変わりゆく時代
史実において、第一五代将軍の足利義昭と織田信長は対立し、信長は京から将軍を追放するという措置を行うことになる。だが当初から、両者が対立していたわけではない。少なくとも上洛し、将軍に就き、畿内から三好勢力を追い出すまでは、両者の利害は一致しており、朝倉や六角に見放された自分を担いでくれた信長に対して、義昭は「御父」と呼び、敬意を示していた。
信長も、本國寺の変(永禄一二年)において危機にあった義昭を救い、将軍邸である二条御所を再建している。義昭は、信長が美濃に戻る際には涙を流して門外まで送り出し、信長の姿が見えなくなるまで見送ったという。少なくともこの時点においては、両者は蜜月の関係であった。
足利幕府と織田家の亀裂の始まりは、信長が定めた殿中御掟にあるという意見もあるが、実際にはこの掟自体は、義昭以前から幕府では当たり前とされていたことを明文化したものであり、また表現においても幕府と織田家とで幾度も話し合いが行われ、義昭自身も承知していたことである。伊勢攻めなどでは意見の対立があったとされているが、それでも断絶するほどではなかった。
それでは、足利義昭と織田信長の溝はどこから始まったのか。筆者は永禄一二年(一五六九年)から元亀二年(一五七一年)までのおよそ一年間に、溝の始まりがあると考える。
元亀元年一月、信長は二一ヶ国の大名、国司に対して触状を発し、将軍に挨拶せよとの、事実上の上洛命令を出している。室町幕府の支配体制であった「二一屋形」に準えたもので、信長をはじめとする大名が祗候し、全国から進物が届くなど、義昭が望む幕府の姿が一時的にでも実現した。
当然、義昭としては「織田の力があってこそ」と理解はしていただろうが、同時に「将軍の権威も捨てたものではない」と思ったはずである。この元亀元年から、足利義昭の「口出し外交」が始まるのである。
織田信長には、畿内統一後の「天下布武の青写真」があっただろう。例えば、信長は上洛直後から越前朝倉家に上洛要請を二度出している。無論、朝倉が拒否することを見越してのことである。誰を敵とし、誰を味方とするか。この「外交の青写真」が狂ってしまったのが、元亀元年から二年のことである。足利義昭というより、足利幕府の幕臣の判断であろうが、公家を動かしての仲裁などを行い始める。信長としては「ちょっと待て」と言いたかったであろう。
幕臣たちとしては、先の細川家や三好家の例からも、足利幕府が形骸化してしまうことを恐れたのであろう。また実際の政治については織田家中で行われており、自分たちが飾り物であったことへの不満も大きかったはずである。幕府として、また幕臣としての存在感を示すことで、武家の棟梁としての権威と権力を取り戻そうとしたのではないだろうか。
もし戦国時代が終わっていたのなら、信長としても幕府に対する出方は変わったであろう。だが周囲を敵に囲まれている戦国時代においては、即断即決が求められる。二重行政のようなことが行われれば、現場が混乱してしまう。信長はイラつきながら、幕府に対して追加で「御掟」を出したのであろう。
「新田は砺波を北から包囲する形で、一向門徒を封じ込めました。加賀から援軍を出そうにも、峠に堅陣を構えられ、蟻一匹通す隙間もないとのことです」
「引き続き、新田の戦ぶりを見守れ。些細なことも漏らさず書き記しておくのだ。いずれ新田と事を構えるときに、必ず役立つであろう」
岐阜城において報告を聞いた織田信長は、間者に命を与えた後に奥へと戻った。尾張清洲城から来た妹に会うためである。女たちの笑い声が聞こえてきた。小姓が先触れし、その後に信長が入る。
「兄様、御久しゅうございます」
「市、暫く見ぬ間に、更に美しゅうなったな。新田にお前を渡すと思うと、腹立ちを抑えられん」
正室の帰蝶乃方と妹の市姫に向かい合う形で、信長は腰を下ろした。戦国時代と現代とでは、女性の美しさの基準が違うと言われている。だが市姫ほどになると、もはや関係なくなる。現代に連れてきても誰もが見惚れるであろう美貌に、小姓は顔を赤らめて退室した。
「新田は今、越中統一に動いている。新田であれば年内中に、加賀まで侵攻するであろう。市の輿入れは、長月(一〇月)あたりになる。岩村城で陸奥守と会見することになろう」
「はい。とても楽しみでございます。兄様よりもずっと若いのに、二〇年で日ノ本の半分を手にした怪物様…… 角などが生えているのでしょうか」
「ホホホッ、まさか。されど一つ言えるのは、尾張のうつけ殿に肩を並べるほどに、非常識な御仁ということでしょうね。聞くところによると、自ら厨に立ち、包丁を握るとか」
「フンッ、儂はそこまで外れておらぬわ」
「たった一人で城を飛び出し、京まで馬を走らせる御方が言っても、説得力はありません」
帰蝶は笑いながら、信長の反論を否定した。信長は姿勢を正して、妹に頭を下げた。
「市、すまぬ。儂が不甲斐ないばかりに、お前を犠牲にすることになる。新田との不戦は、せいぜい数年しか保つまい。その後、お前がどうなるか…」
「兄様、頭をお上げください。その数年で、兄様は天下に手が届くのでしょう? ならば、私は喜んで新田に行きます。それに、必ずしも死ぬとは限らぬではありませんか」
妹の言葉は、信長にとっては慰めにはならなかった。尾張統一に、時を掛け過ぎた。桶狭間の後、有無を言わさず犬山城を攻め落としていたら。あるいは母の執り成しを無視して、弟の勘十郎(※織田信行)を処断していたら。自分の気質は過去をクヨクヨしないことと知りつつ、信長はそう思わずにはいられなかった。
「御前様、何を悩んでいるのです。すべては天下を獲るため。省みている暇などありませんよ? それとも諦めますか? ならばこの場で、妾が殺してあげましょう」
懐から短刀を覗かせ、薄笑みを浮かべる妻が顔を向けてくる。義父の血を色濃く受け継いだこの妻は、信長でさえ躊躇するほどに苛烈である。信長は両手で自分の顔をパンと叩いた。
「で、あるな。時は少ない。今はひたすらに駆けねばならぬ」
背中に覇気を漲らせながら、信長は部屋を出て行った。
「殿、七尾城攻めでございますが、畠山七人衆は如何致しますか? 長対馬守(※長続連)より内応の呼び掛けがありますが」
上杉顕景(※景勝)以下、上杉の旧臣たちは二万の軍を率いて能登攻めに向かう。砺波の封鎖を終えた新田軍は、今後の方針について軍議を開いていた。顕景の傅役である斎藤下野守朝信が、能登攻めの方針を又二郎に確認した。
「七尾城は堅城だ。力攻めをすれば犠牲が出る。内応の呼び掛けに応じてやれ。その上で長対馬守以下、畠山七人衆は全員殺せ。無論、当主の畠山義綱もな。一族は残しても構わんが、歯向かうようであれば容赦するな」
「し、しかし……」
苛烈な命令に、斎藤朝信は思わず反論しようとした。畠山家は能登に根付いた名門である。畠山家の最盛期であった、義総の代からの者も多い。公家衆もそれなりにいるのだ。ここで畠山家を潰せば、室町幕府はおろか朝廷まで敵に回ってしまうのではないか。
「言っておくが、新田はいずれ京へと攻め上る。上洛ではなく、攻め上るのだ。室町幕府など知ったことか。帝の機嫌なども伺う必要はない。俺は、二〇〇〇年続く皇統に対しては敬意を払うが、一人の人間としての帝個人に対しては、何の敬意も持っておらん。戦という政事に口を挟むようであれば、朝廷に対しても俺は苛烈になるぞ」
天子弑逆すらも辞さぬ。言外に又二郎はそう断言した。武士として、いや日ノ本で生きる一人の人間として、最大の罪である。その覚悟に朝信は震え、そして本当に新田について行って良いのかとも思った。
無論、又二郎の本心としては、天子弑逆など考えていない。そんなことをすれば、民が付いてこないからだ。だが国家を束ねるための「権威」と、国家を治めるための「権力」を分割することで、この国は二〇〇〇年にわたって国体を保ち続けてきた。これを崩せば天下が乱れる。天子ならば、その本分を弁えるべきであろう。
「んんっ…… 殿、まずは穴水、輪島、珠洲などの奥能登を落とし、しかる後に七尾城に開城を求めましょう。彼らとて、包囲されればいずれ干上がることは、理解しているはず。その上で、畠山家および七人衆の家門のみを残し、当主は隠居としては如何でしょうか」
南条広継は咳払いをして、執成すように妥協案を提示した。かつてと違い、新田は日ノ本最大の大名となった。今後の戦においては、天下の目を気にしなければならない。特に今回は、公家衆もいるのだ。穏便に済ませることができれば、今後は何かと、やりやすくなる。
「そうだな。越中の進言を是とする。下野守、前言撤回だ。無理に殺す必要はない。まずは包囲し、降伏を呼びかけよ。ただし、野戦となった場合は別だ。上杉の力を存分に見せつけてやれ」
「ハッ!」
傅役としては、元服したばかりの若い主君の初陣は、正々堂々の合戦にしたかった。そのための策を軍師である南条広継が出してくれた。七人衆の所領の多くが奥能登にある。あえて背中を見せて奥能登を攻めることで、城から引きずり出す。あるいは内応している長対馬守に、そう嗾けさせても良い。
「これから戦は変わるな。より苛烈に、より残酷に、そしてより卑劣に…… 益荒男の時代は、もう過去のものとなるか。寂しきことよ」
亡き主君が鍛え上げた上杉の精兵たち。一人ひとりが、益荒男の面構えをしている。できることなら、彼らが生き残る未来であってもらいたい。朝信はそう願わずにはいられなかった。