越中一向一揆
一向一揆はなぜ起きたのだろうか。後世の歴史家たちは、例えば三河一向一揆では、徳川家康が寺社の特権である「守護使不入(※一種の治外法権)」を侵犯したからと言われている。また加賀一向一揆では、加賀守護であった富樫の要請を受けて、守護家の内紛に介入したことが発端と考えられている。いずれの一揆においても、国人領主や僧侶に率いられた浄土真宗本願寺教団の信徒たちが、武器を手にして権力者に対抗した、一種の「下剋上」的な側面があったのは否定できない。
だが信徒たちが何らかの思想をもって、権力者の打倒を目指していたのかという点には、筆者は疑問を抱いている。本願寺教団の信徒の多くが土豪的武士や農民など、その土地で生まれ育った者たちである。中世日本では、物事の判断基準となる情報そのものが無かった。そのため僧侶などの身近な権威の扇動を受けやすかったのは確かであろう。
彼らとて人間である。死ぬことは怖いはずだし、理由もなく命がけで他者と戦い、相手を殺すという行為をするとは思えない。現代人的な感覚であればそう考えるが、人間という生き物は、すべてを合理で判断し、行動するわけではない。むしろ、その場の空気に流されやすい生き物である。
一向一揆の原動力は何だったのか? 筆者は「民衆の熱狂」ではないかと考える。江戸時代末期においても、畿内地方で「ええじゃないか運動」というものがあった。ええじゃないか、と叫びながらただひたすらに踊り続けるという、狂乱的な運動であるが、この参加者の多くが、なぜ参加したのか自分自身も理解していない状態であったという。
社会に対する不満や未来に対する不安、それを自分の手で解決できないという焦燥感。そうしたものが鬱屈し、やがて狂乱となって暴発する。個に帰属させるとそう考えることもできるが、筆者個人の意見としては、どちらかというと「群集心理」に近いと考えている。いわゆる「ノリ」というものであり、現代においても渋谷のハロウィンなど、主催者もいないのに狂乱騒動が起きたりしている。
ノリで数十万人が蜂起し、そして死んだのかと考える者もいるだろうが、いわゆる「革命」とはそうしたノリから起きるもので、明確な国家像を持つ「思想家」のもとに人々が集まり、権力を打倒するというのは幻想である。「フランス革命」や「アラブの春」を見ても解る通り、大半の参加者は明確な思想に基づいての行動ではなく、日々の鬱屈した不満を晴らすために、ノリで参加していた。戦国時代に起きた一向一揆も、それに近かったのではないかと筆者は考える。
越中国南砺にある瑞泉寺には、大勢の信徒たちが押しかけていた。統一された集団ではない。男の怒鳴り声、女の悲鳴、赤子の鳴き声などが響き、まさに雑多な群衆であった。彼らに共通しているのは、貧困である。戦により田畑は荒れ、今日の食事にすら事欠いている。南無阿弥陀仏と唱えたところで、腹が満たされるわけではない。食い物が無ければ、生きるために奪うしかない。信心からではなく、生きるためにこの寺に集まったのだ。
「おぉっ、大和尚様じゃ」
「ありがたや、ありがたや……」
一人の僧侶が姿を見せると、老いた者たちが一斉に手を合わせた。浄土真宗本願寺教団の法印大和尚(※僧位の最上位)である下間頼総である。最上位の僧であるが、若い。一五四九年に父親の死によって上座に就任した時は、まだ齢九歳であった。今年で齢二九になる。だが若いからと侮れるものではない。法主である本願寺顕如に重用され、筆頭坊官として活躍している。永禄九年(一五六六年)、越前朝倉の加賀侵攻を食い止めるために石山本願寺から加賀に派遣され信徒たちを指揮し、朝倉を九頭竜川まで押し返した。僧侶としても、部将としても名が知られている。
「爺さん、そない手合わせんと立ちなはれ。ワテはそんな偉いモンちゃう。アンタらと同じ、ただの人間や。寝るし食うし屁もこくで」
下間頼総は群衆の中に入り、拝む老人たちの手を取った。
「赤子、泣いとるやんけ。乳、出んのか。腹が減っとるんやろ。済まんのぅ。仰山食わせてやりたいんやけど、加賀から食いモンが届かんのや。ワテの分で我慢してくれや」
懐から干飯を取り出し、母親に与える。母親は恐縮して跪いて、その干飯を受け取った。下間頼総は涙を流しながら、済まん、済まんと一人ひとりに謝る。
「北を抑えている新田様が、加賀から来る飯を取り上げてしまうんや。ワテら何も悪いことしとらんのに、飯取り上げてしまうんや……」
謝りながら、原因は新田にあると触れて回る。すると群衆たちの目つきが変わってくる。悪いのは新田だ。赤子を飢えさせるなんて、なんて極悪非道な奴だと、呪詛の言葉を吐く者たちが出てくる。
「大丈夫や。ワテが新田ハンとこに行って、首打たれればええんや。ほなら、みんな食えるようになる。ワテの首一つで、赤子が助かるんや。喜んで死んだるわ」
「いけません! 和尚様が死ぬなんて!」
「そうじゃ! 悪いのは全部、新田っちゅう奴だ!」
「飢え死にするくらいなら、戦ったるわ! 新田ちゅう奴をぶっ殺してやる!」
下間頼総の言葉に激高した者たちが、次々と檄を飛ばす。下間頼総は目を細めて、群衆の激発を見守った。
「これで仕込みは終わりや。南砺の五万が一気に攻め掛かれば、新田も俱利伽羅峠から兵を退くやろ」
寺の中に戻った頼総は、大根の漬物と口に入れ、椀一杯に盛られた飯を掻き込んだ。勝興寺の住職である顕栄は、複雑な表情で頼総を見ていた。これは起こさざるを得なかった一揆なのだろうか。それとも一揆を嗾けたのであろうか。
「なるほど。俱利伽羅峠が手薄になった隙に、加賀から兵糧を運ぶと……」
「あーん? 阿保か? 手薄になった隙に加賀に逃げるに決まってんがな」
悪びれもせずに、頼総は逃げると断言した。顕栄は思わず腰を上げた。新田は寺領を取り上げる。一〇〇年間、百姓の持ちたる国であった西越中から加賀においては、新田の支配は受け入れられない。だから戦う。勝てる、勝てないではない。この一〇〇年間、仏の教えを説き多くの人々を煽り、血を流してきた。今さらそれを否定することは、僧侶以前に人として許されない。
「逃げると仰るか! あれだけ新田憎しを煽りながら、己一人は逃げると!」
「なにを怒っとんのや。ワテら坊主と百姓の命。同じなわけないやろ。アンタらもさっさと支度しいや。越中は酷いことになったと、加賀で吹いてもらわにゃならんでね」
「ならば御一人で逃げられよ。拙僧は最後まで此処に残る!」
頼総は口を半開きにし、顕栄に顔を向けるとフーンと頷いた。説得するのも馬鹿馬鹿しいと思ったのか、顕栄に対して興味を無くしたかのように、それ以上は言葉を続けなかった。空になった茶碗を置き、身支度を始める。五万の民衆を新田に突っ込ませるまでは、指揮が必要であった。
「さて、では始めるかね。新田の度肝抜いたるわ」
本願寺の紋が刻まれた鎧を身に着け、数珠を袈裟掛けにする。表に出ると、群衆たちが希望の眼差しを頼総に向けた。
「仏様もお天道様も、ワテらの味方や。新田には仰山飯があるさかい、追い払って鱈腹食べよか。元々、ワテらの喰い物や。仏様も許してくれはるわ」
手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えた。群衆たちは声を揃えて雄たけびを上げ、そして南無阿弥陀仏と唱えながら北に向けて進み始めた。
「申し上げます! 瑞泉寺に集まっていた一向門徒たちが動き始めました。付近の集落からも人が集まり、その数は五万を越えておりまする。念仏を唱えながら、北に向けて進んでおります」
「なに? 想定より早い。兵糧が無くなる前に動こうという魂胆か?」
高岡から庄川沿いに南下し、砺波方面へと入っていた新田軍に間者からの報せが届いた。南条広継は、自分が想定していたよりも早く、一向門徒たちが動き始めたことに戸惑ったが、その狙いは読んでいた。このまま南砺に封鎖されれば、兵糧が尽きて朽ちるだけである。糧道を確保するためにも、乾坤一擲の勝負に出たのだろう。
「奴らは俱利伽羅峠を狙うはずだ。二〇〇〇の兵はそのままにし、加賀への斥候を怠るな」
「決戦は予定通り、般若野となる。鉄砲で迎え撃つ故、陣を構えろ!」
南条広継と八柏道為が指示を飛ばす。それを聞きながら、又二郎は空を見上げていた。
「また下らん戦で血を流すことになるか……」
周囲に聞こえないよう、小さく呟いた。