寂しい思いをさせてしまうが、許してくれ」


 初夜において、又二郎はそう言って頭を下げ、別室で寝てしまった。部屋に残された市姫は、忘我の状態から戻るのに数瞬を要した。二〇歳を過ぎれば、自分が男たちからどのような視線を向けられているかは知っている。自分の容貌が色をそそらせるものだということも、自覚していた。

 だが、これから夫となる男は、それらの男とは全く違う視線を自分に向けていた。男が女に向ける好色の視線ではない。まるで珍しい草花でも観るような、そんな視線であった。

 無論、これは市姫の勘違いである。又二郎としては、戦国時代でも五指には入る有名な女性に対し、一人の歴史愛好家の立場で向き合ったに過ぎない。


「どうしましょう。織田と新田の(かすがい)にならないといけないのに……」


 聞くところによると、正室が二人に側室が一人いるという。子も生まれていることから、女性に興味がないわけではないだろう。となると、いかに自分に惹き付けるかである。女性として見てもらい、そして夢中にさせる。既に嫡男も生まれていることから、正室である桜乃方と肩を並べるのは難しいだろうが、自分に夢中にさせれば、側室として最大限の地位と発言力は手に入れられるかもしれない。


「又二郎殿を虜にする。まずはそこからですね」


 こうして、市姫の少しズレた努力が、始まるのであった。


《後書きという名の「お願い」》

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※本作「三日月が新たくなるまで俺の土地!」の第一巻が、アース・スターノベル様より出版されています。ぜひお手にとってくださいませ!


※また、筆者著の現代ファンタジー「ダンジョン・バスターズ」も連載、発売されています。こちらも読んでいただけると嬉しいです。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[一言] 米味噌、麦味噌、豆味噌の違いは麹が米麹、麦麹、豆麹で違っているだけで、基本原料は大豆ですよね。
[一言] 誰にとって良い政治なのかって言う視点は結構忘れられてる気がします 無知のヴェール この思想を知ると自分の立場を越えて建設的な考え方が出来ると私は信じています
[一言]  うーん。民の政治の言及に対し、武家統治の戦が終わった後の階級変動が全然ないことに対して、室町幕府の凋落を話し、血統という生まれに胡坐をかいて、日ノ本を乱世に陥らせたから、副将軍の地位を断り…
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