悪人正機
「できるだけ胸より上を狙え! だが、掛かってくる者には容赦するな」
念仏を唱えながら砺波の原野を歩く五万人の群衆。女子供もいれば老人もいる。陣形などなく、南無阿弥陀仏と筵を旗にして鍬や鎌、錆びた槍などを手にして行進するだけである。
あまりにも非現実的で異様なその光景は、極楽浄土の対極、地獄のように思えた。人は、理解できない存在に恐怖を感じる。幾度の戦を経て鍛え抜かれた新田の精兵たちが、その光景にカタカタと鎧を震わせている。怖いのだ。あまりにも異質で、理解不能すぎて怖いのである。
(これが一向一揆…… 何という恐ろしい敵なのだ)
南条広継でさえ、目の前の光景に戦慄し、湧き上がる恐怖を抑えるのに懸命であった。又二郎は後方からその様子を見て、知識と現実の違いを今更ながらに思い知った。
なぜ信長が、あれほどまでに一向門徒たちを殺戮したのか。この光景を見れば本能的に納得できる。悍ましいのである。自分が創る天下に、あんな存在は必要ない。いや、むしろ有害であろう。そう考え、殺戮したのではないか。
(長島一向一揆などで、織田信長の残虐性を批判する歴史家がいるが、この光景を見てから言え。こんなものの存在を認める為政者などいない。だが、これを生み出したのもまた、為政者の責任なのだ)
近づいてくる異様な敵に、鉄砲隊はガチガチと震えていた。そして恐怖は暴発を引き起こす。合図もないのに、恐怖に耐えかねて一人が引き金を引いてしまった。新田の厳しい練兵により、筋力も体力も付いている。槍捌きの技術や味方同士の連携も身につけている。だが、異様な敵が発する恐怖に耐える精神力までは、鍛えられていない。
「「「うぁぁぁっ!」」」
一人の暴発に釣られて、一列目が次々と鉄砲を撃ち始めた。まだ早いと叫びながら、南条広継は舌打ちした。新田の鉄砲は改良され、射程が長くなっているが、それでもまだ遠い。一〇〇〇名が並ぶ一列目を一旦下げる。するとその間に、敵が突撃を始めた。
「ハッ…… 遠いわい。新田強しといえど、所詮は同じ人間っちゅうことや」
下間頼総は嗤い、そして号令を掛けた。奇声をあげながら、一向門徒たちが駆け始める。率いている将などいない。彼らへの指示は三つしかない。「とにかく殺せ」「喜んで殺せ」「死ぬまで殺せ」である。
鉄砲の音が再び聞こえてくる。だが人間は、手足に弾がめり込んだ程度では死なない。心蔵か頭を打たない限り、簡単には死なないのだ。そして動き続けている相手の急所を正確に狙うのは不可能であった。
「それにしても、鉄砲の音が止まんの。何かタネがあるで」
だがそれでも、五万人の突撃を止めることなど不可能であろう。下間頼総は馬に跨がると、本陣から離れようとした。顕栄が眉間を険しくして、それを止めた。
「どちらに行かれるつもりか!」
「何や? あの鉄砲の音、聞こえるやろ。普通、あんなに連射はできへん。何ぞタネがあるさかい、それを調べに行くんや。ワテが前に出れば、皆も勇気付くやろ」
本陣に居る者たちが感動の表情を浮かべる中、顕栄だけは険しい表情のままであった。本当なら此処で殺してやりたい。だが周囲の視線があるため動けない。
「ならば拙僧も……」
「阿呆言いなはれ。あんさんが動いたら、誰が此処を守るんや? ワテだけで十分や。ほな、達者でな」
下間頼総はそう言い捨てて本陣から離れた。
鉄砲隊の横列というのは、一〇〇〇から一二〇〇が限界である。一人あたりの幅を一メートルとしたら、一〇〇〇名だけで一キロメートルに達する。新田軍は、三〇〇〇名の鉄砲隊を三段に分けて、間断なく鉄砲を撃ち続けた。これまでの戦では、これは必殺の陣形であった。マシンガンとは言わないが、戦国時代では有り得ないほどの連射を可能とした。
だがそれでも、この狂気の群衆は止まらなかった。既に数発を肉体に受けているはずなのに、駆ける速度が変わらないのである。奇声を発し、口端から涎を垂らしながら駆ける様は、魑魅魍魎を思わせた。
「止まらぬか! ならば鉄砲隊を下げ、槍衾を使う!」
一向一揆に対する新田の新たな戦術、それは日本語で言うならば槍衾だが、元はヨーロッパの「ファランクス」である。堅い樫の大楯と長槍を持った隊が前に出る。やがて防柵にたどり着いた群衆は、そのまま柵を押し倒した。そこに大楯を構えた部隊が現れた。喚きながら盾に激突する。
「押せぇぇっ!」
一万を越える「重装足軽隊」が呼吸を合わせる。瞬間、数万人の群衆の足が止まった。ドンッと盾が跳ね上げられ、一向門徒たちが弾かれる。そこに槍が突き入れられる。一撃入れると再び盾を構え、突撃を防ぐ。
「押せぇぇっ!」
再び弾き、槍を突く。そして爆発が起きた。群衆たちが止まった所に、ファランクスの後方から炮烙玉が放り込まれたのである。信仰という名の狂気に飲まれていた群衆たちも、初めて見るこの現象に虚を突かれた。
「炮烙玉を切らすな。狂った人間を正気に戻すには、より狂った状況に放り込んでやることだ。爆発現象は初めて見るだろう。奴らのうちの何割かでも、これで正気に戻ってくれれば良いが……」
ファランクスとて永遠に維持することはできない。五万人を鏖殺するなど、現実的に不可能である。又二郎は最初から、敵が撤退する状況をどう作り出すかを考えていた。
「宮内(※蠣崎政広)と左近(※九戸政実)を突っ込ませろ!」
爆発で正気に戻ったのか、逃げ出す者が出始めた。最後の一手として、騎馬隊の突撃が始まる。ファランクスも解かれ、乱戦が始まった。一向門徒の殆どが百姓や地侍である。率いる将が居なければ、散り散りとなり各個撃破されるだけであった。
「完勝だな。だが……」
死者、負傷者の数は万を越えるだろう。日が暮れるまで追撃させ、明日はこの原野の死体を片付けねばならない。逃げ切った者たちは、降ってくるならば受け入れてやろうと思った。
「顕栄殿、覚悟はできておられるな?」
「拙僧らの首は差し上げまする。どうか寺内の幼子たちだけは、命を御救いくだされ」
瑞泉寺まで迫った新田軍を出迎えたのは、瑞泉寺住職の顕秀と、高岡にある勝興寺の住職である顕栄の二人であった。一向一揆の中に若者の姿はあったが、子供の姿は無かった。子供に武器を持たせて戦場に送り出すようなことはできないと、理性が働いたのだろう。
「貴殿らに聞きたい。未だ、百姓の持ちたる国を目指すか?」
又二郎としては、目指すと返すならば、ここで開放して本願寺に追放しようと思っていた。明確な国家像を持った為政者と、法を執行する統治機構があってはじめて、国は治まるのである。
(ここで殺すのは容易い。だが、一〇〇〇年の歴史を持つ仏教を屈服させ、完全な政教分離を図らねばならない。そのためには何度でも一向一揆を潰してやる)
「たとえ拙僧の首を刎ねようとも、親鸞聖人から続く真宗の仏法が負けたわけではありませぬ。拙僧が目指した仏法による国が、間違っていたとは思いませぬ」
顕秀は胸を張ってそう返した。一方の顕栄は瞑目して黙ったままであった。又二郎は鼻でフンと息を吐くと、顕秀に向けて告げた。
「その意気や良し。そもそも国の姿に普遍的な正解などない。御坊がそれを望むのなら、長島なり石山なりに行って、死ぬまで目指すが良い。顕秀和尚は倶利伽羅峠の関所で開放する。それで、顕栄和尚はどうか?」
「そもそも拙僧は、仏法の国など求めておりませぬ。拙僧らも含め、衆生は皆悪人。故に仏の教えをもって救いを齎す。仏説無量寿経において、法蔵菩薩はそう説かれておりまする。されど、衆生を救うことと、衆生を治めることは違う。新田様は拙僧にそう説かれた。その言、誠に御尤もでございます。命永らえるならば一介の僧として、この命尽きるまで、亡くなった者たちの菩提を弔いとうございます」
「顕栄殿! 真宗を捨てるおつもりか!」
「そうではない。拙僧らは奢っておったのだ。世に王法無しなどと、どうして拙僧如きが言えようか。親鸞聖人の了解にもあるではないか。我ら衆生は、所詮は自らの善悪の基準しかなく、本質的な善悪など判断できぬ。故に悪人であり、修行を続け自らを悟らねばならぬと。言うなれば拙僧は、新田様との問答により、頓悟したのだ」
何が頓悟かと顕秀が言葉を続けようとしたとき、又二郎はパンと手を打った。
「良かろう。されば顕栄和尚は勝興寺に戻ることを許す。新田の法に従う限り、真宗の信仰を妨げることはせぬ。ただし、二度と一揆などは許さぬ。これより越中国は新田の王法によって治める。その上で、親鸞聖人の教えを正しく伝え、仏法によって民を救え」
これをもって仕置きは終了、又二郎はそう告げて立ち上がった。