砺波攻めの始まり
摂津堺湊は古くから、交易都市として発展してきた。摂津と和泉という二国の国境に位置し、海と隣接していたため海洋交易も行われ、平安時代には畿内の主要な物流ハブとなっていた。
室町時代になると、遣明船の八着場所となり、国際貿易都市となる。様々な文化が入り混じることで、茶の湯、連歌、能楽などの文化が華開いた。
そして戦国時代に入り、堺は南蛮貿易でさらに豊かになる。鉄砲の生産により莫大な富を蓄え、会合衆と呼ばれる豪商たちは、貪欲に利益を追求した。どの大名の支配も受け付けない「自由交易都市」を守るため、周囲を取り囲むように壕が掘られた「環濠都市」として、防衛機能を持っていた。
武家の支配を受けない自由で発展した都市は、ポルトガル人宣教師ガスパル・ビエラが「日本のベニス」とまで評したほどであった。
永禄一二年弥生(旧暦三月)、三六名の堺会合衆のうち、特に発言力の強い一〇名が、一堂に集まっていた。納屋衆と呼ばれる者たちである。それぞれが豪商であるが、身分の上下はない。畳間の中で各々が自由に座っていた。
「越前より届いた、牛蒡茶でございます。ワテら茶人にとっては異形で御座いますが、今日のような気楽な場には良いかと思い、淹れさせていただきます」
背の高い男が、茶釜で煮出した午房茶を信楽の茶碗で給仕する。大男のわりに、使っている柄杓は小ぶりで、その対比が奇妙なほどに似合っていた。
「茶葉なし、作法なし、名物なし。茶の湯の三無でございますな」
信楽の茶碗を掴んでズズッと啜る。煮出し方がよいのか、牛蒡の風味と甘みが口の中に広がり、思わずホウと息を吐く。茶請けはない。正式な茶会ではなく、非公式な話し合いの場であるためだ。
「三無といえば、都では新田様の家臣が、織田様と和睦の話をしているそうですな」
「左様…… 我らにとっても気が気ではない話ですな。新田様は日ノ本の半分を領する御方。その御用商人たちは今のところ此方には来ず敦賀や博多のほうに行っていると聞きます」
「和睦となれば、戦が無くなりますな。鹿革が売れなくなるやもしれません」
堺の豪商たちは、それぞれ様々な物産を扱っている。塩漬けにした魚、油、紙、墨などだが、鎧を作るための鹿革は、どの大名にも需要がある主力商品である。戦が無くなれば、鹿革の需要も激減する。商人として、それを危惧するのは当然であった。
「宗易はんは、どうお思いでっしゃろ?」
「そうですな。東と西で和睦する。戦が無くなるゆうんは、結構なことやおまへんか」
牛蒡茶を入れた大男、千宗易は、薄笑みを浮かべてそう返した。
六角右衛門督義治は、不機嫌な表情を隠そうともしなかった。本来であれば、六角家は細川家に肩を並べる幕府管領職となり、傾城の美女と評判の織田信長の妹を娶り、名門六角家の当主として、幕府の中で差配しているはずだったのだ。だが現実は、京から観音寺城に戻され、半ば蟄居の状態となっている。畿内は織田の手によって制圧され、六角家はほとんど何も得ていない。
「これでは、我らは織田にいいように使われただけではないか! 若狭か伊勢でも得なければ、気が済まぬ! それなのに、家臣たちはまるで織田の者のように動き、父上もそれに何も言わぬ。我らは織田の家臣ではないぞ!」
織田家と新田家の交渉に、六角は完全に蚊帳の外に置かれていた。正確には、六角六人衆(※後藤賢豊が死去しているため五人)の協力で、公家衆への根回しなど、六角も一定の働きをしていたのだが、義治自身が差配したものではないため、本人は六角が軽んじられていると思っていた。
「かくなる上は兵を挙げ、我らの手で若狭を切り取るしかない。織田との盟約には、六角が他を攻めてはならぬとは決まっていないからな。若狭を得れば、挟まれた形になる高島も、六角に付くであろう」
自分よりも年下の、日ノ本の最北端に位置していた三〇〇〇石の田舎者が、朝廷や幕府すら無視できぬ力を持つようになった。それなのに自分はこんなところで蟄居している。そして嫁まで盗られたのだ。近江と若狭の二国を得れば、織田も六角を蔑ろにはできまい。そう考えた義治は、密かに兵を集めるように指示した。
「フフフッ…… 莫迦が踊ってくれましたな」
「十兵衛殿も、御人が悪い」
明智十兵衛光秀と竹中半兵衛重治は、忍びからの報告を受け、互いに笑みを浮かべた。六角義治がもう少しまともであれば、対六角政策は変わっていただろう。
実際、前当主の六角承禎は時流を読み、いずれは織田の従属国になっても構わないとすら考えていた。京と隣接する南近江を領していれば、一定の影響力は保持できる。日が昇る勢いの織田と、観音寺騒動で大きく力を落とした六角とでは、勝負にならない。六角承禎も六人衆も、それを見越して織田に協力しているのだ。
「一月もすれば暴発するでしょう。その責により、六角は若狭への国替えとすれば、新田への備えにもなります。もっとも理想は、父子共倒れですが」
甲賀者を義治の傍に送り込み、前々から吹き込んでおいた。六角父子の断絶は決定的である。承禎としては、なんとか我が子に六角家を残そうと必死なのだが、その努力を子が破壊しようとしている。
「親心子不知、ですか」
「莫迦は死なねば治りません。ならばせめて、治癒の機会を与えてやるのが、盟を結んだ者としての義理で御座いましょう」
二人の謀臣は低い声で嗤い合った。
西越中、砺波や高岡を目指して、新田軍六万が富山城に集結した。上杉家からは、今年元服した上杉顕景(※長尾顕景のこと。上杉景勝の初名)、斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家が参陣している。柿崎景家は、狭野決戦で傷を受けていたが、それも快癒したため、新田の武将として加わった。
「皆に伝えておく。これから起きる戦は、これまでの戦とは違う。本来であれば槍ではなく鍬を手にし、田畑で汗を流していたはずの名も無き農民たちを相手にする。武士としての覚悟も無く、戦で手柄を立てて出世しようという野心も無く、ただただ、死ねば極楽浄土に行けると盲信している民衆たちだ。もし生まれた場所が違えば、一向一揆などとは無縁の生涯を送っていたはずだ」
開戦に先立ち、又二郎が方針を語る。具体的な作戦の前に、この戦の意味を説明しておく必要があった。敵は大名でも武士でもない。一向門徒たち、つまり一般の民衆である。頭では理解していても心理面で、戦うことそのものに抵抗を感じる者たちも多かった。
「俺は浄土真宗を禁教にするつもりはない。人は誰もが、自分が信じたいものを信じれば良い。だが、自分が信じているものを絶対と考え、それを他者に押しつけることは許さん。百姓の持ちたる国…… 武家の支配を受けず、民衆が合議によって国を治めるのだという思想であれば、まだ妥協もできただろう。だが実際は違う。浄土真宗を説く坊主どもを絶対とし、他の考え方を一切認めず、あまつさえ他国を襲い、奪い、犯し、殺すことすら許されることだとしている。このような存在を許すわけにはいかぬ。もし許せば、仏の教えと言えば、統治者ですら手を出せぬという、後の世に悪しき例を残すことになる」
政治を行う者が、なんらかの信仰を持つこと自体は、悪いことでは無い。だが政治の判断そのものが、特定の宗教によって左右されるようなことは、あってはならない。なぜなら、政治とは万民を幸福にするために行われるべきであって、信仰する者しか幸せにならない宗教とは、その点において相反しているからである。
「敵は蝗のように、陣形など関係なくただただ前に出てくるだろう。我らはそれを鉄砲によって一掃する。狂信者は、腕や足に弾を受けたところで止まることはない。死ねば救われると本気で信じているからだ。死ぬまで止まらぬ。だがもし、正気に戻り逃げ出す者がいたら、追う必要はない。辛い戦になるだろうが、皆、気をしっかりと持て。俺からは以上だ。越中、大和、始めよ」
「御意。物見からの報せでは、一向門徒たちは加賀からも支援を受け、西越中砺波に集結しています。此方を攻める気配は見せておらず、迎え撃つつもりでしょう。永正三年(西暦一五〇六年)に越後長尾氏と越中一向一揆との合戦があった、般若野が戦場になると思われます」
「敵の数はおよそ四万、瑞泉寺住職の顕秀、勝興寺住職の顕栄が三万の門徒を率いています。それと、どうやら加賀から一万が新たに加わったようです。率いているのは、下間丹後とのことです」
「下間頼総が? 殿、これは少々厄介なことになりましたぞ」
斉藤朝信は顔色を変えた。下間頼総は永禄九年(西暦一五六六年)に、石山本願寺から加賀に派遣され、劣勢であった加賀一向門徒を統制し、越前朝倉を九頭竜川まで押し返すことに成功した。もし下間頼総がいなければ、加越和睦どころか加賀そのものが越前朝倉の手に落ちていただろう。
「坊主よりも武将になるべき男だな。有象無象の一向門徒たちを束ね、朝倉を押し返した手腕は無視できぬ。石山本願寺から派遣された者となれば、鉄砲の恐ろしさも知っておろう。越中、どうする?」
「は…… 大和殿が、面白き策を考えました」
指名された八柏大和守道為は、越中国が描かれた地図を広げた。
「越中国は、南に立山連山が広がり、砺波を攻めるには富山城から西進し、庄川を越えて高岡から南下する道がもっとも楽です。一方、加賀からは倶利伽羅峠を越えて入ることになりまする。つまり、この倶利伽羅峠を押さえてしまえば、加賀からの支援を遮断できます。一向門徒たちは守りに入っています。我らは砺波を北から北西まで半円に取り囲み、この倶利伽羅峠と小矢部川を押さえます。その上で、兵糧攻めを行います」
「兵糧攻めは四万もいれば十分でしょう。そこで残り二万で、能登を攻めるのです。能登攻めは上杉顕景殿にお願いしたいと考えています」
それを聞いて、斎藤朝信は喜色を浮かべた。兵糧攻めは楽ではあるが、残酷な戦でもある。そんな戦を上杉家新当主の初陣とするのは、傅役としては避けたかった。能登畠山攻めは、武家同士が激突する合戦である。そして能登の兵力はせいぜいが数千しかない。二万もあれば十分に勝てる戦であった。
「能登攻め役、是非ともお任せくださいませ」
方針が決まり、いよいよ出陣となる。馬に乗った又二郎は小さく呟いた。
「さて、地獄を作りに行くか。信仰心が、どこまで餓鬼道に耐えられるか、試してやる」
永禄一二年(西暦一五六九年)卯月(旧暦四月)、新田軍六万が西越中へと進軍を始めた。